大地の陽番外編 | ナノ
「おとうさん、おとうさん!」
公園で鳩を追いかけ回し、滑り台で遊び、砂場で泥まみれの手で団子を差し出してきた娘。
手洗い場で小さな手を洗ってやると何がそんなにおかしいのか、けらけらと笑いながら泰明の腕にしがみつく四歳の娘は、希望そのものに見えた。
小さな眼に飛び込む全ての光景はきっと光に満ちていて、見るもの全てが珍しいのだろう。
「おとうさん!あれなあに?」
帰り道に泰明の肩車にご機嫌なゆきが指を指す。
その方向を見やれば、教会。
丁度結婚式が終わった所のようだ。
今、まさに新郎新婦がライスシャワーを浴びながら、教会から出て来た。
「‥‥‥結婚式の事か」
「ケッコンシキ?」
「ああ、愛し合う男女が永遠を誓う儀式の事だ」
‥‥‥ここにあかねがいればきっと呆れるだろう。
『子供相手なんだからもっと優しく説明しないと』
と、半ば笑いながら諭してくるはず。
「ふぅん、エイエンヲチカウっていいこと?」
「そうだ。ずっと一緒にいる約束だからな」
「きれいなふくをきて?おひめさまになるの?」
‥‥‥そう言えば最近、娘は着せ替えごっことやらに夢中だったな、と日常を思い出す。
「あれは姫ではない。花嫁だ」
「はなよめ‥?あ、およめさん!?」
「‥‥‥よく知っているな」
「おかあさんがね、おとうさんのおよめさんだっておしえてくれたよ!」
「そうか」
自分が仕事に出かけている間に、母娘でどんな会話をしているのか。
ほんの少し興味を持つのは否めないこと。
少し離れた場所で、花嫁はまさに幸せそのものの笑顔を見せていた。
ほぅ‥‥と溜め息を漏らして、娘は父の頭を抱き締める。
「ゆき、おとうさんとケッコンするね!」
「‥‥それは無理だ」
「えええーっ!なんで?」
「私はあかねと結婚している」
「そっかあ‥」
‥‥‥何も子供に真実を突き付けずとも良かったのに。
そう、あかねならば言っただろうか。
それとも泰明らしいと笑うだろうか。
泰明自身、娘に済まない思いが込み上げてきた。
こんな時に、言葉と言うものは懇々と湧き出てこないから困る。
愛娘が自分を慕ってくれているというのに。
「う〜ん‥‥‥じゃあねっ!」
けれどそんな心配を余所に、肩車のゆきはご機嫌な声音で喋り出した。
「ゆき、おかあさんともケッコンするの!」
「‥‥‥あかねとも?」
「うん!おとうさんとおかあさんと、さんにんでケッコンする!」
「‥‥‥そうか」
「そしたらずっと、ず〜っと、いっしょだよね?」
「‥‥‥‥‥‥そうだな」
‥‥‥お前がいつか、誰かの花嫁になるまで、一緒に。
いつかお前は、純白のドレスを纏い、最高に美しい姿を見せるだろう。
いつか、彼氏を家に連れてくるのだろう。
それまであと‥‥‥‥‥何年なのだろうか。
父と母を最愛だと言ってくれるのは。
「おとうさん、だいすき」
「ああ‥‥‥私もゆきが大好きだ」
女の腹から生を受けていない自分を、人として恋うてくれたあかね。
愛する事を、喜びを、嫉妬を、涙を、憎しみを、そして尽きせぬ愛を教えてくれた彼女が、更に与えてくれたのが‥‥‥娘だった。
小さな命の塊は、不思議な感動をもたらした。
何に於いても守りたい、守らねばならぬ小さな命。
自分と愛するあかねから生を受けた、何とも愛しき存在。
「‥‥‥愛している、ゆき」
いつしか、娘を奪う男が現れるのだろう。
今は想像も出来ぬし、したくもないが、いつか未来に。
「まだ、やれぬ」
強張った心が言葉遣いをも、堅い昔のものに変える。「やれない」から「やれぬ」へと。
気付いて、苦笑した。
いつしか、本当にいつかくる未来まで。
誰かがゆきを攫いに来る、その日まで‥‥‥。
「‥‥‥ずっと側にいよう。お前と、私と、あかねで」
いつか、遠い未来に
何処かの馬の骨が
ゆきを奪いに来るまで‥‥‥‥‥‥。
泰明の声は、いつの間にか肩上で眠るゆきを優しく撫でる様に消えた。
頭にしがみつく小さな手。
きゅっと力が込められたのを感じて、浮かぶ微笑は至極優しいものだった。
帰宅した夫から話を聞くと、あかねはベッドで眠る娘の頬を優しく撫でながら、クスクス笑った。
「‥‥‥へぇ、ゆきちゃんがそんな事を?可愛いなぁ」
「娘を嫁に出さぬ為にはどうすればいいのだ?あかね」
悲壮な声音に堪え切れず爆笑すれば、むっと押し黙る。
(仕方ないなぁ)
と思いながら振り返り、拗ねた泰明をそっと抱き締めるとあかねは言った。
「‥‥‥私が一生側にいるよ」
それは、最強の呪文。
「‥‥‥無論」
緩む声と比例して、あかねを抱き締める腕に力が籠った。
ずっと、一緒に
「碌でもない男なら呪詛でもすれば良いか」
と物騒なことを呟いて、妻に呆れられたのは
この直後のこと。
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