大地の陽番外編 | ナノ
一緒に住み始めて、ほんの少し経った頃。
二人っきりのバレンタイン前日のお話。
明日はバレンタイン。
この日が近付くとなんだか女の子がそわそわしながら町に出る。
あちらこちらのお店に並ぶ華やかな一角。
可愛かったり綺麗だったり、様々なラッピング。
それに群がる女の子達。
前日ともなれば混んでいる店もある位で、今のゆきには他人事ではない。
そう言えばこちらにやって来た頃の弁慶が、この光景の理由を興味深そうに聞いていた事を思い出した。
「生チョコもいいけど簡単すぎるかな。ウィスキーボンボン‥‥は、去年渡したし‥‥っ」
そう、弁慶。
現在のゆきの頭は彼で一杯だったりする。
店の前で立ち止まったまま、うーんと腕を組む彼女。
そのせいで周りの女の子が「きゃあっ!!」と黄色い悲鳴をあげている事に気付かなかった。
背後に人が立っているとも‥‥‥元陰陽師としては情けない事この上ないが。
「ゆきちゃん」
「いやいやボンボンなんてしたらまた弁慶さん酔ったフリしてあんなことっ‥‥は、恥ずかしい!」
「ゆきちゃん?」
「そう、こうして肩に手を‥‥‥って、‥‥あら」
そこにあったのは、久々に見る、懐かしい顔。
「久し振りだね。さっきから声を掛けるタイミングを計ってたんだ」
「も、もうっ。黙って見てないでさっさと話しかけてよ詩紋くん!」
「うん、ごめんね」
頬を膨らませてやると苦笑しながら謝ってくる。
周りを見れば、女の子達がちらちらと詩紋を見ていた。
「あれ、流山詩紋じゃない?」なんて声も聞こえる。
ゆきはため息を吐きながら詩紋の手を取り、その場を後にした。
人の波をすり抜けるようにして、足早に進んで。
辿り着いたのは路地裏の小さな喫茶店。
弁慶の職場から近い事もあって、彼とよく通っているこの店は、いつ来ても静かで落ち着く雰囲気が漂っている。
マスターにコーヒーとオレンジジュースを注文して、漸く一心地着いた。
「有名人って大変だね。どこに行っても注目浴びるでしょ?」
「あはは、僕はそれ程でもないよ。それよりゆきちゃんこそ注目浴びてたよ」
「私?‥‥あ」
確かに、あんな所でぶつぶつ言っていれば目立つ。
「ウィスキーボンボンがどうかした?」
「うっ、あ、あははっ!」
(去年、まさか弁慶さんが酔ったフリしてあんなことになった、とか‥‥)
なかなか解放して貰えなかった。
なんて言える訳がない。
仮にも両親の親友で、一時は後見人までなってくれた詩紋に、そんなことはとても。
「バレンタイン、何しようかなぁって材料探し?」
「そっか、丁度良かった。知り合いに頼まれてたんだけど、ゆきちゃんもどう?」
簡単だからすぐ出来るよ。
はい、とにっこり笑顔付きで渡されたメモに眼を通す。
ガトーショコラだけど、作り方はかなり簡単そうだ。
オーブンに掛ける時間をざっと計算する。
今から材料を買っても、弁慶が帰宅するまでには出来上がりそうなので、非常にありがたい。
「ありがとう!早速材料を買って帰るね!」
「待って。久々にゆきちゃんと会ったんだし付き合うよ」
「でも‥‥」
詩紋の恰好は帽子に丸眼鏡だけ。
変装しているとは言えない姿に、ゆきは戸惑った。
もし彼のファンに見つかったら大変ではないか。
ファンならまだいい。
もしスクープされたら‥‥。
「大丈夫‥‥撮らせないから」
これは既視感なのか?
何だか誰かに非常に良く似た、妙な迫力を感じる。
「それともゆきちゃんは、こんなオジサンと歩きたくない?」
「ぷっ。詩紋くんをオジサン呼ばわりしたら怒られちゃうよ」
どう見ても彼は若くて恰好いい。
昔と全然変わっていなくて、というよりはむしろ、年齢を重ね更に男らしさを増している。
「僕なら彼も怒らないよね?」
にっこり笑う姿がなんだかいつも見ている『あの笑顔』に似ている気がして。
(そう言えば詩紋くんに弁慶さんと会って貰った時、同じ匂いがした気もする‥‥)
ちょっとだけ冷や汗を浮かべながら、ゆきは頷いた。
「本当にありがとう!送らせてごめんね」
「どう致しまして。彼によろしくね。また遊びに行くよ」
「うん!喜んで」
にっこり笑って、赤いポルシェのドアに手を掛ける。
「あ、これ!忘れるとこだった。買ったもので悪いんだけど、どうぞ」
「僕に?ありがとう」
いつの間に買ったのか。
赤い包みを受け取って詩紋は笑った。
引越したばかりだと言う、真新しいマンションのエントランスで一旦立ち止まったゆきは振り返って、ぶんぶんと大きく手を振る。
「ふふっ」
幼い頃のゆきと全く同じ笑顔を見て、詩紋は思わず吹き出してしまう。
神子ではないものの、母親と同じように時空を旅して戻ってきた彼女。
その傍らには、やはりゆきの母と同じように、異時空で出会った運命を連れて。
ここまで至る道は、幸せだけではなかった筈だ。
彼女の母と共に旅してきた詩紋だから、思い至ってしまう。
笑顔の裏でどれ程泣いただろう?
異世界で生きていくのは並大抵のことではなかっただろう。
「でも、今が幸せそうで良かった‥」
呟いて、ハンドルを握り締める。
そっと眼を閉じ、一度だけ会ったゆきの恋人を眼裏に浮かべた。
「幸せにしてあげてね。って言えば『当然です』って答えるんだろうなぁ」
物腰が穏やかでとんでもなく綺麗な彼───弁慶は、容姿で言えばゆきの父親と確実に張り合える。
醸す空気が正反対だが、美形過ぎる二人。
「本当、母娘揃って面食いだよね」
恋愛に至った経過には眼を瞑り、客観的な事実を取り上げて詩紋は笑った。
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