大地の陽番外編 | ナノ


 



オーブンがチン、と小気味良い音を立てた。


「あ、ちょっと待ってね」


赤いミトンを両手にはめて、コードレスの受話器を肩と耳で挟んだまま、あかねは今し方自分を呼んだ音の元に小走りで近付いた。

そっとオーブン戸を開けると、誘うような甘い匂いが辺りに立ち込める。
ふっと、笑顔が浮かんだ。


『‥‥‥どう?上手くいった?』

「うん、完璧!綺麗に膨らんでるよ。さすがは先生」

『良かったね。じゃあ、後は飾り付けるだけだから‥‥‥』

「それなんだよね、上手く行くかなぁ‥‥‥ほんと、詩紋くんに用事がなかったらな」

『あはは、あかねちゃんなら大丈夫だよ。それにボクと二人で作ったって聞いたら、いい顔しないんじゃないかな』

「‥‥‥うっ。そう、かな‥‥?」


頬が赤くなってしまう。
あかねのその様子に、詩紋はクスクス笑っている。

受話器越しなのに何故、真っ赤なあかねの様子が分かるんだろう。


‥‥‥そう思ったけど、きっとあかねの声に照れが混じっているのだろう。
それに、詩紋はとても繊細で優しいから、他人の感情を感じ取りやすいというのもある。


「本当にありがとう。先生のご指導のお陰で何とか食べられるものが出来そうだもん」



万年料理下手。


そう諦めていたあかねだったが、ここ最近はめきめきと腕を上げた。



『それは違うよあかねちゃん。ボクはお手伝いをしただけだよ。一番の理由は‥‥‥‥愛、でしょ?』

「‥‥‥もう!詩紋くんのバカ!からかうなんて酷いよ」



受話器の向こうでまた聞こえる、弾けるような笑い声。

釣られて自分も笑った。









誓いの陽






「服装よーし!髪型よーし!」


鏡でしっかりとチェックをする。

何しろ彼と過ごす、初めてのバレンタインだから。
一年前の春に、京と言う名の異世界から戻って来たのだ。
その時は当然、バレンタインなんてイベントは過ぎていて‥‥‥。



「泰明さん、今日が何の日か知ってるかな?」



これだけ世間が浮かれてるんだもん、テレビなんかで知ってるよね。


鏡に映る前髪の僅かな跳ねを指で直しながら言ってみたものの、はたと気付く。


「‥‥‥泰明さんなら有り得るかも」



シンプルな彼の家を思い浮かべた。
ソファに凭れて静かに新聞を読む姿ならあかねもよく目撃する。

が、テレビを見ている泰明などレアかもしれない。
あかねですらお目にかかった事が‥‥‥ないのだ。


「そういえば、『何が面白いのかよく分からぬ』なぁんて言ってたっけ」



我ながら泰明の声音を真似るのが上手くなった気がする。
思わず吹き出した。


笑いながらふと眼に飛び込む時計の針が、もう出発せねばならない時間だと告げている。



「そろそろ行かなきゃ!!」



白いコートを羽織り、手袋をはめた。












オートロックの扉が開くと、あかねは一目散にエレベーターに走る。


上昇ボタンを押す指が寒風で手袋をしていても冷えていた。

チン、と無機質な音を立てたドアの内に入ると扉は閉まる。
行き先階を押して、あかねははぁ〜と吐息で指を温めた。



僅かな間、上昇してドアが開く。
廊下の照明がエレベーターよりも明るくて、あかねは眼を細めた、が‥‥‥。


「‥‥‥え?」

「お前の気を手繰る事など造作ない」


泰明が開いたドアに手を充て、あかねが降りるのを促していた。


「今日は家で待っててって言ったのに」

「ここなら迎えに出向いた内に入らない。それに」

「それに?」

「お前の顔が早く見たかった」

「‥‥‥もう、泰明さんってば」




エレベーターから玄関なんて、ほんの少しの距離なのに‥‥‥。



嬉しくて緩む頬を、押さえる事なんて出来なかった。
泰明はそんな彼女に不思議そうな眼を向けているが、気にならない。



「‥‥‥降りないのか?」



不意に視界が緑になったのは、泰明が間近に覗きこんできたから。





京からこちらにやってきて一年、少し現代っぽく柔らかくなった泰明の口調で問われたら

‥‥‥それだけで、心臓が跳ねる。




「お、降ります!」

「‥‥‥そうか」




何処か安堵したように笑う。
愛しさに、あかねは泣きそうになった。


ドアを支える腕とは反対側のそれにギュッとしがみつく。


(この愛しさが伝わりますように)


泰明は無言で、そんな彼女を見下ろすと‥‥‥更に微笑を深くした。


もしあかねが見ていたら、悩殺されていた筈の笑顔を。





 

  
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