大地の陽番外編 | ナノ
弁慶がゆきの元まで歩いてから、一刻経った頃。
雨はざぁざぁと激しさを増して、この分だと洪水はおろか山の手から鉄砲水が来るやも知れぬ勢い。
京邸へ帰ることを諦めた二人は、郁章の勧めもあって土御門邸で夜を明かすこととなった。
「ゆき、終わりましたか?」
「あ、はい!どうぞ」
別室で用意された湯で汚れた身体を拭き、客人用の浴衣に袖を通す。
それから土御門邸でのゆきの部屋を訪れると、中から元気な声が聞こえた。
さっきは泣いていたゆき。
理由も何となくだが想像が付く。
それがとても彼女らしくて、微笑ましいと思う。
‥‥そんな自分は彼女に滅法甘いと知りつつ、溺愛している心を止められそうにない。
「失礼しますね」
「はーい」
涙の名残のない声音に安堵を覚えながら、弁慶は中へ入った。
「あっ!弁慶さん、頭ちゃんと拭いてない!」
「え?‥あぁ」
そういえば、と見遣った明るい蜜色の髪の先。
まだ拭き切れていない雫が滴っている。
「君に早く逢いたかったものですから」
「‥‥っ、もうっ!弁慶さんってば、風邪引くでしょ」
「じゃぁ、君が拭いてくれませんか?」
言われなくてもそうするつもりだったのだろう。
邸の女房‥に扮した式神から多めに受け取っていた布を手に、ゆきが座った弁慶の背後に回る。
ちらりと見えた頬は、紅の色。
「‥‥弁慶さんってしっかりしてるようで、無茶するんですね」
「ふふっ、君にだけは言われたくありませんね」
「そっ、そんな事ないもん!」
言葉を噛むのは図星だと自覚しているからか。
少しだけ怒り口調なのとは裏腹に、弁慶の髪を拭く手つきは至極柔らかい。
「‥‥さっきだって、危なかったのに」
十人中十人が認めるだろう無茶の塊が、背後で呟くから。
弁慶は声を出して笑った。
「ちょっ、何ですか‥‥‥わっ!?」
むぅっと膨れて弁慶の背中をばしばしと叩くゆきの、華奢な手首を掴む。
「‥‥僕は牽牛でも、君は織女でもありませんよ」
「え?なんで‥」
「あの二人の様には、僕達を引き離せないんです。誰も」
‥‥どうして、自分達を重ねたことを知っているんだろう。
あの雨の中。
川を挟んで切なくなったゆきの気持ちを。
そう驚くゆきの頬に指を滑らせながら、弁慶はふ、と笑った。
それがいつもの、蜜のように甘い時間をもたらす前触れのように、艶めいているから。
触れたくて、触れて欲しくて。
──ゆきの頬が染まってゆく。
「‥‥君の考えることならお見通しだって言ったでしょう?」
「そ、んなこと‥」
「その証拠にほら、今は‥」
そう優しく、少し擦れた声で囁きながら、弁慶の顔が近付いた。
「‥‥‥‥ぁ‥」
「‥‥こうしたいと思っていませんでしたか?」
唇にほんのりと残った温もり。
顔が離れると、ゆきは真っ赤になりながら眼を逸らした。
「君に逢えなくなる位なら、天の川でも渡ってみましょうか」
耳元で甘く囁く。
するとぎゅっとしがみ付いて来るこの熱を、弁慶も抱き締める。
「‥‥そしたら、一年間我慢しなくてもいい‥?」
「ええ。毎日でも、こうして君の傍にいられるでしょう」
「それじゃ、私が天の川を泳ぎます。渡って弁慶さんの傍に行くから、待っていてくださいね?」
「‥‥!!」
その途端、弁慶が声を上げて笑い出す。
「え、えええっ!?変なこと言ったかなっ?」
「‥‥っ、だから、君は織女じゃないと言ったんですよ」
「‥‥‥‥それ、褒めてないですよね?」
憮然と呟くゆきが更に誘引したのか、珍しいほど弁慶が笑っていて。
流石にむっすり拗ねてしまい、その腕の中から離れようとするが、しっかりがっちり抱き締められているからそれも叶わない。
結局、ゆきを宥めて甘い甘い夜の帳を開くまで、あと一刻を要する事になる。
The ster river
今宵は、七夕。
天の向こうでは、牽牛が織女と逢瀬を果たしていると言う。
今頃、一年一度、たった一日だけの温もりを抱いて。
募らせてきた想いを伝えているのだろうか。
逢えなかった日々の、切なさを
たった一日で埋められるのか‥
───少なくとも僕の恋人は
我慢出来ずに泳いで、逢いに来るらしいですよ。
重ねた唇が甘く溶け合って、互いの息が上がった頃
弁慶は雨で隔たれた夜空の果てに、想いを馳せた。
2009七夕
前
戻る