空の手

再録本。ふくだざサイトに載せております。書き下ろしは数ページあります

 福沢が目覚めるとそこは見知らぬ場所だった。
 目覚めたばかりでぼんやりとしていた頭が即座に覚醒する。パニックに陥りかけるのを福沢は自分を律することで抑え、冷静に周囲を観察することに努めた。

 福沢がいるのはどこかの子供部屋だろうか。
 随分と色鮮やかな内装をしている。カラフルな壁紙に床には色々な形をしたカーペットが敷かれ、猫の形をした机がある。その周りには鮮やかに色付けされた椅子が二脚並ぶ。可愛らしく幼い子供が遊んでいるのが似合うように思える見た目。だがそんな姿を思い浮かべることが出来ぬほどその部屋には物がなかった。
 あるのは先程述べた机と椅子。そして福沢が横たわるベッドだけだった。
 そのベッドの上で福沢はぐいと手首を動かす。
 起きた時から違和感は抱いていた。
 その違和感の原因を確かめるべく動かしてみれば、福沢は自らの両手に掛かる鎖を確認した。ベッドの左右の足にくくりつけられている。鎖は長くベッド上であれば自由に体を動かすことができそうだった。
 他には何もつけられていない。
 刀が取られている事以外は着ているものなどにも変わりはなかった。
 敵に捕まったのだとしても不可解すぎる状況に福沢は眉をひそめる。
 何が起きているのか。それを把握するために福沢は記憶を辿る。目覚める前の事を思い出せば何か分かる筈だった。

 その日はいつも通りの日だった。
 軍警や政府、企業からの依頼で事件等の多少物騒な事はあったものの、武装探偵社としては特に代わり映えすることがない、ある意味で平和な一日。
 特になんの問題もなく終わる一日。
 変わったことがあったとすると仕事が終わった後。
 今でも共に暮らす乱歩はその日、出張でいなかった。その為福沢は一人で帰ろうとしていた。そこに滅多に話すことのない人物が声を掛けてきたのだ。
 その人物はたまには共に酒などどうです。そう問いかけてきた。そんな誘いをその人物から受けたことはそれまで一度もない。どうしてと訝しく思ったものの相談したいことがあるかもしれないと福沢は頷いた。その後、その人物につれられた酒場で酒を呑み……それ以降の記憶がない。
 思い出し福沢はまさかと呟いた。
 確かにその人物は何をするか分からぬ危うさのある人物ではあった。それでも此のようなことをするものではなかったはずだ。またもしそうだったとしても此のようなことをする理由が解らない。此のようなことをしても何の得もないはず。
 思考する福沢。そんな彼の耳に扉の開く音が聞こえた。
 すぐに確認すれば、そこには福沢が思っていた通りの人物がいる。その人物は福沢を見て嬉しそうに笑った。
「あ、社長。起きたのですね。良かった。一人でずっと退屈だったのですよ。起きたのなら早速遊んでもらわないと。何しようかな」
 入ってきた人物はにこにこと笑う。
 ここにいると言うことは福沢を閉じ込めたのは彼だろう。だけどその笑顔には悪意と云ったものは欠片も感じなかった。
 楽しそうな笑顔は無邪気な子供そのものだ。
 状況に合わない上、今まで見た事のなかった表情。福沢は戸惑いを覚える。机の下から何やら箱を取り出している相手を驚愕の眼差しで見つめてしまう。福沢は一つ息を呑んだ。
「太宰」
 堅い声で呼び掛ける。自然鋭くなる眼差し。はいと返事をした相手はそんな福沢を見ても笑っていた。
「これは何の真似だ。今すぐこの枷を外せ」
 問い掛けた相手、太宰は軽く瞬きをする。んーと小首を傾げてそれから軽い口調で告げた。
「少し旅行をしてみたくなったんですよね。それで一人ではつまらないので社長にもご同行してもらうことにしたんです」
「……これを同行と云うのか」
 ふふと穏やかに笑い太宰は話す。思わず目を向いてしまったのに、太宰は笑うだけだった。
「ご安心ください。軽い二週間の旅行ですから。二週間後には横浜の港に辿り着きますよ。それまでは何処の岸にも寄ることがないですけどね」
「港だと……」
「気づきませんでした。ここ船の中なんですよ。そして海の上です。だから何処にも逃げ場はありません。まあ、危害を加える気はありませんし、時期外れの夏休みだとでも思ってください。
 因みに助けが来ることもありませんから、その辺も理解してくださいね」
 柔らかな声で太宰が告げた。福沢は太宰を見つめる。
 太宰は始終笑顔であった。にこにこと笑いながら言葉を紡いでいた。その笑顔に福沢は何か違和感を覚える。だがそれが何か分からなかった。福沢が押し黙ったのを見て太宰は意識をそらす。
 先程取り出していた箱の中を漁り始めた。箱の中から次から次へと色々なものが飛び出してくる。
 お手玉、けん玉、独楽にトランプ。ウノ、人生ゲームにボールに積み木、ぬいぐるみにお人形のセット。おままごとのセットに子供用の太鼓。電車の模型……。
 次から次へと出てくるのは、どれもこれも子供が遊ぶような玩具であった。部屋の内装を思えばあってもおかしくはないが、太宰と福沢しかいない状況では些か奇妙に写る。
 それを取り出しながら太宰は唸る。
「うーーん。なかなか良いのがないな」
 呟く彼にふっと福沢は太宰がここに来た当初、口にしていた言葉を思い出す。
「早速遊んでもらわないと」
 彼は間違いなくそう云った。まさかあれで遊ぶつもりなのかと思い太宰を見る。
 箱の中を漁る太宰は真剣な顔をしていた。色々取り出しながらあれも違うこれも違うと唸る。その顔が何かを見つけたのか輝きあっと声をあげた。
「これにしましょう!」
 太宰が手に取ったのは何冊かの絵本。可愛らしい動物の絵が描かれているそれは明らかに子供向けだ。
 福沢の顔が歪んだ。
 本気かと云うように太宰を見る。笑みを浮かべた太宰は福沢から数歩あいた距離に座り本を開いた。自分側に本を向けて太宰は読み上げ始める。


「何かつまらないな……」
 そう云ったのは十分も経たない頃。
 二冊読み上げただけ。まだ読んでいない本が転がる。それを見下ろしながら太宰は唇を尖らせた。唸りながら箱の中を漁り、それから絵本を手にする。つまらなそうな顔で見つめて開く太宰。
 福沢はそれを無言で見つめていた。

 

 福沢には今、自らの顔つきが相当ヤバイことになっている自覚があった。
 常日頃から怖いと云われることの多い顔。それさえも可愛いと思えるほどのものになっているだろう。今の顔をみれば子供所か共に仕事をしている探偵社の大半も怯え涙を流す。そう云ったものになっている自覚があった。
 だが今共にいる太宰はそれでも泣かない少数派にいる人物であった。その少数派の中でも特に肝の座った部類で福沢の表情に対して何の変化も見せない。むしろ気づいていないのかと思うほどのマイペースを貫いていた。
 食べないんですか。その言葉と共にばりばりと音が響く。
 福沢は音の出所である太宰を見、それから自分の手元にある皿を見た。そこには根本が切られただけのキャベツの姿がある。
 二日目の夜、福沢はついに根をあげる。
「太宰」
「何です」
 名を呼べば千切っただけのキャベツをむしゃむしやと食べながら太宰は返事をする。何も悪いことはしていないと云いたげな子供の笑顔をしている。
「この鎖をはずせ」
 きょとんと太宰は首をかしげた。何故ですと聞いてくる。夕食を作ると簡潔に答えると
太宰はますます首をかしげた。
 不思議そうな顔をする。今、食べていると思いますが、ほら。と太宰が見せるのはキャベツの入った皿だ。
 社長のぶんもちゃんとありますよねと云ってくるのに青筋が浮かぶ。何とか声を張り上げるのだけは抑えてこれは食事とは云わんと福沢は告げた。返ってくるのは何を云っているのだ、この人はと云う顔だ。


 この何とも云えない不思議な関係が始まってすぐ、福沢が知ったのは太宰の不健康な食生活である。
 一日目の夜。
 その日一日中、絵本を読み上げていた太宰は夜になってようやっと本を置いた。そしてそろそろ寝ましょうかと一言。太宰が何をしたいのか。掴みきれず見極めるため、取り敢えず好きにさせていた福沢もそれには待ったをかけた。
 何です。寝たくありませんか。太宰が云うのにそうではなく夕食はどうした。朝から何も食べてないだろう。飢え死にさせるつもりかと云った。
 すると太宰はポカンと口を空けた間抜けな顔をして、あ、そうでしたそう。気が向いた時にしか食べませんから忘れていましたが、社長は毎日食べる人でしたね。確か。と口にしたのだ。
 いや、待て、何だそれは。三食食べるとかならまだ分からないでもないが、毎日食べるとかそれは当たり前だろう。むしろ食べない方がおかしいだろう。福沢は心の中で太宰に突っ込みをいれた。口にはしなかった。
 じゃあ用意してきますね。太宰は部屋から出ていた。
 一人になった部屋。福沢は探偵社で過ごす太宰の今までの生活を振り返った。特に昼時の事だ。基本渦巻で取ることの多い探偵社社員だが、そういえば太宰は行かないことも多かった。行ってもコーヒーだけの日とかもあるようだし、誰かと昼を食べに行くのも週に一度か二度。
 もしやこれは本当に毎日食べていないのでは。むしろ二、三日に一回とかが基本になっているのではと考えた。
 頭が痛む思いだ。帰ったら太宰の食生活を正さねば。そう思ったところに太宰は戻ってきた。随分早いのだなと驚いたのだが、太宰がその手に持つものを見てさらに福沢は驚いた。
 太宰は何故か那須と人参を一本ずつ持っていたのだ。
 何だと思う福沢に太宰は人参の方を差し出した。はいと。戸惑う福沢に夕食ですと告げて太宰は那須をかじった。生のまま。固まる福沢の目の前で太宰は全て食べ尽くす。そして福沢を見て食べないんですかと聞いたのだ。
 調理はしないのか。聞く福沢の声は情けないことに震えていた。
 目の前で起きた事が信じられなかった。それに対して太宰はああと答える。だって面倒じゃないですか。食べられない訳じゃないんですしら別にいいでしょう。充分です。心の底からそう思っているのだと云う目で云われて、せめて切ってくれとだけ福沢は言葉にした。
 ええ――、じゃあ、明日からは。
 その日は生の皮すら剥かれていない人参を食べた。馬になったような気分であった。
 その次の食事は二日目の朝。
 昨日の事もあり福沢は朝から食事を求めた。でてきたのは大きく切られた大根である。当然のように皮は剥かれておらず、火にも通されていなかった。朝はお腹が空かないからいいやと食べない太宰が絵本を読み上げるなか黙々と食べた。
 昼はまた人参。切られていたが生は変わらず皮もついていた。昼もいいやと食べない太宰に一口だけでも食べさせて、残りは全部食べた。
 そして夜。我慢しようとしていた福沢だが我慢しきれなかった。
 まともなものを食べたい。何よりまともなものを食べさせなければならない。
「外せ」
 再度福沢が太宰に乞う。太宰は少しだけ唇を尖らせて迷う素振りをする。
「だって逃げません」
「逃げん。そもそも逃げれんだろう」
「そうですけど、私を捕まえてその鎖で捕まえておくこともできますし……」
「そう云ったこともせん。私は夕食を作りたいだけだ。終わればまた繋いでくれても構わん」
「う――ん。まあ、嘘ではなさそうですし、いいか。逃げないでくださいね」
「ああ」
 福沢が頷くと太宰はポケットの中から鍵を取り出して福沢に近づいた。がちゃりと枷をはずす。二日ぶりに自由になった手首を動かし福沢は早速太宰に厨房までの案内を頼んだ。
 ぱちぱちと太宰の目が瞬く。
「本当に夕食を作るんですね。もしかして野菜嫌いでしたか」
 それ以前の問題だと思いながらも口にはしない。
 案内された厨房で福沢はあんぐりと口を開ける。大層間抜けな姿をさらした。は? と一言呟いたきり数分は黙りこんでしまう。
 何故か厨房の机の上に大量のカニ缶が積み上げられていたのだ。
「ああ、それですか。私が持ち込んだんですよ。二週間ぶんの食事にと。でもこんなのじゃ飢え死にしちまうぞと云って手伝いを頼んでいた輩が勝手に食品も積んでくれたのですよね。別にそれで充分生きていけるのに」
 そんなわけあって堪るか。福沢は口にはしないがそう思った。
 そして食品を積んでくれた誰かに感謝した。それと同時にせめて冷蔵庫と冷凍庫に入れるものは分けるように教えておいて欲しかったと思った。
 大体こんな感じですけどと、冷蔵庫を開けて太宰が云うのに、覗き込んでみれば野菜などと一緒に冷凍食品まで詰め込まれていた。いま、開けているのは冷凍庫じゃなく冷蔵庫である。
 冷凍食品など使わぬから食べ方は知らぬが、入れる場所が違うことは直ぐに分かる。微妙な顔をしてしまうのに太宰は気付かず、何作るんですかと呑気に問う。
 福沢は太宰の顔を見つめた。そして机に置いてあった蟹缶を見る。それから冷蔵庫。自分の手元にある太宰が作ったと云っていいのかも怪しい料理を見る。最後に太宰に目線を戻した。
「太宰。お前は普段家で何を食べている」
「へ? 家でですか?? 特には何も食べてませんが。食事は渦巻で取りますし、あ、でもたまに蟹缶なら食べますよ。酒のつまみに」
 にこにこと答えた太宰を見つめ、福沢はそうかとだけ呟いた。口には出さぬが帰ったら食生活の見直しのためにも数ヵ月は自分の家に暮らさせることを決定している。
 太宰の意思は問わない。
 その時に色々云おう。今は今日の夕食だと適当な食材を手に取り調理場に向かう。そこではたと気付いた。
「太宰。調味料は何処だ」
「調味料? さあ?」
 福沢は太宰の持ち込み品を見る。
「手伝ってくれたと云う輩は調味料までは買ってきてはくれなかったのか」
「……取り敢えずあったの全部冷蔵庫に詰め込んだのでもしかしたらあるのかも??」




「社長、何しますか」
 キラキラとした無邪気な笑顔が聞いてくるのに福沢は無言で返した。太宰を見つめ、箱の中を見つめ何を答えていいのか分からずに黙る。
 船上生活三日目。
 福沢の手には枷は掛けられていない。

 夕食を作り食べ、ついでに要らないと云う太宰にも食べさせた後、元居た部屋に戻った福沢は大人しく枷をかけられようとした。だが、それを見た太宰はもういいやとあっさりと口にしたのだ。
「それより今日はもう遅いし寝ましょう。明日はたくさん遊んでくださいね」
 期待の籠った目で太宰は福沢を見つめ告げた。
「あ、ベッドは福沢さんが使ってください。私は床で寝ますので」
 そう云って隅で目を閉じる。何かを云おうとして、福沢は口を閉ざした。目を閉じている太宰に毛布をかける。自分は云われた通りベッドで横になった。




中略



 そして十四日目の夜、零時。
 横濱の港に船がついた。
 いつもの着物に着替えた福沢は太宰と共に船から下りる。無言で降りていけばタラップの途中で太宰が立ち止まった。
「この二週間本当にありがとうございました。とても有意義な時間を過ごすことができました。
 今日はもう遅いので話はまた明日にしましょう。ここで別れましょう」
 笑みを張り付けた太宰が告げる。
 ああ、そうか。もう行くつもりなのかと福沢は思った。背後にある船に乗って何処か遠くに。
 探偵社の誰も追ってはこられないような場所に行くつもりなのかと。だから福沢は駄目だと言葉にする。太宰が困ったように笑った。
「受理せんと云ったはずだ」
「でも」
 無理なんです。紡ごうとするその前に福沢は開いていた距離を詰めた。ぎゅっと太宰の手を握り閉める。
「離さんぞ」
 えっと太宰が呆ける。
「私はお前が何を云おうとこの手を離したりはしない。お前が泣いて嫌がったのだとしても掴み続ける」
 強い声が云う。暗闇のなかで銀灰の目がくっきりと浮かび輝いていた。捕まれた手から太宰が逃れようとする。だけどその手は言葉通りぴくりとも動かない。
「そんな……」
 震える声が太宰からでた。
「そんなの……貴方になんの権利があって……、私の意思までねじ曲げる権利は貴方には「なくとも!
 なくともはなしたくないのだ」
 刺すような声が福沢からでた。迷子の子供の顔が歪む。
「そんなのわがままじゃないですか」
「そうだ。それでも失いたくないと本気で思うならこうやって掴まえておかなければならんのだ。権利がなくとも私はお前を失いたくないから掴むのだ。
 それとも権利をくれるか。お前の手を掴む権利を私にくれるか」
 福沢が太宰にすがった。権利が欲しいとねだった。与えられたりはしないと分かりながら欲しいと訴えた。
「むりですよ」
「そうだろうな。だけど私はこの手を離したりはせんぞ。失いたくないから。
 太宰、私はお前が望むのなら幾らでも渡してやれるぞ」
 ポロリと太宰を掴む手に雫が落ちた。
 それは褪赭色の目から流れ落ちている。
「なら……」
 掠れた声が呟く。どうしたらいいのと問いかける。
「そうやって掴んでも手に入れられなかったら失ってしまったら私は何て云って諦めたらいいの。何て云って自分を慰めればいいの」
 絞り出すように云われた問いは福沢から言葉を奪う。がつんと胸に響いたのはそれが太宰の奥深くに押し込まれ、隠された最後の本心だからだ。
 失うことになれた。手に入らないことにもなれた。痛みを覚えない方法も知った。
 求めないことだ。何一つ求めないこと。足掻かないこと。
 そうしたら手に入らなくとも失っても苦しまなくてすむ。手に入らなくて当然。失うのも当然。最初から私には縁のなかったもの。そもそも求めなかったのだから、失うのは正しい流れだったのだと諦めることが出来るのだ。
 それができなくなることが太宰は何より怖かった。
 求めて求めて求めて、それで失ったらもう太宰は己を慰めることさえ出来なくなる。
 濡れた太宰の目が福沢を見た。ゆらゆら揺れる褪赭の色はもう嫌なのだと告げる。
「それは分からぬ」
 失う日は来ないとは云えない。どうしたら良いのかも答えてやれぬ。それでも福沢は言葉を紡ぐ。
「でも結局どちらもおなじなのだと私は思う。求めても求めなくとも失ったらどちらも苦しい。悲しい。その痛みに代わりはないように思う。失えば失った苦しみがずっと続き続けるだけなのだ。
 ならば、ただ黙って失うのを見ているよりも足掻いて欲しいと思う。諦めずに足掻いて欲しい。なくしたくないと口にして欲しいとその方が何かが変わる可能性があると思うのだ。
 もう何もいらないなどと云わないで欲しい。何かで云い。何かを求めて欲しい。
 太宰。
 本当にお前はこの世界をずっと一人で生きていきたいのか。何もないまま生きいきたいのか。
 望めば手にはいるのだ」
 ああと、細い吐息が闇の中に落ちる。ふるふると揺れる目は福沢を見つめて歪んで動かない。
 二人の間を沈黙が満たした。
 どちらも何も話さなかった。ただ強い目で太宰を福沢は見つめ続ける。射抜くその目が、骨が軋むほどに掴まれたその手が失いたくないのだと訴えてくる。
 永遠にも感じられるほどの時間が流れる。
 褪赭色の目が銀灰の目からそらされた。旋毛が福沢から見える
「………で」
 羽虫の羽の音みたいにか細い声が届いた。福沢の目が大きく見開いた。
「…さないで……、今は、おねがい、……離さないで」
 嗚咽まみれの声が空気を震わせ叫ぶのに福沢は耐えきれず掴んだ手を引き寄せた。子供の体を掻き抱きその両腕で包み込む。
「離すものか。何があっても離したりせん」

 子供が腕の中で泣く。何度も手を開きながらその手は福沢を掴まない。それでも今はよいと福沢は声にした。何時か。何時かその手で何かを掴んでくれと抱きながら懇願する。





中略

「社長の様子は」
 与謝野が部屋からでてくる。周りにいた何人もが顔を上げて駆け寄っていた。国木田が声を上げて聞くのに与謝野は大丈夫だよと笑って答える。
「今のところはだけどね。
 怪我もなく何にも変わった所がない。今現状で私が云えるとしたら大丈夫だけになるが、社長を襲ったのは異能者なんだろう。今はなにも問題がないように見えても後から何かあるかも
 目が覚めてくれないことには何とも……。寝ているだけだからなにもなければすぐにでも目を覚ましてはくれると思うけどね」
「そうですか」
 みんなの様子はどんよりと暗くなる。
「異能者の検討とかはついたのかい」
「まだ。今敦が云った男の特徴を伝えて調べてもらっています」
「そうか」
「すみません。僕のせいで」
 重苦しい空気のなかで敦が謝る。泣きそうになっているのに何を云っているんだと与謝野と国木田が云っていた。
「お前のせいではない」
「でも……」
「大丈夫だよ。恐らくそれほど深刻なものじゃない」
「え」
 みんながみんなうつむいているのにそれを云ったのは太宰だった。えっと全員の視線が太宰に集まり、開いていた口が閉じた。
 ひぃというような声が聞こえた気がした。気にしなくていいと云ったのは太宰なのに、太宰の声はとてもそうとは思えないもので殺意すら漂っていた。
 しばらくその姿を見た。
 みんなから音が途切れてしまう。誰もなにも云えないような空気。その中で最初口を開いたのは国木田だった。
「太宰。何を知っているんだ」
 太宰の目が国木田を見てそれからふっと微笑む。ああと聞こえる低い声。何にもないよと太宰は何にもないわけない目をして呟いた。
「何にもないわけないだろうおい」
「大丈夫。何にもない。恐らく社長が目覚めてもみんなが困るようなことはなにもないさ」
みんなはね
 最後に太宰が呟いた言葉だけはだれにも聞かれることがなかった。みんなどこか様子のおかしい太宰をじっと見てしまった。


 ぴぽぱぽぴ
 携帯の音は場に似つかわしくない軽い音を立てる。
 高く間抜けな音を聴きながら太宰は自分が押した番号を見下ろした発信ボタンを押そうとして止める。
 少し身を乗り出して扉の向こうを見ればみんなが一つの扉の前に立っている。そこから抜け出してきた太宰はためいきをついた。
「恐らく大丈夫。みんなには一つも意味がないようなことだ。あの人が今さら探偵社を壊そうとするとは思えない。メリットがない。だとすれば……」
 呟きながら太宰は携帯を見る。
 そこに書かれた数字は太宰の前の上司のものだ。糞と低い声が吐き出された。太宰の指がもう一度携帯のボタンにかかる。押そうとしてそれは途中で止まる。息を吐きだした太宰は今日の朝の事を思い出していた。
 今朝、郵便受けにこれ見よがしには云っていた一通の手紙。黒い封筒は見覚えがあるものだった。その封を開け、中を見たから太宰はその日の予定を変更することになってしまったのだ。
 そして向かった先は手紙に描かれていた場所。
 そこで二三のやり取りをして来たのだが、それがなければ太宰は依頼が来たときには探偵社にいて、仕事は太宰が行く事になったはずだ。
「あの情報は今回の件の対価だったというわけか。何かあるとは思っていたけど」
 ふうと太宰はため息をついて携帯を閉じた。
 結局太宰は連絡を取ることはしなかった。ざわざわとみんながざわめきだしている。活気がほんの少しだけではあるが戻ったように感じられるのに太宰は冷たい目をむける。
 探偵社を敵に回すことのメリットは今のところない。そうしようとする方が損害は多くなるはずだ。となるとやはり
 一度呟いたことを呟き直して太宰ははぁと息をつく。その目は酷く暗い。
「何かあれば私関連か」
 社長。大丈夫ですか。辛いのであればまだ。社長。
 たくさんの声が聞こえてくる。声のする方向に向かう足は小さく震えていた。「大丈夫だ」と今まで寝ていた福沢の声が聞こえてくる。
 その声はしっかりとしていて離れたところから見ても体がふらついているような様子はない。
「心配かけたな。すまない」
何処からどう見ても何時も通りで、数時間意識を失っていたともおもえないような姿だった。
 じぃとそんな福沢を遠くから太宰は確認する。
 変わりない姿にみんな安心していて何もなかったんだ良かったと笑っているような状態だった。
「変なところはないかい? 違和感とかあったらすぐに教えてくれよ」
「い、……特にはない。大丈夫だ」
 与謝野が聞くのにも福沢はそう答えて、みんな素直に安心していた。ほぅと入っていた体の力が抜けていている。何人かが床に座り込んでいた。穏やかになり始めるのに太宰は一人否と思っていた。
 何にもない筈がなく、また何にもなくなかった。
 先程から太宰はずっとヒリヒリとしたものを感じている。
 目にはみえない何かが皮膚を刺激してくるような感覚。みんなを見ながら太宰はまさかと思う。
 中心にいる福沢は心配をかけてしまった社員一人一人を見ていくのに、時折太宰を見ていた。その太宰を見る一瞬だけ福沢の目は鋭く険しいものに変わる。
 恐ろしさすらも感じるものになるのに、太宰は何が起きているのか既に分かり始めていた。
 そっかと声が落ちた。それはあまりに小さく誰にも聞こえることがない。
「こういうことか」
 今度は音にすら出さず呟いて太宰は握りしめたままだった携帯を睨み付けていた。激しい感情がその表情に現れたけどそれはすぐに消えていた。次には凪いだ湖畔のように静かになる。
 ただ静かにみんなを見ていると福沢と目があった。変わらず鋭いものがほんのわずかに見開かれる。それでも太宰は少し離れたところで立っていた。
 口角が少しだけあがる。
 形は間違いなく笑みなのに笑みと云えるようなものではなかった。
 自分の立っている場所を太宰は見下ろして、それから踵を返すかどうか悩んだ。
 真実を知る気にはまだなれなかった。それでも前にいくべきか。考え込んで太宰は一歩だけ足を動かしていた。福沢がじぃと見てくる。
 みんなの視線もまた太宰に集まり出した。
「太宰さん。社長なにもなかった見たいです」
 敦が安堵した様子で無邪気に笑う。太宰はとてもではないがそっかなんて笑って答えることはできなかった。
 一歩一歩慎重に進んで、皆の輪のなかにはいる。福沢までの距離は後数歩にはなったが、それを積める気にはなれなかった。
 じぃと福沢の目は太宰を見つめ続けていて、みんなの反応を見て目を丸くしていた。太宰と呼ばれる度に福沢の眉間に皺が増えていた。
 どうしたんだいと福沢の様子に気づいた与謝野が聞く。
 それによって周りもその事に気付いて声をかけてきた。どうしたのかと聞かれる度、福沢は困ったような云いづらそうな顔をした。声をかけてきた人を順々に写しながらその目は最後に太宰を見る。
 睨むようにじっと見てからそれから口を開いた。
「すまぬが、貴殿は何方だろうか。何故ここにいるか聞いても良いか」
 数分の間、太宰からみえる景色はなにも動かなかった。
 福沢の口だけが動き、閉じる。じっと見つめてくる目は太宰をちゃんと見ていて、周りは少し心配そうなまま、暫くそのままで数分たった。
 あっとその口が開いた。大きく目も見開き始めてははと乾いた笑い声が落ちる。福沢を見て、太宰を見る。なんでと声が落ちていくのを太宰はただ笑って見ていた。
 予想通りで驚きはない。
 やっぱりかと思うだけでにこにこと笑う。
「太宰治と云います。以後お見知りおきを」
「……あ、ああ」
 まるで初めて会ったかのようにその口は言葉を紡ぐ。福沢が驚いたように太宰を見て、それから左右を見る。その口からでたのは酷く戸惑っている声だった。それでいて何処かほっともしていて細い息を吐き出している。
 それは知人ではなかったのかと云う安心であるように思えた。
 ほうと太宰は息を吐く。そしてその口で嘘ですよと云っていた。
「初めましてではありませんよ。一応私もここの社員ですから。社長とは何度か会ったことがあります。
 どうやら社長が受けたと云う異能は一部分だけ記憶を失うと云うものであったようですね」
 福沢の目が見開いて太宰を見、それからみんなを見る。周りにいる殆どが息を飲んで、福沢と太宰を見ていた。
 その様子に福沢の口が薄く開く。ほと開きかけた口に本当だよと乱歩が答えている。
 そいつが云っていることは本当だ。太宰は探偵社の社員で二年前から働いている。何度か会ってるは嘘だけどね。毎日顔を会わせているのに何が何度かだよ。何度かもなにもないだろ。
 乱歩の言葉は苛ついていた。
「そういった方が云いかなって。その方がダメージは少ないでしょう」
「ふざけんなよ」
「ごめんなさい」
 驚愕しはくはくと口を開ける福沢を脇に置いて乱歩は太宰を睨んだ。乱歩に睨まれた太宰は穏やかに笑う。
 太宰と乱歩の間に与謝野が横から声をかけてくる。
「あんた。大丈夫かい」
「大丈夫ですよ。社長は無事だったんです。こんなことはなんと云うことではありませんとも。
 本当にこの程度で良かったです」
「この程度って……。あんたは」
 与謝野が何かを云いずらそうに口を開こうとする。それに太宰はにっこりときれいに笑った。それは暫く見なかった美しい笑みだった。
「この程度ですよ」



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