どうして人は生きていなければならないのだろうか。
 何もない色褪せた世界で何故。ここに私が生きる意味はあるのか。もうこんな場所から消えてしまっても良いだろう。

 時折、そんなことを考える。
 そんな時には決まって手に刃があって何時でも己を切り裂けた。全身に気付けば無数の傷跡が出来ている。それでも最後の一線を越えることだけが未だ出来ていなかった。
 血が流れる度にあの男の姿を思い出すからだ。
 灰色の世界の中、机の木目が揺れた。
 空になった酒瓶が床に転がっていく。回りに散らばる瓶がぶつかりあい姦しい音を立てていく。音の渦のなかで黙々と酒を煽り飲んでいく。味など全く分かっていなかった。強いアルコールが喉を通り食道が焼けていく感覚しか感じない。
 それでも飲んでいくのは酔い潰れ眠ってしまいたいからなのだが、今日もまた眠気はひとつも感じなかった。
 数日倒れるまで起きて、それから死んだように眠る。
 そんな生活を繰り返している。食事もまともに取らなくなって久しく、本当になぜ己は生きているのかと思う。
 どうして。
 死んでしまいたい。この虚無から解放されたい。そればかりを毎日のように考えてしまっていた。
 硝子の中の酒を飲む。
 喉は熱くなるが、それだけで……。
 脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。彼はこんな己を見て笑うだろうか。それとも幻滅するか……
「太宰」
 思い出した男の名を呼んだ。いくら名を呼んでもその男はもう二度と呼び掛けに答えない。はい。何でしょうか。そう言って笑いかけてくることもない。分かっていても何度も呼んで、胸のなか腫れ上がった傷を自ら刺激した。刺激した分、傷口は膿んで、痛みをもたらす。
 じくじくと響く苦しい痛み。
 手の中から硝子が落ちていた。机の上に音を立て落ちて、机や床を濡らしていく。色の変わった畳を眺めて在りし日を思い出した。
 ぎゅうと胸が苦しくなる。

  

 どれだけ世界に絶望しても夜は明けて、また朝はやってくる。
 その事実に何度目かの絶望をしながら私は探偵社に行く準備を整えた。鏡で顔をみて人前にでて大丈夫な顔かを確認する。油断すればすぐに荒んだ目をしてしまうのを気力でこらえて家をでる。
 探偵社まで向かう足は重い。
 いっそもう辞めてしまおうか。そう思うのに辞められないのも、また太宰の姿を思い出すからだった。
 ここが私と彼を繋いでくれたのだと思うと、そこから離れることも出来なくなる。だけどそこに行く度に失ったことを思い出すのだ。
「おはようございます。社長」
 扉を潜れば口々に聞こえてくる朝の挨拶。それに答えながら自分が働く一室に向かう。今日は事務員だけでなく調査員も全員揃っていた。
 昔から変わらない顔ぶれが並ぶ。
その中に彼だけがいない。昔も朝に弱く始業時にいたことなど稀にしかないが、でももうそんなことではないのだ。
 彼は……だって。
 嫌な姿を思い出しかけて私は慌てて部屋の扉を開けた。一人になりたかった。それなのに扉を閉めようとしたとき、何かが私の足元に飛び付いてきた。足元を見下ろせば小さな黒い塊
「しゃちょしゃん!」
 幼く舌足らずな声が聞こえ、そして見上げてきた人の顔。それでやっと私はそれが誰か認識した。調査員の子供だ。一度彼の妻が寝込んだときに仕方なく連れてきて、以来何故か私に懐いた。探偵社にも良く来るようになった。まだ幼く確か年齢は……。
 ああ、駄目だ。覚えていない。大切な社員の家族。しかも何故だか私のことを好いてくれているのだから、ちゃんと覚えてあげていなければと思うのに覚えることが出来ないでいる。
 人への関心があの日から消えてしまった。
「すみません。どうしても社長さんに会いたいと云って聞かないものでして。すぐに帰らせますので。ほら、もう社長さんに会ったから良いだろ。帰るぞ」
「やー。まだしゃちょさんといる。しゃちょさんといたい。いいでしょ。しゃちょさん」
 ぼんやりと眺めるのに近付いてきた社員が謝り、子供をひきはがそうと手を掛けていた。肩を触られるのに子供はさらに私の足にしがみついてきて。
 見上げられ、ねぇと何事かをねだられるのに私はそうだなと答えていた。
 何の話をしているか分かっていなかったが、早くここから離れたかった。
 ぱぁと子供の顔に笑みが浮かんだ気がした。
「やった。しゃちょさん大好き」
 子供が抱きついてくる。社員が肩を落とした。
「まーーた、ママにパパが怒られるぞ」
「……ごめんなしゃい。でもしゃちょさんといたいの」
 はぁと聞こえてきた溜め息。
「仕方ないな。いいこにするんだぞ」
「ん」
 何事かを話して子供が私を見上げる。
 離れていく社員をどうしてだと目に追うのにしゃちょさんと一緒だと言う子供の声が聞こえてきた。その言葉にわずかに固まった。

  

「しゃちょさんと一緒うれしいな」
 子供が私の膝の上で声をあげて笑った。書類を押さえている左手ににこにこと抱きついている姿を見下ろしながら、私はどうして良いか分からなかった。子供の声を聞こえなかったふりして右手を動かす。
子供はそんな私に気を悪くすることもなく膝の上で大人しくしていた。左手に抱きついたまま動かず、時折私を見上げてはにっこりと笑っているようだった。
「書類仕事終わりましたら後で散歩にいきましょ」
 舌足らずな声がなにかを言った。良く考えもせず私はそれに頷いた。そのせいで今こんな状況になってしまっていると言うのに懲りてはいなかった。
 あまり人の言葉を自分のなかにいれたくなかった。兎に角仕事に必要なことだけをしていたかった。
今はそれだけのために生きているようなものだから。
「ありがとうございます。えっへへ。しゃちょさんと散歩できるなんて楽しみ」
 よほど嬉しいことだったのか、膝の上の子供が足をバタつかせていた。きゅっと強く抱き付いてきて笑い声を溢している。

  

 朝のうちに終わらす予定だった書類仕事が終わった後、私は子供と共に散歩にでた。
 ついいつものように歩いてしまいそうになる度、小さな手に引っ張られることで緩めの歩調に戻る。私の手を握りしめる小さな手は握ると言うよりしがみつくと言う方がしっくりくるような力強さで握られていた。
「おさんぽ」
 何が楽しいのか子供が笑っている。必死に私についてこようとしているのにできる限り子供に合わせようとするが、やはり気付けば早くなってしまった。
 子供の小さな手が弱い力で私の手を引いた。
「すまぬ」
 ふるふると子供の首が横に振られる。
 おさんぽ楽しいね。笑った子供が私の一歩前に出た。小さな歩幅で歩いていくのに私も一歩前に出る。握りしめる子供の手は熱く力強いが、ただその歩みは遅かった。
 心なしか最初よりも遅くなっている気がする。もたもたと縺れているのに私はひとつのことに思い当たった。
「疲れたのか」
「そんなことないよ」
 問えば子供の肩がはねた。見上げてくる子供はすぐに目をそらして。握る手の力が増えたように感じた。
「疲れたんだな」
「そんなことないもん」
 子供の顔が下を向く。見下ろせば旋毛が見えた。
「まだおさんぽできるもん。するもん」
 何事かを告げる声は小さい。殆ど聞こえなかったけど何となく子供が何を思っているかは理解できた。仕方なく小さな体を抱き上げた。間近に見える顔に一瞬だけ息がつまった。
 何かを思い出したような、そんな気がした。
 前に歩いていくのに子供が首に手を回してきた。えへ、えへへ。聞こえてくるのは笑みで間違いないのだろう。
「しゃちょさん。しゅき。だいしゅき」
 すりりと子供の頬が擦り寄せられる。耳元で聞こえてくる幼い声に何故か一度足が止まった
 子供を抱えて歩いた。私の速度になるのに随分と早く子供が考えていた散歩コースを回ってしまったらしく子供が途中からぷくうとむくれ出していた。もっとしゃちょさんと一緒にいたいのに。小さな声が聞こえてくる。
 仕方ない
 はあとため息をついてしまってから、私は社へと戻る足を別の方向に向けた。どこに行くかは考えていない。
 ただ宛もなく歩くのに腕の中で子供が少し目を見開いていた。それから嬉しそうに笑う。
「しゃちょさん。ありがとう。しゅき」
 子供の言葉には答えずただ歩いていく。
 ぶらぶらと歩いていると視界の先になにか小さなものが入り込んだ。
 ひらひらと横切っていくのに虫か何かかと思い、素通りしようとした。あっと子供が声をあげて足を止める。
 どうした。問いかければ子供があれと指を指す。
 指を指したところを見たら一本の大きな木が目にはいった。どうやら先程視界を横切った何かはそこから落ちてきたものらしく、他にも何枚も木から落ちていく。
「さくらだ」
 子供が腕の中、身を乗り出して声をあげた。
「ねえ、みて、しゃちょさん。さくらですよ!」
 興奮した子供の声を聞いて、そうか、あれはさくらかと気づいた。言われてみればそんな感じがした。
 ひらひらと花びらが舞い落ちていた。
 子供が嬉しそうに笑い桜をみて、それから大きな目が私を見上げてきた。
 その目は期待に輝いているようにも見えて、
「ねえ、しゃちょさん。おんせんいきましょ」
「温泉」
 なんだと思うのに聞こえてきた言葉。うまく聞き取れなかったのに私は首を傾けた。何を言われたのだろうと思うのに子供は自分からもう一度言ってくれる。それにまた首を傾けた。傾けて、
「はい。◯◯にあるおんせん。さくらが凄くきれいにみえるんでしょ」
「そんなところにはいかぬ」
 すぐに否定した。子供が酷く傷ついた顔をする。人の表情の変化を読み取るのが苦手になったのに、それだけは分かってしまって。
「何で、ですか」
 問い掛けてくる声が震えている。酷いことをしたような気持ちになる。
 でも子供が行きたいと言った温泉までは片道だけでもかなりかかるところで、一日で行ける場所にはなかった。
「そんな遠い所に行けるわけがないだろう」
 告げるのにさらに子供は悲しそうな顔をして福沢を見つめてくる。
「だって」
 大きな目から涙が溢れそうだった。
「やくそく、したじゃないですか」
 嗚咽をこらえているような震えた声が口にしてきた言葉に首を傾けた。
 一体なんのことだと思った。子供と何かを約束したようなことは一度もない。子供どころか他の人ともここ数年は何も約束などしていなかった。
 私は誰かと約束することを止めたのだ。
「やくそくしたのに」
 それなのに子供は私に約束をしたと言ってくる。一体何時のことだ。考えても思い出せるものはない。
 はらはらと色のない花びらが目の前を散っていた
「今年の桜はもう散ってしまうから来年また桜が咲いたら一緒に行こうって。そこの桜はとても美しいから二人で桜を眺めながらのんびりしよう。湯にゆっくり浸かり美味しいものを沢山食べよう。二人でって約束したじゃないですか」
 泣き出しそうだが、涙がこぼれない瞳が見上げてくる。
 ひゅっと喉の奥で空気が奇妙な音をたてた。
 子供が語る約束の記憶があった。だけどそこに出てくるのは子供ではなかった。すらりとした体。首や手首に巻かれた白い包帯。そして見上げてくる褪赭色の瞳……
 その時、はじめて福沢は子供の目をみた
 子供の目をみて息を飲み込む。じっと見上げられるのに太宰の面影が重なる。太宰と思わずその名前を呼んでしまいそうだった
「なのに、どうして。
 二人でって貴方が言ってくれたから私とても楽しみにしてたのに」
 まあるい頬が震えていて、きゅっと胸の辺りが痛くなった。
 私だって楽しみにしていた。だけどそれを先に破ったのは、もう二度と共に行けなくなったのはお前のせいではないか。そんな言葉が溢れて出ていきそうになるのを飲み込んだ。飲み込んだ言葉が喉の奥で存在を主張する。
 違うと私は自身に言い聞かせた。
 それを言っていいのは、言うべき相手は目の前の子供ではなかった。子供は関係ないのだ。だけどどうしてだろうか。
 私には子供が彼に見えてしまっていた。
「どうしてですか」
 子供が責めてくるのが太宰に責められているようだった。あの見目のいい顔を歪ませて目の前で責められているように……
 そういえばとふと思った。
 子供はこんなしゃべり方をしただろうか。もっと子供らしい話し方をしていた。そんな気がした。今の子供の話し方はまるで太宰そのものだ。
 太宰が子供に乗り移っているようで……
 いや。
 子供をみた。幼い子供の頬は丸く膨らんでいて柔らかだ。鼻も小さく目も大きい。青年の顔と比べると随分と違うものだ。
 だけど、まるで太宰そのもののように子供の顔は太宰と同じだった。
 きっと彼の幼い頃はこんな姿をしていた。そう思えるぐらいにそっくりで


 呼吸が止まるのが分かった。
 太宰と言葉が落ちていく。太宰だ。太宰だと思った。目の前にいるのは他の誰でもない太宰治なのだと。



「しゃちょさん、みて! さくらとてもきれいだよ!」
「そうだな」
 子供が掛けていくのを追いかけながら私は何をしているのかと、考え出していた。
 ひらひらと舞い落ちる恐らく桜の花弁。幾つもの木が並び立つ景色のなか子供は嬉しげに掛けていき、そして、私に早く早くと手を振る。
「あまり急くな。転けるぞ」
「だいじょうぶですよ。しゃちょさんがたすけてくれますから」
 先にいく子供に声をかける。子供は無邪気にそんなことを言う。何だ。その自信は。呆れながらも私は何も言わなかった。ただ前を行く子供の元に近付いてゆく。
 隣に立てば子供の小さな手が私の手を握りしめてきた。
「楽しみですね。温泉」
「……ああ」
 笑いかけてくる子供に喉を詰まらせながらも答えた。あの宿ですよね。と子供の指がこれからいく宿を指差す。頷きながら何をしているのだろうかと思った。

 太宰治は死んだ。

 もう数年も前のことだ。彼が生きている可能性がないことを誰よりも私が一番よく知っている。
 私がこの目で、太宰の死を看取ったのだから。私の前で太宰は赤い血を流し、その胸元からは銀色の刃が禍々しく突き刺さっていて……
「しゃちょ、さん
 大丈夫」
 知らず呼吸が荒くなっていた。
 思い出してしまった光景に目の前が赤くなっていて……、
 幼い声に呼ばれ我を取り戻した。過去から帰ってくるのに安堵と同時に空しさも感じる。あの後も私はまだ生きているのだ
「あせ、すごいです。きゅうけいしますか」
 小さな手が私に触れようと懸命に伸びてくるのを見下ろす。抱えあげれば触れてくる紅葉のような手。ふにふにとした柔らかな手の感触を感じながら、子供を見た。
 ふっくらとした頬。大きな目に小さな唇。子供らしい愛くるしい顔立ち。
 その全てが私の目には太宰に写る。あの日からずっと私には子供が太宰にしか見えなかった。
 そんな筈はないと分かっている。
 死んだのだ。彼は死んだのだ。遠の昔に死んだ。甦るなどあり得ない。分かっているのに、それでも
「しゃちょさん」
「大丈夫だ」
 耳元で聞こえる舌足らずな声さえも太宰のものに思えた。
 その声にこれ以上悲しいものを含ませたくなくて嘘を口にする。子供の目が心配そうに私を見上げた。私はその目から逃げるように宿屋へと急いだ。
 子供が行きたいと言った、かつて、太宰と約束した温泉宿へ。
 そんな所にこの子供と行っても何もない。約束は果たされない。そう思っているのに何処かで期待してしまっている。



「凄いですね! さくら! さくら! きれいです!
しゃちょさん、しゃちょさん!みてみて!」
 ぴょんぴょんと子供が跳び跳ね喜ぶのを私は何処か遠くの世界を見るような心地で眺めた。小さな指が指差す景色を眺める。仕事かなにかで一度だけ来たことのある宿。
 太宰とこれたらどんな反応をするのだろうか。喜ぶだろうか。この景色を見いたりするのだろうか。
 私の隣で穏やかに笑って、それで少しでも安らいでくれたなら。それほど嬉しいことはないだろう。
 そう宿にいる間思っていてそれで帰った後に太宰と約束したのだった。
 楽しみですね。
 口元に小さくいつもと違う笑みを浮かべる太宰を見れただけでも福沢は満足したのだった。
「嬉しいか」
「はい!」
 問えば子供は元気よく答えて、その目を景色に向けた。きらきらと輝いているのだろう瞳が景色を見ている。じぃと見つめるその姿は福沢が太宰に求めたものと同じだった。
「綺麗ですね」
「そうだな」
「しゃちょさんといっしょに見られてすごくうれしいです。つれてきてくださってありがとうございます」
 小さい手が私の手を握りしめてくる。見上げてくる瞳に太宰を思い起こす。やはり、この子はと、そんな馬鹿なことを考えた。
 考えないようにして、だけど考えてしまう馬鹿なこと。
「おふろはいりにいきましょ」
「そう、だな」
 子供が手を引くのにそれについていく。お風呂は露天風呂が部屋のなかについている。そこまで大きくはないが二人ではいるには十分な広さで、覗き対策の囲いの内側にも桜が咲いており景色を楽しむのにも最高だった。
 嫌がるか。だか、良ければ二人でそう思っていた場所に子供はあっさり入っていく。その姿に少しだけ安堵した。だけど寂しくもあった。
「しゃちょさん」
 子供が私を呼ぶ。幼い声に私は何故だか泣きたくなった。


「綺麗ですね」
 湯からでて、夕飯も食べたあと子供は暗くなった外をずっと見ていた。
 宿の明かりはあるもののライトアップもされていない外の景色は暗く何処か恐ろしくもあった。それでも子供は見いていて。
 綺麗ともう一度子供が呟く背を私は見下ろしていた。細い背は記憶と重なるものなど何一つない。だけど
「ねえ、社長。貴方と来れてとても嬉しいです。
 また何時か一緒に来てくださいますか」
 見上げてくる子供に影を重ねる。
 口調の変わった子供は太宰そのもののようで、そこに太宰がいるように思う。思わず私はああと答えた。ああ。幾らでもと答えながら、それなのに私の手は幼い子供の首に掛かる。
 駄目だと分かっている。止めろと何処が叫んでいる。
 だけど私は止まれなかった。
 子供が見ていた景色を見る。
 真っ暗な景色。私には何一つ分かりはしない。
 この部屋の中すらも白と黒しかなく他の色は何もなかった。ずっとそうだ。あの日から少しずつ私はおかしくなって、そして気付けば私の世界は色褪せ何一つなくなっていた。
 大切ものをこの手から溢し落とした瞬間から私は他のものもすべて失っていたのだ。
 残ったのは僅かばかりな欠片だけ。その欠片を何とか繋ぎ合わせて今を生きている。
 子供の小さな首は私の手で簡単にすべて掴むことが出きる。少し力をいれただけで柔い骨は音を立てて折れるだろう。
 皮膚に指が食い込んでいく。子供が苦しそうな顔をしていた。
 太宰の死に顔を思い出した。赤い血の流れる胸元を抑えて苦しんでいた太宰。目の前が赤い。指に隠る力は強くなる。虚しかった。苦しかった。何より許せなかった。許したくなかった。
 苦しげな顔をした子供が私を見ている。
 見つめてくる目は太宰の目だ。
 息もできない筈なのに子供が私に手を伸ばした。小さな手が触れる。太宰の手とは違う感触。だけどその触れ方は太宰そのものだった。
「な、」
 出すことのできなかった音が小さく空気を震わせる。ほんの少しだけ指が緩んだ。
「泣いているんですか」
 幼い声が問う。初めてその顔が濡れていることに気付いた。
 子供から流れたものではない。子供の上から落ちていくそれは私が流しているものだ。
「ごめ、んなさい」
 子供の声が聞こえる。泣いているようにも聞こえる声は子供のものではなかった。後悔したように眉根を寄せながら、それでも口の端をあげるその笑い方が誰のものか知っている。
 それは太宰のものだ。
 太宰が苦しいときに私にだけ見せてくれた、一人浮かべていた太宰の笑い方。
「それでも貴方の永遠になりたかった」
 嗚咽が溢れ落ちていく。
 もう勘違いだとか言えなかった。そんな筈がないなど言える筈もない。
 太宰治は死んだ。
 知っている。海が見える場所に彼奴の墓がある。せめて友の隣にと作った墓が。
 身内もいない彼奴のために喪主をしたのは私だった。自分が何をしているのかも分かっていないまま気付けばすべて終わっていた。太宰の体は灰になっていた。
 死んだのだ。死んだのだ。
 だけど、それでも……目の前にいるのは、

 太宰治だった。

 太宰治でない筈がなかった。
 嗚咽で喉がつまる。慟哭のような泣き声が出ていくのにごめんなさいと小さな声が聞こえ、私の頬を何度も撫でていた。ごめんなさいごめんなさい。その言葉に私は嗚咽の合間、言葉を溢す。
「この馬鹿者が」
 それは聞き取りづらい言葉だっただろう。
 他の者ならきっと聞こえていなかった。だけど太宰は穏やかにわらった。
「ごめ、んなさい」
 つぅと太宰の頬から一筋雫が垂れていく。それが私のものか。太宰のものか。もう分からない。太宰のものであってほしいと私は思った。
「それでも貴方と共にいたい。私を許してください」



中略





「与謝野さん! 与謝野さんはいますか!」
 麗らかな午後の休憩時間。まったりとしていた所に響いたのは事務員の取り乱した声だった。
 泣き叫ぶように与謝野を呼ぶ声に与謝野だけでなく全員の視線が向いた。その目が大きく見開かれるのが分かった。息を飲む音や悲鳴が聞こえる。
 私はそれらを耳にいれながらも目の前の光景を目にすることが出来なかった。
 一目だけみた事務員に抱かれた小さな体。その体から流れ落ちる赤い血に呼吸が止まって見えるもの全てが真っ白に染まっていた。
 ひゅっひゅっと溢れ落ちていく荒い吐息。
 社長と最後に己を呼んだ声を思い出した。
 白い手が緩慢な動きで持ち上がる。その体から流れ落ちる血の赤さ。腕の中に抱えた体の温度が徐々になくなっていく。
 今でも鮮明に夢見るその時のこと。夢見る度に汗だくになって飛び起きることを起きているなか叩き付けられて、私は自分が何処にいるのかさえも忘れていた。
 喉元から叫び声がでようとする。
 叫びたい。そう思ったのに私の喉からでたのは乾いた音だった。舌が縺れ、喉がつまりろくな音もでてこない。体中が震えて気付けば私は床に座り込んでいた。感覚全てを失っていて体にどう力をいれて良いのかが分からなくなる。
 立ち上がらなければと思うのに私は動けなかった。
 太宰が死ぬ。
 その言葉が浮かぶ。
 また私の前から太宰がいなくなる。吐き気すらするおぞましい言葉。
 止めろ。嫌だ。心のなかそう叫ぶ私の耳に社長と私を呼ぶ声が聞こえた。大丈夫ですか。どうしましたかと、戸惑った声。そこでやっとここが探偵社であることを思い出す。乾いた口から大丈夫だと声がでた。
「だ、あみは……」
「え、あみちゃんなら今与謝野さんが医務室に連れていて……」
「野良犬に噛まれたと言う話で怪我事態は対したことないけど、病気を持っていた場合もあるから救急車を呼んで病院に運ぶそうですが」
 ひゅっと喉がなった。やっと冷静になり始め目の前の景色が見え始めていたのにそれらが全てどす黒く変色していく。
「犬だと」
 低い声が私からでていくのが聞こえた。
「犬がまた」
 黒い世界の中で腹のうちから激しい怒りが沸き上がる。これほどの怒りを感じたのは二回目だった。あの子を傷付けたもの全部切り刻まないと終われないような痛みが体を走る。
 今すぐにでもかけていきたいのを抑えたのは耳に届いた救急車のサイレンの音だった。
 きたかいと与謝野の声が聞こえる。その声に私は探偵社の中を見渡した。子供の姿が視界に写る。手当てはすんだのだろう。その体からはあの恐ろしい赤はもう流れていなかった。包帯が巻かれ痛々しい姿。
 だが上下する薄い胸板に私はほっと体から力が抜けていくのを感じた。先程までとはまた違う理由で立てなくなる。
 血の気を失いながらも赤い頬は生きようとする意思を感じさせた。
 そんな姿を見て、私は安堵する。
 そうだ。彼は戻ってきてくれたのだ。もう一度今度こそ私と生きるために。ならばこんなところで死ぬ筈がない。



「今から馬鹿みたいなこと言うんだけどさ、真面目に答えてくれるかい」
 与謝野にそう言われて私はやはりかと息を飲んだ。グラスを握った手が僅かに震える。
 与謝野が久しぶりに飲みに行かないかと聞いてきたのは、探偵社の就業時刻が過ぎてすぐだった。念のためにと入院することになった子供の見舞いに行くため急ぎでようとした私は与謝野の姿をみて、少しの間だけ固まってしまった。
 ついにばれてしまった。
 最初に浮かんだのはそんな言葉だった。
 回りを見るが他のものたちは何時もとかわりなく安堵した。別に気付かれても良いことなのだが、あまり知られたいとは思わなかった。
 子供の見舞い行った後ならば。答えた私に与謝野のはああと頷いた二人で子供の見舞いに行った。
 子供は思っていたよりもずっと元気だった。
 私が部屋にはいればベッドから飛び出そうとして傍にいた看護師と与謝野の二人に叱られて……。
 それでも悪びれた様子はなく私を何度も呼んでは嬉しそうにしていた。
 病院は退屈だ。早く退院したい。社長さんの家なら何日でも入院するのにとずっと溢していて、退院したら泊まりにくる約束をした。
 一時間ほど子供と話してから病院をでた。
 そして与謝野と二人やってきた居酒屋は個室で飲める場所だった。出来れば個室が良いと与謝野が云ったのだった。その方がいいだろうと私も思い個室をとった。
 居酒屋につくなり与謝野は度数の高い酒を煽り飲んだ。
 無言で酒を飲む彼女に付き合い私も酒を飲んだ。彼女が話し出したのは居酒屋について随分と時間が過ぎてからだった。
 言われた言葉に私は答えなかった。自分の顔が映るグラスを見つめる。
「あみは太宰なんじゃないかってそう思うんだよ」
 ほぅと息がでた。思った通りの言葉だった。
「何を馬鹿なこと言ってるんだろうってそう思うんだけどさ、でもあみは太宰なんじゃないかって。生まれ変わりとかそう言うやつなんじゃないかってさ。
 あみの顔、太宰に似ているだろ。気のせいだとか、思いたいだけだとかみんなそんな風に捉えてるんだけど、私はどうにもそれだけじゃ納得できなくてさ……。ずっとどうしてなのか気になってたんだ。
 それが今日社長の様子見てさやっぱりそうなんだって思ったんだ。あんたがあんなに殺気だったの太宰が死んだ時だけだったから」
 あの時は大変だったよ。今すぐにでも斬りに行くんじゃないかってぐらい毎日殺気だってて。
 与謝野の話に目元がしかめられるのが自覚できた。とても険しい顔をしてしまっている。そう思うのに与謝野はふっと笑った。そうなんだろうと言われるのに口を真っ直ぐに引き結びながらも首を縦に振っていた。
 やっぱりと与謝野が呟く。
「でも、それでもあみはあみだよ。太宰の代わりにするのは可哀想だ」
 与謝野の口許は奇妙な形をしていた。嬉しそうにも悲しそうにも見える。
 そしてその目は私を何かとても憐れなものを見るかのような目で見ていた。
「あの子は太宰だ」
 私は思わず呟いてた。初めて子供を見た日のことが勝手に映像として流れ出していた。舞い落ちる桜。それを見ながら
「初めてあの子と泊まりに行った宿は太宰と約束していた場所だった。
 春になり桜が咲いたら行こうと。他の誰とも約束していない。誰にもその約束の話しはしていない。それなのにあの子はその約束を知っていた。私に約束したと言ってきた。
 それ以外にもあの子は太宰と私しか知らないことを知っている。太宰の記憶を持っているんだ。
 ならばあの子は太宰だ。私の元に帰ってきてくれたのだ」
 つうと頬に何かが流れていた。
 それを拭って酒を煽る。あの子は太宰だ。もう一度だけ呟くのに与謝野はもうなにも言わなかった。二人して無言で酒を飲む。
 最後のときに一つだけ聞かれた。
「太宰とどんな関係だったんだい。ただの上司と部下じゃなかったんだろ」
 ああと答えながらも私はどう言っていいのかわからなかった。あの頃の私たちの関係に名前なんてものはなかったから。
「特別に思っていた。太宰もそうだっただろう。
 だけど私達に関係と言えるものはなかった。名前をつけ確かなものにしてしまうのを太宰が恐れていたから。全部が終わったら名前をつけられるはずだったんだ。
 だからまだわからない」
 まだね、与謝野の声が何かを案じるように響く。その何かが分かりながらも私は気付かぬふりをした。



 はぁぁ。
 探偵社に落ちる重いため息。チラリと、室内にいる全員がため息の主を見ているのに私もそちらに視線を向けた。
  ため息をついているのは事務員の一人、子供の父親だった。
 先日子供が野良犬に襲われてからと言うものどうにも元気がなかった。無理もないと思うが、それにしても何か可笑しいのに全員が顔を見合わせていた。
 誰か聞けという雰囲気を感じるのに私は事務員に声をかける
「どうかしたのか」
 それにはっと私を見てきたのは事務員だけでなく全員で……。視線を感じるのに取りあえずは事務員だけを見た。いや、そのと事務員は歯切れ悪く答えた。
 目がそこら辺を泳ぐ。はぁとでていくため息。
「実は来ないだの一件以来あみが犬を怖がるようになってしまって、家の近くに何匹かいるんですがどれもこれも大型犬のため、毎日そこを通るのが大変なんですよ。酷い時は怯えて一度家に連れて帰らないとダメなぐらいで」
 ああと全員から声がでていた。
 そりゃあ、そうなるだろうなと思うのに、事務員は本当に困っているのだろう。はぁとため息をついた。
「引っ越そうかとも思ったんですがね。良いところがなかなかなくて……会社に近いところなら引っ越せるところあるんですけど、あみが今より社長の家から遠くなる場所は絶対嫌だって。
 引っ越すなら毎日でも社長の家に遊びに行ける場所が良いって……」
「成る程……それは難しい話だね」
 全員の視線が私に集まるのが分かった。
 否、私が悪いことではないと思うのだが、その視線は社長のせいでといわれているようで気になってしまう。
「それならば、寮にすんだらどうだ。
 あそこならば確か犬も近くにいないだろう。探偵社の近くだからなにかあったときように私の部屋もある。私の家からは少し離れてしまうがそれならばあみも納得するのではないか」
 その視線から逃れようと私は何とか言葉を紡いだ




中略



「幼稚園?」
 子供がそう首を傾けるのを見つめる。そう幼稚園。同い年のこがたくさんいて新しい友達をたくさん作れるんだよと事務員が子供に向けて笑っていた。どうだいと問いかけているのを見ながらそれでは無理ではないだろうかと私は思った。
 案の定と言うか子供はくらい顔をして事務員を見て、それから事務所のなかを見渡していた。
 子供と目が合う。じっと見つめてくる瞳。しゃちょさんと力なく子供が私を呼んだ。
 何だと答えると子供が私に近づいてくる。
 私も子供に近づき、膝をおった。抱き抱えるのに事務員がため息をつく。
 腕のなかに子供は頭を乗せて何かを考える風に俯いてしまう。数分してあげられた顔は悲しげだ。
「わたしようちえんいかなきゃだめなの?」
「駄目と言うわけではない。でもいって欲しいと思っている」
 問われるのに私は子供が求める答えを言ってしまいそうになった。だがそれは飲み込んで子供をみる。子供はその小さな目元にきゅっと皺を作っている。どうしてとその口が聞いた。
「お前に友達を作って欲しいからだ」
「友達?」
 幼い目が見つめてくるのに私は答えた。友達を作って人との付き合い方をちゃんとした方法で学んで欲しいと言うのが私の願いだった。
 かつての太宰は人との付き合い方を歪んだ方法で学んでしまい、その事に苦しんでいたから、今度はそうならないようにしてあげたかった。
「ああ。お前が話すのは私や他の社員のように年の離れたものばかりだろう。そうでなく同い年の友達を作って欲しい。大人になって社会にでた時、その経験は大切なものとなるだろう。だからな」
 少しだけ口角をあげ笑い子供に声をかける。子供はそれでも不安そうにその口許を尖らせていた。きゅっと小さな手が握りしめられている。その手が震えてはいないことを確かめながら私は子供を見つめる。
 でもと子供がか細い声をだす。
「嫌か」
 子供に問いかける。子供はうんと頷こうとしてそれを途中で止めてしまった。今度は首を横に振ろうとするがそれもまた途中で止まる。少し俯いていた子供の目がちらりと私を見る。その手がおずおずと私に伸びるのに私は強く掴んでいた。
 手を掴まれたのを子供は嬉しそうに笑いそれから悲しそうにした
「ようちえんいったらしゃちょさんといるじかんへっちゃうから」
 へにゃりと下に下がる眉。むぅと尖らせた口で子供がそんなことを言った。そうか。それならば仕方ないなと答えそうになったのを飲み込むのに苦労した。
 事務員と与謝野の目が痛いのに子供から目をそらした。気付かれないように呼吸を整えてから子供をみた。
「その分前より一杯いるようにすればよいんじゃないか」
「できる……」
 子供のために笑うのに、子供の顔は一瞬だけ明るくなった。だけどすぐに不安そうになって子供は小さく首を傾けて問いかけてくる。
 大きな目が寂しそうなのに私は力強く頷いた。
「お前が帰ってくる夕方には仕事を終わらせておこう」
「ほんと」
「本当だ」
 子供の口許が綻ぶ。掴んだ手とは別の手も伸びてくるのに私は子供の小さな体を抱き上げていた。暖かなぬくもり。それがぎゅっと抱き付いてくる。抱き締め返しながら居てくれるかと子供に問いかけていた。
 頷こうとした子供が固まり、それでもうんと頷く。子供の顔が私の胸元に寄せられていた。
 友達できますかね。そんな声が聞こえてきていた。



 それから二ヶ月後始めて子供が幼稚園に登園した。
 時間がかかったのは子供を登園させる幼稚園を決めるのが難航したからだった。安心安全で何かあった時にはすぐ探偵社から駆け付けられる距離にあるか。そして子供が毎日楽しく通うことができる場所であるかどうか。
 なんてことを社員総出で調査していたらそんなことになってしまった。
 事務員たちが何時にないほど張り切った結果、子供が行く事になった幼稚園は家からも探偵社からも程近い距離にあった。ついでに私の家からも近かった。一週間に一度お弁当の日があることだけは、料理がからきし駄目な事務員にとって悩みどころだったが、それはその日は私の家に泊まり、私がお弁当をつくると言うことで解決した。
 子供は当然喜んだが事務員には恨めしそうな目でにらまれた。
 幼稚園の迎えは事務員が主にやるとして、彼が行けない時は私や他のものが行く事になっている。
 今日は初日もあり事務員が行っていた。子供の帰りをまつ社内は何処と無くそわそわしていたが、私が一番そわそわしていることは言われなくとも分かっていた。
 ただいまと事務員と子供の声が聞こえて、私はすぐに扉の方を向いていた。おかえりなさいと子供を出迎える社員たち。子供はにこにこと皆に向かって笑っていた。幼稚園楽しかったよ。色んな子とお話ししたの。そう言ってにこにこと笑っている。
 だけど私はその笑みに眉を寄せてしまった。その笑みがかつてみていたものと重なってしまったのだ。じっと子供を見つめるのに私の視線に気づいた子供がその目を大きくしてからすぐに駆け寄ってきた。
 ぎゅっと抱き付いてくるのに体を抱き締めて私は立ち上がった。しゃちょさんと私の名前を呼んでぐりぐりと額を押し付けてくる子供。ぽんぽんとその背を叩いた。
 子供の手が私の着物を強く握りしめる。
「どうした」
 胸元に顔を埋めてくるのに私は聞いた。事務員たちが何かあったのかと心配そうに子供をみている。
「嫌なことでもあったか」
 子供は答えなかったのにならばとさらに問いかけた。それは違うのか子供の首は横に振られる。
「なら疲れたか」
 今度は正解だったらしく子供は小さくその頭を縦に振っていた。ぐりぐりと額を押し当てられるのに私は社長室へと向かった。
「そうか。ではゆっくりやすもうか」
 優しく声をかけるのに子供はまた首を振る。



「しゃちょさん!」
 数週間後、事務仕事に追われていた事務員の代わりに子供の通う幼稚園まで迎えに行った。出先で先生に挨拶していた矢先、聞こえてきた可愛らしい声。声の方向をみれば愛らしい笑みを浮かべた子供がいた.。
「あみ」
「しゃちょさんしゃちょさん」
掛けてきた子供の名前を呼んだ。跳ねて抱き着いてくる体を抱きしめると子供は嬉しそうに私の名前を何度も口にしてくれた。
「むかえに来てくれたんですか?」
「丁度仕事帰りでな」
 きらきらと輝いた瞳は私が答えろとさらに輝いた。
「うれしいです! まっててくださいね」
 腕から子供下りて園の方へと戻っていく。荷物を取りに行く後ろ姿を眺める。真っ直ぐに鞄のところまで向かった子供は、その鞄を手にするとすぐに私の元に戻ってきていた。
その姿に少しだけ首を傾ける。
 周りには子供たちがたくさんいた。そして子供を見ているが、話しかけようとする子はおらず、また子供も誰にも話しかけることなく私のところまで来ていた、
 さようならと先生に声をかけてかえりましょうと私の手を握りしめてきた。ぎゅっと握られる手を見つめながら、そうだなと園を出ていく
「あまり友達とうまく行っていないのか」
 そこそこ園から離れたところで子供にそう問いかけていた。問われた子供は体を堅くしながら大きな目で私を見つめてきた。
 ふるふるとその首を振る。
「……そんなことないよ」
 言葉でも否定しているもののそれは小さく聞き取りづらいもの。じっと何も言わずに見つめていれば子供は小さく唇を尖らせていた。
「あのね……、みんながなにをはなしてるのかわからないの」
「そうなのか」
「うん」
 しょんと肩を丸めて子供が答えていた。相槌を打ちながら私が思い出していたのは、子供は苦手なのですよねと言っていた太宰の姿。
何を言っているのか全く分からない。良く大人はこんなの相手にできるなと思いますよ。まあ、私は相手になんてしませんけどね。でも子供の目と言うものは案外馬鹿にならないから、ついその話を聞いてしまい苛々してしまう。私が……
 その後、はっとしたように太宰は私を見て何でもないんですよと笑っていた。ただ嫌いなだけなんです。人の脳の中には子供の声を不快に感じるできているものがあるそうです。もしかしたら私はそうなのかもしれませんね。
 そんな言葉を後からつぎ足しながら、その日太宰は冷めた目で子供たちを見ていた。その時の事を思い出しながら私は子供を見下ろす。
 むぅと子供の唇は尖っている。悲しそうに園の方を向いているのに私は一つ子供に言っていた。
「幼稚園、辞めたいか」
 子供の目が私を見てくる。うんと頷きそうになりながら頷くことはせず、子供はふるりと首を振った
「ううん。わたしもうすこしがんばるよ。ともだち、……つくるの」
 子供の声は小さくもう嫌になっているのは十分伝わってきた。それでも私は子供がそう言うのにそうかと言った。
「疲れたら何時でも言ってよいのだからな」
「うん」
 子供は頷くがきっと口にすることはないだろう。小さな姿を見下ろして私はその前に立った。膝を折り曲げ子供の前に腕を広げる。
「おいで」
「うん」
 言葉の前にもう既に子供は腕の中に飛び込んできていた。軽い体を抱き上げ歩き出す。ぽんぽんと頭を撫でていくのに子供の声がかすかに聞こえた、
「……でもね、私ね、多分友達つくれないんだと思います」
もう仲良くなんてなりたくないもん」






[ 29/64 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -