共に歩む日々

再録本
添い寝シリーズ 好きまで遠い 傘 その手にぬくもりを そば 水の中から
  以上六作品を再録しております。作品はふくだざサイトに掲載しております

書き下ろしで
 好きまで遠いの書き下ろし 触れたいと思うまで その心の奥 血濡れた羽織 好きと言うこと 閉じたもの 鏡の裏側
 の七作品があります

sampleでは書き下ろし作品の冒頭を載せております



触れたいと思うまで

「お前はそんなところで何をしているのだ」
雨が降る日の夜。福沢からは少し固い声が出ていた。じっと見下ろす地面。そこには真っ赤な血で汚れた太宰が横たわっている。雨で流されながらもじわじわと広がっていくのはまだ傷口が閉じていないからだろう。
後から後から血が流れていた。
太宰はあっとぼんやりとした声を上げた。
「野良犬に噛まれてしまいまして、これだから犬って奴は嫌いなんですよね。殺せもしないくせに噛み付くから痛みだけこっちは味わう事になる」
 ぼそりと呟かれた後半を太宰は聞かれたとは思っていないだろう。雨の音にき消されて通常のものならば聞き取れないような音だった。
「大丈夫ですよ。後暫くしたら動けるようになりますから」
へらりと太宰が笑う。福沢はじっとその笑顔を見下ろしていた。そして細い吐息を吐き出す。


「お前は傷の手当と言うものを知らないのか」
 呆れたような目をして福沢は太宰を見ていた。太宰ははぁと聞いているようないないような声を出す。
福沢の家。
その家で太宰は来ていた着物を脱がされ、汚れていた包帯も全て剥ぎ取られていた。全裸で福沢の前にいる。その体の傷跡を包帯と薬片手に見ながら福沢時折顔を顰めていた。
「これはいつの傷だ」
「さあ? 最近のではあると思いますよ」
「だろうな。傷口事態はまた新しい。が、一日やそこらのものではない。細菌が入ってか化膿している。ここまで変色し腫れるには最低でも二三日は掛かるはずだった。はぁ、しかも普通はこんな状態にはならない。
この怪我は何もせずに放置しない限りはここまではならないはずだ」
「包帯は巻いていました」
「泥で汚れたものをか」
 福沢の声はかたい。それに対する太宰の声はへらへらとしていた。いつも口にしているようにすぐにでも煙に巻いて去っていきそうだった。福沢がため息を付き太宰の体に触れる。
古い傷に薬を塗り込んでいくのに擽ったいですよと太宰は笑った。見える傷全部に塗り込んだ薬。福沢の目は新しくできたはかりの傷を見る。胸を強くえぐっている傷は出血をしているが、このまま放置していいようなものではない。
 やはり病院に行くかと呟くのに太宰はえーーと声を開けた。 
「やですよ。たかが犬に噛まれた程度の怪我であれば包帯を巻いていれば大丈夫ですよ。一々病院だなんて大袈裟ですね」
「あくまで犬に噛まれたことにするつもりですか」
「あんなの犬畜生で十分ですよ」
 大袈裟に嫌そうな顔をした太宰は次の瞬間には笑っていた。再び福沢はため息をつく。最近探偵社で国木田の怒鳴り声が毎日のように聞こえてくる理由が分かる気がする。あいつ真面目に仕事一つしないと叫んでいたがそれだけでもないだろう。
 刃物か何かかと傷口のあたりを見つめる。血はすでに止まっているが、手当もせずに雨に当たっていたせいか、すでに傷口が変色し始めている。そのうち腫れるだろう。
「病院は行くべきだな」
「大丈夫です。なにもしなくてもこれぐらいすぐ治ります」 
「そんなわけあるか」
「……」
 へらへらと笑う太宰が福沢を見て室内を見る。扉の位置を確認しているのを感じて福沢はため息を呟く。ばれる前に逃げるつもりかと感じたのだ。
「そんなに行きたくないのか」
「……まあ、嫌ですね」
 問うのに太宰は嫌そうに首を縦に振る。
「理由は」
「……言ったら呆れられそうなのですが、探偵社がよく使う病院、看護師の中に私をさしたことがある人物がいるんですよね」
「は?」
「一度軽くお話ししたことがある人物なのですが、どうにも好意を抱かれてしまったらしくて告白を断ってからと言うもの付きまとわれていたんですが、ある日ぐさりとやられてしまったんですよ。
 ……まあ、数ヵ月前のことですし、こちらはあんまり気にしていないんですけどね」
 最初、何をバカなことを言い出すんだ。とばかりに口を開き固まった福沢だったが、太宰の話を聞くにつれその顔は青ざめていていた。何でこの男はそんな大事な話を笑ってするのだと思うのに、太宰は慌てて最後の言葉を付け加えている。
それで何がね、なのか、全く福沢には分からなかった。が、太宰はそう言うわけでと言う。
 どう答えれば良いのか。考える福沢は上を見上げた。何もかも予想外で
「……太宰。その話は何時の話だ。数ヵ月前と言うことだが、半年前にはお前は既に入社してきているだろう。そんな話聞いたこともなかったのだが。秩序のもつれとはいえ、社員がそんなことに巻き込まれたら警察から話を聞くはずだが」
 福沢が太宰へ聞くのに、太宰はへへと笑う。嫌な予感はもちろんした。
「実は警察沙汰にはなっていないんですよね。
その時、私と彼女以外誰もあの場所にはいませんでしたからね。さした本人がいるはずなければ私も言っていませんから」
 へらへらと太宰が笑う。福沢は怒りとも呆れともつかないような目をして太宰を見つめる。はぁとでた一言はとても低い。一瞬肩を震わせながらそれでも太宰は笑う。
「何故。……何故言わぬのだ」
 一言目は怒りか。呆れか。それで震え、太宰には聞こえなかった。首を傾けているのに福沢は再び口を開く。だってと太宰が言った。
「何か後で使えそうじゃないですか。そんな弱みを無にしてしまうのは嫌じゃないですか。でも病院行くと彼女に何かで殺されてしまいそうなので。だから行きたくないです」
 福沢の口は再び開いて、天井を見上げる。はぁと吐き出される吐息。分かっていただけましたか。と太宰が聞いてくるのに力なく頷いた。他の病院は。と問いかけて固まる。やはりいいと首を振った。どうせ似たような言葉がでてくるだけなのだろうと思ってしまったのだ。
 ふふと太宰が嬉しそうに笑う。
「やはり社長は素晴らしいお方ですね」
 太宰が言うのに褒められている気は一切しなくて、福沢はため息をまた吐く。実際褒められてはいないだろう。今日何度目のため息だろうかと考える。現実逃避を少しでもしたかったのだ。
目の前の太宰は福沢が外しておいてあった包帯を適当に巻こうとしていて、ぼぅとしながらその腕をつかむ。
 現実に一瞬で戻った。
「汚れた包帯を巻こうとするな。新しいのを巻くから」
 汚れた包帯は奪い取り、真新しいものを取り出す。太宰はまた嫌そうな顔をする。
「えーー、だってそれどう見ても足りないじゃないですか。中途半端に巻くのは嫌なんですよね」
 太宰ははぁとわざとらしく息を吐いて福沢に言った。言われた福沢はもう何を言って良いのかわからない顔で包帯を見る。
太宰を見て、包帯を見て、汚れた包帯を見てまたため息を吐いた。
はぁあと息を吐き出すと太宰もまた呆れた目で見る。手にしている包帯は、ほぼ一個分はある。
「お前が巻きすぎなだけだ。必要な箇所にだけ巻ければ良いものを、全部に巻いて……、必要な所だけならこれで充分事足りる」
「全身巻いてないと安心できないんです。包帯は私の一部ですから」
「バカなことを言っているな。こんなもの使わないですむのなら、使わない方が良いのだ」
 福沢の手が太宰の腕に包帯を巻いていく。もちろん白い真新しい包帯。太宰はぷくりと頬を膨らませた。
「勝手に巻かないでくださいよ」
「どうせ巻くのだ。良いだろう」
「良くないですよ。それじゃあ絶対足りないんですからね」
「大丈夫だ。足りる。お前が病院行きたくないから仕方なくこの程度の治療ですませてやっているんだぞ。これぐらいは我慢しろ」
「治療する必要すらないんですけどね」
 はぁと太宰がため息をつき、それからすぐに笑っていた。どうも無駄なことをするのが好き何ですねと福沢には言っている。
「変なことにまで気を使っていたら気疲れしてしまいますよ」
 にこにこと笑っている。はぁと今度は福沢がため息をつく。口を閉ざして包帯を巻いていく。丁寧に怪我の場所だけ巻いたのに大丈夫かと確認していく太宰は福沢をじっと見つめてまたため息をついた。
「これ、心もとないんですけど」
「こんなに巻いて何が心もとないのか分からんな。傷は全てかくれている」
 福沢が再び太宰の怪我を確認していく。うんと頷いて離れていたのを包帯は一部ですからと答えていた。全くとため息に似たものをだす。
 困ったなと太宰は思った。
 それが自分のせいであることは気にしない。
「今晩は店が開いていないからな、明日店が開いたら買ってきて巻いてやる。それまではそれで我慢しろ
 それで、待っている間は寝ていると良い。客室に案内する」
 福沢が立ち上がるのに太宰は目を丸くして福沢を見た。
「え、泊まるんですか」
「当然だろう。その傷でまさか働くつもりか」
 太宰が問いかけるのに、福沢の方が目を丸くして太宰を見ていた。はっと開く口。きょとんと太宰が首を傾けた。
「働くつもりもなにも普通動ける傷ですけど」
 強がりでも何でもないように太宰は言う。立ち上がるとするのを福沢は抑えた。
「そんな傷で動くな。暫くお前は大人しく布団にはいって休んでいろ。そこまで私が連れていく」
 暫くと太宰が首を傾けたまま口にした。瞬きを繰り返した後、少しだけ眉を寄せて福沢を見る。あの、暫くってどれぐらいですかと嫌そうな顔で聞いてきた
「暫くは暫くだ」
 福沢はそう答える。太宰の眉には深い皺ができた。
「確認しますが、数時間でしょうか」
「本当にそう思っているのか数日だ」
「仕事は」
 福沢の言葉にうげと太宰は顔を歪め、それから辺りを見渡して口を閉ざす。少しの間、何かを考えるように上を見上げていた。
「仕事は?」
 口を開いたと思えばそんなことを聞いてくる。何を当然なことを聞くのだとばかりに福沢は素早く休みだと答えている。
「怪我人に必要なのは休養だ」
「……」
 太宰の目がギョロリと福沢を見た。まじまじと見つめてくるのに福沢も真っ直ぐに太宰を見つめる。何となく次に言われる言葉が分かった。次はきっと本気を疑ってくると。
「本気ですか」
「本気だが」
 太宰は首を傾けた。
「これぐらいの怪我で休ませるなど人件費の無駄では。動くことに支障はないのですから、働かせた方がいいでしょう」
「それだけの怪我で動くことに支障がないはずないだろう。痛くてこうしているのもしんどいはずだぞ。痩せ我慢もほどほどにしておけ」
 太宰の目が何故か大きくなった。見開かれ、小さく唇が開く。ぱちぱちと瞬きをして、それからふうと笑おうとしたのだと思う。だけどその動きは途中で止まり、太宰はじぃと自分の体を見下ろす。
何かをむっと考えるように一瞬だけ顎に手を置きながらすぐにまた笑っていた。今度こそ笑みになっている
「痩せ我慢をしているとかではないのですが、どうしても動いていないと落ち着かないんですよね。私仕事人間なので」
 どの口が言うのかと呆れたようなことを太宰は言うが、福沢にはそんな言葉はあんまり聞こえていなかった。じぃと太宰を見下ろしてしまう。太宰は笑った顔を向ける。
それは少し前、笑おうとしていたものとは違うもののように思えた。
 太宰の前に座り直しながら、福沢は太宰の服に触れた。少し考えてから太宰の脇腹に触れていく。すまないと言いながらその場所を弱く押す。そこは怪我をしたばかりの場所でそんな風に触れば、普通であれば痛みを感じるはずだ。
 だったけど、太宰は顔色一つ変えず、福沢の動きを見ていた。
後から遅れて痛そうな素振りをする。それには意味がなく福沢は険しい顔をして太宰を見つめる。
「痛みを感じないのか」
 低い声が太宰を聞く。太宰は上を見上げてあっと声をだした。何かを悩むようにその瞳は畳を見てそれからそうですと声を投げ捨てていた。
「まあ、でもこれは結構便利ですよ。感じない分、酷い怪我などでも動けますからね。さすがに神経とかやられたら無理ですけど」
 上を見上げて太宰が話す。何となく対応が雑になって来ているのに福沢は気付いていた。太宰をじぃと見つめるのに天井から目線をそらし、太宰は触れている手を見た。
「分かりました。もう良いでしょう。今日はもうおいとましますよ。また明日探偵社で」
 ふわりと笑い立ち上がろうとする太宰。福沢はその手を握りしめた。
「駄目だ。今日は止まっていけ。と言うが数日ここにいろ。お前には暫く大人しくしていて貰う。その間の世話は私がする」
「え」
「怪我は侮っていいものではない。一つの切り傷ですら対処を間違えれば死ぬ事もるんだぞ」
「それで死ぬならそれまでだと思いますし、私としてはありがたいのですが」
 太宰が不思議そうに言うのに福沢は頭を抱えたくなった。そういえばこいつはそういう男だったと思い出したのだ。ため息をつきながら駄目だという。
「おとなしくしていろ」
 えぇと太宰の口が尖る。何故と不満そうに首を傾けながら、すぐに社長は心配性だったのですね。何てちょっと違うことを言ってくる。
「でもいいのですか」
「何がだ」
「だってほら」
 太宰の手が福沢に自ら触れた。掴んできたのを福沢は見下ろす。
「異能が消えているでしょう」
 太宰が問うのに福沢は軽くだが目を見開き、それから眉を寄せた。
掴まれた個所から太宰の異能が発動し、自分の異能を打ち消しているのはなんとなく感覚でわかる。それは治療の最中、太宰に触れている時から感じているものだ。
 太宰は福沢から手を離したり掴みなおしたりして、その感覚を何度も引き出していた。
 離れた一瞬でまた発動された異能。それは触れられた個所から消えていく。ぞわりとするような感覚であった。
「社長の異能は仲間の異能を補助する素晴らしいものでしょう。それが何度も消えてしまうのはあまりよくないと思うのですよね。
 怪我の手当てでは嫌でも触れてしまいますし、貴方が私のけがを見るよ言うのはやめておいた方がよいと思うんですよね」
 太宰は下から見上げてきて笑う。言っていることは確かに一理あった。だが福沢は考えた末に首を横に振っていた。
「駄目だ」
 太宰の目が震える。えっと出ていた声。
「今現在、私の異能を必要としているものは社員にいない。あってもなくても何も変わらない無意味なものだ。だからこうしてお前に触れることは何の問題もないのだ」
 福沢の手が太宰に伸びて、太宰の腕を掴む。掴まれた腕を見下ろして太宰はでもと言った。
「それは今の話でしょう。何時かは必要となる社員も現れるかも。その時になってから触れないようにするよりも、そうなる前からお互い触れない距離を保つとしっかりルールを決めておいた方がよいとは思っていませんか?」
「……まあ、確かに私はお前ほど器用でもないしな。怪我しているのを見たらつい触れてしまうかもしれない。そういうことを考えたら、だけど」
 言いながら福沢は太宰を見た。じっと見てる太宰と頷く。
「怪我をしている仲間を見捨てる理由にもなれぬ。どうせお前は他の誰にも言わぬし、だけど言えば怒るのだろう。それであれば私が診るしかない」
 太宰の肩がそっと下がった。負けを認めはーーいと赤い舌を出した。


 翌日、太宰は襖の奥に誰かが立つ気配を感じて睨みつけた。起きているかと呼びかけられてすぐに傍に立っているのが福沢であることがわかる。太宰は答えずにごろりと横になった。
 その際、怪我をしたわき腹を下敷きにしてしまったが気にすることはない。
 形だけ口を閉じるのに襖が開いた。
「寝ているのか。一応包帯を買ってきたのだが」
 がっと太宰の体が布団から起き上がっていた。早くくださいと言われるのに福沢は呆れたため息をつく。
「起きているなら返事ぐらいしろ」
「別にいいじゃないですか。貴方だって私が起きているのわかっていたでしょ。それをわざとらしく起こそうとするなんて」
「まあ、そうなのだが、」
 福沢は手にしていた袋から包帯を取り出しながら太宰の傍までいく。来て再びため息をついた。
「横を向いて眠るのはいいが、怪我したところを下にして眠るのは止めた方がよい」
「なんで分かるんですか」
「寝癖がついている」
 福沢の手が自分の自分の髪の左側をたたいた。太宰もつられて右側を触る。さわとした感触。ふむと思いながら好いていく。
「包帯を巻きたいです」
 太宰の手が福沢の手にする包帯に伸びた。福沢は触れようとしてくる手を抑えて包帯を遠ざけていた。
「私が巻くからお前は大人しくしている」
「嫌ですよ。絶対少なく巻かれるじゃないですか」
「ちゃんと昨日と同じ全身巻いてやる。必要だとは思わぬがな」
「必要か必要じゃないかではなく、私の一部なのです」
「そうか」
 呆れた顔で福沢は頷く。理解しようとすらもう知っていなかった。もうと太宰が頬を膨らませる。
「それに隠したものは暴きたくなるのが人の性でしょう」
「ん」
「性の仕事をこなすときなど、この包帯は案外いい小道具になってくれるんですよ。
この包帯の下を男も女も見たがる。でも簡単には外してあげないのです。じらしてじらして少しずつ。首から胸までの包帯を外してあげたころには相手は私に夢中、私しか見えていない。
潜入捜査で何度も相手に抱かれる必要がある時などは、この手で興味を引き出せますし、逆に一度しか相手にする気がない時は、何層にも巻いた包帯を見せつけてやる気をなくしてやるんですよ。
隠れたものは気になるけれど期待した瞬間、何度も落胆させられたらうんざりしてしまいますからね。だからキープしておきたい相手も加減を間違えれば切れてしまうんですけど。
それはまあ、腕の見せ所ですよね」
 太宰に包帯を巻くため、その傍の布団などをのけようと福沢の手はしていた。だが太宰の話にすぐに止まってしまった。何の話をされているのだと太宰を見つめるのに、太宰の顔色などは変わりなかった。
いつも通りの顔でとんでもない話をされていく。
「そんな仕事がいつ入ってくるかわかりませんからね。だから毎日しっかりと包帯を巻いているのは私なりの仕事に対する誠意なんですよ」
「仕事をまじめにしたことがないやつが熱意などと言うな。それに」
 分かりましたかと太宰はドヤっと口角を上げて福沢を見た。とりあえず何とか拾えた最後の言葉にだけ突っ込む福沢。固まって太宰を見る。数分してやっと福沢は動き出しはじめた。
「探偵社はそんな仕事を受けることもやることはない。つまりそんな準備は不要だ」
 固い声が出ていく。太宰は不思議そうに首を傾けた。おや? そうですか? と疑惑を感じているように福沢を見てくる。
「でもそのようなことが必要な依頼は来るのではないですか。好きもの多いですからね。
 陰間茶屋への潜入任務とか」
「なぜそれを知っている」
「何のことですか」
 ふわりと笑うのを睨む。太宰は小さく舌を出して、そして笑った。
「安心してくださいよ。貴方が断った依頼を勝手に受けたりはしていませんから。勿体ないなとは思いましたが、でも私も丁度、昨日話した件で怪我して潜入捜査をするのはちょっと難しいところだったんですよね。
 後々色んなことに役立ちそうだから勿体なかったんですが」
 はぁとため息をつかれるのにそれはつまり、それがなければやっていったということでは。と福沢の背筋にたらりと冷たいものが流れた。現金なもので社員を傷つけた存在に腹立っていたものの、そのおかげで助かったのかと思うとほんの少し許してやるかという気持ちになっていた。
 ほんの少しだけだが。
 太宰を見るのに太宰はんーーと何かを考えるように顎に手を当てていた。実にわざとらしい素振り。福沢はこの後太宰が言うことはきっとろくでもないことだと分かっていた。
「今考えてもあれを断ってしまったことは凄く勿体ない事だったなと思うんですよね。
とはいえ、与謝野さんや乱歩さんにそんな仕事をさせるだなんてナンセンスなこと。国木田君はそういう仕事には向いていない。他の事務員だって向いているとはいいがたいでしょう。
というか、もしもの時を考えれば彼らでは対応できませんからね。
探偵社が今まで受けられなかったのは無理ありません。
でも今は私がいますからね。
 私はそういう仕事も得意ですので、これからは来るだけ受けても大丈夫だと思うのですよ。すべて完璧に遂行いたしますよ……。
 あと、色々無理難題吹っ掛けてくるデブの官僚とかいるでしょう。
何処で誰に聞かれているのか分かったものではないので敢えて名前は言いませんが、あの趣味の悪いスーツ着た禿げた男とか。靴で身長誤魔化しているのバレバレな男とか。金で大学入って授業もろくに出ていない小学生以下の馬鹿とか。
彼ら全員私なら落とすこと可能ですよ。仕事ももっとやりやすくなると思うんですよね。
後、ほら。社長にくだらない注文してきてる輩もいるでしょう。無下にできないのであればいっそ別の人間を押し付けるのも手ですよ。
 私に任せてください。心労から解放することができます」
 ぺらぺらぺらぺらとよく回る口を福沢は疲れた気持ちで見つめていた。なんとなく話の流れがわかってからはもう右から左へと聞き流していた。良く動く口に途中で噛んだりしないのだろうかと余計なことを考えながら見つめた。
 太宰の口が一度だけ閉じた。やっとこの話が終わったかと思い、何を言えばいいかと考えだしたところ、続けられた話には眉を寄せた。険しい顔になるのに、太宰は構わずぺらぺらと続けていく。
 どこに誰がと心配するのはいいが名前を出すよりもずっと問題だと思うがと、ちょっと思考が端に寄りながら、その話の内容に福沢は目を見開いていた。
「なんでそれ」
 思わず出かけた言葉は太宰に奪われ、そうした方が楽ですよ。ねぇと太宰に微笑まれた。固まってしまいながらも福沢は太宰を睨みつけた。
 脳裏にいつか殺してやりたいと思っている男の姿が浮かんだ。福沢をいやらしい目で見つめては体を求めてくる男だった。厄介なことに探偵社成立の際や、それ以外にもいろいろと手を貸してもらっている上、かなりの地位のもので乱暴に振り払うこともできないのだ。難儀している相手。
まだ脅して無理矢理行為に及ぼうとすることはないが、それに近しい事ならば、させられそうになるので、時間の問題なのではと思っている嫌な相手だ。
 思い浮かべてしまったのに舌打ちを打つ。太宰はにこにこと笑う。
 どうしますと問いかけてくるのを見る。福沢はとっくの昔に美醜に興味をなくしてしまったが、それでも美しいと思えるような男だった。確かにその男だったら落とせるかもしれない。
 でも福沢は大きなため息をついた。
 見下ろし笑う蠱惑的な顔にデコピンを一つ落とす。太宰が虚を突かれたような顔をした。変わらず痛みを感じているようなそぶりはない。何をするんですかと大げさな動きで頬を膨らませ睨んできたがそれだけだ。
 普通ならそれだけではすむような痛みでないはずなのに、本当に何も感じないのだなと福沢は細い息を吐く。
「……なんですか」
「なんでもない。
 それよりお前の話は全部却下だ。お前だけじゃない。他の社員にも私はそのようなことをさせるつもりはない」
「どうしてです。嫌なら任せてしまえばいいし、どうせ今後もあのような依頼をしてくるものは現れるんです。一人ぐらいそういうものをする人がいてもいいと思いますが。
「お前の言っていたことだが、前半部分だけはまあ、分からないでもない。分かろうとしてやっと分かるものだが、」
 できれば分かりたくもないが。渋い声で福沢は告げた。太宰は首を傾けている。
「前半部分だけでなくすべてわかると思うんですけどね。
 つまり役割分担ですよ。性任務には得意不得意でてきますからね、できる人にやらせる。事務員と調査員がいるのと同じですよ。そして社長はできないタイプです」
「さすがに質が違いすぎる。意のない相手との行為など負担になるだけだろう」
「どんな仕事でも負担はつきものですが」
 簡単なことですと太宰は話した。そんなことあるかと福沢が眉間に深い皴を作り答えるのに、それでも太宰は首を傾けたままだった。
「そうではあるが、だが度合いが違う。心を傷つけるようなことをしてほしくない」
 どうにか伝わってくれないか。福沢が太宰を見てまっすぐに伝える。それでも太宰に伝わる様子はなかった。
「別に傷なんてできませんがね。私は結構楽しくできますよ。まさか世に多くいる売春婦の女性たちすべてがやむにやまないやまない事情の上、心を壊しながら嫌々やっているとでも思っているのですか。
 それは彼女たちにも失礼というのものですよ。そういうものが多いのは事実としても、遊ぶ金欲しさにやっているものや、セックスが好きでやっているものも多くいます。誇りを持っている人も中に入るんですからね。
 そういう人たちが傷つきながらやっていると」
「……そうは思わぬし、そう思うのは彼女たちを下に見ているこちらの思い上がりだとも思うが、だけどそれでもお前にそういうことはさせぬ」
 太宰の言葉に福沢は少しの間だけ答えに困った。何を言えばいいのかと考えてしまい、まとまったのにゆっくりと答えていく。
 笑っていた太宰の目が丸くなった。
「何故」
「何故って」
 問いかけてくる太宰の目は無垢なまなざしだった。純粋に福沢の言葉が信じられないものの目。
「お前は別に性行為が好きなわけではないだろう」
「まあ、そうですね」
「で、あればわざわざ必要もなく」
「でも社長にとって煩わしい時間はなくなりますよ。仕事も増えます」
 答えようとした福沢の言葉は太宰に奪われていた。首を傾けた太宰が見上げてくる。
「ふむ。……私はそれにあまり魅力を感じぬ。それではダメか」
 今のままでは駄目だ。納得しない。感じ取った福沢は別の手を探して言葉にした。
「利益は多いと思いますが」
「私はその利益を必要としていないし、お前が大丈夫だといっても心配はしてしまう。その時間分の方がずっと損になると思う」
「それは心配しなければいい話ではないでしょうか」
 じいと福沢は太宰を見た。もうどうしてよいか分からなかった。
 太宰もじぃと福沢を見てきた。どちらの目もまっすぐだった。
 長く見つめあうのに目をそらしたのは福沢だった。下を向いて考える。一度目を閉じるのにその口を開いた。
「心配している時間も損になるが、それよりも私のプライドが損なわれる。
お前が言ったように私は自分の体を他人に好き勝手させる行為など絶対にできない。そのできない事を代わりにやってもらうのは、私が不甲斐ないようで腹が立つ。役割分担は分かるが、それでも嫌だ」
強い口調で言った。太宰を睨むようになるのに太宰の目は驚いたよう福沢を見ていた。そのまま暫く固まっている。
「子供のわがままではありませんか」
 辛抱強く太宰の言葉を福沢は待った。 
 そして聞こえてきた言葉は、福沢の眉間に新しい皴を増やすには十分なものだった。こいつはとこぶしが震える。腹が立ったが今はそんな場合ではないと何とか飲み込んだ。
「そうだな」
 プルプルと震えながらも答える。
 はぁと太宰がため息をついた。
「そんなに嫌なのですか。では仕方ありませんね。これ以上ない手なのですけどね」
「私は必要としない」
 やった。勝った。
 心の中、福沢は勝利に喜んだ。こんな面倒な戦いはなかなかないと思ってしまうのに、太宰は不服そうにしている。諦めきれずに福沢を見てくる。
「いつか必要になるかもしれませんよ」
「もしそんな時が来たとして……、その時は私がやる。社員にやらせるのは私のプライドが許さない」
 つまらなそうな顔をして太宰が吐き捨てた。その太宰を見ながら福沢は答えていた。いつか来るかもしれない日の事をまじめに考え答えたのに太宰の目は皿のように丸く大きくなる。
 はとその口から声が出ていた。
 この世のものではないものを見るような目で見られるのに福沢は困ったように太宰を見た。そしてその口を開く。言うべきかどうか考えながらも言わずにはいられなかった。

「……。私はな太宰、社員に幸せになってほしいのだ。たとえそれが望まれていなくても、分からない事でもな」
 太宰は先ほどからずっと同じ表情のまま福沢を見ていた。福沢の言葉を聞いていたかすら怪しいのに福沢は立ち上がった。


「さて、朝食を食べようか」
「えーー」
 福沢が閉めていた襖を開ける。青い空が見える。太陽はまだ低い位置にあるが、一日はすでに始まっていた。
「動け、否、ここで食べてもらった方がいいな。ここで大人しく待っていろ」
「待っていろって、私」
 太宰に手を伸ばそうとした福沢は、何かを考えこんでその動きを止めた。そして歩けるのに太宰は首を傾ける。どこかに行こうとする福沢に対して太宰は戸惑いながら声も出る。それは福沢を呼び止めるためのものではなかったが、福沢は止まって太宰を見る。
 どうしたと問いかけるのに太宰ははぁと気のない声を出す。
「否、私朝食を食べる必要はありませんが」
「はぁ?」
「普段から食べていないのでちょっと困ります。というか、こんな時間から食べるのは無理です」
 太宰の言葉に何を言っているのだろうと首を傾けていた福沢。少なくとも彼の中には朝食を食べないなどと言う選択はなくて、理解できないでいた。太宰を見たまま固まっているのに太宰はヘラリと笑った。
「朝はその日一日の始まり。少しでも何か食べておいた方がよい」
 取り敢えず福沢はそんなことを言っていた。まだ完全に理解はできていないのを見つめる。
「でも……、無理なんですよね」
 少しだけ考えるようなそぶりをして、すぐに太宰は笑った。譲る気ゼロのその笑みに福沢は考える。これ以上長い時間かけるのはあまり得策とは言えないだろう。それならば福沢が少し譲るしかなかった。
「わかった。少しだけにしておくから待っていろ。
 本当に少しだけ譲るつもりで福沢は、それだけ言い捨てるとすぐに部屋から出て行っていた。置いていかれた太宰は遅れてため息をつく。布団の上に転がる。
「人情ね」
 太宰が小さな声で言葉を吐き出した。
 人情ある男でな。
 探偵社を紹介してくれた種田長官の姿を太宰は思いだした。
「私には変な人にしか見えないのだけど、でもああいうのを人情というのかな。だとしたらそれは私には絶対に身につかないものだね」
 自嘲気味に笑って太宰は天を仰いだ。見寝れぬ天井。考えるのも疲れて目を閉ざす。


その心の奥に

「くっ。お前は思っていたよりもずっと子供なのだな」
「はぁ?」
 居酒屋の個室。
 夕食を取り、酒を飲んでいた中、突然福沢は笑いだしていた。きょとんと共に飲んでいた太宰は首を傾けて瞬きを繰り返す。何を言われたのだと困惑しながら福沢を見てその唇を小さく開けていた。
 それまでの会話に福沢が笑いだす要素は何処にもなかった。むしろ何処か殺伐とした探り合いのような雰囲気があった。それが、
 太宰が首を傾けているのにくすくすと笑いながら福沢の瞳が太宰を見た。
「すまぬな。何、少々馬鹿らしくなってな」
 その口元にまだ笑みが浮かんでいて時々我慢できないとでも言うように笑い声を漏らしていた。太宰の瞳がそんな福沢を見て嫌そうに細められた
「はぁ? 私が馬鹿だと」
 口を開けた太宰の声は低い。福沢の事を犬畜生でも見るような目で見つめるのにそんな目で見られても尚福沢は笑っていた。まるで太宰が怒っていることなどどうでもいいというように微笑んでいる。太宰はむっとした顔で福沢を見た。睨むような鋭さはなくなっていた。
 呆れたようにため息をついて頬杖をつく。
「いや、愚かなのは私の方だ。何も警戒することなどなかったのだな」
 一しきり笑った福沢はそう言って太宰を見た。銀灰の瞳からはすっかり敵意の色が抜け落ちて優しい目で太宰を見つめている。
 きょとんと色あせた太宰の瞳が瞬きをして福沢を見つめた。
「それはもしや私のことを言っていますか」
「そうだが」
 小首を傾けながら太宰は福沢に問う。にっこりと笑う顔はそんなはずはありませんよねと伝えていた。だけど福沢からあっさりと出ていたのは肯定の言葉で、それを口にした福沢は当然のことを言ったかのように当たり前の顔をしていた。
 太宰の首がさらに傾き、その目は戸惑うように福沢を見つめる。太宰の口が少し震えながら開いた。
「えっとどうしてそういう結論に至ったのか分からないですが、警戒されるのはまあ、……少々悲しいですが、それ自体は必要でしょう。私のことを警戒しないのは探偵社の社長としてどうかしていると思いますよ。私の正体を貴方は知っているでしょう」
 太宰は戸惑いながらも福沢に伝えていく。だからと言おうとしたのに聞こえてくるのはまた否定の言葉だ。
「必要ない。お前はもう関係ないのだろう」
 福沢は緩く首を振って酒を飲んだ。のんびりと飲む目は太宰から少しだけそれている。先ほどまで強い目で睨んでいたのに今はそんなこと想像することすらできない。
 太宰の口元はどうすればいいのかというように歪んでいた。
「何故」
 じぃと福沢を見つめて太宰は聞いた
「お前はここで善い人になりたいのだろう。人の役にたって生きていきたいと」
「まあ、言いましたけど嘘かもしれませんよ。貴方を騙して懐に入り込むための」
「そうしたいのは話をしていて分かった。それにそれならもっとうまいこと口にしていただろう」
 ふふ。福沢は再び笑っていた。くすくすと笑みを溢して銀灰の目が穏やかに太宰を見ていた。何も言えず太宰は福沢を見ている。所在なさげに手が箸を置いて湯呑みを手にするが、その手が口にまで運ばれることはない。
 きっと引き結ばれた口許。
 嫌そうに眉が寄せられている。くつくつと福沢はまた笑っている。
「何がそんなに面白いか分かりませんが、笑いすぎですよ」
「む……すまぬな」
「はぁ。貴方がそんなに笑い上戸だとは知りませんでした。何が面白いのだか」
 やれやれと太宰は首を振る。ふぅとでていくため息。つまらなさそうに頬杖を掻いている姿。そんなものを見てまた福沢は口元に穏やかな笑みを広げる。
「面白いと言うか、……愛おしいなとそう感じている」
 その声に似合う穏やかな声で福沢は太宰に伝えていた。伝えられた太宰の瞳は大きくなって福沢を信じられないと見詰めた後に、今度は不思議そうなものに変わっていた。
 一回。二回と口が開いて福沢を見る。
「は。何の話をしているんですか」
 太宰の声が低くなって福沢に問いかけてくる。褪せた瞳は歪み福沢の事を理解できないバカを見る目で見ていた。それでも福沢の口元に浮かぶものは変わらず。太宰を見つめる瞳の色も変わらなかった。
「いや、結構可愛らしくて愛らしい。愛おしいとそう思ったのだ」
 同じような言葉を福沢は繰り返す。変わらず穏やかで柔らかな響きを帯びっていることにまた太宰の目は大きく見開かれていた。
 見開いた眼は福沢を映した状態で暫く固まり、そして少し間を置いた後に小首を傾けられていた。
「えっと……貴方は精神科か眼科に言った方が良いみたいですよ。良いとこ紹介しましょうか」
 太宰からはそんな声が出ていく。嫌味とかそんなものは感じずに、純粋に心配しての言葉なのに福沢はくっとまた笑う。
「必要はない」
 緩く福沢は首を振った。その口が太宰の名前を呼ぶ。そこには仲間に向けるべき信頼とか思いが込められている気がして、一瞬太宰は固まった。返事を返すのも遅れるのに福沢はまた笑って太宰に手を伸ばす。
「太宰。これからよろしく頼む」
 言葉と共に何か暖かいものが太宰の頭に触れた。何かなんて言うまでもなく分かっていてそれは福沢の手だった。福沢の手が何度も太宰の頭に優しく触れて離れ、また触れていく。
 目を見開いた太宰は硬直してしまった。



血濡れた羽織

ふわりと降ってきたのは黒の色をした何かだった。
 起き上がる気力もなく緩慢に目だけを動かせば人の足が見える。その姿を最後まで見る力もなく、地面を見つめ直した。黒い何かが目につく。
 全身にかかっているようなそれに指先が触れた。動かすだけで全身が苦しいのに触れた何かは暖かかった。握りしめてその何かの中に体を収める。
 冷えきった身体が少し暖かくなった




 ふわっと何かを掛けられる感覚を感じた。俯いていた太宰はその目をゆっくりと見開いていく。
 えっと開く口。呆然と見つめるのに太宰と不思議そうに声が聞こえてきた。ぱちぱちと瞬きをして、太宰の首はゆっくりと上を見上げていく。
 人の足だとしか認識していなかったものが、自身が勤める会社の社長のものであると認識して、そしてその人物を写した。社長とか細い声がこぼれ落ちていく。
 ジィと見下ろしてくる銀灰の瞳。
 そっと視線をはずして太宰は濡れた地面を見下ろす。ぽたぽたと落ちていく雫。色の変わった地面を見つめた。太宰の手がそっと動く。細い指先が自分の肩にかかったものに触れていた。
 黒い生地が見える。それは普段福沢が来ている羽織であった。太宰の目が福沢を見上げる。
 銀灰の目と目が合う。
 目元には険しい皺が刻まれているが、見つめてくる瞳の中には険しい色はなかった。どことなく心配しているようなそんな目で見つめている。
 太宰の口がようやく動く。
「こんなところでどうしたんですか?」
 口にしている途中、太宰の目は少しだけ大きくなり、言葉が揺れていた。口を閉ざした後、太宰の目は一瞬下を向いて、その後また福沢を見た。福沢の言葉をじっと待つのに、福沢は太宰を見て口を開く。
「探偵社に帰るため歩いていたらお前を見つけた。お前はどうしてここに」
 知っている答えが返ってくるのに太宰はそうかと頷いた。問いかけられたのに自身の姿とそして傍に流れていた川を見る。
「見て分かる通り入水していましたね」
「それを見て分かるようにはなりたくないのだがな」
 福沢からため息がでていく。趣味なものですみません。そう謝る太宰に反省の色はなく、ぼんやりと福沢を見つめる。福沢の唇からため息のようなものが吐き出された。呆れたように見つめながら福沢の手が太宰に差し出される。
 ほらっと目の前に来た手を太宰は見る。その目が少しだけ開いて瞬きをした。
「何ですかこれは」
「手だ。掴まれ」
「普通に起き上がれますよ」
「そうか。どうも動きたくないのではないかと思って」
 はぁと太宰から声がでていく。太宰の目は福沢を見ている。
「確かに動きたくないですが。動くのが面倒だからなので手を差し出されても何の解決にもならないと思うのです」
 小さく開いた口からでていく言葉たち。なのでと手が動かないのに福沢は呆れた顔をしていた。お前は乱歩のようなことを言うのだな。福沢の口が言うのに太宰の口は開いた。何の話だ。そう言いたげなのがありありと伝わる。
 太宰の前から手が消えて変わりに緑の背中が見えていた。後ろに向けられる腕。がっしりとした肩を差し出されたのに太宰の口はさらに開いた。
 はいと傾く首。
「おんぶしてやる。これなら動かずとも良いだろう」
 太宰は変なものを見るように福沢を見て歪む口元。は、何を言っているのですと聞く。何とはと福沢は首を傾けた。
「動きたくないと言うからこれにしたのだが」
「はぁ」
 太宰の口からでていく声は理解していない声だった。背中を太宰に向けたまま首を捻り福沢の目が太宰を見てくる。太宰の手は伸びることなくそのままだった。
「……あのですね。手を伸ばすことも面倒なので背中にしがみつくことすらできません」
「……それはさすがに乱歩も言ってこなかったぞ。まあよい。そうなるとだっこになってしまうが良いか」
「はい? 否そこまでは」
 太宰の言葉の後暫く福沢は無言だった。無言の後、立ち上がったのに太宰からは驚いた間抜けな声がでる。近付いてくる福沢の前に手をだした。福沢の動きが止まり太宰を見た。
「何がしたいのですか」
 動かなかった太宰の目が動いている。戸惑う色を見るのに福沢は帰るだけだと答えていた。へっとまた太宰から声がでていく。
「帰るですか」
「ああ、探偵社にお前を連れて帰る」
 太宰の目が瞬く。コトンと首を傾けるのを福沢の目が見ていた。
「何故ですか」
「何故も何もお前は仕事中だろう。確か今日は調査にでる筈だっただろう。今ごろ国木田達も探しているのではないか」
 問いかけに福沢は呆れた調子で返した。あーーと太宰から変な声がでていく。
「そうですね。国木田君は探しているでしょうね。何せ彼の前で川に飛び込んだ後、岸にたどり着いたらふらふら歩いて別の川に飛び込みましたから今ごろ走り回っていることでしょう。
 でも仕事についてはご安心ください。もう調査は終了していますから」
 太宰がすらすらと話すのを福沢は聞いていた。そしてまた無言になる。口を閉ざし考えこまれるのに太宰は目をそらした。
 かなりの時間がたってから福沢の口が動く。
「調査が終わっていることを国木田は知っているのか」
 太宰から返事の言葉はでていかない。口元だけがにんまりと笑っているのに福沢はため息をつく。帰るか。太宰にそう聞いた。太宰は動きたくないですと答えた。
 分かった。福沢からでた言葉に太宰は少しだけ口を開けて下を向いた。動かずその場にいるのにたったままの福沢が動く。その足が太宰に近付いてくる。
太宰は上を見て睨んだ。
睨まれるのは気にせず、隣にまで来た福沢はそこで腰を降ろしていた。太宰の隣に座り動かないのに太宰はえっと丸くして横を見た。
「駄目か」
 聞く声は穏やかなものになっていた。低いが柔らかで心地の良いもの。キョトンと瞬きをしてから太宰は首を振る。でもなんでと言う声は飲み込んで太宰は地面を見た。
 ぼんやりと座っているのに福沢も同じような感じで座っていた。二人そんな風に過ごしていれば時間は緩やかに過ぎていく。のんびりと言って良いのか分からないが、していた。その時間が崩れるのはわりと早かった。
 太宰と突然太宰の名前が呼ばれる。
 あっと二人の口から声がこぼれていた。どちらも思い出したと言うような感じなのに、後ろからは社長。え、社長が何でと慌てるような声が聞こえだしている。
 二人の顔が音の聞こえる方を向いた。
 土手の上に太宰を探してここまで来たのだろう国木田がたっている。福沢が立ち上がるのに国木田は慌てて頭を下げていた。下に降りてきながらどうしてここにと問いかけてくる。
「太宰を見かけてな」
「そうなんですね」
「私は」
「お前はもう分かっているから良い」
 答える福沢。続いておどけるように太宰は口にしていたが、すぐにそれは遮られていた。言い捨てられるのに太宰は肩をおとした。そろそろ帰るかと福沢が声をかける。見上げる太宰。だっこで良いかと言うのにご冗談をと返した太宰も立ち上がる。
その時はらりと肩にかかっていた羽織がずれ落ちていた。
 あっとでていく声。拾ったのは福沢の手だった。太宰の手はぶら下がっている。福沢が手にした羽織を太宰が目で途中まで追いかけて、そらしていた。
 早く帰ろうと歩きだす背中。
 その前に仕事をと騒ぐ国木田。二人を見ながら福沢は動いていて太宰の肩に羽織をかけていた。えっと太宰が振り返って福沢を見る。
「濡れたままだと寒いだろう。これを被っていろ」
 そんなこんなやつにそこまでしてやる必要は慌てて国木田が自分の上着を脱ぎながら福沢に言うが、福沢はそれを止めていた。
「それより帰ろう。調査の方も太宰の方で終わっているそうだぞ」
 すこし歩きながら福沢が告げる。はぁと国木田が声をあげ太宰を見た。どう言うことだと問い出す声から逃げながら太宰は歩いていく。
 その手が自身にかけられた羽織を掴んだ。


好きと言う事


江戸川乱歩と言う男は生活力と言うものは欠片もない。
 普通からはかけ離れたような頭脳を持つ彼ではあるが、そういう事には一切その力は働かなかった。
 ゆえに彼は一人暮らしができない。と言うかさせてもらえない。夏の始まりから秋の始まりまで福沢の家で暮らし、それ以外、夏の間は社員の家を練り歩いている。何故すべての間福沢の家で暮らさないのかと言うと、福沢の家にはエアコンがないからだ。
 暑い! あの家になんていられるかと夏になると他の人の家に行くのである。行くのは主に国木田や与謝野、谷崎の所でその辺りを転々としながら時折他の人の家にも泊まりに行っていた。
 行かないのは得な生活をしていないことを知っている太宰の家ぐらいであった。
 そんな乱歩は秋も近づき夏の暑さもなくなってきたのに、そろそろ福沢の家に帰ることを決めていた。
 今日は社長の家に帰るからと告げて探偵社を出た。
 でて少しして乱歩は後悔した。だいぶ涼しくなって、昨日なんかは寒いぐらいだったのだが、西日で照らされた今日の横浜の街は厚かった。うっすらと汗がむしばむぐらいには暑いのに福沢の家に帰るのはまだ早かったか。でも明日からは涼しくなるだろうし。悩みながら福沢の家に帰った。
 福沢の家には福沢の靴はなかった。
 おそらく買い物だろう。今日帰ることは伝えていないので乱歩の分の材料は買ってこないだろう。が、騒げばどうにでもなると思い、家に入り、居間に向かった。廊下の中はわずかに暑かった。国木田あたりに連絡して迎えに来てもらおうかと考えながら乱歩は居間の扉を開ける。

 はぁとその目を見開いた。

 さわりと髪がわずかに揺れた。緑の目の中に褪赭の色が映った。きょとんと褪赭の瞳が閉じる。傾く首。
「あれ? なんで乱歩さんが」
 肩に見覚えのある羽織を掛けながら太宰が乱歩を見詰めていた。ふわふわと涼しい風が吹いている。
はぁ、なんで声を上げていた乱歩はゆっくりと上の方をみる。外が扱ったのが嘘のように仲は涼しい。
 乱歩の目に見慣れないものが映っていた。


閉じたもの


 ひたひたと時おり足音が聞こえる。
 まるで思い出したというようにひたひたと近付いてきてはその足音は私の近くで止まる。そしてなにかが私を見つめてくるのだ。
 消えてしまえ。
 低く吐き捨てる。





「社長。私は子供でもなければ乱歩さんや与謝野さんでもありませんよ」
 一瞬だけ見開かれた瞳。その目から輝きが消えてそれから穏やかに笑う。その口からでていたのは紛れもなく拒絶の言葉だった。
 柔らかく笑いながらもそれ以上は決して許さない笑み。福沢は太宰の頭からそっとその手を離した。くすくすと形のいい唇が笑う。
「寝ぼけてしまったのですか。私を撫でたところで何の意味もありませんよ」
 当たり前のように言われる。意味など必要ないのに。そう思いながら福沢はその笑みを見つめた。ただみんなが楽しげにしているのを眺めていた姿を見て、何となく撫でてみたくなったのだ。
 何故とか、何のためにとか聞かれても答えることが出来ない。そこには意味などというものはない。
 でもそれは言えず福沢は太宰を見下ろした。褪せた目が私から離れてまた二人を見ていた。みんなの楽しげな会話が聞こえてくる。
「お前は交ざらないのか」
「は? 何でですか?」
 触れたくなった手を抑えて聞いた。また見開いた目。首を傾けながら嘲笑う。
「いや、皆楽しそうにしているから。お前も交ざって話したいのではないかなと思ってな」
「ふふ。社長はどうにも私のことを幼い子か何かのように勘違いしているようですね。でも残念。私は子供ではありませんよ。今はこうして一人でいるのが楽しいのですよね。
と言うか、国木田君に悪戯を仕掛けすぎました。堪忍袋の緒に触れてしまったので落ち着くのを待っているのです。
 今からかったら怒鳴られてしまいますから」
 にこにこ太宰が笑うのにむとその笑みを見つめる。
「今は怒っていないようだが、」
「私ではないですからね」
「そうか」
 太宰を見る。その目は何処か悲しそうにも見えた。手を伸ばし掛けて止めたのは太宰の静かな瞳が福沢を見つめたからだ。止めてください。と声にもださずその瞳が言うのに福沢は手を元に戻した。
太宰はそっと視線をそらしてまた皆をみだす。 
そんな太宰を福沢は見ていた。目線はみんなを見つめる。ちらっと何度も太宰を見てしまうのに太宰が何かを言ってくることはない。ただ静かに見ていたのに突然その瞳が揺れた。えっと何かを驚くように見開いた瞳。
 太宰の目が周りには気付かれないように左右を見て正面を向いた。
 正面を向いてみんなを見だす瞳は、だけどすぐに下を向いて机の目だけをみだす。
 どうしたと問いかけてよいのか。考えながら、太宰を見るのに、太宰の手がゆっくりと耳の辺りを塞いでいた。ん? とその様子を見る。小さく眉間にできる皺。
 まるで何かから隠れるように太宰は蓬髪の下、目を閉じていた。
 何かあったのだろうか。
考えたが、何も思い付かないのにひたりと奇妙な音を福沢は耳にした。
 目を見開いて辺りを見回すのに周りには誰もいない。
 そもそも人が近づいていたら気付く筈なんだ。思いながら福沢はもう一度周りを見た。何もないだけどひたりと足音が聞こえた。




[ 27/64 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -