扉の中は蒸すような暑さだった。嫌な顔をしたのを見逃さず「エアコン壊れってから窓開けろ」と言いつけられる。重苦しい作業着のボタンを二段開けて助手席に身を沈めると岩泉は車を転がした。

私と同じ時期に採用になった岩泉はとにかく仕事が早いことで社員からも好かれている。同期の私とは雲泥の差、それでも女子だからという理由で私への当たりは優しいものである。
昔から体力には自信があった。下手したらその辺の男子よりも腕っぷしは強い、ならばと時給もそこそこよい配送業のバイトの面接を受けた。それでもやはり自分は女子だと思い知る。それもこれも岩泉のせいだ。

岩泉はバレーの強豪である青葉城西出身、そこでもエーススパイカー、更に校内腕相撲大会ではチャンピオンだったりとある意味怪物だ。ハンドルを握る手に浮き出ている筋が全てを物語っている。聞けば聞くほど歯が立たない。握力が30越えようが懸垂が人よりできようが私は岩泉には敵わなかった。そして運転も私よりずっとうまい。大型免許でも取ってこのまま社員になってもよいのではと思うほど、岩泉は仕事のよくできる男だった。

休日のためか道路はいつもより混んでいて、抜け道を選んだはずが普段の倍時間がかかった。事務所に戻るのは夕方になりそうだと電話口で伝えると、運転をしている岩泉にも言伝てを頼まれる。

「時間かかってもいいから気をつけて来いだってさ」
「気をつけるもなにもスピード出ねえよこれじゃ」

ぶっきらぼうな物言いにももう随分慣れた。最初こそは怖がったけれど、岩泉は基本的に誰に対してもこうなのだと知ってからは気にしなくなった。県内最底辺と言われるうちの大学の奴らとは全く違うタイプの人間なので、寧ろ新鮮で一緒にいる時間が心地よくも思えてくる。

「みんなして休みだからってどっか行かなくてもよくない?家にいればいいじゃんって感じ」
「そういうお前も休みの日どっか行くだろ」
「それかもうみんな歩いてどっか行ってほしい」
「お前意外と横暴なんだな」

作業の疲れと渋滞の苛立ちから来た暴論を岩泉は笑う。知らず知らずのうちに重くなってしまった車内の空気を和らげるのに一役買ったらしいので結果オーライ、それに普段こうして岩泉とゆっくり話す機会がなかったため、このまま渋滞が緩和させられなければいいと思ってしまった。

「まあこれが今日ラスでよかったんじゃね。朝イチからこれだとさすがにな」
「でも帰るの遅くなるよ?そっちの方が嫌じゃない?」
「仕事溜まる方が俺は気持ちわりい」

なんて殊勝なアルバイター、岩泉のこういうところが社員に好かれる所以なのだと思う。感嘆の声を漏らすと岩泉は怪訝な顔をした。

「なんだよ」
「真面目か、って思って」
「お前もだろ」
「どこが。私ここじゃ使えない奴だなって日々痛感してるよ」

作業の早さも運転の安定感も飲み込みの早さも全てが岩泉に劣る。体を動かすことが好きだし業務事態は楽しくて仕方がないのに、そういうのを肌で感じる度に「辞めた方がいいのだろうか」と考えたりもする。女は幾らがんばったって男の仕事には敵わないのだと。
昔から他の男子より運動ができた。「怪力女」とバカにされたこともある。思春期の真っ只中、恥じらい、女子らしく振る舞おうとしたこともあったけれど性に合わないものは精神の磨り減りが著しかった。いっそ開き直ってみると思いの外気持ちは軽くなる、だけどそんなとき、岩泉という壁にぶつかった。
女らしくはなれなくて、だけど敵わない男に出会ってしまった。自分がいかに中途半端な存在であるかを認識したとき、途方に暮れてしまったのである。

「んなことねえだろ。お前はよくやってる」
「岩泉に言われるとなんかなあ」
「どういう意味だコラ」
「よそ見しないでくださーい」

舌打ちを一つ漏らす岩泉から視線を逸らすよう、窓の外を眺める。さっきからちっとも変わりやしない景色なんて見ていてもおもしろくもなんともない。だけど今、悔しくて岩泉の方なんて見ていられない。

そもそも男に勝とうなんていう方が烏滸がましいのはわかっている。だけど女らしくもなれない私に唯一残されていたものも取り上げられてしまったら、私には一体なにが残るというのだ。体力も器用さも信頼もなにもかも持っていて、なにをやっても歯が立たない岩泉にだけは言われたくない。
さっきよりも重苦しい沈黙が車内を包む。渋滞で苛ついていた外的要因よりも、誰にでも必ずあるであろう触れてはいけない部分に触れた内的要因が引き起こす沈黙というのは気が遠くなるほど気まずい。岩泉は私がそんなことを気にしていることを知らなかったのだからさっさと許してしまえばよいものの、それもできずに唇を噛む。こんな心の狭い女だから岩泉に敵わないんだ、また改めて突き付けられた事実に、自己嫌悪はあっさり私を受け入れた。

岩泉がこちらに視線を寄越したのがガラス越しにわかる。小さな溜め息を皮切りに、ぶっきらぼうな言葉が続いた。

「“女子だから”って優しくされてると思ってんのかお前」

喧嘩を売られているのだろうか、私は。ただの糾弾のようには聞こえなくて言葉が詰まる。
男ばかりの職場だ、女子は扱いづらいだろうと自分自身わかっている。だから努めて気丈に振る舞っていた。その努力も蔑ろにするというのか。尚も岩泉は続ける。

「“女子なのに”って感心することはあっても“女子だから”って優しくしてたわけじゃねえだろ」
「当たり前じゃん私だって女だからってなめられないようにしてきたんだから」
「だからそれを言ってんだろ」

いつものぶっきらぼうな物言い、それなのに不思議と怖くなかった。諭すような、優しい声色を含んでいる。

「女子なのに男に混じって力仕事して、おまけに手も抜かねえから男より力なくてもシフト入れてもらってんだろ。世の中そんな甘くねえんだぞ」

キツい言い方だったけれど、灸を据えるにはちょうどよい。ぐうの音も出ない正論にだんまりを決め込むと更に畳み掛けてくる。

「大体俺に勝とうなんざ100年はええよ、男に生まれ変わって出直してこい」
「男に生まれ変わっても岩泉に勝てる気しないよね」
「わかってんじゃねえか」

言葉こそ不器用だけれど、口下手なりに励まそうとするその不器用な優しさがなんだか悔しいくらいかっこいい。この人に敵う人なんていないんじゃないかと思うくらい、私はとんでもない人と張り合おうとしていたのだと思い知る。

「お前はそのままでいいっつうことだ」

ガラスに映る横顔を西日が照らす。振り向いて直接見れないのは私も今頬を赤く染めている気がしているからで、それもこれも全部西日のせい。岩泉がかっこよすぎるからなんじゃない。自分はやっぱり女子で、岩泉には未来永劫敵わないのだと実感するけれど岩泉の隣なら女らしくなれる気がしている。またしても訪れた気まずい沈黙をどうしてくれるのだろうかこの男。なにも言えるはずがない状況で、だけど緩和された渋滞を心底憎むほど事務所に戻らずもう少し二人でいたいと思った。

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