君に希う

 気付くと私は医務室にいた。そうなる前までの記憶は一切なく少し戸惑う。目覚めればベッドの上なんて云う事はよくあることではあったが、それでもどうしてなのかすばやく思い出せないことはなかった。何より医務室にいたであって、そのベッドで眠っていたではなかったのだ。私は何故か気付くと医務室に立ち尽くしていたのである。
 正直意味が分からない。
 私は夢遊病にでもなったのだろうか? 今までこんな事一度もなかったのに突然? それとも何か飲んだか食べたか。やばいものを食べることは幾度となくあれど薬への耐性ができているせいで完全に意識を失ったことはこれでもないのだけど……。そんなものがあるならぜひ死んでいたかった。
本当に何故こんなことに。一人で考えても埒が明かない。これは一旦部屋を出るべきだと扉の方に向かう。幸いここは見知った武装探偵社の医務室だ。僅かに聞こえてくる声もみんなのもの。みんながいるなら安心できる。適当に振舞って私がどうしていたのかを聞き出そう。
 医務室の扉は何故か空いていた。その扉から外に出て、みんながいる事務所に続く廊下を歩く。事務所に行けば聞こえていた声から予想した通り探偵社社員殆どみんなが揃っていた。いないのは社長ぐらいか。全員真面目に仕事をしているのを見てふっと首を傾げるのは何故ここに与謝野先生がいるのかという事だった。
 別に与謝野先生が事務所にいるのが悪い訳ではないのだ。だけど休憩時間以外に顔を出すのが珍しかったので気になってしまった。何やら書類仕事をしているみたいだが、それもいつもなら医務室でやっているの事なのに珍しい。そう云えば奥のベッドのカーテンが一つ掛かっていたが誰か眠っていたのではないだろうか? その人を気遣って? それもなんだか釈然としない。寝ていたとしたら誰が。探偵社員は皆ここにいる。いないのは社長ぐらいだが社長が医務室にいるのなら乱歩さんとかはそっちにいるだろう。社長室の方からは明かりがついているのも見えるし……。だが探偵社員でなければ与謝野先生でなくとも誰かしらが見張る筈なのだが……。
それに何かが妙だった。 
 事務所がいつもとちょっと違う。みんなぼそぼそと事務報告程度の話をするぐらいで静かだ。なんだか沈んでいるようにも思える。それに私が来たと言うのに誰一人声をかけてこない。まるで気づいていないようだ。敦君は一度私の方を見たのだけどな。それでも気付かなかったように仕事を続けている。
 やあ、みんな仕事熱心だね。感心感心
 声を上げてアピールしてみても誰も見やしない。流石の私もちょっと寂しいよ?
 ねえ、谷崎君。みんなどうしたの? そんな急ぎの依頼とかあったけ?
 状況が欠片も理解できず私は素直に聞いてみることにした。近くにいた谷崎君の肩に手を置きながら無視されないよう顔の前に回り込む。そうして聞きながら私は目を見開いた。
 確かに私は谷崎君の肩に手を置いたのに何一つ感触を感じないというか……。
 すり抜けたのだけど…………。
 今の状態はと云うと谷崎君の肩に私の手が埋まり、後ろから見たらまるで肩から手が生えたかのような状態に。え? 何このホラー。怖いのだけど。
 私いつからすり抜ける異能力とか身につけた? 谷崎君の異能というのは私が触れている時点でありえないし。と云うか、この状態でも無視とはやるね、谷崎君。君も肝が据わってきたものだ。
「ねえ、賢治君」
 今度は標的を賢治君に変えてみるが駄目だった。またすり抜けた。声にも反応されない。頑張って女の子ボイス出してみたのに……。誰も振り返ってくれなかった。却って恥ずかしいじゃないか。与謝野先生ナオミちゃん乱歩さん、敦君、鏡花ちゃん、国木田君とやってみたが全滅。誰にも触れられなかった。何処触ってみても駄目。全部すり抜けて体の向こう側に出ちゃう。試しに敦君で全体がすり抜けられるのか試してみたけど見事成功。でもやった直後敦君が急に震えだしたからあまりやらない方がいいだろう。
 それから目の前で手を振ってみたり、顔を近づけてみたりとしてみたけどそれもまるで駄目。みんな気付かないように仕事を続ける。耳元で喚いても歌ってもちょっと厭らしいことを吹き込んでみても無反応。あの国木田君でさえ何の反応もせず眉ひとつ動かさないのだから、これはいよいよ認めるしかないだろう。
 まあ、分かってはいたのだよね。
 最初から。医務室で気付いた時から薄々分かっては……。
 だってなんか私透けているし……。足ないし……。歩いているっていうより浮いているって感じだし……。
 これってあれだよね。世に云う幽霊ってやつ? あの死んだ人がなる奴。
 そっか。私死んだのか。
 死ぬ前の事全く覚えてなくてどうやって死んだのか分からないのだけど、それでもそっか。死んだのか。ヤッター。これでこの退屈な世界から解放された――って、違う! そうじゃない 死んでも幽霊なんかになっていたら意味ないじゃないか! 死んだら何もかもなくなって何も感じなくなって何も考えなくてもすむようになるってそう思っていたのに。死んであるのは暗闇だけだと思っていたのになんで……。なんで幽霊なの?
 私この世に未練なんてないよ。しかもよりによって探偵社で目覚めるだなんて一番居にくい場所じゃないか。何となく感じてはいたけど武装探偵社内からは外には出られないようだし。試してみたけど無理。人の体をすり抜けられるみたいに壁をすり抜けることはできるのだけど、探偵社の外に出ようとすると見えない壁みたいなもので弾き飛ばされる。
 どうやら私はここ、武装探偵社で残り一生、どれだけあるかもわからない幽霊人生を過ごさなければならないようだ。勘弁してよ。
 しかもみんなの暗い様子から見るにこれ私が死んでからそう時間たってない奴だよ? 何自意識過剰なことを、って自分で凄く思うけどでもこれは絶対そうだから。だって私の机まだ残されているし、多少片付いているようにも思えるけど、私がいた頃と同じように書類が乱雑に乗っているのを見ると死んだばかり感が漂う。花がいけられてなくてそれだけが救いだと思う。
 そんなのが活けられていたら私いたたまれなさで死んじゃう。もう死んでいるけど。
 敦君とかなら私が死んだら多少悲しんでくれるかなと思っていたけどまさかこんなにとは。
 みんな別に悲しまなくてもいいのだよ。私元々死にたかったのだから。知っているでしょ。私が自殺愛好者なことぐらいねえ。
 だからむしろ死んでよかったみたいな。
 まさか乱歩さんまで私の死で落ち込むとは。ほら、どうしたのです。いつもは職務中でもお菓子バリバリ食べているでしょう。ラムネ飲んでいらっしゃるでしょう。ゲームだってしたりしているじゃないですか。食べてください。飲んでください。ゲームしてください。
 そんな書類と睨めっこしても貴方には意味ないでしょう。ほら、殺人事件とか解きに行きましょう。好きですよね。あ、これとかいい感じじゃないです。乱歩さん好きそうですよ。私お共しますね。ここから出られないのですけど。
 あ〜、そうだ国木田君。君が私の事なんかで落ち込むなんてらしくないよ。君の予定を邪魔するやつがいなくなったんだ喜ばなくちゃ。ほら、ばんざーーい。ばんざーーいってね。ねえねえ仕事やろ仕事。どうしたのいつもと違って全然進んでないよ。隣の机をいくら見たところで誰もいないよ。なにもしてこないよ。だから集中しよう。
 敦君も隣の机見ちゃだめだよ。誰もいないから。君に仕事を押し付けたりなんかしてこないから。ほら、見てみな。折角最近書類を作るの上手になっていたのにミスだらけだよ。なおさないと国木田君に怒られちゃう。

 あーー、もういたたまれない。なんでこんなことに。

 ●

 誰か……助けて。
 …………死にそう。死んでいるのに死にそうとか何を言っているのだって感じなのだけど本当に死にそう。ていうか私死んでなかった。生きていた。死んだと思っていたのは私の勘違いだったみたい。
 あの後あまりの居た堪れなさに元いた医務室へ逃げ込んだのだけど、逃げ込んで暫くたった頃に敦君が来て……。あれ? 何で敦君? 与謝野さんはと思った所で敦君が奥のベッドに引かれていたカーテンを開けた。
 そこに横たわっていたのは私だった。
 あれ? って、思ったしとても恥ずかしい声も出てしまった。幽霊で良かったとこの時ばかりは思った。
 横たわっている私は何か沢山管を付けられていて植物状態のようだった。目覚めるのもいつになるのかって感じで……。
そうか私は所謂生霊ってやつかと気付いた。
他の人ならその状態でも与謝野さんがいるから治療可能なのだろうけど、私の異能人間失格は異能力無効化の異能だから与謝野さんでも無理なのだろうな。一度殺してから蘇生させてと云うやり方もあるにあるが、この状況ではその荒業を使うのはリスクがありすぎるだろうしね。まあ折角死ねているわけだし私としてはありがたいかな。正式には違うとはいえ目覚めないなら似たようなものだろう。このままそっとして目覚めさせないでやってくれ。
 私もいろいろ不便だけど生きているよりはこっちの方がましだから我慢することにするよ。どうせそのうち消えるだろうしね。なんてとても楽観的に考えていたのが間違いだと知ったのはすぐのことだ。
 何故か知らないけどみんなが来るのだ。それはもうわんさかわんさか。私のいる医務室にやってくる。
 最初に来た敦君は仕事の話や昨日あったことの話、それからこないだ行ったお店がすごく美味しくて私の好きな蟹料理もあったから是非行こう。自分が奢りますよと云うような話もしていた。その話にはちょっと心惹かれるものがあったのだけど涙声はやめよう。涙は出てないけれど目に涙がたまりかけているのをみると罪悪感のようなものが胸に刺さるからやめよう。無理に笑おうとしているのも心に来るからやめよう。
 敦君が来た後に今度は賢治君。賢治君は今日の探偵社のみんなの様子とかを話してくれる。いつも通り笑顔で元気なのだけど、その元気さが空元気と言うか無理矢理作ったようなもので見ていて痛々しい。ごめんよと言いたくなるものだった。
 賢治君の次は鏡花ちゃん。敦君と同じような話に美味しいデザートのお店を見つけた。一緒に行こうと言ってくる。一緒に暮らしていると思考が似ると云う話を聞いたことはあるが、鏡花ちゃんと敦君の二人は私を食べ物で釣ろうとしているのかな。釣れないけどね、残念。でもただでさえ表情の乏しい鏡花ちゃんに無表情で肩や握りしめた手を震わせながら話されると胸に来る。息が苦しかった。
 耐えられなくなって逃げ出してもその先は事務所。先程逃げ出してきた場所だ。それでも医務室よりはましなのではと体を丸め目も瞑って居座れば次々と感じる医務室に向かう気配。思わずちらちらと見てしまう。谷崎君にナオミちゃん、与謝野先生、乱歩さん、国木田君までもが仕事の合間に行く始末! しかも何かな、気のせいでなければいそいそと行った乱歩さんの持っていた駄菓子が戻ってきた時には無くなっていて。中で食べたのですよね? ねぇ、そうなのですよね。
 横たわっていた私の近くに何か色々置かれていた気がするけど気のせいだよね。確かめに行くのも怖い。しかもこれは午前中の事でまた昼になったらそれぞれ行きだしたりして……。
 事務所にいるのも嫌になって私は最終的に社長室に逃げ込んだ。
 最初はトイレや給油室などに逃げたのだけどたまに入ってきた誰かの押し殺した泣き声とかが聞こえてきたりして……。ここなら誰もやってこれまいと社長室に。
 中には社長がいるけどまあ。……まだ。何となく落ち込んでいるようにも思うけど普段から表情が分かりにくい人だから。気のせいかな程度ですむし。みんなの所にいるよりは断然まし。というわけでこれからは社長室で過ごすことを決定した
 今日一日で私今後一生分ぐらいの疲労を味わった気がする。
 自分が死んだ後、死んでないけど似たようなものの世界を見るなんてどんな悪夢だ。私だって自分が死んだ後に悲しむ者がいることぐらい何となく分かってはいたのだよ。理解したくないことだったし、ポートマフィアにいた頃だったら絶対に思わなかったことだけど。この善人の集まりのような探偵社なら私なんかが死んでも悲しんでくれるのだろうなという事は分かってはいたのだ。
 だけど仕方ないだろう。
 それでも死にたいのだから。死に魅せられてしまっているのだから。お願いだから悲しまないでくれ。惜しまないでくれ。私はそんな人間ではないのだ。
 はぁと深い息を吐いた。本当にもう最悪だ。

 ●

 社長室に閉じ籠っているといつの間にやら外は真っ暗になっていた。
 こんこんとノックの音が響き外から国木田君が社員全員あがりますと社長に声を掛ける。それに簡単に返す社長。どうやら社長はまだいるようであった。みんなが帰ったのであれば社長室にいる理由はなくなるのだけど、どうせ私は探偵社から出られない身。暗い事務所の中で一人と言うのも寂しいのでもう少しお邪魔する事にした。
 一社員が社長室の中に長時間。しかも無断でなんて結構やばいことだけど幽霊だしいいよね。
 何か知っても言いふらせない。
 そうやって勝手に決めて居座ってしばらくふっと私は首をかしげた。国木田君が社長に声をかけてから一刻過ぎた頃だった。もうそろそろ帰ってもよさそうなものを社長はまだとどまっている。最初は仕事をしていたものの気になって見て見れば今は仕事をしている様子でもない。腕を組んで何かを考え込んでいるようにも見えるが、それにしてももう遅いのだ。帰りながら考えてもいいだろうに。
 如何したのだろうと近づいてみるが今は問いかけても意味はないので何もできない。
 社長の平素とあまり違いが見受けられぬ顔では流石の私も考えを読み解くことは容易ではない。
 何かを憂いているようなそんな感じがする程度だ。
 こんなに遅くまで社長が憂うような問題があっただろうかと考えてみるが駄目だ。ここ数日の記憶が曖昧で全然思いつかない。正直今日の日付すらわかっていない。私が倒れてから一体どれくらい経っているのだろう。私が倒れた原因だって何なのだろうか。
 ついに自殺成功はまだしてないけども成功しかけならいいのだが……。もしそうでなければ? それは些か問題かもしれない。へまをしたにしても私があんな風にやられる敵だなんて。探偵社の他のみんなは無事だ。だから気にしないことにしていたけれどもしかしてその事件が解決していないとか……。私単独行動好きだし、だから単独で行動していた時に何かあってああなって実は何があったか誰も知らないとか。……可能性としては少ないけどないとはいいきれない。
 社長が憂いているのがその事だったりするのであれば確かにそれは危ないかもしれない。
 どうせ幽霊だし。今の世界のことなど知っても意味ないだろうとか思っている処ではなかったのかも。生前の私の行いで探偵社に何かあってもいけない。何ができるか分からないけど情報だけでも集めてみるか。
 それぐらいならこの姿でもできるだろうし。試してないけど軽いポルターガイスト現象ぐらいなら起こせる気がするのだよね。社長のいる場所だとちょっと問題があるから一旦事務所に行こう。それで試してできたら私の机の引き出しあたりをまず探ってみよう。勝手に引き出しに鍵をかけているから乱歩さんでも開けられないはずだし何かあるならあそこが一番怪しい。
 そう考えながらいそいそと壁を潜りぬけようとした所、社長が立ち上がる気配を感じた。帰るのかとも思ったが荷物の用意はしていなかった。何も持たないまま社長室を出る。気になって私は後を付けた。思わず気配を消そうとしてしまうのは癖だ。もう気配も何もないのに。
 社長は事務所に向かい、それから……ん、嫌な予感。
 医務室に続く扉を潜ったのだけどこれって……。階段を降りる音が聞こえるのを私は恐る恐る覗き込む。確かめなくともそこにある扉は一つきりなので分かるのだけどそれでも見てしまう。
 たった一つの扉。みんな帰った後でも開け放されていたその扉の向こうに社長は消え、そして扉を閉めてしまう。
 そこは私が眠る場所だ……。
 貴方も行くのか……。
 でも、まあ社長だしね。仕方ないよね。うん。ポルターガイストが本当にできるのかどうか確かめよう。そのうち出てくるはずだから。

 結果。ポルターガイスト現象は起こせた。
 念じれば近くのものだけでなく遠くのものまで動かせることができ、ついでに何かおぞましい音を立てることもできた。後パソコンの電源を入れることができれば操作することも可能だった。なかなか便利な力だ。これでちょっとした悪戯もできるななんて楽しくなったけど、乱歩さんの事を思い出してやめておくことにした。いくら幽霊とはいえ乱歩さんは侮れない。もし気づかれでもしたら全員に怒鳴られることになりそうだし、大人しくしていよう。
あ、因みに鍵開けもできた。
 なので鍵を開け引き出しの中を見て見た。これと云った情報はなかったので特に私が危険視していたような組織はなかったようである。他のみんなの書類とかも勝手にいろいろ見て見たのだけど対した情報はない。社長が憂いるような案件は見つからず取り敢えず探偵社は安心だなということは分かった。後は私の死亡じゃなくて倒れた原因を調べなくてはならないのだが……。ふむと私は顎に手を当て考える。
 調べなくてはならないのだけど……。
 さすがにもう時間がないだろう。
 時計の短針が六の文字を指している。朝日も昇り始めているのか気付けば部屋が薄ら明るくなっていた。もう一二時間したら国木田君が来る。ここらが潮時なのはいいのだけど……。
 どういうわけだろう。
 社長が未だ医務室から出てきていないのだけど。なかなか出てこないな遅いなとは思っていたがまさかこんな時刻になるまで出てこないとは。何をしているのか気になるが、見るのは怖くて見に行くのはやめておいた。
 いつ出てくるつもりなのだろう。やることもなくなっ私はじっと開いたままの扉を見つめた。
 扉が開いたのは国木田君がやってくる半刻前になってからだった。そこから社長が出てきて扉をあけっぱなしにして戻ってくる。その後事務所のシャワー室で汗を流し、給湯室で簡単にご飯を取り社長室へと戻っていた。
 私はそれを呆然と見つめた。流れるようなスムーズな動きに何が起きたのかよく分からなかった。

中略

 社長の行動に悩まされる日々。私は不思議なことを知った。
 それはみんなが帰ろうとしている時のこと。国木田君が社長に挨拶をしにいくのを見送りながら敦君が呟いた一言から始まった。
「今日も社長は残るんですね」
「まあ、そうだろうね。妾としては体調の事も気になるし、ちょっとは家にも帰ってほしいんだけどさ。でも決めちまってるようだし」
「仕方ないですよ。社長と太宰さんは恋人同士でしたから」
「大切な人の傍にはいたいもの」
「太宰さんの事一番心配しているのは社長ですもんね」
 与謝野先生の言葉にそうだよ、そう! だから今からでも進言しに行こう。家に帰ってもらおうと思ったのもつかの間、その後に続いたみんなの言葉で固まってしまった。
 え? ちょっと言葉の意味が理解できなかったというか、聞き間違えたと思うのだけど誰と誰が恋人だって?
「そうですよね。太宰さんも早く目覚めたらいいのに。大好きな社長が待ってますよ?」
「全くだね。いつまで寝てるんだか。どこぞの女に取られても知らないよ」
「取られてかられでは遅いんですよ。大好きなら捕まえておかなくてはなりませんわ」
 え? いや社長が待っているって、え? 取られると云われてもお好きにどうぞとしか云えないのだけど……。大好きって誰が誰を? え、ええ? 何それ? 待って私知らないよ。そんなの。恋人って私と社長が? 何時? 一体何時そんな事になっていたの!? 
 初めて知ったのだけど。
 何でみんなが知っていて当事者の私が知らないの? 私いつ社長と恋人になったのさ。別に社長の事なんか好きじゃないのだけど。人としては尊敬しているけど、恋人とかないない!
 否定してほしくて唯一黙っている乱歩さんに違いますよねって話しかけるけど幽霊だから聞こえないのが憎い。違うよね、ね! みんな何かを勘違いしているだけなのですよね! 馬鹿だな、お前ら。間違っているぞって言ってやってください。お願いですから!
 懇願しているうちに国木田君が帰ってきてみんなでていてしまった……。
 私と社長が恋人なんていう話は否定されないまま……。
 どういうこと? そんな覚えないのだけど。
 呆然と社長室の方を見つめると社長が出てくる。そしてそのまま医務室に……。嘘だよね?

 ●

 私は天井を見上げる。電気のついていない暗い天井。その向こうには夜空が広がっているはず。このまま成仏できないかな、なんて考える。頭が酷く痛かった。
 私と社長が付き合っていたというあの話冗談でも嘘でもなかったかもしれない。
 気になって色々と調べてみたのだがどうやら私の記憶にはいくつかの穴があるらしかった。倒れる前の事を覚えていないのは分かっていたことだが、それ以外にも所々覚えていないことがあったのだ。例えば重症になる四か月前。結構大きな事件、しかも社長が大怪我を負うようなものがあったらしいのだが、その件についても一切覚えていない。他にもちょこちょこ覚えていないことがあって……。
 それが二三年前の記憶からという事は丁度その頃から何かがあったのかもしれない。私と社長が付き合うことになるような……、全く想像つかない何かが。
 本当どうしてそうなった?
 私男と付き合うような趣味などなかったのだけど。女の子好きだし。
 ……でも信じたくはないが付き合っていたとしたら火事の時どうして私が社長の家にいたのか説明できるのだよね。つまりそう云う事でしょ? 恋人らしいことしていたのでしょ? 想像できないししたくないけど。
 うーーん。じゃあ社長が毎日残るのは恋人の為ってことか。そう考えたら理解できるような……でもしたくないような気が。
 本当に何があったらそんなことになるのか。謎だ。…………
 …………………………

 つい考えてしまったのだけど社長はいつも一人で何をしているのだろう。眠っている……恋人の傍で何を考えながら過ごしているのだろう。少なくとも社長室ではいつも通りの姿をしていたけれど医務室ではどうなのだろう……。
 泣いたりするのだろうか……。
 思ってしまった疑問はすぐに私の中を覆いつくしてしまう。
 開きっぱなしの扉から医務室に続く通路を見つめる。医務室の扉は閉じている。他の時はずっと開いているのにこの時間だけはずっと閉まっている。
 ごくりと喉が鳴った。
 ゆっくりと近づいていく。扉は閉まっているけど私にはそんなこと関係ない。通り抜けようと壁に触れた手が止まる。
 ないはずの鼓動がどくどくと鳴っているようなそんな気がする。社長が医務室にいる姿を見るのは今日が初めてだ。他の人のなら何度か見たことがあるけど、何となく社長のものは見ちゃいけない気がしていた。
 ん、とそこで考える。何で見ちゃいけない気がしていたのだろう?
 別に社長だからとかいう考え方を私はしないと思うし、事実最初の頃避難場所に社長室を選んでいた。じゃあ、なんで? そう云えば避難場所に社長室を選んだのも如何してだったんだろう。今考えてみたら物置とかの方が人来なかったと思うのだけど。
 もしかして私は記憶として覚えてないだけで心のどこかには社長への思いが残っている? でもだとしたら……。
 扉に触れた掌が震えた。
 もう体温なんて感じなくなったはずなのにとても冷たくなっていく気がする。中を見たくない。見てはダメだと心が警告してくる。それに従うべきだと思う私もいれば、いや、ここは見るべきだと思う私もいる。
 どうするべきか悩みながらも扉から手を離さなかった時点で私の答えは決まっていたのだと思う。
 止められない好奇心? いやそうじゃない。そんな軽い気持ちじゃない。もっと重い気持ちで知りたいのだ。どれだけその先の事に恐怖していようとも、それでも扉の向こうで社長がどうしているのか。私と社長が本当に恋人同士だったのか。
 彼が私を愛しているのか……。
 ゆっくりとだが確実に私の手は扉の向こうへと沈んでいく。音もなく心臓が動いていた。

 医務室の中は薄暗かった。奥のベッドがある区画だけが明かりに照らされていてその灯すら常夜灯の頼りない灯だった。殆ど陰に隠れた医務室で社長の背中は常夜灯の明かりを受け浮き上がって見えた。
 背を向けている彼が今どんな顔をしているのかが分からない。
 どんな表情でどんな思いで目の前に横たわる私を見ているのか。踏み出した足が震えた。何故か抜き足差し足忍び足になってしまうのは気付かれる恐れを抱いての事ではないのだろう。
 ただの無意味な時間稼ぎ。
 それもすぐに終わる。あと一歩で社長の真後ろ。二歩目で横。三歩目はもう前。社長の表情がよく分かる。その三歩を私は進めなかった。進もうとして気づいてしまったのだ。眠り続ける私の頭を撫でる社長の手に。
 それは見ているだけで優しさが伝わってくるような触り方だった。
 記憶にはないそれを見て私を置いてきぼりに心が騒ぐ。ホッとしたような苦しいような悲しいような気持ちが襲い掛かってきて私は避けることもできず直撃を食らう。どういう顔をしていいのかすら分からなかった。
 鉛のようになった足を動かして残りの三歩を進む。私の足がベッドに隠れた。
 見下ろせば横たわる私の姿。随分と痩せこけていて何とも不健康そう。こんな状態で生きるぐらいなら死んでしまえばいいのに。何故最後の一線で生き残ってしまったのか。おかげで私が一人寂しく退屈だ。私は私に悪態をつく。後ろを振り向くのが怖かった。
 私を撫でる手が見える。細いのに逞しく節くれだった指。
 あの手の力強さを知っている。社を乱歩さんを他の社員を守るために振るわれてきたところを私は見ている。それとは別にその手の優しさを知っている。言葉の代わりに撫でる姿を見てきている。社長に頭を撫でられる時みんな嬉しそうにしていた。
 だけど……私は知らない。
 そのどちらも直接は知らない。
 守ってもらえるような窮地に陥ることはなかったし、仕事でへまをやらかすようなこともしたことがない。褒められるような質でもない。何時だってのらりくらりとやるだけで社長ともそう多くを話すことはなかった。
 知らない手が私を撫でている。
 それはどんな感じなのだろう。
 知らないはずなのに胸が熱くて何もない頭皮が寂しかった。頭を撫で続ける手は止むことなくずっと続いている。
 私は後ろを振り返る。
 見たかった。知りたかった。知りたくなかった。でも見たかった。
 銀髪が目に眩しいほど映る。キラキラ光るそれはまるで月の光みたいだった。その下にある社長の顔を見て私の口からはああと息が滑り落ちた。 
 社長の表情はこの私であってもいつだって読みにくかった。まるで表情筋が仕事をするのを放棄したかのように変化が少ないのだ。それに加えあの鋭い眼差し。銀灰の目は美しいがゆえに力強さを感じ、あの目に見られると怒られているわけでもないのに圧を感じる。それが余計に表情を読みにくくし何を思っているのか判断を遅らせる。
 だけど……。
 今の社長は誰もが一瞬で読み取れるような表情をしていた。
 普段とそう変わったことがあるようには思えない。目元と口元がほんの僅かに動いた程度の変化の乏しい顔。
 なのに何故だろう。胸いっぱいに感じるのだ。
 優しさを寂しさを愛おしさを悲しさを不甲斐なさを。誰よりも目の前のものを大切に思い愛しているのだと感じるのだ。
 何故か目頭が熱くなった。幽霊なのにそう云った感覚があるのに驚き、それから泣きそうなことに驚く。泣くのか? と思ったけど涙は零れ落ちてこなかった。熱くなっていた目頭もすぐに熱は収まる。だけど胸に感じた暖かさ、安堵それから罪悪感は消えなかった。
 暖かさと安堵は愛されていることに。私は、私の心は怖かったのだ。社長にもし愛されていなかったら。毎日ここに来るのがただのポーズだったとしたら。そう考えてしまっていたのだ。その考えは霧散された。愛されていないなんてありえない。だってこんなに愛おしそうに私を見ている。私に触れているのだから。
 よかったよかったと心が声を上げた。
 でも私はその心についていけない。私と社長が恋人同士であったことは理解した。きっと私は社長の事を愛していた。大好きだった。だけどその記憶が私にはないのだ。だから恋人だと分かってもどうしていいのか分からない。
 勝手に喜びを感じる心とは別に戸惑いを感じる。どうして社長はこんなにも愛しているという顔をするのか。私はそれを見て何故こんなにも嬉しくなるのか?それが今の私には理解できない。
 それに先ほど感じた罪悪感。あれは一体何だったのだろう。なんに対してどうしてそんなものを感じたのだろう。今も心の奥に潜むそれは……何を思っているのだろう。
 それがあるから私は今ここにこうして漂っているのだろうか
 社長の手が私を撫でている。長く続くそれを見つめ疲れないだろうかと思った。

 中略

 私が目覚めて二年近く。これと云った大きな事件もなく平穏な日常を過ごしていた探偵社に嵐がやってきた。
 ポートマフィアのボスである森さんが何の事前連絡もよこさずに探偵社へ乗り込んできたのだ。傍には中也を一人だけを連れていた。一時は手を組んでいたこともあるが基本的に敵同士。臨戦態勢になった探偵社を前に森さんは話をしに来ただけだと告げた。
 「出来れば福沢殿と二人きりで話したいのだけどね」
 胡散臭い笑みを張り付けてそんな事を言いだす森さんに周りはみんな警戒を強める。かく云う私も誰にも見えずとも社長の前に立ち森さんの視界から隠すようにしていた。
 途轍もなく嫌な予感がした。
 この人をいますぐにでも探偵社から追い出さなければならない。そう思った。私のそんな感情に呼応するように窓硝子がぴしりと乾いた音を立てる。小さな音は森さんや中也に意識を向けている皆には聞こえなかったが私にはよく聞こえた。
 何故か分からないが私は目の前にいる森さんに恐怖を感じていた。それも途方もないほど大きなもので我を亡くして叫びだしたくなるようなものだった。叫びださない代わりに私の周りの空気が震えて威嚇する。このようなことは今までなかった。意識してポルターガイストを起こすことはできたが自らの意思と関わりなくでるなど……。それほどまでに私は恐怖している。でもその原因が分からなかった。ただこれ以上何かが起きる前に追い出さなければと思い皆に目を向ける。今にも飛びかかりそうな探偵社の面々にお願い私の代わりにやっちゃってと懇願した。その時社長の声が響いた。
「分かった。社長室で話を聞こう」
 驚愕に目を見開く。私だけでなく全員驚いた顔で社長を見た。心配して声を上げるのに話を聞くだけだ。案ずるなと社長は云う。しかしと国木田君が口を動かしたのに対して社長は全員を静かに見回した。強い眼差しは皆から言葉を奪ってしまう。ダメですと云いたかったのに云えなかった。云った所で意味はないのに云えなかった事が苦しかった。

 パタンと戸が閉まる音が重々しく響いた。国木田君や乱歩さんに何も云わせず社長は森さんとの話し合いを決めてしまった。部屋の中には社長と森さんの二人。他のみんながすぐ隣で待機するのに私はついてきてしまった。例え何もできないのだとしても社長と森さんを二人にするようなことだけはできなかった。嫌で嫌でどうしようもない。
「話とは何だ」
「その前に太宰君の様子を見せてもらってもいいですか。元とは云え彼も私の大事な部下だ。それなりに気にしていましてね」
 社長室にはいると社長は普段己が座っている椅子に腰掛けた。机の前に森さんを立たせすぐにに問いかける。その様子から長く話すつもりがないことが伝わってきた。それに対して森さんはゆったりと笑い椅子はないのですかなんて云ってすぐには本題に入らなかった。何をたくらんでいるのかと思えたのは一瞬。私は部屋の空気の変わりように身を竦ませ思考が一時真っ白になり全て消え去ってしまった。
 今まで感じてきた中でも一・二を争うほどの強い殺気。
 私は茫然とその気配の持ち主である社長を見た。この人が強いことは知っている。本気を出せばこれぐらいなんてことはないだろう。だけど……こうまで殺気立つ社長を見たのは初めての事だった。今まで幾度となく窮地に立たされてきたが、その中でもここまでのものは見たことがない。それに……今まで感じてきたものとは種類が全く違うものだ。
 これは仲間を奮起させるためのものじゃない。
 純粋な怒りによるもの。
 相手を殺すことしか考えていない濃度百%の殺気。この私でさえ息をすることすらままならない。それなのに森さんは薄く笑みを浮かべた余裕の態度を保つ。まるでこうなることを最初から読んでいたようだ。
「おやおや。どうやら怒らせてしまったようですね。だがその殺気は修めた方がいいのではないかな? 貴方の部下たちも心配するのでは。
 それに、あの子は殺気には鋭いからね。起きてしまうかもしれませんよ?」
 社長の殺気が止んだ。ハッとしたような様子はまるで私に起きられては困るように見えて疑問が浮かぶ。社長と問いかけても声は返ってこない。代わりに扉の外から大丈夫ですかと探偵社とマフィア双方の声が聞こえてきた。二人が何でもないと答えると扉の向こうは静かになり此方側にも沈黙が走る。先程よりもました肌を突き刺すような空気。先に話し出したのは森さんの方だった。
「それで私はあの子に会わせてもらえますかな」
「会わせん。何があろうと貴殿とだけはあの子を会わせることはせぬ。それに貴殿が私の前であの子の事を話すのは止めてもらいたい。不快だ」
 体が震えるのを抑えられなかった。さっきこそ抑えられたものの社長からは凄まじいほどの怒りを感じ取れる。酷くどすの利いた声は隠すことなく殺意を伝える。この人の気に食わない行動を一つでもしてしまえば即座に切り殺されてしまう。そんな人ではないと分かっていてもそう想像してしまうほど恐ろしい声。身じろぎひとつしてはいけないと本能が私に告げてくる。
 だが社長が見つめているのは森さんだけだ。二人からしたらこの場にいるのは彼らだけなのだ。その森さんはと云えば流石に少しばかり顔色を悪くしていた。だがあくまで余裕の態度は失わない。口元に笑みを浮かべ目元を蛇のように細める。流石社長と長い付き合いなだけはあるのだろう。私などは幽霊になっていても指ひとつ動かせないというのに。社長の殺気にも多少の耐性ならついているのか。
 だから駄目なのだ。
 そう浮かんで何がと思う。だがそれもすぐに消える。今はそんな事を考えている場合ではなかった。
「それは無理ですね」
「何」
 怪しく細められた赤い目が不気味に光る。何かを見極めようとするかのような目はまるで猛禽類の目だ。
「だって私がここに来たのは太宰君を貰い受けるためだからね」
 部屋の中が凍る。何を云っているのかと私は森さんを見て驚愕した。あの人の目は本気の色をしていた。冗談でもなんでもなく森さんは私を貰い受けようとしている。それ以外は考えていない。ふざけるなと声を荒げた。動けなくなっていた体もあまりの事態に動けるようになる。
 誰がマフィアに何て。貴方の元になど戻るかと云おうとしたのにそれは声にはならなかった。
 風を切る音がした。
 一瞬だけ溢れた殺気が一点に集中する。瞬く間もないほどの速さで森さんの首筋に剣先が突きつけられていた。抜いたのは社長だ。
「よく聞こえなかった。もう一度言ってもらってもよいか」
 抑えこんだ声で社長が問う。良いですよと森さんは軽く返す。薄皮一枚の距離に切っ先があるというのにそんな風には思えない態度で笑う。剣を突き付けられる時ですら何の反応もしなかった。目で追えなかったわけでもないだろう。考えられるのはこうなることを予測していたという事。それに気付いたのは私だけではない。社長もまた気付いて刀を鞘に戻す。それを見届けてから森さんは言葉を繰り返す。
「私は太宰君を貰い受けに来ました」
 社長の拳がピクリと動いた。今にも刀に伸びそうなその手は机の上で強く握りしめられる。
「何のために」
「勿論目を覚ましてもらうためにですよ。その後はマフィアに戻ってもらいますけど。どうやら探偵社は太宰君が目覚めるのをよく思っていないようなので私の方で貰い受けてもいいかなと思ったのですよ」
「何を馬鹿な世迷いごとを。我ら探偵社はあの子が一刻も早く目覚めることを望んでいる」
「では、なぜ与謝野君を使わないのです。彼女を使えば太宰君もすぐに目覚めるはず」
「太宰には」
「確かに太宰君には異能は効かない。だがそんな太宰君でも彼女の異能を使うことができる方法があるのでしょう。部下から聞いていますよ。それなのになぜ目覚めさせないのですか」
 ぎゅっと社長が唇を引き結ぶ。私も社長を見つめてしまった。何故ですかと問いかけてしまう。森さんの問いかけはずっと私も気になっていたことだ。確かにリスクは大きい。今の状態の私なら一歩間違えれば死ぬことだってあり得る。それでも今のまま待ち続けるよりは確実な方法のはずだ。なぜみんなその手を使わないのか。ずっと疑問だった。考えたくはないがそれではまるで。
「私には探偵社が太宰君に目覚めてほしくないようにしか見えない」
 胸に何かが突き刺さるような衝撃が走った。違うと云ってほしくて縋るような目を向けてしまう。
「そんな所に太宰君を預けておくことなんてできないよ。彼は優秀だからね。鼠の脅威がなくなったとはいえ眠らせておくには惜しい」
 森さんの声が聞こえる。ああ、どうせそんな事でしょうよ。私を嫌い必要としてもないくせに私の力だけは欲しいのですよねと心の中で吐き捨てて絶対にマフィアにだけは戻らないと呟く。戻したりもしないですよねと社長に声を向ける。探偵社に私が必要となくなったわけじゃないですよねと問いかける。社長は静かな目をしていた。
「云いたい事はそれだけか」
 低い声が落ちる。銀灰の眼差しは真っ直ぐに森さんを見る。
「それ以外に何か必要かな。彼を引き取るのにこれ以上の理由なんてないと思うけど。探偵社で太宰君を扱い兼ねているなら私がもらっても困らないだろう」
 挑発するような笑みを森さんが浮かべる。維持費も馬鹿にならないだろう。探偵社にも良い話だなんて続けて良いよねと畳みかける。止めてと云おうとして声が遮られた。それは低く落ち着いていながらもむき出しの刃のような声だった。
「云ったはずだ。何があろうと貴殿にあの子を会わせることはせんと。太宰を引き渡すこともない。あの子の面倒は責任を持って探偵社が見る」
 声の一つ一つが棘となって肌を刺す。
「貴殿が云う通り私はあの子を目覚めさせるつもりを持たないが」
 ひゅと喉に息が詰まった。嘘だと冷たいものが喉元で固まった。だけどそれはすぐに震えた息に変わった。
「それはあの子に目覚めてほしくないからではない。ただ無理矢理目覚めさせる気がないだけだ。自然と目覚めるのを私は待っている。あの子には休養が必要なのだ。あの子の永い眠りはそのためのものだ」
 ならば私はそれを待つと社長が静かな声で告げる。私の事を語るその声だけは全てを切り裂くような空気の中で優しい色をしていた。良かったと体の中から力が抜ける。へなへなと床に座り込んでしまってからたけどあれ? と私は首を傾げた。社長は何を言っているのだろうと。
 疑問が擡げる中でさらに疑問は増えていく。
「あの子をそんな風に傷つけ追いつめたのは貴殿であろう。その貴殿が今さらあの子の事を語るなどとふざけた事をこれ以上するのは止めてもらおうか」
 何をと言葉が出る。何の話をしていると。鋭い目が森さんを見て森さんはそれに笑う。
「何を言っているのですか。一体私が何をしたと」
 歪んだその顔は言葉とは正反対に何の事なのか分かっているという顔だ。ぎりりと歯を噛み締める音が聞こえた。
「太宰君が眠っているのは火事のせいでしょう。私のせいじゃない。太宰君自身のせいだ。それはあなたが一番よく知っているはず。私はだからこそ目覚めてほしくないのだと思っていたのですけどね」
 がんと頭が何処からか殴られた。何か聞いてはいけない言葉を聞いた気がした。目の前にちらちらと赤いものがよぎる。
「巫山戯るな」
 獣の唸り声のような声が社長から聞こえた。それでも森さんは笑う。
「巫山戯てなどいませんが。本当の事を云っているだけです。それとも気付かれていないとでも思っていたのですかあんなの誰にでも分かるでしょう。それこそ探偵社の他の社員だって全員気付いているのではないですか。だって不自然すぎますからね。貴方と太宰君二人がいてあんな火事が事故で起きるなんて。」
 止めろと社長が叫んでいたそれでも続く言葉。私はそれに聞き入ってしまっていた。
 確かに……そうだ。そうなのだ。だけどあれは事故で書類にもそう書かれて。乱歩さんがわざわざ調査した結果のそれで……。だからあれは間違いなく事故だったはずだ。頭が猛烈に痛んだ。何かに殴られ続けている。
「でも襲撃と云う事もあり得ない。だとしたら考えられるのは一つ。
 自殺主義者だった太宰君が起こした無理心中。それがあの火事の真相でしょう」
 あ、と声が出たように思う。本当の所は分からない。
 なぜなら私の視界はその時すでに赤く覆いつくされていたから。真っ赤な火が目の前で燃える。あの日、火事の中手にした携帯電話。繋がる先からも火の爆ぜる音がして、そして私は……

「一緒に死んで下さい」


中略


 優しいものを与えたかった。もうその身に一欠けらの傷もついて欲しくなかった。抱きしめて寄り添って、その心に負った多くの傷を癒してあげたかった。ただこれからの日々に幸せだけを感じてほしかった。それだけを何より願っていたのに。
 細く力ない手を撫でる。
 生気を感じられない青白いその腕には沢山の管が繋がれていて……。ベッドに横たわる体は今日も静かに息をするだけ。その目を開くことはない。
 太宰がこうなってしまったのはもう一か月も前。私の家で起きた火事が原因だった。気付くのにも遅れた上、火の回りがあまりに早かった為助けるのが間に合わなかった。創傷こそ殆どなく見た目には重傷を負ったように見えないが、煙を多く吸い込んでしまったため脳の大半が壊死して辛うじて生命維持を支える脳幹だけが残っている状況。何時目覚めるか予測もできない。このまま目覚めない可能性だって考えられる。むしろその可能性の方が高い。無理をすれば与謝野の異能を使い目覚めさせることもできるが私はそうしなかった。
 太宰を慕う者がいること、太宰が目覚めぬことに悲しみ苦しむ者が沢山いること。分かりながらも与謝野の異能を使い目覚めさせることをしたくなかった。
 そうして目覚めさせたとしてもまた同じ事が起こると思った。今の太宰には私の言葉は届かない。自分の心の深い所に閉じ籠って何も見ようとしていない。再び傷つくのを恐れて隠れてしまった。
 だから目覚めるまで、太宰の心に深く根付いてしまった痛みが癒されるまで待とうと決めた。
 目覚めないかもしれない。
 それでも傷ついてしまった彼の傍に寄り添ってずっと待ち続けると決めたのだ。


 第一印象は得体のしれない男。正直あまりいい印象ではなかった。出会う前から不自然すぎるほど真っ白な経歴には疑問を抱いていた上、実際会ってみた所その疑問は懸念に変わってしまった。本当にこの男を社に入れてもいいのかと悩んだ。だがなにかと世話になっている種田長官の口利きとなれば無下にもできぬ。取り敢えずは監視対象として社に迎え入れた。その後入社試験を終え正式に武装探偵社の一因となったが危険要因となりうる部分を持ち合わせていることも確かだった。
 それ故と云う訳でもないのだが他の社員と比べるとあまり関わることはなかった。
些か不真面目な勤務態度ではあったがやる時は何でも卒なくこなしてしまい私の指示を必要とせず失敗もしないから何かを云う必要もなかったのが一番の原因だろうか。報告の殆ども国木田に押し付けていたのもあるだろう。避けられていたと云えばそうなのかもしれない。だがそれは何も私に限った話ではなかった。乱歩や与謝野君、それに国木田までをも太宰は避けているようだった。
 会話も普通にしているし、時に悪戯などもしかけていたがそれは全て勤務内だけでの話。仕事以外のプライベートで太宰と付き合いがあるものは誰一人いなかった。またそう云った話しをすることもなかった。人との中にいつだって一線を引いていた。
 誰一人踏み込むことを許さず、その事にすら容易には気付かせない。私を含めた探偵社の者がその事に気付いたのは太宰が入社して一年以上過ぎた頃だった。どんな時でも笑顔を浮かべ続ける飄々とした得体のしれない男。それが太宰治と云う人物評で長い事変わることはなかった。
 それが一変したのは太宰が探偵社に入社してから二年後。外国の組織、組合との対戦の折りにポートマフィアと共闘の話になってからだった。その前から少しずつ異変はあってアイツの隠してきた闇がぼろぼろと零れ落ち始めていた。長い間なぞであった太宰の前職がマフィアであった事も分かった。そして森医師との会話の中で太宰の中にある底知れぬ闇を垣間見た。
 それ以来それは度々顔を覗かせることとなった。だが、それでも太宰は此方の世界で探偵社の一員として生きていこうとしていた。あれもまた足掻いているのだと思った。途轍もなく暗い闇を背負いながらも奴なりに善い人になろうともがいているのだと。
 組合との戦いの終わり彼奴は言った。
 これで終わりではありません。まだみんなには云えませんがもっと恐ろしい何かが探偵社をこの横濱を狙いやってくるでしょう。その言葉通りに敵はやってきた。その戦いの中で私は気付いた。太宰はずっと前からこの時を予測していたのだと。そしてこの時の為に幾つもの布石を打ち続けてきていた事を。私は一度聞いたことがある。何時からだと。だが答えが返ってくることはなかった。何時ものように笑ってはぐらかされた。
 私にはその時の笑顔が何故だか子供が泣いているように思えた。
 その問いかけから数か月。やっとの思いで横浜を狙う敵を打ち倒した。その時ふと見た太宰は茫然とした顔で立ち尽くしていた。まるで何が起きているのか分からないと云うような顔で立ち尽くす太宰はさながら小さな子供だった。親とはぐれて迷子になった手を引いてくれる存在を失ってしまった子供。
 だがその子供はすぐに隠された。
 いつもの笑顔を浮かべて彼奴は皆を誉めたてた。私はその迷子の子供の顔を忘れることができなかった。
 いつも通りの平穏が町に戻る。慌ただしく時に物騒ではあるものの平和な時間が過ぎていく。その中であって太宰だけは日常に帰れていないように思えた。笑みを浮かべ装いながらもふっとした瞬間にそれは剥がれ落ちる。その下にいるのは得体のしれない者でも大きすぎる闇でもなく、小さなほんの小さな子供。
 色んなもので覆い隠して本人すらも見つけることができなくなってしまった置いてきぼりの子供。
 そんな子供をこのまま一人にし続けたくなかった。
 太宰が抱えたものは大きすぎて私では何をしてあげればいいのか見当もつかない。それでも傍により寄り添えばいつの頃からホッとした表情を見せてくれるようになった。傍によるだけで力を抜いて仮面を脱ぎ捨てる。何一つ取り繕うことなく素顔を見せる太宰は幼くその姿を守り続けたくなった。
 気付けば太宰は自分から私の傍に来るようになり、その頃から少しずつ私の思いは変化していた。最初は暗い場所に一人取り残された子供を優しい場所につれていてあげたいだけだった。それなのにいつしかその場所が私であればいいと思い始めた。太宰が安心して心からの笑みを浮かべ幸せを享受できる場所が私の傍であればいいと。
 私の傍でその笑みを浮かべ続けてくれたらどれだけ嬉しいか。そう思うようになった。
 いつまでも近くにいてほしいと……。
 私を求めてほしいと……。
 私は太宰を好きになってしまっていた。だけどそれを言葉にするつもりはなかった。それを云ってしまえば太宰を私の傍に縛ることになってしまうと思った。優しさを知らなかった太宰はまだ私が与えるものしか知らず、雛鳥のごとくそれを求めていた。だから私が云ってしまえば優しさを求めるあまりに受け入れてしまう。そこから進めなくなる。そうしてしまいたいと云う激情を持ちながらも私は云わずに雛鳥が成長するのを見つめていた。
 ぽつぽつと太宰が自分の話をするようになった。太宰の苦悩に適切な言葉を返せてあげられたのか。実を云うと今でもわからないでいる。だけど太宰は話し終わる度ホッとした顔で私に寄りかかってきたからそれで良かったのだと思えている。その頃から少しずつ太宰は私以外から与えられる優しさや愛情を受け入れることが出来るようになりつつあった。今までは気付く事も出来ずにいたものに気付き始め太宰の世界は変わっていた。
 張り付けた笑みは中々消えることなかったが、心から笑う時が増え素の表情を見せることも多くなった。
 長い間引かれつづけた周囲と太宰を隔てる一線も徐々に薄くなっていた。
 私は太宰のそんな変化が嬉しくあり、恐ろしくもあった。大きく成長した雛鳥はもう飛び立つ準備を整えていた。何時か。そう遠くないうちに私の元を飛び立ってしまうのだろう。そう思っていた。
 だけど……。
 好きですと、震えながら告げられた言葉。信じられない思いで見つめれば後から後から太宰は言葉を紡ぐ。私を好きだと。頬を赤く染めあげ潤んだ熱が籠った目で見つめられ私は……。溢れる思いを止められずに衝動のままに抱きしめ口付けた。愛していると自分の思いを口にできたのはその後だった。
 その日から始めた太宰との付き合いは子供の御飯事のように幼稚なものだった。信じられない話だが太宰は手を繋ぐだけで顔を真っ赤にして照れ、抱きしめれば石みたいに固まった。口付けようとすれば目を回して逃げ出してしまう始末。演じているのかとも疑ったことがあるが太宰の姿にすぐにそうではないと気付く。演じ続けていたのは今までの方。感情もないままにそう云ったことをしてきていたのが、感情を伴う事によって今さら羞恥を感じだしたのだ。それに困惑するのか余計に体は強調って傍にいるだけで動けなくなるようにまでなった。生殺しに違いなかったがそれが太宰だと思えば愛おしさだけが溢れた。
 ますます恋をした。
 いつまでもずっと傍にいたいと思った。
 笑う姿をずっと見ていたかった。穏やかに笑う笑顔がずっとあり続けてくれたら。
 もう苦しむことがないように。優しいものだけを与え続けて幸せにしてあげたかった。だけど……そんな願いも叶わず私は太宰を酷く傷つけてしまった。苦しめて悲しめて彼を泣かせてしまった。
 その胸に深い傷を負わせた。その結果が今だった。

 横たわり目覚めることのない姿……。いつか目覚める日は来るのだろうか。

 それは太宰と付き合い始め一年が経つ直前の事だった。その日私は一年を迎える太宰との付き合いに何か特別なものを贈りたいと一人で町を散策していた。普段これと云って記念日などを気にすることはなかったが、どうあってもその日だけは特別に思えたのだ。特別なものにしたいと。太宰の方はこれと云ってその日を気にしている様子もなく覚えてもいない様子だったがだからこそよいとも思えた。きっと私が覚えていたことに驚くだろう。喜ぶだろう。その姿が見たかった。
 一人太宰と過ごした日々の事を思い出しながら街を歩き、贈り物を買い求め、欲しかったものを入手した。その途中会いたくもなかった者にあって気分を幾分か損なうこともあったが総じてみると有意義でとても良い一日を過ごしたと言える日だった。それが一瞬して覆される。
 用事を終えて帰宅する途中で何者かの襲撃にあった。
その襲撃自体は簡単に撃退でき倒れ伏した相手を捕縛して軍警へと通報する。問題があったのはその後。すぐに軍警の者がやってきたがそれは敵の罠。敵が扮した者で引き渡したと同時に四方から襲われる。襲ってきた相手は全員地面へと転がしたがその時腕にかすり傷を負ってしまった。如何やら毒を塗られていたようで視界が回る。倒れ伏した私は後から来た者らによって何処かに連れていかれてしまった。
その後目覚めると私は何処かの部屋に監禁されており、数名の者から暴行を受けることに。それでも皆がいるから大丈夫だろうと、捕まってしまった自分の不甲斐なさに忸怩たる思いをしながらも何処か楽観していた。
それが過ちだったと気付いたのは助けに来た太宰を見たとき。
 助けに来た太宰は青ざめた酷い顔をしていた。その泣くこともできない顔を見て私は自分の過ちに気付く。自分が捕まってしまったことで太宰にとんでもないほどの傷を負わせってしまったのだと。すぐにでも抱きしめて謝りたかった。大丈夫だと言ってあげたかった。だが極限に来ていた体が云う事を聞かずに気付けば気を失ってしまっていた。
 目を覚ました時に見えたのはかつての太宰の姿。笑みを浮かべて何でもない風に装う。自分の感情を押し殺すことにたけた私と付き合う前の姿。
私が何かを言おうとしてもその笑顔で交わされて言葉を封じられる。いくら抱きしめても思いの半分も伝わらなかった。太宰をそんな風にしてしまった自分が情けなく許せなかった。太宰が大切なものを失う事を何よりも恐れていることに気付いていたのに。それなのにあんな罠にかかり敵の手に落ちてしまった。太宰に失う恐怖をまざまざと思い出させてしまった。不甲斐なく太宰が苦しむ姿を見る度に自分を殴り飛ばしたくなった。
すぐにでもどうにかしてやりたいのに私の言葉は届かなくて。せめて傍にいようと思った。
太宰の傍に寄り添い彼の傷が少しでも癒えるように。
 日に日に痩せていく太宰を見るのは監禁され受けた暴力などよりもずっと痛かった。変わりない笑顔を浮かべながらもその裏の痛みが透けてみえて私もまた何かに殴りつけられているような思いだった。毎日のように悪夢にうなされていたのにも気付いていた。その悪夢を少しでも取り除きたくて強い力で抱きしめた。何かに向けられ伸ばされる手を握りしめた。大丈夫。私はずっとここにいるから。お前の傍からいなくなったりしないからと毎夜のごとく口にした。
 それでも太宰の傷は癒される所か大きく広がっていくばかりで。
 浮かべられる笑顔も日を増すごとに陰りが見え始めていた。あの如何なるときだろうと演じ続けてきた太宰が演じることすらできなくなっていていた。
 そして……。如何すれば太宰を救うことができるのか。考え続け、ある一つの考え。武装探偵社社長としてはあってはならない馬鹿げた考えを思い浮かべ始めた頃にそれは起きたのだ。
 いつもの夜だった。普段よりもべったりと太宰が張り付いてきたが、その頃はそう云う時も多くあって別段気にすることでもなかった。
夕飯を食べる最中ももたれかかり、食べさせてくださいなどと甘える太宰が強請るままに何でもしてやった。あの頃は暗い顔をすることが増えていてその顔に少しでも笑みが浮かべばいいと兎に角太宰を甘やかしていた。私が何でも聞くのに太宰は嬉しそうにして諭吉さん優しくて大好きと何度も口にした。好き好きと何度も言い、私はと問いかけてくる。その度に好きだと返し、問われなくとも好きだと言った。どんな所が好きでどれほど愛しているのか。好きと言葉を言うたびに伝えた。口付けも強請られるままに与えた。求められる以上にした。ずっと一緒にいてその言葉も何度も聞いた。私はそれにああと返し、ずっと一緒にいる。お前こそ私の傍からいなくならないでくれと願った。
 あの頃の太宰にはふっと気付けばいなくなってしまいそうな危うさがあった。自殺未遂の回数も増えていて私の前からいなくなってしまうのではないかと不安を抱いてもいた。
 その不安が現実のものとなる。
 その日の夜、私は携帯の呼び出し音で目覚めた。周囲は赤くなっていた。何時眠ったのか記憶がなく、朦朧とする意識。不味い状況だと理解できるのにすぐに動き出せない。薬の一文字が浮かぶ中、枕元に置かれていた携帯をとる。画面に映る太宰の文字。鈍くなっていた頭も体もその文字を見れば即座に動いた。釦を押して彼からの着信に出る。太宰と叫んだ声。
 ごめんなさい。
 叫ぶ私の言葉には何も答えず、その声だけが太宰から聞こえた。こうするしかないのと細い声で漏らす。
 私と一緒に死んでください。太宰が言う。何をと言おうとしたところで何処かの柱が焼け落ちる音がしその声を遮った。通話が切れる。太宰の名を呼んでも返ってくることはない。
 赤い火が轟々と燃えていた。
 私はそれを呆然と見つめ……そして
 燃え盛る火の中に。

 横たわった太宰の頭を撫でる。目覚めない彼が追ってしまったのは体の傷だけじゃない。本当に重要なのはその心に負ってしまった深く大きい傷だ。かつての傷と合わさり全身に行き渡り膿んでしまった傷。その傷が癒されない限り太宰は何度でも同じ事を繰り返す。そしてその傷をより深いものへとしていくのだ。そう分かっていながら私は未だに太宰にかけてあげる言葉を持たない。寄り添うことしかできない。
 ならば寄り添おうと決めた。傷が大きすぎて誰の言葉も届かなくなってしまった太宰の心が少しでも癒えるまで。言葉が届くその日が来るまで。目覚めない太宰の傍で待ち続けようと。何年何十年先までも。
 「太宰。好きだ。だからお休み。お前が目覚めたいと思えるその日まで。その日までゆっくりと休むと良い。私はいつまでもお前を待っている」


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