人が化け物になるまで

 険しい目が僅かに色を変える。口を固く引き結んでいたのがほんの少し開いて……。それを見た赤い瞳が微かに細められた。
 一瞬のやり取り。目の錯覚。そう思うほどに微かな二人の変化。
 それを見た時、歓喜に溢れた。

 そうなのか。やっと、やっと、私は死ねるんだ。


「何の真似だ、太宰」
 睨み付けてくる銀灰の恐ろしいこと。その一睨みだけで人を殺せるのではないか。脳を麻痺させ心臓の動きさえも止めてしまうのではないか。そう思わせる。
 だけどそんな目を前にしても太宰は笑っていた。嬉しくて嬉しくて仕方がなかったのだ。
「今から貴方を抱くんですよ」
 組み敷いた体を見下ろし告げる。言葉の調子は何時もと同じなのに、声は随分と低く変わっていた。ふざけるな。そんな声よりも低い声が下から聞こえてくる。動けない筈の相手から発せられる殺気は、思わず飛び退きそうになるほどのものだった。
 大丈夫と言い聞かせて太宰はそこから動かなかった。
 どうせ組み敷いている体は大量の薬を嗅がされた上、口からも摂取している。どれ程の兵であろうと麻痺して動けなくなっているはずなのだ。ふふと口許が歪に上がる。
「貴方を抱きます」
 もう一度告げる太宰の手は既に相手の着物に触れていた。深い緑色の着物は無理矢理、前の袷を引っ張るだけで簡単に乱れてしまう。鍛え抜かれた筋肉が外気に触れる。
「こんなことをしてただですむと思っているのか」
「まさか」
 腹の底から吐き出された低い声に太宰は喉の奥で笑った。歪な口許の笑みがさらに歪んでいく。されどその顔には美しさがあった。思っていませんよ。口調だけは柔らかに太宰は音を紡いだ。
「思っていたより綺麗な体ですね」
 太宰の冷たい指先が福沢の体を辿って行く。薄い紙一枚挟んだようにそっと振れていく指先。ぞわりとした感触を感じ、福沢は体を震わせそうになる。歯を噛みしめ堪え、じっと太宰を見る。太宰は普段見せる穏やかな表情を消し去っていた。いつものように笑みを浮かべているが、それは全くの別物で。
「もっと傷があるのかと思っていましたが……。さすが社長と言うべきですかね。細身のわりに筋肉もついている。男の体ですね。
 この奥とかは使ったことがないのではありませんか」
 数少ない傷口に触れていく手。それは徐々に下に向かい、足元をの着物すらもはだけさせていく。裾から手が入り、固い内腿に冷たい感触が走る。さらにその奥に指は伸び、褌の境目に触れられる。
 隙間から入ろうとするかのように、細い指が蠢く。福沢から奇妙な声が漏れそうになった。唇を噛みしめるたのに、太宰は静かな目を向けている。
 静かな何もない目。褪赭の目が黒にみえた。
「本当に抱く気か」
「抱きますよ」
 抑えた声が太宰に問う。問い掛けられた太宰は笑みのまま答える。
「何のために。こんな事をしてお前は何を望むのだ」
 太宰の指が褌の隙間に侵入した。奥を目指そうと蠢いている。ぷつりと尻の割れ目に爪先が触れた。嫌悪感や違和感が体のなかから這いずり回り、福沢の目元に深い皺が刻まれる。固く体が縮まったが為に触れていた爪先が僅かにずれた。逃げた割れ目を追いかけそのなかに入ろうと指が動く。だが、体勢の関係上どうしても中まで指が入ることはなかった。
 太宰の動きが一度止まり、じっと何処かを見る。指が外れ、力がこもり立っていた太股を掴む。おしめを変える赤子のようにひっくり返されるのに羞恥で福沢の頬が赤く染まった。
 頭上で機械的な光をともす蛍光灯。そこに向けて隠された部分がさらけ出されていた。再び太宰の爪先が触れる。今度は入り口からさらに奥まで……。恐怖で締まった穴のなかを無理矢理指が侵入した。
 強烈な違和感と痛み。少しだが福沢の口から声が漏れ出た。太宰を睨み付ける目に痛みの色が混じっている。
 第一間接、第二間接、そして付け根まで。
 ずぶり、ずぶりと太宰は指を押し込んでいく。噛みしめた口から呻き声と歯の軋む音が聞こえてくるが、そんなもの気にもならないように指は肉を乱暴にかき回す。一本でさえ受け入れず排除しようとしている最中、太宰は二本目をいれようとして、もう一本の指を添えた。
 一度に二本の指が狭い中に侵入を果たす。薄い皮膚と共に肉が裂ける嫌な音が耳に届いた。聞こえた一瞬の絶叫、そして鉄の匂いに太宰の眉が寄る。滑りの良くなった中を三本の指が犯した。
「死にたいんです」
 腹を切られる方がまだ、まし。そう思えるような激痛が福沢を襲っていた。
 体全体が跳ね上がるほどの痛み。そして内蔵をかき回される異物感、息苦しさに呼吸もままらない。そんななかで何とか意識を保っていた福沢は、太宰の言葉に閉じていた目を開けた。
 うっすらとしか開かない目。わずかな視界すらぼやけていた。
 そのぼやけた世界のなか、逆光に照らされた太宰の顔は真っ暗で笑みすらも浮かんでいない。
 血塗れのなかから離れていく指。金属音がして、熱いものが押し付けられる。
 待てと言うことは出来なかった。
「死にたいんです」
 脳の細胞全てが焼け切れそうな痛みのなか。形だけは柔らかな声が耳に残る。




 ぐちゅぐちゅと響く水音。
 感じるのは快楽と言い換えることさえできない痛み。見上げる先に見える顔は口元にだけは笑みを浮かべながら、その瞳は装う事を止めてしまっている。
「森さんの事が好きなのでしょう。そして森さんも貴方の事を好いている。
 愛しているものが他の男に良いようにされていると知れば誰もが怒るでしょう。それもこんな風に無理矢理手込めにされているとなると」
「ぐっ、あぁ、あがぁ」
 奥を乱暴に突き上げられるのに福沢から飲み込みきれなかった声が上がった。噛み締めた口の端から呻き声はまだまだ漏れ出てゆく。
「相手を殺したいと思うのは当然。特に森さんは執着心が強いですからね。貴方を奪い取った私を決して許さないでしょう。私を殺しに来る。どんな殺し方をしてくれるんでしょうね。きっと死体さえもこの世に残りませんよ。生きたまま炎にくべられるか、海の底に沈められるか。いえ、きっともっと惨めな方法をあの人なら思い付く。野良犬や豚の餌になって死んでいくかもしれませんね。どんな気持ちになるんでしょうね。生きたまま獣に自分の体が喰われていくのをみるのって。それとも貴方にしたことをやり返してきますかね。どこぞの男たちに死ぬまで私を犯させる。それも良いですね。
 楽しみだな
 もっと貴方を痛め付けないとですよね。痛め付ければつけるほどあの人の私に対する怒りは強くなる。ねぇ、幾らでも助けを求めて良いんですよ。誰に助けを求めようと貴方の事なら絶対にあの人の耳に届く。
 そして私を殺しに来てくれる」
 色のない目が福沢を見下ろしている。そこからは何の感情も読み取ることができないのに、聞こえてくる声は恍惚と蕩けていて。
 口元だけが笑っている。
 肉がぶつかり合う音が高く響く。絶えることのない水音に充満する血の匂い。痛みのなかでそれでも福沢は太宰を見ていた。
「私とあやつは何の関係もない。お前に何をされようと、私の事であやつが怒ることはない。その権利をやつは持っておらん」
 口を開けばすぐにでも情けない声が上がるなか、福沢は何とかその言葉を口にした。途中途中にうめきがまじり、うまく音にならなかったがそれでも太宰には届いていた。
 ピストン運動が止まる。
 口元から一瞬笑みが消えていた。無感情に見下ろしてくる黒よりも濃い褪赭。
 ゆっくりとその顔が元に戻っていく。先程までの顔に。
「例え、関係がなくとも貴方達が思い合っているのは確かでしょう。
 そんな相手が犯されて平静でいられるとは思いません。権利があろうがなかろうがあの人はきっと私を殺しにくる。そして私は死ねるのです」
 挿入が再開される。動く度に異物感が広がる。血を流す傷口が摩擦により痛み脂汗が額に浮かぶ。
 気絶してしまえば楽なのだろう。だが強靭な精神力はそれすらも許さない。それに。
「私とあれは思い合ってなどいない」
「隠さなくとも良いのですよ。好きなのでしょう」
「かつての事だ。今はもう」
 息が詰まる。言葉は言葉にならない。必死に音を紡ぐ福沢の言葉を奪うように太宰は何度も奥を穿つ。穿たれる度に激痛が襲う。頭のなかが真っ白に焼ききれ、言いたい言葉が飛びそうになる。
『何故こんなことをする。こんなことをして死ねると本気で思っているのか』
 あの日から何度か太宰に呼び出され犯された。太宰は毎度ろくにならすことをせずに挿入を始めた。いれて福沢が気絶するまで続ける。最初のうちはまだ指を一本から始める優しさがあったが最近では一度に三本いれて二三回掻き回すのが常だった。
 福沢を抱く太宰は始めこそ笑顔を浮かべているが、時間がたつうちに笑顔は消え無表情になる。無表情に腰を振り続ける様は恐ろしいものがあったが、福沢はそこから目をそらしたくなかった。
 助けを呼んで良い。誰に話しても良いのですよ。終わる度太宰は毎回そういう。普通は口止めするものだろうにそれをしなかった。口端だけを笑みにもならないようなほど僅かに上げて助けを求めてください。そしたら私の望みは叶うのですと。口にする。
 福沢は誰かに太宰の話をしたことはなかった。己の胸のうちにだけ秘めている。そして太宰から呼ばれれば毎度ついていてしまった。
 闇のなかに褪赭が浮かんでいる。
 抱かれる度、福沢は質問を繰り返した。どうして、何故。答えが返ることはなかった。何時も繰り返されるのは死にたいのの一言。死にたいの譫言のように太宰は言っていた。
 それが今日始めて明確な理由を話すのに太宰に抱かれながら福沢は一人の男を思い出した。
 かつては共に戦ったこともある男。二人の道が完璧に別たれる前は確かに太宰の言うような思いを抱きあっていたこともあった。だがそれはお互い口にすることもなく別たれた後はそんな思いすらも忘れてしまっていたのだ。
 太宰が言うようなことは絶対に起こらないだろう。
 それなのにそれを盲目的に信じ、囚われている太宰が霞んだ視界の中、とびっきり哀れな人形に見えた。



中略
 子供は親を無条件で愛するものだ。親の言葉はどんな言葉でも正しく、親が間違っていると言えばそれは間違っていること。良いこと親が言えば良い子であるように、悪い子と親が言えば悪い子で、必要がない子と親が言えばその子供はこの世のどこにも必要とされない子供となる。
 子供はどんな時でも、どんな言葉でも親の言葉を信じ、親の言うことを聞き、そして、親を愛する生き物だから。
 それが人としての正しい在り方だから。
 だから、だから

 赤い血を思い出す。
 飛び散った赤い血は手や腕、顔や足、体全体に付着して、強い鉄の匂いを放った。
 目の前に出来た赤い血の池。
 その中に転がる女の姿。見下ろしても心は欠片も動かなかった。ぴくぴくと震えた体ががくりと動かなくなっても何も思わなかった。耳にうるさい音が響くのに、とても静かな空間だった。
 そんな中で聞こえ出した音。
 聞こえてくる音に目を向けた。醜い何かが喚いている。その手に持っているのは刃物で。腕を上げる。鉄の塊越しにみる視界。そこから見える何かの姿。音ともに血が上がる。脇腹を抑える何かを見下ろす。
 もう一度指先に力を込める。化け物と罵る声がした。
 そこで始めて視界の中にいるのが父であることに気付いた。
 乾いた音が響く。
 父が呻き声をあげ崩れ落ちる。崩れ落ちてもまだ動く体を呆然と見下ろしていた。腕が震えた。手の中のものが重かった。捨てようとするのに手から離れていかない。
 喉から掠れた音がでた。
 足が一歩後ろに動く。誰かの足に背が当たった。
 見上げる余裕はなかった。視界の中に白衣が写る。不健康そうな手が重ねられた。
「まだだよ。まだ終わりじゃない。さあ、最後にもう一発撃って。この世界にお別れを言おう」
 指の上から軽く力を込められて、鼓膜を破りそうなほどの音が聞こえた。父が血の海の中に沈む。
「ようこそ」
 耳に届いた声。
 ハッピーバースデー
 振り向いた先、薄い唇がそう言っていた。
 今日から君は生まれ変わった。
 唇だけで告げられる言葉は血の濡れた手に銃をもつ太宰治に向けられていた。

 あの日、太宰は二人の人を殺した。一人は父で、そして一人は母。
 親を撃ったその時、太宰は人としての正しい在り方を外れてしまった。だから太宰はあの日から人じゃないのだ。人ではない化け物になって生きている。
 化け物になった太宰を人に戻せるとすれば、それはあの日太宰の誕生を祝ったもの。
 そう白衣をきてまだ人であった太宰の前に現れた森しかいなかった。
 親の言うことは絶対。であればあの日太宰を作った森が太宰の存在を憎み否定し消したその時、太宰は化け物から人に戻されるのだ。
 死にたい。人になりたい
 太宰から言葉が落ちていく。
 目の前全てが真っ赤だった。

 早く、私を殺しに来て、森医師
 私を人に戻して

 声が聞こえた。

     中略        



 扉がしまったのを感じ太宰はほぅと息を吐いた。何処に行こうかと立ち止まる。でてきたものの行く場所は何処にもなかった。いっそのこと森のもとに行こうかとそんな考えが浮かぶ。
 森のもとに行って太宰が何をしていたか鮮明に語ってやろうか。そしたら怒りに狂った森が太宰を撃ち殺してくれるかもしれない。
 足が、動きかけて止まる。
 そうしようと思ったのに、そうするのが嫌になってしまっていた。なら何処に行こうかと太宰は考える。答えはでないままゆっくりと足が動いていく。寮に帰るつもりはなかった。行く場所もない体が昇降機にのって地上に降りる。自動ドアが開いて足が外にで行く。ホテルをでてあてもなく夜の町を彷徨うとした。その肩が誰かにぶつかる。
 揺れる体。覇気のない顔がゆっくりとぶつかった相手をみあげる。ろくでもない男だったりしないだろうか。今の目茶苦茶な気持ちを感じられなくしてくれるくらい目茶苦茶な目に合わせてくれる。そんな相手だったりしないだろうかと。
 相手を捉えた褪赭が徐々に見開いていた。
「な、んで」
 声が落ちる。取り繕うことすら出来なかった。
「何で、生きて……あの日、死んだ筈じゃ、」

 お父さん

 見開かれた目が見開かれた目にかち合う。歪んだ鳶色の目がにやりと笑った。ぞくりと太宰の背筋に駆け上がったのは恐怖であり、悦びであった。
「おりゃあ、つくづく運が良い。会いに行こうって思ってたやつにこんな場所で会えるんだから」
 聞こえてくる悪意のこもった声。己を利用しようとしている。物としてその目がみている。人を観察することにたけた目はたった少しの時間のうちに目の前にいる男が己のことを都合の良い道具として見ていることに気付いていた。
 会いに、どうして、
 気付いていても転がり落ちる言葉は己を守るためのものではなかった。
「親が子供に会いに来るのに理由なんかいるか? お前がここにいるって聞いて俺は会いに来たんだよ。色々合ったがよ、俺はお前のことを怒っちゃいねえ。どうだ。昔みたいに仲良くしねえか。このホテルに部屋を取ってるんだ。そこで親子水入らずゆっくり語り合おうじゃねえか」
 男の手が太宰に伸びる。それは手にとって良いものではなかった。そんなこと太宰には分かる筈だった。だけど、太宰の目は男を見る。その目が僅かに潤んでいた。
「お父さん」
 声がでていく。
「お父さん、私のこと……」
 ごくりと飲み込まれる唾。太宰の腕が上がっていた。後少しで男の手に触れる。男が笑う。
「大好きだぜ。当然だろう」
 黄色くねばついた歯が覗いた。ああ、と太宰から声がこぼれ落ちていく。それは恍惚としていて。
 見つけた。
 能面だった顔に笑顔が浮かんで行く。
 見つけた。人になる方法。

 愛したら良い。ただ愚かなまでにこのただ一人、親と呼ばれる存在を愛したら良い。愛している間、人に戻れる。

 太宰の手が男の手をとった。



 粘着質な水音が部屋のなかに響き、鼓膜を震わせる。
「お父さん、大好き。愛してる。好き好き」
 掠れた声が必死に言葉を紡いで行く。間に挟まるのは悲鳴。ああ! ぁあ゛あ゛!! と絶叫が響いていた。ばんばんと肉と肉が遠慮もなくぶつかり合う音が鳴る。必死に男の首に腕を回す太宰の目は生理的に溢れる涙すら乾くほどに見開き赤く充血していた。好き、愛してる。傷んだ喉から飛び出していく声。
 飛んだ頭はただ一つの真実を繰り返し刻み続ける。愛せ、愛せ、愛さなければ人ではいられないと。
 愛を叫ぶのに腹の奥に熱いものが広がっていた。
 腰を掴んでいた男の手が離れていく。ベッドの上に太宰の体が転がるのに男は早々に太宰の上からどくと端に座って煙草に火をつけていた。ふぅと吐き出した煙が天井に届く。
 全身から力が抜け動けないのに太宰の手は男に伸びた。触れることはなく男の近くで止める。男の目がそんな太宰をみて笑う。横たわる手に男の手が重なった。
「俺はな金がほしいんだよ」
 ひび割れた声が太宰の耳に届く。何を求められているのかすぐに分かった。いくらほしいですか。掠れた声が男に問いかける。
「幾らねぇ……、そんなはした金じゃねえんだよ。俺がほしいのは。俺はよ一生遊んで暮らせるだけの金が欲しいんだ。毎日酒を浴びるほど飲めて、煙草も幾らでも吸える。女でも遊び放題。俺はそんな生活が欲しい。まあ、お前がいりゃあ女はいらねえかもだけどな。なあ、その為には何をしたら良いと思う」
 男の手が太宰の頬を撫でて行く。優しさを感じない物に触れるような触れ方。それでも太宰は男の望みをどう叶えるべきか考える。一番太宰にとってリスクのない方法は株だろう。普通の人がやれば失敗するリスクもそれなりにあるだろうが、太宰は自身が失敗することはないと言いきることが出来る。実際何度かやったことがあるがどれもこれも大成功を納めている。ただ株だけで男が望むだけの金額を今すぐ用意することは難しい。一生遊ばせるだけでいいのなら株を続けていけば良いだけだが、男はたぶん今すぐに大金が目の前に来ることを望んでいる。だとしたら、銀行強盗や宝石強盗などが手っ取り早いだろう。でもそれは最後の手段にしておきたかった。
 裏社会を敵に回すか
 思考はそこに行き着く。どこかの組織から情報や金、武器を奪い取る。金はそのまま懐にそして情報と武器は売り飛ばせば良い。少々面倒な手間は増えるが一ヶ月かそこらで男が望むだけの金を用意することが出来るだろう。
「私に全部任せてください」
「いいこだ」
 男が形だけは優しい声を出す。その目に浮かぶのは欲だけだ。
「そうそうもう一つお願いがあってな。武装探偵社って所? そこ潰してほしいんだよ」
 暗い瞳が驚き人間味が僅かに戻ってくる。えっと震えた声に出来ないのかと男が声をかける。ベッドの上太宰の体が僅かに固くなった。
「そんなことはないです。でも、何で……」
「ちょっと厄介な奴らを敵に回しちまってな。そこを潰したら許してくれるって言うんだ。勿論お前は俺が死ぬのなんて嫌だよな。なんたってお前の親なんだから。俺をお前は守ってくれるだろう」
 男の声が耳もとでささやかれる。体を舐め回すように触ってくる手はまるで鎖のようだった。喉が震える。頭が真っ白になって考えることを拒否しようとする。それでもなあと返事を求められれば太宰はこくりと首を縦に振ることしか出来なかった。
 愛してるぜ。
 やについた腐った匂いのする口がそんな言葉を落としていく。愛してます。同じようにまた太宰もその言葉を口にした。


中略


 ほぅと吐き出された息。重苦しいものでありながらも太宰の顔に浮かぶのは涼やかな笑みだ。穏やかで優しい微笑みをしながら太宰はホテルを見上げた。
 行かなければとそう思うのに足がその場から動かない。太宰の側を人が通り過ぎていた。邪魔そうにわざとらしくぶつかってくる者もいた。衝撃でよろめくのに迷惑そうな顔をした人の顔が写る。
 ちゃりんとポケットの中で鍵が音を立てた。
 ああと溢れ落ちた声があったことに太宰は気付かなかった。通り過ぎる人がちらりと太宰をみていく。ふらりと足が一歩だけ動いた。やっとのことで動いたのにそこから先がまた動かなくなる。
 ポケットのなかに手をいれた。冷たい感触に触れて音が鳴る。がさりとビニール袋が音を立てた。袋のなかで缶が重い音を立てる。長いこと立ちすぎたせいで適当にいれた袋の中身が崩れ、煙草ケースの幾つかが潰れていた。
 ああ、お父さんが怒ってしまう。気付いてすぐに太宰はそう思った。それでやっと足が動いた。男を怒らせるような真似だけはしてはいけなかった。太宰は男を愛しているから男に面倒をかけるようなことはしてはいけないのだ。
 硝子ドアの向こう寂れたホテルのエントランスが見える。最上階に男は住んでいるけれどそろそろ別の場所に移って貰わなければならないか。金ならある。男に言われるままに用意してきた金が。その金でもっと良いところに。何処が良いだろうか。
 見慣れすぎたエントラス。硝子ドアの手前で太宰の足が止まった。視界の端にここで、見つけてはいけないものを見つけてしまっていた。
 太宰の体が横を向く。歩いてきた方向から同じように歩いてくる人の姿が見えた。その人は太宰と違って笑ってはいなかったけど。手が届くか届かないかの距離で止まって銀灰色の真っ直ぐな目が太宰を射る。
 この通りには似合わない清潔さを持って福沢が佇んでいた。
「なにをしている」
 太宰を見つめた低い声が問い掛けてくる。見つめてくる目はそらす気配がない。険しい顔を作っていた。
「社長」
 ぼんやりと太宰は名前を呼んだ。それ以外の言葉がでていかなかった。ぴくりと、福沢の眉が小さく動く。その動きにどうやら社長は怒っているわけではないのだと太宰は気付いてしまった。そうではなく、恐らく何かを悩んでいるのだと。ことりと首が傾きそうだ。何を悩んでいると言うのか。でもそれを聞くことはしなかった。福沢の問いを思い出す。
 お父さんの所に行く途中。答えを浮かべながらもそれを言うことはせず口を閉ざす。そしてそのあとすぐに太宰の口は別の言葉を口にしていた
「貴方を待っていました」
 何を言っているのだろう。お父さんのもとにいかなくてはいけないのに。ポケットの中の手。握りこんだ鍵がちくちくと皮膚に刺さる。福沢もすぐにふざけるなとでも言ってくるだろうと思ったのに何も言ってくることがなかった。
 福沢の足が一歩動いて太宰の側に近づく。聞こえてきたのはそうかと言う声だった。それはどう言う意味なのだろう。
 考えながらも太宰は福沢の手を取っていた。
「行きましょう」
 女性をエスコートするように軽く手を引き、ホテルのなかに入っていく。かけた声は柔らかで表情も笑っていた。フロントで部屋の鍵を受け取って部屋まで向かう。その間ずっと二人は無言だった。福沢の目が太宰の手元を見つめる。先ほど福沢をエスコートした手はもうすでに離れ太宰のポケットのなか。反対の手はビニール袋を握り締めている。歩く度に中の缶が動き音を立てていた。
 太宰がひとつのドアの前に立ち止まり鍵でその部屋を開けた。中にはいる太宰の背を追いかける。その背に痩せただろうかと福沢は考えた。前にみていた時よりもずっと細くなったようなそんな気がした。ちゃんと食べているのか。福沢がそんな心配をするなかで太宰はその辺にビニール袋を置くとベッドまで真っ直ぐ歩いていく。ベッドの端に腰掛けるとさっさと服を脱いでいく姿に眉を寄せながら福沢もベッドの上に腰をおろした。
 褪赭の眼差しが福沢をみる。
 何の言葉もないまま太宰は福沢の肩に手を伸ばし、そして乱暴に押し倒した。抵抗することなく福沢は押し倒される。まるで着物を破きそうなほど荒々しい手付きで太宰が服を脱がしていく。下着も早々に下ろす。露になった下腹部は萎れたまま、その奥の穴も乾いたまま。当然のことだが何の準備もなされていない。
 福沢の目に暗い顔をした太宰が写る。口許から笑みを消して瞳には輝きひとつない。
 その太宰は己のものを雑に擦り、たたせていた。暫くしていれられるまでにはたったものを太宰は乾いた肛門へと押し付けていく。何時もよりも早急な行為。指すらも入っていないのにたまらず福沢は待てと声をあげた。
 そんな声を太宰が聞くことはない。福沢のなかに大きなものが入り込んでいく。めりめりと入り口の皮膚と肉が避けていく音。赤い血が二人の間を汚す。
「あっ! うぐぁ」
 痛々しい声が福沢の口から飛び出していた。歯を噛みしめ耐えようとするもののいきなりの衝撃は強く頭の奥の奥まで真っ白に焼け焦げさせ、脳細胞全てを破壊するかのようだった。
 白目を向いた顔。開け放たれ絶叫をあげる口。
 ふっと太宰の耳に喘ぎ声になりそこなったような泣き声が聞こえてきた。
 良い、良い、とその声は良いながらも痛みと恐怖に怯えた声だった。太宰の目の前に福沢でなく幼い子供がいた。蓬髪と褪赭の目をした子供。まだ小さな穴に大きなものを無理矢理挿入され白目を向き、顔を胃液で汚しながら好き、気持ちいいと懸命に腰を振り、手を伸ばしてくる。愛してる愛してる誰にも届きやしない空しい声が幻影の中、鼓膜に叩きついてきた。
 ひゅっと掠れた息が現実の太宰の口から溢れていく。
 痛みに目を向きながら福沢は太宰を見ようとした。目の前すら痛みで霞みよく見えないのにそれでも。福沢の目に飛び込んできた太宰はまるで死んでいる方が幸福にも思えるようなそんな顔をしていた。瞳孔が限界まで見開かれた目。その他の部分からは表情筋そのものがないかのように無になっていて、上にいるのは人ではなく人形ではないのかとさえも思わされる。
 その姿のまま動きも止まってしまっていたから尚更。
「太宰、どうした」
 痛みのなか問い掛ける声は少しだけ弱々しかった。福沢の手が太宰の頬に触れるが、太宰の目は福沢を見ていない。がくがくと押し倒していた両腕が震えていた。何一つ動くことのない顔から脂汗が流れ、福沢の上に落ちていく。
 僅かにあいた唇の隙間から奇妙な呼吸音が聞こえてくる。浅くどこかでつまっているかのように不規則でそして、吐くだけ。吸う音が殆ど聞こえてこないような音。
 考えるよりも先に咄嗟に福沢は太宰との立ち位置を入れ換えていた。太宰を己の下に敷いて、そして奇妙な呼吸を繰り返す口を己の口で塞いでいる。息を送り込むように太宰の口のなかに向けて吐き出していく。何度か口を離しては同じことを繰り返す。途中そういえばこれはやめた方が良いのだったか。以前与謝野に聞いたことを思い出したが、ではどうすればよいのかまでは思い出せなかった。声をかけて落ち着かせるとかそんなところだったと思う。だが今の太宰に声が届くとも思えずに兎に角自分の口で塞いでは息を送り込んだ。太宰の呼吸が少し早いものの安定したものへと戻っていく。
 表情は何一つ代わりがない。今起きたことすら理解できていないように思えた。額から流れた汗が目元にまで流れ、そのさきを涙のように汚していた。
 福沢の手が湿った太宰の頭に触れる。泣いている子供をあやすように撫でていく。それでも変わらない太宰の姿。太宰、低い声が呼ぶのにぴくりと眼球だけが僅かに動いた。けほっと太宰の体が小さく上下する。喉を何かが競り上がっていた。福沢の唇が再び太宰のものと触れあった。狭い隙間を縫って舌が太宰の口のなかにはいる。酸っぱく胃が焼けるような味が舌に絡み付く。飲み込まれようとしていた液体だけのものをさらい己のなかに飲み込んでいく。
 口を離しても目に写るものは代わりなかった。
 揺れた目尻に福沢の口が触れた。頭を撫でながら福沢は耳元で太宰の名を呼ぶ。頭を撫でるのとは別の手が太宰の体に触れた。何も着ていない太宰の素肌の上をはい、赤い胸元の粒や臍を悪戯に触れては熱をゆっくりと集めていく。いれられるだけの固さにしかなっていなかったものに触れればもう少しだけ大きくなっていた。それを節榑だった大きな手で優しく包み込み、しごいていく。自分でする時よりもずっと優しく少しでも痛みを感じないよう丁寧に。
 太宰の腰が僅かに揺れる。
 福沢が手にしたものはさらに固さと熱さをまして、先端からは僅かに先走りの液があふれでていた。しごく手が少しだけ早くなっていく。
 あっと動かない唇から小さな喘ぎ声が漏れた。あ、ああと溢れ落ちていく気持ちのよさそうな声。
「太宰」
 低い声が鼓膜を直接揺すぶる。瞳のなかに僅かに輝きが戻った。太宰の目がすく側にいる福沢を認識する。ああとひときわ甘い声があがった。鯉のように跳ねる体。福沢の手が白濁で汚れた。
 ぐったりと白いシーツの上、横たわる太宰。その目元を汚れていない手が覆い隠す。今は眠れ。その言葉の代わりに子守唄が優しく聞こえてきた。
「どうして……」
 子守唄の合間、小さな声が太宰の口からでていく。
「どうして……」
 再び聞こえてくる声は答えを求めながら、それが何についてなのか言うことはなかった。息を潜めた寝息が聞こえてくる。


中略



 がやがやと騒がしい音が聞こえてくるのに、ガラスのコップから一杯を仰ぎ飲んだ男は口の端に笑みを作る。雑な会話が耳に入る。何処ぞの奥さんが浮気しただの、子供がいい大学に入学しただ、ブラック会社に務めていたら体を壊した挙げ句全部自分のせいにされてクビにされた。欲しかったものがやっと買えた何て、悪い話や良い話が溢れていた。カウンターじゃ呑兵衛が店主に向かって愚痴をはき、隅側の席だと仕事帰りOL達が内緒話に興じている。
 こういう場所もたまにはいいと空になったグラスの分、新しい酒を注文する。普段あまり飲まない日本酒は舌に馴染んでいないがその分格別な気分を味わえた。酒が来るのを待つ間、適当に頼んだツマミに手を伸ばす。塩気が効いて中々に美味い。男は上機嫌に鼻を鳴らす。
 意味もない情報を入手していた耳が店の扉が開く音を拾う。らっしゃいと威勢のいい掛け声。
「隣、良いか」
「おや、空きならまだあるはず、……これは珍しい方にお会いするものだ。どうぞ」
 声を掛けられたのに男はわざとらしい反応を見せた。周りの席を見渡しながら話、そして相手の顔を見て片眉をあげる。細まる赤い瞳のなかには銀が写っていた。
 森の隣に福沢が座る。丁度良く頼んでいた酒が届いた。私も同じものをとメニューもみずに福沢は頼む。
「貴方が私に話しかけてくるなんて珍しいですね。何か」
 グラスを一度傾けてから問われるのに隣に座った福沢は僅かな間口を閉ざしていた。じっと見つめるのは机の木目。引き結ばれた唇が小さく動く。
「……私が話しかけるのは嫌か」
 銀灰の目が探るように森を見るのに森も福沢を探る。聞こえていたさまざまな音がいつの間にか全て聞こえなくなっていた。机の下で組まれた手、ほんの僅かだが砂ぼこりがつき、しわの出来た羽織。着物は何時も着ているものと少し違う。草履の先に僅に黒ずんだ痕があった。恐らくそれは気付いていないだろう。
「いえ、嬉しいですよ。わざわざ隣にまで来てくれて」
「……」
 見ていることには気付かれないようすぐに言葉は返す。柔和な笑みを浮かべるのに福沢の眉が寄った。福沢が気持ち悪そうに見つめてしまいそうになるのを抑え込んだのが分かった。酷い人だと思いながらも森自身、自分のあまりの言葉に吐きそうになったのであまり思えはしない。
 はいよと福沢の前にもグラスが置かれた。福沢の手がそれをつかみ、一気に半分ほど飲み干していく。その隣でもう一口を飲む。
「こうして一緒に酒を飲むと言うのも不思議なものですね」
「そうだな」
 わざとらしい会話。一杯をのみ終えた福沢が次の酒を頼んだ。
「たまにはこういうのも良いですね」
 そうだなと返ってくる声は遅く小さかった。それ以外の会話もないまま二人無言で酒を飲み続ける。昔であればもっとなにか言うことがあったのだろうと思うと虚しいような悲しいようなそんな気持ちが森のなかに沸き出た。柄にもなく感傷的な気持ちになるのに、福沢は何杯めかのおかわりを頼んでいた。福沢は森が感じているような思いを感じていないだろう。
 憎らしさがわきながらそれを酒で押し流した。森だってそんなものを感じるのは何かの間違いでしかもうないのだから。
 もしかしたら酔ったのだろうか。だとしたらそろそろだろうか。森の手が酒を飲む福沢の腕を掴んだ。銀灰の目が横目で見つめ、グラスを置く。真っ直ぐに見つめてくる目を見返す。
 どちらからともなく席を立った。


中略


 太宰が病院を退院できたのは入院してから一ヶ月後の事だった。怪我自体は早めに良くなっていたのだが、何も食べようとせず、眠ろうとすらしなかったため、長引いてしまったのだ。退院できたのも不特定多数の人が多くいる病院よりも家の方がまだ安心して暮らせるかもしれないという判断のためで、二日に一度は太宰が暮らす福沢の家に医者が訪れていた。
 だが、退院して二週間たつが太宰はほぼ病院で過ごしていた時と変わりがなかった。
 こんこんと太宰の部屋の扉を福沢がノックする。返ってくる声はないが、福沢は襖を開け部屋の中へと足を踏み入れた。部屋の中央、布団の上に太宰がいて丸まって座っていた体勢からじろりと福沢を見上げてくる。
 入院する前から細かった体は、痩せているという言葉では表現したくないほどに痩け、全身が骨と皮だけになっていた。ぎょろりと飛び出した目が福沢をみては興味をなくし、膝の上に隠れてしまう。
 そんな太宰のそばに福沢は近付く。
「太宰。ずっと部屋にこもるのは寄せ。体にも良くない」
「貴方には関係ない」
 柔らかに声をかければ冷たい声が返ってくる。隙間から睨み付けてくる目は鋭いものの覇気がなかった。
「関係なくはない。私は皆からお前を任されているのだ。お前に元気に過ごしてもらわねばならぬ」
「私は元気ですよ」
 喉の奥からやっとのこさ出ていくような小さな声が強がりにすらならない言葉を口にする。だから放っておいてと呟く体に福沢は手を回していた。わずかな隙間をこじ開けて太宰の体を抱き上げる。抱き上げた体は以前よりもずっと軽くなっていた。
「嘘はよせ。ほら、こんなに軽くなっている」
「離してください! 貴方に触れられたくなんてない」
 太宰の褪赭の瞳が隠れることなく福沢を睨んだ。嫌悪らしきものが見えるのにすまなかったと謝る。だが福沢は太宰を下ろすことはしなかった。立ち上がり太宰の部屋から出ていく。下ろしてくださいと太宰は暴れたが何の抵抗にもならないような弱い力だった。
「太宰。見てみないか。庭の花が綺麗に咲いているのだ」
「……」
 太宰を抱え福沢は庭の前に腰を下ろす。縁側に座りながら腕の中にいる太宰に声をかけた。ほら、と指を指すのに太宰は返事をせず、顔も反対方向に背けていた。そんな反応をすることを予想していた福沢は気にすることもなく太宰に向けて話す。
「庭の手入れなどしないからかなり荒れていたのだが敦や鏡花、賢次達が手入れをしてくれてな。見違えるほど綺麗になったのだ。お前のためにとみんな張り切ってしていたぞ。この庭は殺風景だからもっと華やかな方が和む。どうにかしろと乱歩が言ってきたのを聞いていてな。今咲いているのは庭に咲いてあった雑草のようなものらしいが、新しい花を沢山飢えていたから咲けば今よりもっと華やかになるはずだ。咲くのが楽しみだな」
 途中太宰の頭がかすかにゆれたものの余所を向いた目が庭を見ることはなかった。
「たまにでいいからこうして部屋の外にでてこい。部屋のなかで同じものばかりみているとそれだけで心がやむ。なにかしているのならまだ良いのだがな、お前はずっと座り込んでいるだけだろう」
 語りかけても何の反応も返ってこない。人形のように動かない太宰を抱き締めながら福沢は少しの間静かに庭を眺めた。太宰に少しでも喜んでもらいたいと敦達を中心に手入れをしていた姿を思い出す。太宰が元気になればここでバーベキューでもしようと乱歩が提案して国木田にバーベキューのセットを買わせていた。
 庭を眺める福沢の手が太宰の頬に振れていた。柔らかな感触はない。あるのは固くざらついた感触。
「……痩せてしまったな」
 分かっていたことだが改めて感じてしまうのにぼそりと福沢は溢してしまう。太宰の目がぎょろりと福沢を向いた。褪赭のめと今日始めて目が合う。
「そう思うのなら私をここからだしてください。私は貴方のそばになんていたくない」
 固い声が聞こえ、大人しくしていた太宰が再び暴れた。それは抑え込む必要すらないほどのものだった。
「すまぬな。それはできない。今のお前を一人にする事が心配なのだ。探偵社の中では何かあったとき私が一番対処できる」
 福沢は答えながら太宰のパサついた髪に指を通す。指は幾度も細くなり絡まった髪に引っ掛かった。はっと太宰が息を吐き捨てた。
「また私が探偵社に手をだすと思っているのなら捨ててしまえばいい。それが楽ですよ」
 そんな簡単なことすらも出来ないのですかとバカにした口調で言い、褪赭の目は冷たい色をしている。背ける横顔には何もない。
「お前はもう探偵社に手をだしたりはしない。探偵社を好いてくれているから」
 福沢が太宰を見つめ言葉を紡ぐ。低い声に僅かに穏やかさがまじっていた。
「馬鹿げた話ですね」
 鼻で笑い頭を撫でる手を振り払われる。何を見たらそう言えるのですか。おかくずでも詰まっているのではありませんか。聞こえた言葉に気を悪くすることもなく福沢は振り払われた手で太宰の頭をまた撫でていく。
「ちゃんと分かっている」
 太宰が聞いてくれるように福沢は低い声が少しでも柔らかになるよう努めた。脳裏にこの数日のみんなの様子が思い浮かぶ。
「探偵社のみんなもお前を好いている。今も毎日のようにこの家に来てはお前の様子を聞きに来るし、お前が元気になってくれるよう花壇の世話もずっとしている。夕食で使っている野菜は殆ど賢治が持ってきてくれるものだし、食後の菓子は敦達が持ってきてくれるんだ。与謝野や国木田、乱歩もお前が好きだ」
 福沢の視線から顔を隠しながら太宰の体は少しだけ震え固まっていた。息を止め聞こえてくる声から逃げようとする太宰に届くよう何時もよりもゆっくりと紡いでいく。
「与謝野から旨い酒を預かっているのだ。気が滅入るときは酒を飲むに限る。誰かと晩酌でもして素面じゃ言えないような不満や愚痴を吐き出したら少しは楽になれると言ってな沢山渡してきた。
 今度一緒に飲もう。私にならどんな話をしても良い。
 国木田は」
 穏やかな声がずっと話していく。腕の中の体は固く縮まっている。


中略

花見の日は良い天気であった。残念ながらその日は福沢は朝から仕事が入っており、参加できるのは途中からだった。面倒な会合を終わらせた後、急ぎ自宅へ戻る。帰り着いた福沢は玄関からは上がらず裏手へと回っていた。
 楽しげな声が聞こえてくる。
 ふふと穏やかな笑い声が耳に届いて、福沢は一度足を止めた。
 太宰がそんな風に笑うのを聞くのは久方ぶりのことだった。でていかない方が良いか。ここで会話を聞いていた方が。そんなことを福沢は一瞬考えてしまう。
 だけど、あれ、鏡花ちゃん何処に行くの。そんな敦の声が聞こえたと思えば鏡花が福沢を迎えにきていた。小さな手が福沢の裾を掴む。
「まってる」
 短く言われるのに福沢は目を見開いた。それは誰が。声は乾いて聞くことができなかった。小さな体には似つかわしくない強い力で引っ張られて足が前に進む。庭にでれば五人の視線が福沢に向けられた。
 社長。お邪魔してますと四人からそれぞれの声が聞こえる。花見にきていたのは敦、鏡花、賢治だけでなかった。谷崎とナオミの二人もきていて、六人で庭にシートを敷いて座り込んでいる。丁度お弁当を食べている途中だったのだろう。それぞれの手には箸やお握りが握られていて。家のなかに上がって良かったのにとも思ったが、この方が花見のようで楽しいんですと言う賢治の言葉に納得した。
 五人に楽しんでいけとそれぞれ声をかけてから福沢は太宰をみた。穏やかに笑う太宰は何故かじっと福沢をみていた。目があって数秒、見つめ合えばその口許からほうと微かな吐息がでていく。顔をそらした太宰の視線は敦や谷崎たちに向けられていた。
「所で敦君。落ちちゃうよ」
「へ? 何がですか」
 敦、ではなく彼がもつお握りを指差して太宰がふふっと笑う。悪戯をする子供のような笑みに敦はきょとんと首を傾けた。何のことか分かっていないのに鏡花からあっと言う声がもれる。指を指された先を敦がみた。その顔は慌てたものに変わる。食べかけだったお握りは形が崩れ半分ほどが今にも落ちそうな形に傾いていた。
 慌てて手を動かした敦だが、それは間違いだったようだ。動いたのが刺激となって絶妙なバランスで保っていたお握りが崩れていく。ぼろりと大きな固まりが地面に落ちていく。
「あああ!」
 咄嗟に敦が伸ばした手は直前のところで米の塊を掬い上げた。その変わりに敦が顔面から地面の上に倒れこんだ。くすくすと笑う声。
「良かったね。敦君。もう一個落とすことにならなくて」
「大丈夫ですか」
「大丈夫。敦君」
 それぞれに敦に向かって声をかけているが太宰のだけは他と違っていた。がばりと、顔を上げた敦がぎっと太宰を睨み付ける。
「良かったじゃないですよ! 絶対太宰さん言うタイミング見計らったでしょう! 最初の一個落としたのも太宰さんのせいですし!」
「軽い悪戯心だよ。怒らないでくれたまえ」
 抗議の声をあげられるのに太宰はにこにこと笑っていた。ほらと敦の口にウインナーを放り込んでいく。こんなのものじゃ許さないんですからと言いながらも敦の態度は甘い。頬こそ膨らませているものの怒っていないのはすぐに分かるものだった。そんな二人のやり取りを周りは生暖かい目で見守っている。二人が楽しそうなら良いかと福沢もなにも言わず開いている敦の隣に座り込んだ。鏡花は太宰と敦の隣に収まっている。
「う、すみません。社長。変なところ見せてしまって」
「いや、気にするな。怪我はなかったか」
「はい」
 座り直した敦は少し小さくなりながら頷く。恥ずかしそうに俯くのにこれおいしかったよと太宰がおかずを差し出していた。むぅと敦の口がとがる。
「さっきから僕ばかり押し付けてきてませんか。僕もそんなに食べれませんよ」
「仕方ないだろう」
「これも美味しい」
「太宰さん、これはどうですか」
「じゃないと私のお腹が破裂してしまう」
 敦が抗議の声をあげたのに答えようとした太宰。その太宰を遮って鏡花や賢治がおかずを差し出していた。わりと真面目な顔をして太宰は言ったが、敦も真面目な顔になって大丈夫ですよと答えている。寧ろもっと食べるべきですと反論するのに谷崎とナオミが苦笑していた。福沢も苦笑して太宰の周りを見る。おそらく随分食べさせられたのだろう。彼の周りにお弁当が集中している。
 ご飯ものは重いだろうとお握りを用意したのは福沢だったがいらなかったかもしれないな。と周りにあるおかずの量に思ってしまう。それぐらいにはあった。
「私はもういらないのだけど」
「まだ食べられますよ」
「……」
「食べてください」
 無邪気な三人が太宰を追い詰めている。一度にたくさん食べたからと言って人は太らないのだよ。太宰が言うが三人はその声を聞こえなかったふりして口元に押し付けていた。仕方なく太宰が口を開いた。はぁとでていくため息。困ってはいるようだが嫌ではなさそうで、もう少しは好きにさせておこうと四人を見守ることに決めた。
「あ、社長も良ければどんどん食べてくださいな」
「早く減らさないとほんとに太宰さんのお腹破裂しそうですし……」
 そんな福沢に小さくかけられる声。太宰を見ている三人は気付いていない。そっと差し出される弁当の一つを福沢は受け取った。顔が青ざめお腹を抑えている谷崎は太宰と三人の為に密かに沢山食べていてくれたのだろう。空になった弁当の半分は彼が食べたのかもしれない。今度は私の番かと少々恐ろしくなりながら箸を手にした。
「ほら。美味しかったから敦君もお食べ。賢治君もあーーん」
「もういりませんよ」
「わーい、ありがとうございます」
 四人の楽しげな声が聞こえてくる。
「上手いな」
「敦君達が作ってきたんですよ。太宰さんに食べてもらうんだって朝から張り切って準備していたみたいなんですが……」
「ちょっと頑張りすぎちゃったみたいなんですよね」
 和やかな四人を見ながら福沢は弁当を一口頂いた。感嘆の声を漏らせば谷崎とナオミがにこにこと答えてくれる。少し苦笑が混じってはいるが。
「痩せてしまっているからな。せめて元に戻って欲しいのだろうな」
 福沢の目が四人から太宰のほうを見た。細い体。手など折れ枝のようだ。久しぶりに太宰に出会ったときの三人の事を思い出した。細くなった太宰にとても心配していて暗い顔をしていた。やっとあえたことを嬉しげに話そうとしてくれていたが何処か泣きそうでもあって。心配をかけさせてしまったことに不甲斐ない思いを抱いたのだった。
「そうだと思います。ずっと太宰さんが痩せてるのが心配だって言ってましたから。でも思ってたよりは痩せてないみたいで良かったです」
「心配していたよりは健康的そうですわよね」
「そう見えるのなら良いのだが」
 眉を寄せて三人を見てしまうのにほっとしたような声が届いた。それに福沢が抱いたのは安堵とは程遠い感情だ。太宰をじっと見つめてしまうのに、気付いた太宰が顔を上げた。そらさねばそう思い行動に移そうとしたが、動きが止まる。太宰の目が何故かじっと福沢の目を見ていた。そして、ふわりと笑みを作る。
 みんなでご飯を食べた後はのんびりと花を観賞していた。敦や鏡花、賢治が花の手入れのしかたや調べたうちに知ったのだろうちょっとした豆知識の話をするのを太宰は笑いながら眺めていた。時折相槌をうちながら五人をからかったりもしていた。楽しそうに見える。
 五人が帰って太宰は静かになる。糸が切れたようにことりと縁側に座り込んでそれきり動く気配はなかった。
 ほぅと浅い吐息が太宰から吐き出されている。柱に寄りかかる頭に福沢は手をおいた。お疲れさま。声をかければ横目で見上げられる。それから興味をなくしたようにそらされた。浮かべていた笑みは消えている。
 横に座り込みながら、ぽんぽんと頭をなで続ける。拒絶される様子はなかった。変わらず息を繰り返している。

「帰れ、今すぐ即効帰れ!」
 その声を聞いた瞬間、福沢は牙を向いて怒鳴っていた。静かな住宅街に怒声が響く。先ほどまで流れていた穏やかな空気は霧散していく。
 今にもない刀に手を掛けそうな怒気に太宰は驚き体を強張らせるが、直接それを向けられた来訪者は笑みを浮かべていた。
 くっくと喉の奥で笑いながら赤い目が福沢の奥の太宰をみる。
「無理だとわかっているでしょう」
 にぃと細められる瞳には愉悦が籠っていた。
「森さん」
 太宰の喉が震え掠れた声をだした。ごくりと唾を飲み込む音が福沢の耳に聞こえた。かたかたと震える気配を後ろに感じる。福沢が焦りを覚え後ろをみるとそこには瞳孔までも見開きながら恍惚と笑う太宰の姿がそこにあった。
「久しぶりだね。太宰君。今日は君にお別れを言いに来たんだ」
「太宰! こやつの話を聞くな!」
 森の言葉にぞわりと粟立つ背筋。ずっと気を付けていたのになのにいつの間にか油断してしまっていた。そんな己に腹立ちながら福沢は遮るように腕を広げる。一歩森の元へと進んだ太宰の足が止まる。帰れと再び福沢は森に向かって吠えていた。それでも森は笑っていて太宰のもとへ近付いてくる。
 ぶわり。膨れ上がる殺気。
 無理矢理にも追い出そうと福沢は森に飛びかかっていた。その首根っこを捕まえる前に二人の間に第三者が介入する。それは小さな女の子。森の異能であるエリスであった。エリスが攻撃を仕掛けてくるのを交わしながら福沢は唇を噛む。家のなかに入れば直ぐのところに刀はあるものの今はその一瞬さえも惜しい。その一瞬目を離しただけで取り返しのつかないことになる。いや、もうなっている。
 福沢がエリスを相手にする合間、森は太宰のもとへとさらに近付いていた。太宰も吸い寄せられるように森の元へと向かっている。
 赤くなった頬。泣きそうにも思えるほどその瞳には熱がある。
「随分な事をしてくれたみたいだね」
「何の事です」
 穏やかな声が低くなって森が問う。それに首を傾ける太宰は緩く笑って腕を広げた。その様はまるで罰を待つ  なる使徒のようだった。
「福沢殿を抱いたのだろう」
 太宰の笑みがますます強まる。完璧に微笑みながら太宰の瞳は森を見つめる。やめろ! と福沢が叫んでもその声はもう太宰には届いていなかった。聞こえた森だけが緩く笑う。太宰に福沢が手を伸ばす。何とかその体を銛の視界から隠そうとするのにエリスが邪魔をして近付くことが出来なかった。
 かちゃりとあまりにも軽い音が聞こえた。
 黒の銃口が太宰に向けられる。太宰は今度こそ満面の笑みで笑った。それは始めてみる笑みだった。喉が引き裂くほど叫ぶ福沢の前で森が引き金を引く。
 褪赭の目がゆっくりと閉じられた。


「え?」
 閉じた目蓋から褪赭の色が現れる。その目が呆然と目の前にいる森をみて、己を見下ろす。何処も赤くなど染まっていなかった。傷みもない。太宰は怪我一つなく生きている。
 信じられないと何が起きたか理解できず固まる太宰に福沢から細い声が漏れていた。噛み締めた唇。歯が皮膚を破り赤い血が流れていく。止めろとまた叫ぶのに森の声がその音を遮った。
 「許すよ」
 福沢の声よりもずっと小さな声。なのにその声は福沢の声よりも大きく太宰の耳に届いていた。太宰の顔の上から笑みがなくなっていく。
 えっと落ちた声はか細く震えていた。見開いた褪赭の中に森の姿が大きく写っている。ふるりと蓬髪が揺れた。ふるふると何度も強く首を振る。聞こえた声を否定するかのごとく何度も振りながら太宰は森をみる。
「私は君を許すよ。太宰君」
「や、め、やめ」
 聞き間違えることがないように一言一言区切って言われるのに太宰はそれでも首を振った。嫌だ。声をあげるのに森は優しい顔をしていた。まるで興味のない相手をみる優しい目。そこには憎悪など欠片ほどもない。
 ひゅっと喉に息がつまり声がでなくなった。止めて、嫌だ。そう言いたいのに声がでていかない。ひゅっひゅっと浅い息をだし膝裏から崩れ落ちていくのに森はもう背を向けていた。
 エリスの姿がかき消える。福沢の足は太宰のもとに向かい地面の上でもがく太宰を抱き締めていた。太宰の目は己の体を掴む福沢を見ることがなく森の背だけをみる。先をいく母親に手を伸ばす幼い子供のように太宰の手は森の背を追い掛けていた。
 振り返ることなく去っていく森はバイバイと太宰に向けて声をかけた。慟哭が耳に届く。森の口元は大きく上がっていた。これで彼の望みは果たされた。
「どうして! 何で! 人になりたいのに! 森さんに許されたら! どうして!」
 言葉にもなっていない疑問を何度も太宰は口にする。喉から血が出るほど悲痛に叫ぶ太宰を抱き締めながら福沢は己の不甲斐なさに震えていた。太宰がこうならないために守ると決めていたのに。もう二度とあの男に会わせることをしないと。それなのに……。
 嫌だと太宰が声をあげた。嫌だ。人になりたい。人に。叫ぶ太宰の手はいつの間にか頭をかきむしっていた。白い手の爪先に赤く血が滲んでいる。
「太宰、止めろ! 落ち着け」
 声をあげても太宰が止まることはなかった。太宰の叫びは終わらない。もうずっと太宰の中に福沢はいない。太宰の目に映るのは赤い血だ。赤い血溜りののなかに倒れる二人の人の姿。そしてそれを見つめる太宰の耳に届くハッピーバースデーの声。
 あの日からずっと人になりたかった。人に戻りたかったのにそれが、もう。目の前が赤から黒に変わり始めていた。重苦しい何かのなかでもがく。
 息のしかたさえも忘れかけていた。

「人だ!」

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