大地の陽番外編 | ナノ
それは、久方振りの休日だった。
天気が良いからと、濡れ縁に腰を落とし書簡に目を通し始めたのは、昼時。
余程夢中になっていたのか、ふと陽の温もりの名残だけを残す風。
冷えたその風に気付き顔を上げれば、いつしか空が茜色に染まっていた。
「‥‥あぁ、もうこんな刻ですか」
弁慶は一人ごちて、そっと笑う。
もうすぐ、土御門家で今日の修行を終えた人物が帰ってくるから。
自室に戻ろうか。
一瞬だけそう思いはしたものの、その辺に乱雑に散った書簡を拾い上げる動作はない。
‥‥‥何故ならば。
「ただいま‥‥って!弁慶さんっ?」
軽やかな足音がこちらに向かってくる。
玄関からだと、弁慶の自室とは反対に位置するこの場所へ。
きっと、彼女は帰ってきてすぐに朔に聞いたのだろう。
他でもない自分の居場所を。
彼女の思考を想像するのは造作もない事。
そしてそんな彼女だから、自分は今此処に居るのだ。
「お帰りなさい、お疲れ様でした」
「た‥‥ただいま」
彼女の弱点でもある微笑を浮かべると、それだけで柔らかそうな頬は薄紅に染まる。
してやったり、と思ったが次の瞬間には再び眉を顰めていた。
「‥じゃないでしょ。寒くなったのに何でここに居るんですか!風邪引くのに」
「読み始めたのは昼なんですよ。夢中になっている内に、つい」
「もう。弁慶さんってば、自分の事に無頓着すぎなんだから。もっと自分を大事にしてください」
「‥‥‥君にそれを言われると、複雑な気分になりますね」
「え?どういう意味ですか?」
彼女こそ無頓着で無鉄砲の塊だと言うことに、未だ本人だけは気付かないらしい。
無鉄砲で、いつも前しか見ていなくて。
出来れば一瞬たりとも手を離したくない、陽。
座ったままの弁慶が、隣に立つ恋人に両手を差し出す。
「ふふっ‥‥甘えんぼみたいですよ、弁慶さん」
「ええ。今は君に甘えたい気分なんですよ、ゆき」
「‥‥‥えっ?」
笑みを刻む唇から生まれた言葉が相当珍しいのか。
途端目を見開いて、ほんのり夕焼けよりも頬を染める。
‥‥‥そして。
「弁慶さんはほんとにずるい‥‥これ以上好きにならせて、どうするんですか」
何とも言えぬ愛しさを募らせる言葉を落とした後、柔らかな肢体が弁慶の腕の中に飛び込んできて。
「ただいま」
「‥‥‥お帰り。君を待っていましたよ」
夕焼けの空が、深い蒼に染まるまで。
深く抱き合って、互いの温もりに頬を寄せて、笑みを零した。
柔らかく落ちたぬくもりが、離れる。
ほんの少し離れた距離で、弁慶がふわりと笑った。
茜色の光が、外套から覗く蜜色を照らす。
胸がきゅうっと締め付けられるほど綺麗で、勿体なくて。
黒いフードが邪魔だなんて思ったときにはもう、手が勝手に動いていた。
「‥‥ゆき?」
「‥‥‥ダメ、ですか?」
穏やかに尋ねてくる彼の肩を、キラキラと滑る髪。
「弁慶さんの髪、夕日に染まって綺麗だね」
「ふふっ、ありがとうございます」
ゆきの突飛な言動にもにっこり笑う今日の弁慶は、やたらと機嫌がよろしいらしい。
その笑顔を暫し見入ったゆきは溜息を一つ。
「‥‥‥やっぱり弁慶さんはすっごく美人」
「突然どうしたんですか?」
「夕陽ですら負けるなんて、ちょっと悔しいなあって思ったの」
「‥‥‥?」
京中の誰と比べても、弁慶の容貌は一際目立つ。
そう思うのは惚れた贔屓目だけではない筈。
何故なら、町を歩いていても擦れ違った娘達からの視線がいつまでも追いかけてくるのだから。
女と見紛う整った顔立ち、そして物腰柔らかな空気。
(まあね、負けてるのは最初から知ってるけど‥‥こ、恋人の立場としては悔しいんだもん)
肩を落としながらもう一度溜息を落とすゆきを見て、とうとう弁慶は吹き出した。
「な、何で笑うんですかっ!?」
「いえ。あまりにも君が可愛いので、つい」
「う‥‥自分でも子供みたいだって解ってるの」
「そうですか?子供だとは思っていませんが」
「だって‥‥」
言葉は、最後まで続かなかった。
「‥‥‥僕は、子供相手にこんな事はしませんよ」
離れた、弁慶の息遣いが、少し乱れている。
「‥‥‥‥はい」
ゆきの鼓動も掻き乱されて、瞳が潤む程に動機も激しくなる。
そんな彼女の柔らかい頬を包む弁慶の手のひら。
所々固い肉刺のあるその手は、どう足掻いても男の大きなもの。
「ほら。こうすると君の頬が、より綺麗に染まる」
夕陽ですら君に負けていますね。
───なんて、弁慶が笑うから。
「‥‥弁慶さんってば、恥ずかしい」
「僕は、君の光を浴びて生きているんです。前にも言ったでしょう?」
「だったら‥‥えっと、おあいこ、です」
「ゆき‥‥」
「私は、弁慶さんがいてくれるから頑張れるよ」
初めて会った頃から、弁慶は道標のような人だった。
彼がゆきをこうして導き、守ってくれた。
前を向く力も、強さも、時には涙も、笑顔も全て。
弁慶が与えてくれたものだから。
言うなれば、ゆきの光。
「ふふっ。おあいこ、ですね」
「はい。おあいこです」
再び、距離が埋まる。
茜色の光よりもはるかに高い熱を、互いに与え合う為に。
夕焼けよりも、
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