鼻唄混じりに及川が前から歩いてくるのが見えて思わず「げっ」と言葉を漏らした。厄介な人に厄介なタイミングで出会してしまった。両手に持ちきれんばかりのチョコレートで機嫌をよくしているのをいいことに逃げ出そうとしたけれど、それは叶わず私を目敏く見つけてきた。

「あっ、なまえちゃん!こんなに貰っちゃったー」

にこにこしている及川に「あらー、そりゃよかったねー」なんて貼り付けた笑みを浮かべる。そのまま逃げ出そうとしたけれど、及川が目の前に立たれてしまってはそれもできなかった。

「でもまだなまえちゃんからは貰ってないなあ」
「まだもなにもありません、そんだけあれば十分でしょ」
「俺はなまえちゃんから欲しいな」

それをそのままチョコをくれた人の前で言ったら確実に張り手が飛んでくるに違いない。知らないよー、と思いつつ私にその矛先が向かないことを願っていると、及川は更に続けた。

「好きな女の子からチョコ欲しいって思わない男いるの?」
「好きな男の子にしかチョコあげたくないって思わない女もいるの?って思わない?」
「なまえちゃんは俺のこと好きでしょ?」
「その自信どっから来るの」

盛大な溜め息を吐くと「ひどいよなまえちゃん!」なんて言っているけれど私は及川のことを好きだと言った覚えはない。断じてない。

「チョコくれないの?」

瞳をうるうるさせて私を見下ろす及川。普通なら良心が痛むのかもしれないけれどその手には乗らない。

「ないもんはないの、諦めて」

さっさと踵を返して歩きだそうとした刹那。後ろで及川が持っていたと思われる紙袋がどさりと落ちた音がする。そのまま強い力で腕を引っ張られて、気づいたときには壁と及川の間に私は挟まれている。これが女子が騒ぐ壁ドンか、なんて感動はなく、実際に体感すると恐怖心しか沸かない。

「いい加減素直になりなよ」

さっきまでころころと変わっていた表情は、途端に曇ったものに変わっていた。言葉を詰まらせていると、及川の表情が切ないものに変わっていく。
こんなところ誰かに見られたら、それがうっかり及川親衛隊だったりなんてしたら今年の桜は見られないかもしれない。目の前の恐怖と予想できうる恐怖とで恐怖が倍増したと同時に、背けていた自分の気持ちと背けていた理由に気づいてしまった。

例えば及川が言う通りとっくにこの男に惚れていて、そして及川からの好意にも気づいていて、その上で認めてしまったとき。私は嬉しさよりも怖さを感じた。それは本能レベルだったに違いない。だから気持ちに気づく前にどこかに押しやった。そして私のそんな葛藤をも、彼が気づいていたとしたら。

「確かに女の子に好かれるの、俺は嬉しいけど」

私の頭上で及川が壁に額をくっつけた。それによって近づいた距離。目の前には及川のネクタイの結び目がある。

「なまえちゃんに好きって言ってほしい」

苦しそうに紡いだ及川の表情は私からは見えない。だけど今、切なそうに口元を歪めているのは想像できた。例えばこのまま及川の広い背中に腕を回したら、そんなことを考えてみたりもする。だけどそれは衝動にも近くて、それに駆られていた自分の気持ちは、自分がよくわかっている。

「俺のこと好きになってよ」

いつもなら軽く言ってくるその言葉に、私はなんて返していたっけ。思い出そうとしてやめた。きっと過去に私が返した言葉なんて、これからは返さない。だから思い出したって、意味を成さない。

「……ほんとは気づいてるくせに」
「あ、バレちゃった?」

私と視線を合わせてきた及川はいつもの穏やかな笑みを浮かべていて、さっきまで一芝居打っていたのが見え見えだった。だけどそんなことを知りながら流されているのは、私だ。

「でもほんとにチョコはない」
「えっ、嘘でしょ」
「昼休み完売しちゃった。次の営業は来年なんだけどそれまで待てる?」

目を丸くしたけれど、言葉の裏を読んだ及川はすぐに苦笑した。

「待てないけど今年はなまえちゃんだけで許してあげる」
「チョコよりお高くついたんだけど私損してない?」
「じゃあ損した分可愛がってあげるよ」

割に合わないなんて、本当は思っていないけど。損している今年しか可愛がってくれないならそっちの方が損なので来年も可愛がってほしい、なんてさすがに今はまだ言えそうにない。

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