失われた香りが齎した絶望


 月が空のかなり高い位置に昇っている下で、ティナは野営地から少し離れた場所で立っていた。胸の前で手を組み、祈る様な仕草で宵闇を見つめていた。夜の冷え込みにその手を強く握りしめて耐えていると、後ろから肩に布を掛けられ振り返ると柔らかな表情を浮かべたセシルが立っていた。
 掛けてくれた布はパラディンのマントのようだ。

「こんな所で何も掛けずにいたら、風邪を引いてしまうよ」

 嗜める様な口調でティナに言うと、ティナは俯いた。

「待ちたい気持ちは分かるけど、そろそろテントに戻って休まなきゃ。君も疲れている筈だよ」

 セシルの言葉に、ティナは肩に掛けてくれた布を掴む。

「それは分かっています…でも、二人の事を思うと休んでなんていられない。二人がああなったのは元はと言えば私の所為だから。私を先に逃がしてくれたからあの子が…」
「彼らしいね。でもティナ、それは間違いだよ」

 セシルの言葉にティナは顔を上げる、柔らかな表情は変わらないが声は少し厳しい。

「君がそんな風に考えていたら、君を逃がした彼の行動が無意味になってしまう。
だから、自分の所為だと思ってはいけないよ」

 セシルに諭され、ティナは小さく頷く。頷くティナにセシルは優しく微笑む。

「さぁ、テントで休んでおいで。君に風邪を引かせたら戻って来た彼に僕達が怒られてしまうよ」

 苦笑しながらおどけた様に言うと、ティナは固かった表情を和らげて頷く。

「分かりました。あの、マント…」
「テントに戻るまで使ってくれて構わないよ、明日返してくれればいいから」

 セシルが掛けてくれたマントをティナは返そうとするとセシルはやんわりと止める。ティナは申し訳なさそうな顔で頷き、野営地に戻って行った。

 ティナの背中を見送ったセシルは砂利を踏み締める音に振り返る、其処にはクラウドが立っていた。

「漸く寝てくれたか」

 安堵混じりに呟きにセシルは目を丸くする。

「何時から居たの?」
「俺が哨戒に行く時には居たな、俺が戻る前には休めとは言っておいたが…」
「そう…」

 そう言って肩を竦めるクラウドにセシルは柳眉を寄せる。

「どう捉える?」
「まだ逃げ続けているか、片方が捕まったか、最悪は両方だ」

 クラウドの見解にセシルは険しい表情を見せる、そんなセシルの肩にクラウドは手を置く。

「あくまで可能性の話だ。が、パンデモニウムに突入する事は念頭に置いていてくれ」

 そう言ってクラウドは自分の天幕に戻って行った。また背中を見送ったセシルは武器を現し、哨戒の為にクラウドとは反対方向に歩き出した。

 オニオンナイトは牢屋の隅で膝を抱えていた、光の戦士はこの場にいない。唐突に光の戦士は皇帝に呼ばれ、イミテーションに連れて行かれてしまう。
 そして自力で帰って来る事もあれば、転移の魔法で運ばれて来る事もある。後者の場合、大小様々な傷を負って戻って来る。その度にオニオンナイトは光の戦士の傷を癒す。
 それまでは何もする事もないのでただじっと心細く思いながら光の戦士の帰りを待つしかなかった。金属の擦れ軋む音に沈んでいた思考を浮上させて顔を上げる。入り口に光の戦士が立っていた、帰って来たようだ。

「ライトさん、お帰りなさい」

 声を掛けると、光の戦士はオニオンナイトに向けて厳しい顔を緩ませる。光の戦士が床に座るとオニオンナイトは立ち上がり隣に座る。

「大丈夫、ですか?」
「ああ、大丈夫だ」

 そう言って光の戦士は小さく笑う、此処に捕らわれてから光の戦士はこんな風に笑ってくれる。ほんの小さな笑みだが、いつもは無表情一歩手前みたいな固い表情ばかりだからこの笑顔だけでもかなり貴重だ。
 その笑顔に光の戦士を待っている間の心細さも消えていき、こんな場所だがオニオンナイトも少しだけ笑う事が出来た。
 光の戦士は腰布を外し、オニオンナイトを抱き寄せ、床に敷いてあるオニオンナイトの腰布の上で横になる。
 最初の内は恥ずかしさやら戸惑いやらでばたばたと暴れていたが、慣れたというか無理だと学んだというかオニオンナイトは光の戦士の腕の中で大人しくしていた。
(眠る顔もやっぱり整っているな…)
 そんな事を思いながらオニオンナイトは光の戦士の胸に顔を寄せる。共に眠るようになって知った事がある、香を薫いているのか光の戦士から良い匂いがした。
 魔道を学ぶ者、取り分け白魔法を学ぶ者が精神を高める為の瞑想の際に香を薫くという話が頭の中にあったからそれに近いの事をしているのだろうと推測した。
 オニオンナイトは深呼吸をする、何を使っているのかは分からないがその薫りに気分が落ち着く。だけど最近、それが薄れてきて代わりにとでも言う様に別の匂いが光の戦士からするようになってきた。それがどういう意味を持っているのか、数多の知識を有しているオニオンナイトでも分からなかった。

 目覚めて、二人は軽く屈伸をしているとイミテーションが現れた。どうやら皇帝がお呼びのようだ。

「行ってくる」
「いってらっしゃい、ライトさん」

 振り返り一声掛けて光の戦士は扉をくぐり、イミテーションと共に歩いていった。
 残されたオニオンナイトは床に胡坐をかいて座り、目を閉じて瞑想を始める。感情を無にして精神を研ぎ澄ませ、意識を外へと飛ばす。
 オニオンナイトは鳥をイメージする、大きくはない小さな鳥の姿を。翼を広げて羽撃く、まずは自分が謁見の間もどきから牢屋に連れて来られた道を辿る。
 パンデモニウム内は入り組んでいて、しかも似たような造りをしているから迷ってしまう。時折、行き止まりに行き着くがその度に記憶に刻み付ける、逃げる際に行き止まりで時間を喰うわけにはいかないから。
 なんとか謁見の間の扉の前に辿り着いた。次は此処から出口までの道をと考えていると牢屋中に魔力が満ち、オニオンナイトは意識を引き戻す。光の戦士が戻ってくるのかと思ったが、すぐに違うと分かった。
 オニオンナイトは抵抗せず引き寄せられる様な感覚に身を委ねた、抵抗すれば苦しいのはこちらなのだから。

 皇帝は顔を上げた、先程から『小鳥』が飛び回っていたのを感知していたが、予想より距離を飛んでいた。

「……ただの子供ではないという事か」

 ぽつりと皇帝が呟くのを光の戦士は聞き逃さなかった。

「どういう…意味だ?」

 きつく睨み付ける水浅葱の瞳に皇帝は嗤いながらその頬を指先でなぞる、そして腕を上げて横に伸ばす。

「なに、少し仕置きをするだけだ」

 指先に魔力を溜める、床に紋章が現れ光る。光が消えたと同時に現れた人影に光の戦士は目を見開いた。
 転移の魔法で連れて来られたオニオンナイトは目を開けて、周りを警戒しつつ観察する。部屋の感じから私室か寝室、こんな所に喚んで何をするつもりなのだろうと考える。一つだけ該当する知識があり、オニオンナイトは背筋がゾッとした。

「よく来たな」

 皇帝の声にオニオンナイトは身体を強張らせて声の聞こえた方に身体ごと向ける、天蓋付きの大きな寝台が置いてあり皇帝はその上にいた。
(よく言うよ)
 その姿にオニオンナイトは違和感を感じながら眉を寄せる。有無を言わさず呼び寄せておいてと心中でごちて、オニオンナイトは部屋に漂う匂いに気が付いた。何処かで嗅いだ事のある匂いとよく分からない匂い。
(栗の花…?)
 オニオンナイトは思い当ったよく分からない匂いの正体に眉を更に寄せて顔をしかめた、何処にも栗の花なんて活けていないのに。そう思ったオニオンナイトは寝台に皇帝以外に誰かいるのに気が付く、影に隠れて姿は見えないが寝台から髪が落ちていた、部屋の燭台の火に照らされて光るホライゾンブルーの髪――。

「ライト、さん…?」

 オニオンナイトの呟きに、にやりと嗤い身体を起き上がらせる皇帝の姿に、違和感の正体に漸く気付く。何も着ていないのだ、あの悪趣味とも思える金欄の装いを脱ぎ捨てていたのだ。
 皇帝が身を起こしたから影になっていた場所に光が入る、同じ様に一糸纏わない光の戦士が皇帝の下にいた。それだけで皇帝が光の戦士に何をしているのかを知り、色々と分かってしまった。嗅いだ事のある匂いの意味と栗の花の匂いの本当の正体を。

「ど…うして……?」

 小さな呟きだったのに、皇帝はそれを聞き逃すなどしなかった。

「何も聞いていなかったのか?」
「言うな、皇帝!言うな…!」

 戸惑うオニオンナイトの表情、光の戦士の切羽詰まった制止の声、その全てが皇帝にとっては愉悦の対象に過ぎない。

「お前に手を出させぬ代わりに、この男は己が身を差し出したのだ。流石はウォーリアオブライト、大した自己犠牲の精神だと思わんか?」

 皇帝の言葉にオニオンナイトは愕然として光の戦士を見る、光の戦士は否定の言葉を言わずただ目を伏せた。オニオンナイトは一歩、二歩と首を振りながら後退さる。
 嘘だと叫びたかった。こんなの嘘だと、しかしそれを叫べる程、自分は愚かではない。だけど認めれる程、自分は大人ではなかった。

「オニオン!!」

 目の前が黒く塗り潰される、何も見えなくなった。呼ばれた様な気がしたがすぐに何も聞こえなくなった。

「オニオン!!」

 光の戦士は肘をついて上半身を起き上がらせ名を叫ぶ、皇帝は緩やかに寝台から降りて椅子の背に掛けてあるバスローブを羽織る。
「意識を失ったか、脆弱な精神だな」

 皇帝はつまらなそうに言って、イミテーションを二体を喚び出す。

「連れていけ」

 皇帝の命令に従い、イミテーション達は倒れたオニオンナイトに手を伸ばす。

「触るな」

 場の空気が一瞬にして凍り付く、その声にイミテーションの手が止まる。皇帝は振り返り光の戦士を見た。先程から瞳に宿していた静かに燃える様な蒼い焔は何処にも無い、極寒を通り越した地獄の最下層にあると言われる紅蓮地獄の様な冷たさが其処にはあった。
 凍り付いている者達を尻目に光の戦士は起き上がり、手早く服を着て倒れたオニオンナイトの傍に膝を付きそっと抱き上げた。意識を失っているオニオンナイトを大切そうに抱き締め、出口に向かい静かに扉を開けて寝室を出た。
 扉の閉まる音に凍り付いていた残された者達が動きだす。その中で皇帝は無意識のうちにか自分の腕を掴んでいた。

 オニオンナイトは目を開けた、見慣れてしまった天井にひやりとした空気に牢屋の中だと認識する。

「気が付いたか」

 声を掛けられてオニオンナイトは首だけを横に向ける、其処には光の戦士がいてこちらを覗き込んでいた。

「ライトさん…あの――ッ!」

 オニオンナイトは起き上がり、何故自分が寝ているのかを光の戦士に聞こうとした瞬間、脳裏にフラッシュバックで甦ってしまった。あの寝室での出来事を。

「ライトさん、あれは……」
「大した事ではない、気にするな」

 あっさりとそう言って小さく笑った、いつもの様に。

「どうして……」

 オニオンナイトは俯き、両手を強く握りしめ顔を上げた。

「どうしてあんな約束をしたんですか!?あんな、あんな…!!」

 よくよく考えれば分かる事だった、捕虜になればその可能性もあると。だけど呼ばれるのはいつも光の戦士だけだった、その事に自分は理由すら考えようともしなかった。

「君を守るにはあの手段しか無かったのだ、あれぐらいで君を守れるなら安い取り引きだ」
「――ッ!」

 オニオンナイトは光の戦士の膝に手をつき、下から覗き込む様に睨み付けて捲くし立てた。

「貴方は僕達のリーダーだ!そんな貴方が、どうして僕なんかの為に戦士としての誇りを捨てる様な真似をしたんですか?!僕なんか見捨ててくれれば良かったのに!!」
「オニオン!!」

 光の戦士が声を荒げ手を上げる、叩かれるとオニオンナイトは目を閉じて強張らせるが痛みが来なかったので、目を開けると頬に手を添えているだけだった。こちらを見つめる表情は厳しいが。

「仲間を見捨てて守れる誇りなど、私には必要無い」

 ぼろりと、光の戦士の言葉に涙が零れる。光の戦士は添えた手で涙を拭うが涙は止めどなく溢れてくる。オニオンナイトが肩を震わせる、光の戦士がその肩に腕を回して抱き寄せると、声を上げて光の戦士の胸で泣きじゃくる。
 光の戦士は何も言わず、ただ不器用にぎこちなくオニオンナイトの背中を撫でていた。
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