「ほんとにいいの?」

涼しげな目元に困惑を浮かべて、鋏を手にした花巻は問う。頷いては確認を何度も繰り返し、さすがに痺れを切らしたらしいなまえは急かした。

「いいんだって。お願い」

溜め息を吐いて、花巻は背中の真ん中までまっすぐに伸びたなまえの髪に手をかける。鋏を横ではなく縦に入れるあたり、彼の繊細さが窺える。

鋏まれた髪はじゃきんという音と共にはらりと落ちた。なまえと花巻を乗せた新聞紙の上に散っていく毛先は傷みきっている。「傷んでるとこだけでも切れば?」という花巻の提案を頑なに拒み続けたなまえの急な心変わりの理由を悟った花巻は、無言で彼女の髪に鋏を入れていく。そして彼女も、他の誰でもない花巻にしか頼めなかった。

「髪って切った方伸びるんだよ」
「生えてくんのはてっぺんだけどね」
「そうなんだけどさ」
「いいんじゃない?毛先傷んでたし」

ほら、と切り落とした毛先の束を掴んでなまえの視線の先に持ってくる。花巻の手に掴まれた彼女の毛先は傷んでいて、哀れで、薄気味悪くも見えた。

「最近人気のモデルさんみたいにしてね」
「それは俺じゃなくて美容師に頼んでよ」
「貴大にしか頼めないんだってば」

彼女が花巻にしか頼めない理由も知りながら、彼は曖昧に笑って濁す。踏み込まないわけではない、彼はなまえから話し出すのを待っていた。

「なんで拘ってたんだろう、私」

ぽつりと呟いた彼女の表情を窺い知ることはできない、花巻は黙々と鋏を入れることしかできずに彼女の言葉の続きを待った。

「私小学生のとき髪長かったの覚えてる?」
「いつも二つに結んでたよね」
「そうそう、多分今よりは短かったと思うんだけどさ」

中学の入学式、突然髪をばっさり切ってきたなまえを花巻は思い出す。「なんでショートにしたの?」と訊ねると「アイドルのなんとかちゃんみたいにしたくて」とはにかんだ彼女、きっとあのとき彼女は新しい環境に順応するため必死だったのだと花巻は思う。ランドセルが学校指定の鞄になるだけで、制服を着られるようになるだけで大人になるのだと錯覚していたあの頃、少しでもそれに見合った自分になろうとしたのだと思う。

ところで今はどうだろう。今彼女はなにを思い、どういう気持ちで切り落とされる自身の髪を見ているのだろうか。幼い頃からなまえの心境の変化をその目でずっと見てきた花巻は、例え彼女が泣いたとしてもこうなるといいのにと少なからず思ったにも関わらず、いざその状況になるとどうしてよいかわからなかった。

「私ショートの方が似合うと思うんだよね」
「それは俺も思うけど」
「なのにさ、伸ばしてみたりしちゃってさ、ほんと、バカみたい」

聞き出そうにも聞き出せなかった核心がすぐそこにある。彼女が話し出すのを待っていた、なんて本当は嘘だ。彼なりに怯えている。

髪の長い女が好きだと言った彼氏のために、なまえは一生懸命髪を伸ばした。肩口を越してくると鬱陶しくも思ったが、それでも彼のためならばと可愛いシュシュやクリップで纏めてみたり自分なりにヘアスタイルを楽しもうとした。
その彼氏と別れたのが一年前、それでもなまえは戻ってくるかもわからない男のため、よりを戻せると信じて髪を伸ばし続けた。そして最近、その男に新しい彼女ができた。

傷みきった思い出を切り落とすよい踏ん切りになったと思えばいい、頭では理解できても、いざ美容室の前に行くと足が竦んで動けない。きっと実際に髪を切られてしまったら、鏡の中のさっぱりとした自分を見てなまえは泣いてしまう気がしたのだ。そしてその予感は見事に的中する。サイドの髪をかき集めるべく誤って触れた頬は濡れていた。そしてその頬に触れたとき、気づかぬふりを徹すのも優しさだと自身に言い聞かせていた花巻の理性の糸は切れる。

「お前はショートの方が似合うよ」
「私もそう思う」
「ロングもまあよかったけど」
「やめてよもうここまで切っちゃったんだから」

花巻が切り落とした彼女の傷んだ思い出、もとい自身の髪をかき集め掴んだ彼女の白い手に視線を落とす。項垂れた丸い頭も、痩せてしまった細い肩も、そして自身に委ねられた彼女の髪型の行方も、どんな彼女でも俺なら愛せるのに。そんな想いを飲み込んだ、言えるはずがない。弱っている彼女に突け込みでもしないと想いを伝えられない自分の不甲斐なさも、そして気づかれない自分の想いも、気づいてほしいようで気づかれることに怯える今の関係も切り落としてしまえたらよかったと思いながら、花巻は震える指先で鋏を握り直した。

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