大地の陽番外編 | ナノ
「‥‥いひゃいでふ」
「ええ、痛いでしょうね」
庭を横切る譲の背中を眼で追ってたら、突然両頬が痛んだ。
(‥‥怒ってる?)
ゆきの頬を引っ張りながら浮かべるのは、満面の笑顔。
‥に修羅が見え隠れな気がする。
「‥‥ふぇんけいひゃん?」
「君は本当に‥‥‥‥‥僕を妬かせるのが上手ですね」
「へ?」
自分が無意識にしていた行動に全く気付いていないゆき。
弁慶は半ば呆れ混じりの溜め息を吐いた。
仕方なく手を放せば、柔らかい頬が赤くなっている。
「‥‥ところで、一体何を探していたんですか?」
「あ!あの‥‥ごめんなさい!!弁慶さんが前にくれた簪をなくしちゃったんです」
「簪?‥‥ああ、熊野で買ったものですか」
「はい、すっごく大切にしてたのに‥‥‥今日、張り切ってお団子にして挿したら、失くしちゃった」
すっかり消沈しているゆきは気付かない。
弁慶がそれは嬉しそうな表情を浮かべていることなど。
「お団子髪のゆきですか。可愛いでしょうね」
「‥‥え、そ、そんなことはないけど‥‥」
「ふふっ‥‥‥そんなに大切だったんですか?市で衝動買いしただけの安物なのに」
「違います!!」
笑いそうになった頬を引き締めて煽る。
むっとして睨んでくるゆきの肩口から、癖のない栗色の髪がはらはらと零れた。
弁慶は、彼女の色付いた唇を見ている。
それから涙を浮かべた大きな眼を。
「だってあれは、弁慶さんがくれた宝物なんです!あれがあったから、辛くても頑張れたの」
「‥‥‥辛くても、ですか」
「弁慶さんの側にいられなかった時でも、あの簪がずっと私を‥‥‥あ」
(‥‥何を言ってるの、私!)
心を通わせる前、弁慶への想いを断ち切れず、けれど告げることも叶わず苦しかった日々。
そんな時に、彼の代わりに簪を抱き締めていた。
そう告白しようとしていた事に気付き、ゆきは我に返った。
(こんな想いなんて、弁慶さんには重いだけなのに)
彼に恋するまで、自分がこんなに思いつめるタイプだと想像もしていなかった。
‥‥嫌われたかもしれない。
恋愛経験などゆきよりずっと豊富なはずの弁慶なのだ。
こんな幼い恋心を抱いた彼女なんか、きっと重いはず。
「‥‥ご、ごめんなさい!」
「ゆき」
俯いたゆきの膝に乗せられた手を、弁慶が急に掴んだ。
ゆきは軽く驚き、顔を上げる。
じっと見つめる眼差しとぶつかった。
「そんな君だから、僕は捕われているのに」
眼差しを真っ直ぐに交わしたまま、弁慶が手を離す。
そして、その腕をゆきの腰に勢いよく絡め、引き寄せた。
ゆきへの想いに気付いた夏の熊野で贈った簪。
あの時は、側にいられない自分の代わりに、せめて彼女が身に付けてくれたら。
そう密かに願っていたけれど。
‥‥‥まさか、ゆきがもっと深く想いを込めて大切にしてくれたなんて、思ってもみなかった。
そうと知ってこんなに幸せだと思う自分の心の在り様も。
耳に唇を寄せると、ゆきの愛用している桜の香が鼻腔を擽った。
「‥‥大丈夫。簪はそのうち見つかりますよ」
「は‥‥い」
「‥‥それよりも」
「それよりも?」
身体を少し離して再び視線を合わせた。
「これからは、困った時には僕を頼ってくださいね」
「‥‥‥え?」
「譲くんに妬けてしまうでしょう?」
「‥‥あれは、たまたま、庭で落としたって気づいた時に、有川くんが通りかかっただけで‥‥」
「ゆき」
続く言葉を遮ると、ゆきは口籠る。
何でそんなに怒っているのか、あまりよく分からない。
譲は友達で、たまたま探してくれただけなのに。
‥でも。
「う‥‥‥はい」
蛇に睨まれた蛙の気持ちが、ちょっと分かった気がした。
「物分かりが良くて助かります」
にこにこ笑う弁慶に何だか‥‥してやられた、と思うのは気のせいなのか。
まぁいいか。と再び寄り添うゆきに、満たされた気分になって弁慶は眼を閉じた。
‥‥‥‥‥‥次に彼女が口を開く、僅かな時間だけだったけれど。
「‥‥そうだ、分かった!!弁慶さんってヤキモチ焼きなんだ。だからあんな事を言ったんですね?」
「‥‥‥‥今頃になって、分かったんですか?」
‥‥鈍すぎる。
「もっと、君の身体に教え込んで上げなければならないようですね」
「な、何をですか!?」
君が頼るのは、この僕だけでいいと。
嫌になる程に分からせてあげるから。
「‥‥‥僕はいつでも、君の心を占めていたいんですよ」
そう、いつでも。
そんなことは無理だとは分かっていても、それでも。
君の中に住むのは、一人きりでいいのだと。
☆おまけ☆
厨に向かうと、そこには目的の彼が一人で包丁片手に野菜を切っていた。
「譲くん、先程はゆきがお世話になりました」
「いえ。あ、元宮は?」
「彼女なら、疲れ果てて眠っていますよ‥‥‥随分と激しくしてしまったから」
「‥‥‥っ!!」
「‥‥顔が赤いですね?何か想像でも?」
「い、いえ、何でも‥‥ありません」
「そう言えば、譲くんは望美さんに想いを伝えないんですか?」
「‥‥!放っておいてください!」
茹で蛸のように赤くなっている譲の反応。
それが、さっきまで側にいた少女と同類なのが少し気に入らない。
思い切り嫉妬なのだと自覚しているけれど。
弁慶は人当たりの良い笑みを浮かべ、たった今下に落ちた芋を拾い手渡す。
「僕の見た所、望美さんも満更ではないと思いますよ」
「‥‥っ」
さっさと望美を手に入れてしまえばいい。
ゆきに密かに惹かれ、揺れている。
そんな譲の心に気付かない振りをするのは、決して気分がいい訳ではないから。
「‥‥‥譲くんは、僕のゆきの友達ですから。君の味方ですよ‥‥‥僕も、ゆきも」
弁慶の努力など知りもせず。
訳も分からず手渡された難しい書物を、無理やり勉強させられたゆきは、自室ですやすや眠っていた。
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