大地の陽番外編 | ナノ
京邸にゆきが来た翌年から、彼女が始めた小さな祭。
先祖や諸霊を供養する七夕の節気に行う物だと言う。
始まりはささやかなもの。
笹の葉に色紙や墨で何やら書かれた札をくくりつけ始めたゆきに、不思議そうに朔達が問えば、
『私の世界では、こうやって願い事を書いたら叶うって言われてるの。朔も書いてよ』
と、にっこり返された笑顔と楽しげな様子。
何かと彼女に甘い京邸の面々が、その行動に否を唱える事はなかった。
その結果、京でも少しずつ広まったらしい。
すっかり嬉しくなったゆきや、手先の器用な景時や、故事に精通する弁慶。
彼らが毎年色んな飾りを考案しては、笹を華やかに飾っていた。
その結果、今では年々趣向を凝らした奇妙な飾り笹が、京の風物詩となりつつある。
『今よりずっと未来に始まる庶民のお祭なんです。俺達の時代では普通にあったんですが‥‥‥ここの人達に浸透させるなんて、さすが元宮ですね』
と譲が苦笑するほど、彼女は何の躊躇いもなく未来の祭事や行事を行っていた。
「‥‥‥雨、降ってる」
京に来てから、七夕は毎年晴れていたのに。
けれど、今年は生憎の雨。
朝は晴天だったのに、と、修行に赴いた土御門邸で膨れてしまう。
土御門邸の濡れ縁にしっかりと打つ雨音に、陰陽道の師・土御門郁章が書から顔を上げた。
「雨が上がるまで待っているかい?私は構わないが」
「すぐに上がるかな?」
「いや、西に坎の気が集中している。恐らくこの雨は明日まで続くだろう」
「明日まで‥‥じゃぁ、今夜はずっと雨なんだ」
「そうだ」
再び書に眼を落としながら「泊まるなら景時殿に式を飛ばしなさい」と続ける郁章。
そんな彼から再び濡れ縁に視線を移して、ゆきはそっと溜め息を吐いた。
「じゃあ───逢えないんだ」
一年に一度だけ、織姫と彦星‥‥織女と牽牛が出会える七夕の夜なのに。
雨が降ったら、逢えない。
それから暫くして土御門邸を後にした。
頃はもうそろそろ夕刻だろうか。
雨空が正確な刻限を判らなくさせてくれる。
朝まで泊まる事は固辞したゆき。
郁章もそれに賛同した為、こうして雨の中、傘を差して歩いている。
邸を出た時は小雨だったが、段々と雨足が強くなった。
「‥‥うわぁ‥っ」
途中、角を曲がってゆきは思わず立ち止まる。
普段は大通りの筈が、雨のせいで川に変身していたから。
排水設備の整っていない京だから、一旦雨が強く降るだけで洪水のようになってしまう。
‥‥このまま踵を返せば、土御門邸に戻れば、然程濡れずに済む。
「こうなるの分かってたんだけどさ、いざってなるとどう帰ったらいいか悩むなぁ」
辺りには誰もいなかったけれど、ゆきはぽつりと呟く。
そうしないとなんだか寂しいから。
早く帰りたい。
帰って、逢いたい。
今日は会えないかも知れない。
なんて思っただけで、どうしようもなく切なくなった。
「よし!」
とにかくこの川を渡れば、京邸に着くのだ。
そうしたら、逢えるのだから。
‥‥こんなにも彼を求める自分は子供のようだとも思うけれど、仕方ないと諦めている。
今はまだ膝より上の水位。
けれど、この雨のこと。
民家の間でなく、遮る物のない大通りは水流が速くなってきた。
これでは暫く歩くうちに、どんどんと水かさが増して、危険かも知れない。
‥いや、既に危険なのだが。
「で、でも、頑張って流されないように踏ん張ったら大丈夫だよね」
ぐっと拳を握り、決意の表情。
そのまま傘を畳み、着物の裾を捲り上げたものの、聞き覚えのある声に止まった。
「ゆき!」
「‥‥え?」
眼を真ん丸に開いて顔を上げる。
通りの向こう側に、黒い人影。
「‥弁慶さん!?」
「良かった!君が帰ったと郁章殿から」
雨音で声は聞き取れなかったけれど。
迎えに来てくれたのだと、一目で分かる。
飛びつきたいけれど、出来ない。
「なんだか私達、まるで織女と牽牛みたいですね」
「‥‥‥」
二人を遮る黄土色の川。
そして、向こう側には愛しい人の姿。
それはまるで‥‥‥対岸に離された伝説の夫婦のようで、感傷を与える‥‥。
「───ゆき、待ってて下さい」
「え?」
「今から君を迎えに行きますから」
「ええっ!?でもっ‥‥危ないからいいです!」
傘を畳んだままだから、着物水を吸って重たい。
外套を身に付けている弁慶なんて、ゆきよりもっと大変なのに。
危な気なく通りを、否、川をこちらに向かい歩く姿をゆきはただ見つめていた。
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