37 君が

全て忘れろ。二度と思い出すな。そしたらこんな世界だ。お前も取り残されることはないだろう
もし、取り残されることがあったら、そうだな。
その時は俺が殺してやろう



































ぱちり。
目を閉ざして開けた世界は何時もと何ら変わりなかった。目の前で国木田が怒鳴り続けていて、横では敦が呆れた目をしている。
先ほど見た光景はなんだったのか。
太宰は静かに首を傾ける。
その動作によりさらに国木田が怒り出していたが、そんなもの太宰は最初から聞いていなかった。痛む頭を気にしながら太宰は先ほどまでみていた福沢の姿を探した。
福沢は変わらず事務所の隅にいた。乱歩と与謝野の二人と談笑している。時折、三人の目が此方を見ているのは良くやることと言った話をしているからだろう。福沢を見ながら太宰はさっきのは一体何だったのかと考えていた。声は福沢のもののように思う。
だけど、福沢にそんなことを言われたことは今も昔もなかった。今のは何だったのだ。太宰はゆっくりと首を傾ける。
言われたことは一度もない。覚えていないだけ。忘れているだけかもと福沢と出会ってからの記憶を思い出したが、そのなかにもやはり該当する言葉はなかった。何だったのだろうと傾けた首をさらに傾けた。自然と手が動いて顎に触れる。
 考え込むのに国木田がどうしたんだと太宰に問いかける。何でもないよ。仕事したくないだけと答えながら太宰はさらに深く考え込んだ。
 あの言葉は何だったのか。
 ただの夢。
 と思えればいいのだけど、太宰はその一瞬寝てはいなかったのだ。国木田の声を聞くのが面倒になって目を閉じはしたけれど、国木田の声や周りの音は聞こえていた。
 その最中にその声は聞こえていた。
 記憶にないけれど知っているような……。
 んーーと太宰は口を尖らせながらほうと息を吐く。考えるのが面倒になった。もうどうでもいいやと思うのに、だけどと首をひねる。
 何かが気になってしまった。



「太宰」
「どうしました」
仕事終わり片づけをしていた太宰は呼びかけられたのに顔を上げて笑う。呼びかけた福沢がそっと口角を上げているのに太宰は分かっているが左右を見た。探偵社の中には二人以外誰もいない。
「今日は何が食べたい」
「そうですね。蟹ですかね」
「おまえはそればかりだな」
「好きなんですもの」
 ふふと太宰が笑えば福沢は肩を落とした。他に何か食べたいものがないのかと聞かれても何もありませんよと答えている。


 こんな関係が始まったのはいつからだったか。布団に横になりながら太宰はそんなことを思った。
 そう昔のことではない。太宰が福沢の傍に当たり前のようにいるようになったのは、思い出してみると二三か月は過ぎても、半年はすぎていないはずだった。 
 なのにずっと前から共に居たような錯覚をしてしまうぐらいには、今の生活はなじんでいる。
「太宰」
 優しく太宰を呼ぶ声はもうそれがないとまともでいられないぐらいに太宰のものになっている。だからあんな声を聞いたのだろうか。太宰はふっと昼間のことを思い出した。
 昼間。探偵社で国木田に怒られていた時、ふっと視界の中に社長室からでてきた福沢が飛び込んできた。福沢が周りを見て、何かを探す。その途中太宰を見つめて笑ったのにその言葉は突然湧き上がったのだ。
 その間に福沢は目的の姿を見つけて、そちらに向かっていた。太宰は沸き立った言葉にしばし呆然とした。
 すべて忘れろ。
 その声は確かにそう言っていて、でも福沢はそんな事を言うような人物ではなかった。むしろ真逆で何度も首を傾ける。どうしてなのか考え込んだが、太宰はまた面倒になって止めた。
 目を閉じて眠ることにするが、あの声は一体いつ聞いたものだろうとやはり言葉のことを考えてしまっていた。



「太宰」
 柔らかな声が耳朶を叩く。誰かが部屋に入ってくる気配を感じながらも見知ったものに毛布にくるまったままだった太宰の体を暖かな手が揺らしていく。
 そう強い力ではなく左右に少し濡れる程度。何なら余計に眠くなりそうな揺らし方に太宰は小さく目を開けていた。
「私が起きないと困りますか」
「そうだな。これから仕事だ」
「私は起きても仕事に行かないかもしれません。寝かせてくれてもいいんですよ」
「駄目だ」
「いじわる」
 少しばかり舌足らずになった声で問う。福沢の声は優しいがそれでもはっきりと否定されるのに太宰は口を尖らせる。嫌だなと思うのに優しい手が太宰の頭を撫でていく。
「お前がいないと私が寂しいからな」
 囁いた福沢を見上げれば。福沢は穏やかに笑っている。仕方ないなと太宰は声を出した。




  

「これわざわざ私たちがでる意味ある。軍やマフィアとかが勝手に処理してくれたら良いと思うんだけど」
 はぁと太宰の手が目の前に並ぶ書類を弾いた。やる気なさげに頬杖をかくのに隣の席の敦が慌てている。みんなの前にたっていた国木田からこの唐変木が! と声が上がった。だってと太宰は口を尖らせて書類をみている。
「やる気が起きないのだから仕方ないじゃないか。
 夜な夜な犯罪組織の人間を惨殺してまわるものを捕まえろって、その男に復讐しようっていうやつら鉢合わせして面倒なことになるの見えるし、マフィアに任せてもいいと思うのだよね。今の所は彼らとは関係がないと様子見しているようだけど、好き勝手にはされたくないだろうしね」
 はぁとため息をつきながら太宰が言うのに、それはまあそうなんだよねと集まっていたほとんどの者が思い嫌そうに資料を眺めていた。
「それでも依頼されたのだ。受けないわけにはいかんだろう」
「分かってはいるんだけど……」
「兎に角調査を進めるぞ」
「はーーい」
 最近横濱では毎夜のように人が殺されるという事件が起きていた。殺されるのは一人ではなく複数、多い時では十数人以上殺されていた。殺害される被害者の共通は一つ。みな、何かしらの罪を犯して指名手配までされている罪人と言う事。捕まれば死刑になるような者達ばかりだった。
 時には犯罪組織丸ごと殺されているのに軍警では手に負えなくなり探偵社に依頼が回ってきた。
 事件の概要を淡々と説明し、そしてこれからの対策が決められ、それぞれ動き出した。
 敦は一緒に動くこととなった太宰にどうやる気を出させようかと隣を見た。太宰は会議の途中からやけに静かになっていたが、気づいたら眠っており、国木田に全力でゆすぶられて今は伸びていた。
「大丈夫ですか」
 自業自得とはいえ一応声をかける。うーーんと太宰は力ない声を出している。やる気がないのか。大丈夫じゃないのか。どちらだろうかと敦が考え込むのに、悪いけどと太宰が口を開いた。
「調査とかは全部敦君がやってくれるかい。まとめるのは私がやるから」
「分かり、ええ!」
 太宰が言うのにやる気になったのかと素直に頷こうとした敦。だけどその動きは途中で止まっていた。太宰を見て固まってしまうのに太宰はごめんねと口にしている。
「ごめんね。じゃないですよ。太宰さんも手伝ってください。と言うか国木田さんにばれたら」
「そこはどうにかするからさ」
「どうにかって太宰さん?」
 声を荒げていた敦。ふざけないでくださいよとその口が言っていたのに、それはまたしても途中で止まってしまう。敦の目がじっと太宰を見つめる。どうしましたかと問いかける口。心配そうに太宰を見つめる。太宰はその頭を抱えて机の上に上半身を預けている。
 ぐったりと横たわっているのにもう一度どうしましたと問う。何でもないよと緩く首を振った後、否、と太宰はその口を閉ざした。
「そうだね。敦君にはいっておいた方がいいか」
 何かを独り言のように呟く。敦は太宰を見る。その目は不安そうなものになっている。どうしたんですかと再び聞いた。太宰が小さく笑って敦を見た。
「どうもここしばらく体調がすぐれないのだよね。体がだるくて頭がひどく傷むのだよ。歩き回る体力も残っていないからすまないけど調査の方はすべて」
 口にする太宰は体調が悪いとは思えないほどに穏やかに笑っていたけど、でもその途中に何度か目を寄せて、頭を押さえていた。ごめんねと口にして完全に机の上に横になる。ほうと吐き出されるしんどそうな吐息に敦は太宰さんと太宰の肩を掴んでいた。大丈夫ですかと声をかける。
 どこかで寝た方がと思ってからあれと敦は自分の手を見る。肩を掴む手。失礼しますと言って敦は肩から首筋に手を動かし、それから額に手を動かす。横たわる太宰は力なく見ているだけ。どうしたのかいとは聞くけど振り払おうとはしていなかった。
「太宰さん熱くないですか。え、これ熱出ているんじゃ」
 敦の声は驚きすぎて上擦っていた。その目が左右に動いているのに太宰はああと声を出す。
「ああ。気にしなくて大丈夫だよ。最近はいつもこんな感じだから」
「ええ。いやいや、それは気にしますよ」
 淡々と告げられたのに敦は声を荒げていた。とにかく横になって与謝野さんを呼んできますと、会議室から飛び出そうとした。その首根っこを太宰が抑える。だめと言う事はかすかに聞こえるものの太宰の上半身の半分は机に伸びていて、首を掴む腕も苦しそうだった。
「ちょ、太宰さん」
「与謝野さんに言っては駄目だよ。もちろん他の人に言うのもなしだ。与謝野さんや他のみんなには今回の件には集中してほしいからね」
「でも
「敦君、今回の件は相当やばいやつだよ。もしかしたら魔人以上かもしれない」
 敦は納得ができないとその口を尖らせて暴れていたが、太宰の言葉にその動きを止めてしまう。大きく目を見開いて太宰を見つめるのに、太宰は起き上がってじっと敦を見た。
 その目はいつになく真剣なのに敦は何も言うことができない。
「一人で複数の相手を殺すと言う事は並大抵の人間でできることではない。一日二日であればできるだろうが、それを毎日繰り返すのは体力的にきつい。しかも殺された相手の中にはかなりのやり手も含まれている。一組織を丸ごと一夜につぶしている時もある。相手はかなりの強敵。へたをするとあの福地をも超えると考えた方がいいだろう」
「そんな複数犯ってことは」
 ひゅっと息を飲む敦。直接福地と対峙したことのある敦にはそれがどれほどの恐怖か体に刻み込まれていた。探偵社の福沢でさえも福地に圧倒され、何とか勝ちはしたものの体中が傷だらけで、血があふれていた。
 敦の目がすがるように太宰をみる。太宰は首を振って答えていた。
「恐らくないと私は思っているよ。複数犯にしてはやり方が似すぎているからね。それに例えそうだとしても手ごわいのは変わりない。幸い資料を見た限り武力だよりであることから、左程頭が切れる方ではないと思う。でもやばい相手であることは変わりない。他のみんなには余計なことは気にせず取り掛かってほしいんだ。特に与謝野先生にはこれから怪我人が増えるのは分かっているからね。
 私にかまってほしくないんだよ。分かったね」
 じっと見つめてくる太宰の目。それはお願いでも何でもなく、命令であった。口調は変わらず穏やかなものであるものの口答えは許さないという強い意志が透けて見える。恐ろしくもあるのに敦は息を飲んだ。反射のように頭が動きそうになるものの、根性で縦には振らずでもと敦は言った。
「敦君これは探偵社のためだ」
 褪せた目はじっと見てくる。ぎゅっと手を握りしめてくる腕。熱い腕は己が求める結果がでてくるまでは放さないと言うような意思が見えた。太宰の体はぐったりとしている。苦しそうであるのに早く休んでほしくて敦は渋々頷いていた
「分かりました」
 納得していないのが分かるような声だったけど太宰はふわりと微笑んでいた。甘い声が敦に囁く。
「良い子だ。何これぐらいなら私は大丈夫だよ。まあ、こっちの調査は敦に任せることにするけど、いいかな」
「はい。太宰さんは休んでいてください」
 問われるのにすぐさま敦は頷いていた。誰にも言えないのならせめて自分が太宰を支えなければと思った。そして早くこの事件を解決するのだと意気込む
「ん、ありがとう」
「太宰さん」
 ふわりと嬉しそうに微笑んだ。その一瞬後、太宰の体は傾いていた。敦が咄嗟に支えるのにごめんねと太宰は笑った。
「良いですけど……、でも」
 敦の目には心配が宿る。やっぱりと思うのに、それを察知した太宰は首を振っていた。
「大丈夫だよ。ちょっとくらっとしただけだから。この件が終わったらみんなにも言って休養を取るようにするよ。だから気にしないで」
 敦の腕の中から起き上がりながら太宰はそんな風に言っていた。起き上がるため敦の体に触れた手は震えていて、弱弱しい力だった。自分の体を支える力すらないのではないかと思いながら見つめてしまう。
「太宰さん」
 敦から弱弱しい声が出た。自分がこんなでどうする。太宰さんを支えなくちゃいけないのにと敦は思ったけれど、明るい声など出せるはずもなく続く声も弱弱しいものであった。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。大丈夫」
ぎゅっと眉を寄せた敦。今にも泣きだしそうなのに太宰は軽い声を出す。口にしながら太宰は笑う。だから気にしないでと言っていた。強がっているとは思えないほど穏やかな笑顔だった。だけどその体は途中で傾いていく。太宰さんと敦が声をかける。
頭を抱えた太宰は暫く答えなかったけど、暫くしてその声を上げていた。
 そしてふわりと笑う。
「大丈夫だ。何ちょっと変なことを思い出してしまっただけだから気にしないで」
「変なこと」
 にっこりと笑う太宰。敦は苦しそうに眉を歪めながら首を傾けた。一体何だと見てくるのに太宰は大丈夫と言って時計を見た。
「それよりそろそろ調査に行ってくれるかい。行く場所は分かっているよね」
「はい」
 言葉を聞いた敦は慌てたように会議室から飛び出していく。敦の背を追いかけた後、また頭を抱えて机の上に突っ伏していた。太宰はその瞳でどこか遠くを見る。ほとんど何も映っていないようなぼやけた視界。
 あれはなんだったのだろう。
 そんな言葉が太宰から出ていた。
 頭を押さえていた手がぐしゃりと髪を握り、はぁと太宰の口は息を吐き出す。何かを考えるように机の面に額を押し付ける。
 あれは何だったのか。もう一度太宰は囁いた。思いだすのは少し前、敦に大丈夫と言っていた時のこと、そのとき不意に太宰は大丈夫だからと囁いてくる声を聞いたのだった。大丈夫。何もしない。その声は太宰の耳元で掛けられていた。
 福沢のものだ。
 だけど福沢にそんな風に声を掛けられた記憶が太宰にはなかった。大丈夫と言われたことは何度かある。だけどその後何もしないという言葉は聞いたことがなかった。
 それに大丈夫と囁くその声は何処か切羽詰まったような様子であった。考え込んでしまいながら太宰は息を吐き出す。
 目の前がちかちかとして頭が痛くなっていた。
 これ以上思考するのすらしんどいと感じるのに机の上に伸びる。かっかと体の内側から焼けるように暑かった。少し寝よう。そう思ってから太宰はそう思えばと思った。
 この体調不良が起き始めたのはあの奇妙な声が浮かんでからだったな。と思いついた時には、太宰は気絶するように眠っていた。

   

ふわりと頭を撫でているような感触に太宰は目を覚ましていた。ぼんやりとぼやけた視界。
 目の前がよく見えないのに何度か瞬きをしてから太宰は触れてくる相手を見ようとした。
 それが誰かなんてことは見なくても分かっていたけど。
 視界の中に見慣れた銀色が写って太宰はゆっくりその口元を持ち上げていた。社長と太宰の口が音を紡ぐのに何だと低い声が舌打ちを打った。ふわりと福沢の手が太宰の頭を撫でていく。
「気づいていたのですか」
 太宰の口が少しだけ歪んでそんな言葉を落としていた。福沢の肩が持ち上がって逆に気付いていないと思っていたのかと問いかける。
 ゆるりと太宰の首が振られる。
「貴方は私の事しつこいぐらいによく見ていますからね。でも何も言ってこないから少しだけ気付いていないのかなと思っていました。
「お前はこういうとき何を言っても聞いてはくれないだろう。敦には伝え無理はしないようにしているようだったので見守ることにしていた」
「そうだったのですか」
 太宰の瞳はじっと福沢を見ていたけれど、その後ゆっくりと離れていた。少し起きていたのが疲れてしまったのか机の上に頭を載せる。
 一度顔は上げるものの見えるか見えないかそれぐらいであった。
 撫でていた福沢の腕が止まって、それからそっと離れていく。
「机だと頭が痛くならぬか」
じっと見てくる気配と声にそんなことを言われた太宰はことんと首を動かしていた。気にするのはそこなのですかと太宰が問う。つい気になってしまってなと福沢は返した。
 軽いプラスチックではあるものの固いのは確かだ。
「まあ、痛いですけど腕を下に敷いてしびれるのも嫌いなんですよね。動きが鈍るんじゃないですか。ただでさえ今は動きが鈍っていますから余計なことでさらに鈍らしたくはないのです」
「なるほどな。お前らしい理由だな。枕でも使うか。確か棚の中に乱歩が使っていたものがあるはずだ」
「怒られませんか」
「私がいるから大丈夫だ」
 ふわふわと福沢の手が太宰の頭を撫でるのを再開していた。これではゆっくり休めないだろうと言っているのに、仕事中にゆっくり休んではいけないと思うのですがねと太宰は笑う。褪せた目がちらりと福沢を見た。
 上から見下ろしてくる福沢は目を細めながら太宰を見ていた。それはいつもと変わらぬ表情でありながら、何処かいつもと違っていて……。
 眉間に少し寄った眉だろうか。それとも閉じられた唇か。ほんのわずかな些細な違いだった。だけどその違いが気になって太宰はゆっくりとその手を伸ばしていた。
 太宰の手が触れていく頬。
 指先だけが触れてゆっくりと動いていくのにその手を福沢の手が掴んでいた。どうしたと問われるのに太宰は福沢を見つめる。貴方が開いた口は言葉をこぼすことなく閉じていた。
 ぎゅっと細めて福沢を見つめる。
 太宰の手を握りしめながら福沢は太宰の頭や頬を撫でていく。
 どちらの手もとても暖かかった。今の季節が熱いぐらいであるが、太宰はその体温が心地よかった。目を細めるのに福沢の手は太宰の指先に絡んでいく。
 恋人繋ぎと呼ばれるような指先をしっかりからめる握り方をしてくるのに太宰はその手を見た。
 血が回らず青白くなっているような自分の手とは違い、福沢の手は健康的な色をしていた。着物の奥から細いが筋肉のついた腕が覗いている。じっとその腕を見つめていた太宰はあれと首を傾けた。
 少し起き上がっては太宰のもう一つの手が福沢の手に伸びていく。太宰を撫でていく手。そこから伸びる腕の傷跡をゆっくりと撫でていく。
 どうしたと福沢の首が傾いてから、はっとしたようにその口を開く。絡んでいた福沢の指が引き離され福沢が離れていく。
 その手が撫でていた手を掴んだ。
 少しだけ目を丸くした福沢、瞳孔を開いて僅かに早くなった呼吸をしているのに太宰は首を傾けている。じいと福沢の腕を見つめた。
「怪我をしているんですか」
 太宰の口から出た言葉に福沢の肩が少し震えた。ああ、少々なと答える声も引き攣っている。
「どうしたのですか」
 問いかける太宰の瞳は隠れてしまった福沢の腕を見ている。その腕に何か鋭いものを斬ったような傷跡がくっきりと残っていた。
 戦いか何かでついてしまったようなそんな傷。
「そう気にするほどのものではない。少しへまをしただけだ」
 答える福沢の口は早口であった。なんとか太宰を見ているもののその目は油断すればすぐによそを向いてしまいそうだった。ぐっと小さくだが噛みしめられている唇。
「それならいいのですが。与謝野さんに見せては」
「その必要はないこれぐらいであれば放っておいても治るだろう。気にならないぐらいだし、あれも忙しいだろう」
 太宰の目は少しだけ大きくなっていた。福沢の目、そしてその全体を見つめてしまいながら福沢に言っている。すぐに振られる首。大丈夫だと福沢は固くなった声で答える。
「貴方が言うのであればいいのですが、……もしかして他に何か抱えている事件でもあるのですか。今はあの件のみに集中するようにとのことでしたが、本当は他の事件も……
 すみませんそこまで気が回っていなくて」
 不安げになっていた太宰はふっと思いついて体を起こしていた。何かあるなら言ってくださいと前のめりになった太宰が言ってくるのに福沢は首を振る。
「そんなものはないから安心しろ。それに私は大丈夫だ」
「でも」
 否定されても太宰は不安そうだった。ぎゅっと眉を寄せて見つめてしまう顔は青ざめている。
「安心してくれ、太宰」
 福沢の声が少しだけ低くなった。じっと色が濃くなったように思える瞳が太宰を見つめてくる。
 少ししゃがんで真っ直ぐに見つめてくる目に何かを言いかけていた太宰の口は止まった。えっとこぼしてしまうのに福沢の手が太宰の頬に添えられる。
「私は何があってもお前をひとりにはしない。ずっと傍に居る。だから大丈夫だ」
 褪せた目が見開いていた。その目の前で銀灰の瞳が揺れ苦しげに笑う。
 大丈夫だと囁いていく声。すべて忘れろ。太宰の脳裏に何故かあの言葉が蘇っていた。


部屋を後にした福沢はそっとそのドアにもたれかかっていた。周囲には人の気配がない事を確認しながら自分の腕を見つめている。
 どうしてそんなことをと口にしてきた太宰の事を思い出しながら、本当だと言葉を落としている。
「何があっても太宰、お前を一人にはしない。
何があっても、何をしても。私は、私だけはお前の傍に居る」

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