アルファベットと数字

「また連絡しますね(嘘だけど」
「ああ、いつでも待ってる。またすぐにでも連絡してくれ」
「はい。すぐにでも。だって貴方と別れるのこんなにも寂しいもの(帰ったらお酒飲みたいな。全然酔えなかったや」
「ふふ、今度はもっと凄いことをしてやろう」
「もぅ……(あー、でもすぐにお風呂入ったりしないと明日に間に合わないかな。テクニックもないくせに時間だけは長いんだものやんなるよ」
「じゃあな」
「はい。さよなら(めんどくさいや、明日は遅刻しちゃえ。国木田君にぎゃあぎゃあ云われるのなんていつものことだしいいよね」 
 にやにやとした笑みを浮かべ去っていく男にほんのり悲しげな笑みを浮かべながら太宰治は手を振る。男が見えなくなって後ろを向けばそれはすぐに消えてしまう笑みだった。
(ああー、単純だったな。どいつもこいつも口が軽いバカばかりでまあ、扱いやすくて良いのだけどね。あ、そうだ)
 寝に行くために歩きながら太宰はふっとその足を止めた。服のポケットの中を漁る。出てきたのは一枚の紙。アルファベットと数字が並ぶそれを見もせずに破り丸めて捨てた。男の手にも太宰が渡した同じようなものがあるのを思い出しながらまあ良いやと捨てた紙を踏みつけ歩く。
(あの様子なら待ちきれずに一週間もしたら連絡寄越してきそうだけど、私には関係ないや)

 その方法をいつから使いだしたのかなんて聞かれても太宰には答えられない。気付いた頃には己の体は己が欲しいものを手にいれる為の道具だった。己の美醜には興味はないもののされど美しいことは知っていて、その顔を使えば邪な人間を好き勝手扱えることも物心ついた頃には既に知っていた。その方法で食べ物も服も情報も欲しいものは全部手にいれてきた。マフィアになってからそのすべにさらに磨きがかかった。そしてマフィアを止めてからも使い続けている。
 何となく周囲が気に入らなさそうだと感じたので誰にも話したことはないが何かある度に自分の体を道具にして情報を得ていた。ふわぁぁと欠伸が出る。彼にとって男に抱かれるのは日常のひとつ。どうでもいいことだった。



 頼めるかと聞かれたらお任せくださいと答える。少し面倒な案件だとは思ったものの出来ないことはないと判断したため。
(まあ、そうでなくともやるしかないんだけどね)
「すまぬな。適任が貴殿しかいないため一人では危険だとは思うが頼んだぞ。何かあればすぐに私に連絡してくれ」
「はい」
 真っ直ぐな目に見つめられ云われるのに返事をする。早速どうするのか考えそのために動こうと踵を返そうとしたのに、そう云えばと云う声が聞こえた。
「貴殿に私のメールのアドレスを教えていたか」
「それはまだ聞いていませんね」
 僅かに固まり少し考えてから答える。メールなどは面倒なのであまり使わない。教えてもらったものは一応覚えているものの誰からなどは雑多だから考えないと分からなかった。
「今後何かと必要かもしれん。今書くからちょっと待っていてくれ」
「はい」
 ペンを手にさらさらと書いていく指先を見つめる。苦手そうなのに覚えているのだなと妙なことに感心していたらほらと差し出されたぺらぺらの一枚の紙。
 まさかこれが己の日々を変えてしまうものなど手にするまで気付かなかった。
「これだ。後で連絡をいれておいてくれ」
「はい、わか」
 どれどれと覗きこんで太宰の動きは完璧に止まる。手が震えてぺらぺらの紙が指先から溢れ落ちていく。あっと思ったものの太宰の体はそれを追うために動かなかった。代わりに目の前の人物の手がそれを追うために動いて太宰の目の前で捕まえる。ほらともう一度差し出される紙切れ。どうかしたかと心配げに声をかけられるのにいえと答える声は震える。
「何でもないです。また後で連絡しますね」
 一度溢れた紙を見つめる。そこに並ぶのはアルファベットと数字。知らないはずのそれはだけどどう見てもとても見慣れた並びをしていた。


 孤児として過ごしていた頃は自分を道具に使っても面倒な問題は沸いてくることはなかった。それが変わったのはマフィアになってから。また次を求める相手が増えたことが原因だった。ある日連絡先なるものを求められた。一番最初がどんな相手だったかは覚えてないけど、聞かれたときとても面倒に感じたのは覚えてる。上手く交わそうとしたけれどしつこくてそれで教えたのがその時適当に考えたアルファベットと数字の羅列。以来ずっと使ってきたそれは太宰のものではなく、もしかしたら誰かが使ってたのかもななんて考えたこともある。だけど太宰が使い出してからは気味の悪いメールが増えて変えただろうと勝手に思っていた。それがまさか……
 太宰がそれを使い出してもう十年近く。まだ使っていた上、アドレスの持ち主が今自分が働く会社の社長のものだったなど考えたこともなかった。

    ***

 ふむと一人酒を片手に福沢は自宅で考え事に耽っていた。
 どうにも一つ気になる問題がある。それは半年前に探偵社に入社した社員のことであった。
 名を太宰治。彼はその素行には些かの問題があるものの頗る優秀な男で、太宰が入ってからまだ半年にも関わらず彼がいなければ大変なことになっていた依頼が幾つもある。普段の行いこそちゃらんぽらんだがやるときはやる。胡散臭い所はあるが信頼に足るものであるのは半年のうちに分かっていた。
 だからこそ彼に一つ重要な案件を密かに任せたのだが……、その時の彼の様子がどうにも引っ掛かってしまっている。途中までは普通だったのだが、ある時から様子がおかしくなってしまった。何かあったのか動きが鈍くなり、その目が僅かだったが見開かれていた。心音もほんの少し乱れ何かに困惑、驚愕しているようにも思えた。
 だがその変化が太宰に見えたとき、これと云って驚くような話しはしていなかったのだ。その時していたのは福沢の携帯のアドレスの話。半年も経っていたが教えるのを忘れていたので教えたに過ぎないそれでなぜ驚くのか。教えると云ったからか。だがそれにしてはタイミングがおかしかった。それならばもう少し前に驚くべきで。太宰の様子が変になったのは福沢がアドレスを書いた紙を渡したときだった。それを見てから太宰の姿は明らかに変わった。
 その様子を思いだし懐から携帯を取り出す。同じ画面を見るのが数度目となりながら己のアドレスが書かれた画面を見つめた。何処にでもある何の変哲もないアドレスだ。買ったときそのままのものなので福沢が知る他の者と比べて少しアルファベットと数字の入り交じりが激しいもののおかしいとは思えない。これをみて何故あんなに驚いたのか。何処に驚く要素があったのか考えても分かりそうになかった。
 携帯の画面を睨み付ける。
 分からずに反対の手に持った酒を煽った。一体なんだと云うのだ。昼間の太宰の様子を思い出す。何故あんなにも驚愕したのか。その後はうまく繕っていたもののでも確かにあの時……、
 太宰の姿を思い出しているとん? となにかが福沢の中で引っ掛かった。己の携帯を見つめる。福沢は太宰の今日のおかしかった様子ではなく、彼の容姿の事を頭に浮かべる。始めてみたとき福沢ですら美しい男だと思ったほど整った顔立ち。色白でいつも浮かべられている笑みはたおやかで美しい。見る人すべて惹き付けてしまうような男。ぼさぼさに見える蓬髪でさえその美しさを損なったりはしない。
 そこまで考えながらじぃと携帯を見つめる。
 その顔はかなり険しいものへと変わっていた。
 君ほど美しいものは見たことがない。白い肌を思い出しては会いたくなる。あの日の君は最高だった。
 幾つもの言葉が頭の中に過るがそれらはすべて福沢が考えたものではない。福沢の携帯のメールに送られてきた文章だった。身に覚えは一切ない。十年ほど前から福沢の携帯に送られてくるようになった福沢には覚えのない内容のメール。初めは悪戯かとも思ったが増える回数やら何やらが理由でそうではなく誰かが己のアドレスを勝手に使っているのだと気付いた。沢山やってくるメールにアドレスを変えた方がとは考えたこともあるものの何とか使えてはいるが携帯の扱いは苦手なもの。アドレスを変えるやり方も分からずまた変えることによって周りのものに連絡を送るのも面倒に思えてそのままにしていた。
 白い肌。細い腰、折れてしまいそうなほど華奢な手。美しい顔。艶やかな黒髪。
 受信ボックスを広げてそこに送られてきた数々のメールを眺める。どれもこれも知らないメールアドレスではあるもののもしかしたら福沢宛のものもあるやもと律儀に全て中身を一度は読んでいた。そこに書かれていた内容を今一度一つ一つ見ていく。
 当てはまる気がする。
 言葉に書かれてしまえば在り来たりな容姿。太宰の肌は白いがそんな人幾らでもいる。ちゃんと食べているか心配になるほどの細い腰をしているがそれだって幾らでもいる。あんなので戦闘になったとき折れてしまわないのかと思ったことはあるがそれだってだ。それに最後の一つの艶やかな黒髪は当てはまってはいないと思う。太宰の髪はろくに手入れもしてないような蓬髪だ。でも……。
 太宰の様子を思い出す。
 とても驚いたようだった。そのなかに僅かに混じっていたのはどうしようと云う悩みだったような……。
 太宰が驚いたのが福沢が渡したメールアドレスが見知ったものであったからだとしたら。だからあんなにも動転したとしたら。
 それならば謎は解けるのだ。
 だけど、それはそれでまた別の問題をつれてくる。携帯を見つめる福沢の目は人一人殺してしまうのではないかと思うほど鋭いものになっていた。
 送られてくるメールの多くは頭が常春にでもなっているのではないかと思うほどに阿呆な文章。それを読めばアドレスを教えた相手が多くの男たちに抱かれていた事が分かる。それが彼の趣味だと云うのであれば福沢とて止めぬ。理解はできぬがそう云うものもいるのだと流すことが出来る。だけど。
 何度も相手を変え、教えるアドレスは偽物。さらに常春メールに交じって時おり送られてくる他のメール。さらに何度かあったある問題。それらを踏まえ考えると太宰は情報を得るために己の体を使っていることになってしまう。そんな筈はない。そんな馬鹿なことがあり得る筈が……だけど。

 確かめなければ強くそう思った。

  ***

(さてどうするべきか)
 目の前の相手を見つめ太宰はどう云い逃れをするか考えるか。
(どうすればいいのか)
 一方福沢はどうやって太宰から聞き出せばいいのか考える。
 福沢が太宰に連絡先を教えてから二週間後。二人は探偵社の社長室で対面していた。本来ならもっと早く話したい案件ではあったものの太宰に任せた仕事のせいでここまで遅くなってしまった。
 じぃと見つめ合う二人。
 あれからすぐ太宰は新しい携帯を買い男に教えるアドレスはその携帯のものにした。そしてすぐ誰にも見つからない場所に捨てた。ただ別のメールに変えただけではまた何時こんなことになるか分からないと思ったため。後は何とか福沢を言いくるめるだけだ。
 福沢はずっとどうするべきか考え続けていた。
 太宰は物事を誤魔化すのがうまい。口から先に産まれたのではないかと思うほどに口達者である。その逆に福沢は口下手である。伝えたいことを上手く纏めることができずあまり冗長に話すことはない。まだ疑惑程度。それとなく聞き出す方がとは思いながら、そんな己と太宰では上手くいかないだろうことも分かっていた。だからずっとどうすべきかを考え続け、今も考え続けでも出てくる答えは結局一つだった。
「太宰」
「何でしょうか」
 固くなってしまった福沢に対し太宰は爽やかな笑みを浮かべる。その姿を見るだけでも上手くあしらわれてしまう未来は見えたようなものだ。だから。
「私の連絡先を私のだとは知らずに何者かに教えていたことがあるだろう」
 福沢に出来るのは直球でききだすことだった。
 こんなにも直球にくるとは思ってなかったのだろう。笑顔のまま太宰が固まり唇の肉が僅かに引きついた。
「な、んのことでしょうか」
 最初の言葉こそ震えてしまいながら太宰は笑顔を浮かべはぐらかす言葉を口にする。
「私社長のアドレスを知ったのはついこないだですよ」
「だから私のだとは知らずに教えていたのだろう。偽るため考え教えていたアドレスがたまたま私のだったのだ。違うか」
「そんな確率一体どれ程のものだと」
 あり得るわけないじゃないですかと朗らかな声に太宰と低い声が告げる。じぃと睨み付けてくる目は険しく見つめるものに穴を開けてしまいそうだった。ぐっと喉元で言葉が詰まる。
 言葉で勝負しても太宰には勝てぬ。福沢が勝てることがあるとするとそれは気迫で押し通すぐらいである。全ての力を込めて睨み付けられるのにぐぐっと口元が歪む。モゴモゴとは動くものの言葉にはならなかった。
 やがて太宰の肩が下がる。
「その通りです。申し訳ありませんでした。まさか社長のアドレスだったなど思いもよらず。今はもうしておりませんのでご安心ください。そのうちメールも来なくなると思います」
「それはよい」
「はい?」
 きょとんと太宰の目が瞬く。何を云われたのだろうと首を傾けるのにより鋭い目が太宰を見た。
「それよりメールの内容を読ませてもらったが、太宰、貴様自分の体を使い情報を得ているな」
 びしりと太宰が固まり、それから少し天を仰いだ。
(あーー、やっぱりばれるか。そんでもってやはり受け入れられないみたいだね。その方法が一番手っ取り早いのにどうしてなのだろう)
「……そうですが、それが何か」
 どう答えるべきかちょっとだけ迷い。どう答えても誤魔化せるわけではないし無駄かと太宰は開き直る道を選んだ。それに少し臆されながらそれでも福沢は太宰を見据える。
「そのような事、今後はもう二度とするな」
「何故です」
「何故だと、そんな「だってそうする方が効率がいい。情報は武器です。それもとても強力な。情報一つで戦局は大きく変わる。如何に質のよい情報を多く仕入れられるか。これは何に置いてもとても重要なことです。
 幸い私は顔が良い。エロ親父たちの好みの顔をしているようで私が少し甘い顔をすればどいつもこいつも手を伸ばして私に情報をくれます。私は少しそいつらの好きにさせてあげればいい。それだけで多くの情報が得られるのです。
 これほど効率がいいことはないと思うのですが、なのにどうして駄目なのですか」
 太宰が問い掛けるのに福沢は絶句した。何を云われたのか理解できずに太宰を見つめる。太宰は誤魔化すような顔をしていなかった。笑みを浮かべて自分の都合のいいように周りを動かそうと言葉を口にしたのではなかった。太宰の顔を福沢は見たことがある。
 それは子供の顔だ。
 純粋なまでに物事を理解することのできない子供の顔。
 大きな目がじっと真っ直ぐ福沢を見るのは自分がなにも間違ったことを云っていないと思っているから。自分が正しいと信じているから。何故止められるのか分かっていない。
「確かに貴殿の云うことも一理ある。情報は大きな武器だ。だがそれを得るために貴殿が傷つく必要はないのだ。仲間を傷付けてまで得たものに価値はない」
 また太宰が首を傾けた。きょとんと音が出そうなほど不思議な目を向けてくる。
「傷付く? ですか。まあ、……病気の心配などはありますがその辺はしっかりしているので大丈夫ですよ。幾ら私でも性病などでは死にたくはない。SMプレイ好きとはやったことありませんし、乱暴な相手もいるにはいますが怪我を負うようなことは今のところないので大丈夫ですよ」
 はぁと福沢の口が間抜けに開く。何を云われたのか理解できず、理解したくもなかった。
「そうではない私が云っているのは貴殿の心のことだ」
 福沢が絞り出した言葉に太宰が浮かべ続ける歪んでだけれども何処までも純粋な子供の顔。純粋過ぎておぞましい。こころと鸚鵡返しに呟く太宰は首を傾ける。
 福沢が絶望したような顔を見せるのに太宰はやっと己の失態を悟った。
(あ、やっちゃった。そっか普通の人は傷つくものなんだ。でもなんで?? 傷つくことなんて何があるの)
 分からずに首を傾けたままになるのに太宰と強い声が名前を呼ぶ。
「兎に角、己の体を使い情報を得るのは止めろ。これは命令だ」
(……何で効率が良いのに。傷付くことなんてないのに。でも傷つくのが普通の人なんだよね、なら)
「はい。分かりました」
(一応聞いておくのがいいか。アドレスは別の用意したし気付かれないようにしたらいいよね)
 にっこりと今この場限りの言葉を口にする。何を云われても止めるつもりはない。そんな太宰を福沢は険しい目で見つめ、それからはぁと息を吐いた。
「分かれば良いが、少し心配ゆえ、今日から暫くの間貴殿には私の家で生活してもらうことにする」
 またも太宰の笑顔は固まった。



中略


 そろそろヤバイなと太宰が思ったのは福沢の家で暮らし出して一ヶ月経つころだった。
(潮時……かな)
 どうにかこの家から抜け出さなければなと思うのにどうやって福沢から逃げ出すべきか考えた。んーーと悩むのに太宰と掛けられる声。太宰はゲッと顔を歪める。
「社長……」
「夕飯が出来た。食べに来い」
 襖越しに聞こえてくる声。お腹はそんなにすいていない嫌だなと思うのに太宰と己の名を呼ぶ声が強くなって行くしかなくなった。福沢の家に来てから毎日二食は必ず食事を取らされている。三日に一度や二日に一度などの頻度で気紛れにご飯を食べていた太宰にはそれはとても面倒で嫌な事だった。
 ほらと呼ぶ声にはぁと、重い腰をあげた。
 襖を開けるとやっとでてきたなと渋面を作る福沢が写る。行くぞと云われるのにはぁあと深いため息がでた。
「お腹すいてないです」
 云っても無駄だと分かりながらもつい太宰は口にする。お腹もすいてないのに何故わざわざと思うと億劫だった。
「一口二口ならば食べられるだろう」
「それ食べなくともよくありませんか? わざわざ食べる理由がどこに」
 面倒そうだった太宰。返ってきた言葉にさらに顔が歪む。踵をかえそうとするのは福沢が腕を掴んで抑えた。
「ならすためだ」
 簡潔に理由を告げる。
「ならす?」
「幾ら少食とは言っても貴殿のは食べなさすぎだ。少しずつでも食べられるようにしていかねばならぬ」
「別に私はこのままで困りませんけど」
「貴殿は困らなくとも私が困る」
 何だそれはとますます顔が歪んでいく。お腹すいてませんと太宰は再び繰り返した。

「お酒飲みませんか?」
「はっ?」
「何だか無性に飲みたいのですよね。美味しいお酒ありませんか?」
 ぽつりと夕食終わり太宰は唐突に呟いた。片付けを終え戻ってきた福沢の目が半目になっている。
「それはまともに夕食を取ったものが許される台詞だ」
 声も少し低くなっていた。常の声からして威圧感のある声は低くなっただけでもかなりの恐ろしさをます。それに加えて少しだけ睨むような福沢の目。普通の人ならこれだけで怯むものだが残念ながら太宰にはそんな可愛いげはなくわざとらしく不機嫌な顔をする。頬を膨らませて睨むような目を。
「食べたじゃないですか」
「五口だけな」
「一口二口でも良いと言ったのは貴方でしょ」
 自分が言った言葉を忘れてしまいましたか。そんなのではすぐに呆けてしまいますよ。珍しく強い言葉をはく太宰に福沢の目元がぴくりと揺れた。言われた言葉に怒った訳ではない。ただなにか違和感を感じた。
「食べられぬのならそれでも良いと言ったのだ。お腹一杯と云って食べなかった奴が何故酒は飲めるのだ」
「酒とご飯は別物でしょう。お酒は固形物ではありません」
「固形物でなくとも腹は膨れるものだ」
(まあ、確かに。私もそれでやり過ごしていたことあるし……)
 むうと太宰の口許が一瞬だけ尖った。それからふわりと笑みを浮かべる。
「お酒が飲みたいです」
(…………面倒になったな)
 押しきろうとするような無駄にキラキラとした笑みをする太宰。言葉を重ねることが面倒になり顔で押しきってこようとしているのが福沢には分かった。福沢相手では効かないと分かっていそうなものなのに面倒なのかその辺は考えないようにしているようだった。
「お酒飲みたいなーー。駄目ですか」
 ことんと首を傾けられ一番言うことを聞いてもらいやすい顔だと知っている顔で問いかけてくる。はぁああと盛大なため息が福沢の口から出る。
「分かった」
 そんな言葉を口にする。
 別に太宰の顔に押し負けた訳ではない。思うところがあったためだ。太宰の目が瞬きを繰り返す。自分でやっておきながら頷かれるとは思わなかった。そんな顔をしていた。
「日本酒で良いか」
「はい」
「なら、用意してくる」
 立ち上がった福沢を太宰は呆然としながら見送った。
(駄目だと思ってたのにな……。何で……。
 まあ、良いか。これでなんとか……。後は社長をどう酔わすか。これは私の腕の見せ所か)
呆然としながらも何事かを考え込むのに福沢が戻ってくる。机の上に置かれるお盆。その上には一升瓶が一つとお猪口が一つ乗っていた。え?と言う顔をする。
「社長は飲まないのですか?」
「私は今日は良い」
「そんなことは言わずに飲みましょうよ。折角なんですから。一人で飲むより二人で飲む方が楽しいですよ」
 ふわりと太宰が笑みを浮かべるのを福沢はじっと見つめる。考えるそぶりをしてから一つ頷いた。もうひとつお猪口を取りに行く。
「美味しいですね」
「そうだな」
「これもとてもお高い奴ですよね。買ったんですか」
「貰い物だ」
「いいなぁ。社長ともなるとこんなに良いお酒が貰えてしまうのですね。あ、どうぞ。一杯」
 空になったお猪口にとくとくと注がれる透明の液体。こくりと一口口に含みながら福沢は太宰を見る。何時もよりもさらに回る口。酒の席で機嫌を取るような言葉が多く出てくるのに眉が少し痙攣した。
「ほらほら、どうぞ」
 にこにこと美しい笑みを浮かべて太宰が福沢のお猪口に酒を注いでいく。
「ほら」
「へっ?」
 ことんと一升瓶が机の上に置かれるのに今度は福沢の手が冷たい瓶を掴む。太宰に向けて注ぎ口を向けるのにすっとんきょうな声が聞こえる。予想もしていなかったという顔をして福沢を見つめる。
「これは」
「飲みたいと言っていたのにあまり呑んでないだろ。飲め」
「飲んでますよ」
「もっとだ」
「私は……「ほら」
 押し付けると少しだけ太宰の顔が歪む。分かりましたとお猪口が差し出されるのにとぼとぼと液体を注いだ。

(やっと、落ちてくれたか)
 まだ中身の残るお猪口を手放す。太宰の前には机に突っ伏して眠る福沢の姿。
(随分掛かってしまったな。まさかこんなに社長が強いだなんて。私も随分呑まされてしまった。頭が少しぼぅとする。……でも)
 よいしょと机に手をついて何とか立ち上がった。酔いが回り足がふらつくがそれでも一歩前に出る。
(行かなくちゃいけない。無駄な時間を過ごしてしまった。急いでここからでて、朝までには……)
 ふらふらと進もうとした太宰。
 だがぱしりと手を捕まれてその動きが阻まれた。えっと見開かれる目。さっと振り替える首。見える銀灰の瞳。睨み付けるような鋭い目が太宰を見ていた。
「何処へいく」
「…………」
 低く問いかけてくる声。太宰が口を閉ざす。言葉を探すように瞳が動いた。ごくりと唾がなる。
「自分の部屋に」
「それは真か」
 喉がからからになりながらも口にした言葉。真っ直ぐに見つめてくる目は嘘だと断定はしないものの嘘を許さないものの目だった。じいと見つめられるのに太宰は頷くこともできなかった。
「私を酔わせて何処にいくつもりだった」
 問いに一つ言葉を重ねた。ひゅと太宰の喉がなる。
(やはりそのためだったか)
「何処にも行くつもりは」
 時間をかけてから問いに話し出した太宰はだけど、途中で言葉を止める。より強くなった目。掴む腕にも力がこもる。
「太宰」
 名前を呼ばれるだけで凍り付いたような気持ちになり足が動かなくなった。ぷるぷると震える。
「……」
 太宰が口を閉ざすのに福沢も何も言わず見つめる。
「……離してください」
 ぴくりとも動かない腕を離してと太宰が乞うた。どうして良いかわからずそうすることしかできなかった。
「お前が何処に行くつもりだったか言うのであれば場合によっては離してやってもよい」
「……」
 さらに固く閉ざす口。顔を逸らすのに福沢の目が真正面からみようと追いかけてこようとする。逃げる前にその動きがやんだ。険しい顔つきがさらに険しく、おおよ仲眞に向けるものではなくなった。ぞっとするのに福沢の目線が太宰から向く。部屋のなかを確認するように見渡して、外の方を睨み付けた。
「成る程。こう言うことが」
 低い声が福沢から出る。怒りを溜め込んだ声に太宰の肩は震えながらやってしまったとおもう。
(どうしよう気付かれてしまった)
 気づかれてはいけなかったのに。すぐにどうにかしなければと手を振りほどこうとするのに福沢の方から掴んでいた手を離した。バランスを崩して太宰が床に転ける。
「貴殿はここで待っていろ。私が相手をしてくる」
「は? な、何を」
「いいから待っていろ」
 言っているのです。そんなことできるはずが。私の問題は私で片付けますと言おうとした太宰の口は固まる。びりりとした殺気が福沢から出、太宰に向けられる。
「待っていろ」
 地獄から聞こえたような声が言うのにこくりと太宰は頷いてしまっていた。


「お前は頭が良いわりに色々と足りておらぬ。どうでも良いことに気を回す前にもっと大切なことに目を向けろ」
 土埃で少し汚れた福沢が告げるのを太宰は呆然と見つめる。
 待っていろと言い捨てて出ていた福沢。暫くして聞こえだしたのは銃声や金属音。聞こえだしてからあんなにお酒を飲んどいてまともに戦えるわけがないという事に気付いた太宰。立ち上り部屋を出たのに音が止み静まり返った。まさかと、最悪の事態を思い浮かべるのに足音を消し廊下を歩いてきたのは多少土埃をつけただけで傷一つ追っていない福沢だった。
 えっと目を見開く。私よりも呑んでる筈なのにと思ったのに、そんなことを考えられていたのは少しの間だった。
「何処へいく」
「えっ」
「ここで待っていろと言っただろう。こい」
 周りが凍り付きそうなまで低い声。腕を掴まれ部屋の中に連れていかれる。鋭く睨み付ける目は野生の獣のようでひゅっと臓腑の中まで冷たい空気が流れ込んでくるようだった。
 そして言われた言葉はまるで理解できないものだった。
 何の話だと首を傾けるのにはぁと深いため息が福沢から出る。
「何故こうなることを予想して私を酔わせようとした。もっと他に相談するなどやり方はあっただろう」
「だって私個人の問題ですから」
「個人の問題だろうと探偵社の仲間として狙われているのなら心配し力を貸すのは当然の事だろう」
「でも私一人で解決できましたし」
 きょとんと顔を傾け目を瞬きながら太宰が呟いてくなにぷつりと何かが切れる音がした。ついで、何かを叩く音。えっと太宰から何かに驚いたような声がでた。
 頬が赤くなるほどの力で叩かれ福沢の腕に挟まれた太宰の頬。
 ええと戸惑った顔をするのに福沢からは怒声がでた。
「いい加減にしろ! 心配しているのだと言っているのが何故分からぬ! お前の事が心配だから言っているのだ! 私達は仲間だ! 何でも一人で背負おうとするな」
 大きな褪赭の目が福沢をじいと見つめた。
 とても幼い顔をしていた。あの日、太宰と福沢が共に暮らすようになった日に見たような何処までも純粋な、何一つを理解することのできない幼い子供の顔。
「し、んぱい」
 繰り返し呟く声もまた子供のような響きをしていた。その言葉の意味すらも分かっていないような……。
「そうだ」
「何で」
「仲間なのだ。当然だろう」
 一つ二つ瞼の裏に瞳が隠れる。大きく開きながら横に傾く。どうして。小さな声が呟く。私をと信じられないというようにもう一度声が出る。
「そうだ。お前を心配しているんだ」
 福沢の言葉にまた瞬きが起きた。福沢を見ながらも何処か遠くを見る。その顔は何処か理解するのを拒むようにも見えた。喉奥に次は自分の番だと控えた言葉を一度飲み込む。
 与えすぎても駄目なのだと。理解できぬ言葉を幾ら与えても理解できないままだ。幼い子供の成長に会わせ順序立ってて教えていくようにこの大人の顔をした子供にも時間をかけ少しずつ教えていかなければならないのだ。
「この話はもういい。ただ今後何かあるなら私に頼れ」
「……」
 太宰は頷かなかった。答えることなくただ福沢を見ている。どう答えるべきなのか悩んでいる。そんな顔で。そんな太宰に福沢はもうひとつの問題の方を問いかけた。
「あの男たちは何だったんだ」
 落ち着きかけていた声に険しさが混じる。まさかまた福沢の知らぬところでやっているのではないだろうなと疑いの眼差しを向けるのに太宰はああと顔を歪める。どうしようかと視線が迷った。
(マフィアのことは云えないしな。とはいえ)
「恨みですかね。……昔いろいろやって恨みを買っているもので」
「昔」
 曖昧に太宰は口にする。ばれないよう曖昧に。福沢が険しい顔のまま考えるようにするのにふわりと笑う。あまり知られたくないと声には出さずとも伝える笑みだった。それに福沢は考えようとしていたのを止める。迷ってから太宰はもうひとつ口にしようとした。
「それと、私の……」
 言いかけた言葉が喉に詰まる。言いたくない言葉ではないものの何となく言うのが嫌だった。
「異能か」
 それを正確に理解して福沢が口にする。その眉間に皺が寄った。
「追い出しても良いんですよ。さすがに面倒でしょう」
 太宰の口はそんな事を音にする。その口許に浮かぶのは諦めたような笑みだった。多分そんな笑みを浮かべていることを太宰は気づいていない。
「追い出したりはせん。今追い出しても余計心配になるだけ。そちらの方が面倒だ」
「でも……」
「それに荒事ならば私の方が向いている。身を守るためにもここにいた方が良いだろう。ここにいろ」
 太宰の目が不思議そうにしながらゆらゆらと揺らめいた。

中略



太宰が入社してから二年。探偵社にも人が増えた。一年近く続いた太宰と福沢の暮らしは数ヵ月前に何時までも社員一人を特別扱いは出来ないだろうと終わりを迎えていた。
 福沢は寂しいものを感じたが毎日太宰には会えたし、週に一度は太宰は福沢の家に来た。何をするでもなく福沢の家でぼぅと過ごしてご飯を食べて帰る。怪我をしたときは福沢の元に来て手当てを受けた。
 こんな日々が多分ずっと続くのだろうと思っていた。だけどある日それは突然終わりを告げた。いや突然に見えたのは福沢だけだろう。後から思えば少し前からその前兆は現れていた。
「社長」
 小さな声が福沢を呼んだのは太宰が福沢の家にやって来てから数時間ほど経った頃だった。何も言わずなにかを考え込むように座り込んでいた太宰が福沢を見る。ぼうとした力のない目。何だと問い掛けるのにいえと首を振る。
「何でもないです。何でも……」
 太宰の様子に疑問を覚えながらもその場を離れようとした福沢。太宰の手が少しだけ延びた。首が傾けられる。


「太宰。今なんと」
「ですから例の虎の少年を是非探偵社の社員として迎え入れて挙げて欲しいのです。彼はこれからの探偵社に必要な人材となるでしょう」
 にこにこと笑う顔。何を言っているのか分かっているのかそう口にしそうになって閉ざした。福沢などよりずっと頭のいい彼が気付かぬ筈もないのだ。
「お前はそれでいいのだな」
「はい」
 にこっと笑う顔。それに福沢の胸が痛んだ。太宰に触れることのできない日々がやってくる。


中略


 あ。と思ってから太宰はその光景から目をそらした。太宰がさっきまで見ていた場所では福沢が鏡花の頭を撫でている。任務を頑張った彼女を珍しく社長が褒めている所だった。その光景を微笑ましいものとして少し前までの太宰は見ていた。嬉しそうにする鏡花に良かったねと心の中で語りかけながらにこやかな笑みを浮かべていた。何処か柔らかな気持ちで見ていたのにふっとその気持ちは陰った。何かほの暗いものが走り鏡花に対して一瞬殺意のようなものを抱いてしまった。それを隠すために目をそらした。
 太宰の首が傾く。何が起きたのか理解し得ないと言うようにその目が瞬いた。
(あれ? 何で? どうして……あんな)
 自分の感情に戸惑い思考がぐちゃぐちゃに揺れた。見開いた目が何度も瞬きながらもう一度福沢と鏡花の姿を見た。福沢の手はまだ鏡花の頭の上にある。何かを話している二人は。ふふと鏡花が小さく笑みをこぼして、福沢もまたほんの少し柔らかな表情をする。頭の上に置かれた手が優しく動かされるのにまた黒い何かが溢れた。
 明らかな殺意。それは鏡花に対して向いていて、彼女をその場から消したいと願ってしまっていた。
(何で? どうして……消して……それで……)
 ひゅっと喉がなった。 呼吸が上手くできない。己が今どこにいるのかさえも分からなくなっていた。呼吸が荒い。ひきつるように喉で止まっている。
「太宰!」
「っ!」
 耳に届いた大きな声に太宰の目が見開いた。大きく見開きあと声が落ちる。我に返り息が一瞬だけ止まった。荒かった息が少しずつ戻っていく。声を呼ばれた方を見たらそこでは福沢と鏡花が心配そうに太宰を見ていた。
「大丈夫?」
「大丈夫か」
 聞こえてくるそれぞれの声。鏡花の頭から手が離れて太宰のもとに一歩足が近付く。不思議と安心した。鏡花に対して抱いた殺意が太宰の中からあっさりと霧散していく。何でと戸惑いながらも良かったと思うのは止められなかった。心配そうにした福沢の手が太宰の元まで伸びながら途中で止められる。迷うようにしながら離れていく手を目で思わず思いかけてしまいながら太宰は心の中で首を傾けた。
 あれ?と思う。
 何か奇妙な感覚がした。胸に何かぽっかりと穴が開いたような、目の前から色が消えるようなとても奇妙な感覚。何処かで知っているような、慣れ親しんでしまったような、だけど理解のできないそれに目を瞬かせた。
(何だ。これは……)
 かつて体験した。でも忘れてしまった感覚。必要がなかった。欲しくなかった。要らないものにしたかった。
 呆然と固まるのに大丈夫かと心配げな声が聞く。具合悪いのと小さな手が太宰に触れた。医務室に行くと大きな目が覗き込んでくるのに太宰はそれに答えることができなかった。ただ思う。
(これじゃない……。欲しいのはこれじゃ、)
 その時太宰に衝撃が走った。丸く目を見開いてすぐ近くにいる鏡花ではなく福沢を見つめる。手を伸ばしたくなった。手を伸ばしてほしくなった。
 感じた奇妙な感覚の正体を知った。
(私、触れて欲しいんだ)
 理解すると突端にその欲は沸き上がる。
(私、今、寂しいんだ)
 とても、とても寂しいんだ。
 それは太宰らしからぬ感情。でも確かに今、太宰は抱いていた。
「太宰」
 低い声が名前を呼んだ。医務室に行こうと言ってくるのに固まり動けなくなった表情筋を無理矢理動かす。笑みを浮かべたのにきゅっと福沢の眉間の皺が増えた。
「大丈夫ですよ。心配させてしまい申し訳ありません」
 さらりと口にした言葉。とはいえこんなのでは駄目だと適当な言葉を太宰は重ねた。そして鏡花や福沢から離れてドアノブへと手をかけていた。
「では、失礼しますね」
 ぱたりとしまるドア。引き留める声がするのも聞こえぬふりして階段を駆け降りた。追い掛けてはこれないところまで逃げて息をつく。吐き出した息は荒く重かった。




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