結んで結んで

ある日気付いたら見知らぬ子供が一人家のなかにいた。黒い蓬髪の痩せた子供はじぃと物云わず福沢を見つめとことこと福沢の元に近づく。無言で見下ろすのに子供は福沢の裾を掴み、それから福沢さんと己の名前を呼ぶ。
 お前は誰だ。
 福沢が問い掛けたのに治と己の名前を名乗った。
 何もせずに福沢の傍に立つ。子供の手の中のぬいぐるみが形を変える。
 能面のような顔が福沢を見上げ続けた。


 何故こんなことになったのか。幼い子供と同じ布団で横になりながら福沢は考え込んだが理解はできなかった。任務中だったはずなのに気づけば家にいて、目の前には見知らぬ他人。目を白黒させるのに、その他人、幼い子供は福沢のことを福沢さんと呼び掛け、答えると福沢の傍でそれきり。何も云うことをしない。見知らぬ子供、追い出すべきかどうかすらも分からなくなるほど堂々と子供はそこにいた。戸惑い、子供のことは一度捨て置いて福沢は家の中を確認することにした。家の中をみて回るのに何故か子供は後ろをついて回る。
 何故着いてくる。問い掛けたが子供は答えない。じぃと見上げてくるだけ。後ろに着いてくる子供は気にしないようにして回った。
 家のなかは少しずつ福沢が記憶していたものから変わっていた。
 しまい込んでいた、そんなもの合ったかと思うようなものが外に出され、置いてあったものの幾つかが消えている。必要もない子供用の服が何着か干されていた。
 何だこれはと顔を歪める。
 ここは一体何処だと眉をしかめたのに福沢は机の上に一つの書き置きを見つけた。私は未来から来たお前だ。一週間ほど勝手に過ごさせてもらった。子供を頼む。それだけ書かれた書き置き。誰の悪戯だと思おうとしたがそこに書かれた字は紛れもなく長年見続けてきた自分の字だった。
 福沢は子供を見下ろす。
 頼むと云われた所で福沢にはそんなこと出来る筈もないと思った。何をどう言い繕うと福沢は人斬りでそんな人間が子供を育てられるわけもない。また福沢自身も子供の面倒を見るのは苦手だった。じぃと見上げてくる子供。
 思わず能面のようだと思った。そんな子供に問い掛ける。
「親は、お前の親はどうした」
 子供の顔が一瞬だけ揺れた、きゅと引き結ばれた唇。裾を掴む手が強くなった。

  ***

 福沢の家に住み着いてしまった子供はとても大人しい子供だった。
 大人しすぎるほどに……大人しい。
 基本は福沢の周りをついて回り、福沢のいる部屋の隅に座り込み本を読む。時折福沢を見上げ裾を握ってくるが何も云うことはなかった。ご飯を用意すれば大人しく食べ、お風呂にも入れと云えば入る。手の掛からない子供。子供を育てたことのなかった福沢にはありがたかったが、でも普通ではないことは分かっていた。
 何処か不気味な……。
 子供と暮らしだしてから四年。その間に子供がした我が儘と云えば一日めの夜、福沢の布団に入り込み幾ら出るように云っても聞かなかったことぐらいだ。それ以外何かを云うことも何かをすることはなかった。ただもしかしたら我が儘を云いたいのではないかと思うことは幾つかあった。
 真っ暗な目で見上げてくる時、大きなぬいぐるみをぎゅっと強く抱き締めてじぃと見つめてくる時。その目はゆらゆらと揺れて何かを云いたいのではないかと思わせた。だけど子供が何かを云ってくる事はなかった。
 問い掛けても見上げてくるだけで子供が話している姿すら見たことはない。治と己の名前を云った時が最後。
 そんな感じで子供はずっと福沢の家にいた。福沢は子供をいつしか置物のように思うようになっていた。そんな頃福沢は政府の仕事をするのをやめ、そして一人の子供と出会った。乱歩と名乗った子供は頭が頗る良かったがそれ以外が最悪だった。騒がしくよく動く。子供とは大違いだった。そんな乱歩を何故か拾うことになってしまった。
「一緒に住むことになった」
 乱歩を連れ帰ると大人しく留守番をしていた子供がじぃと見つめてくる。多少は驚くかと思っていたのにそんな様子もなくただいつもと変わらない目をしていた。
「何この子」
 乱歩が子供を見つめるのに子供も乱歩を見つめる。
 じぃと見つめ合う二人にむっと福沢は眉を寄せた。何か今一瞬だけ違和感を感じたような。子供がぴったりと福沢の足元にくっついてきた。何時ものようにぬいぐるみを抱き締めながらぎゅっと寄り掛かってくる。
 いつもと少し違う動きに目が細められる。
 どうしたと問いかけるが子供は何も答えない。どうしたら良いのかと考え込みかけたがお腹がすいた乱歩が家の中に上がり込むのに意識はそちらに向いてしまう。
「僕、ハンバーグが食べたい!」
「そんなもの俺には作れん」
「えーー、やだやだ!! 食べたい!」
「無理だ」
「じゃあオムライス」
 きらきらと明るい笑みを浮かべて乱歩が云ってくるのに何がじゃあなのかと思いながら福沢は無理だともう一度云った。乱歩のえーと云う声。腕をバタバタと動かしやだやだと云うのに子供かと思えば、子供の方がぎゅっと福沢の腕の裾を握ってきた。見下ろすと旋毛が見えた。
 珍しいことだった。


 がたりと箸が置かれるのに福沢は瞬きをしてしまった。
「どうした食べないのか」
 乱歩の喧しい声に負けて作ったハンバーグ。和食しか作ったことのない福沢が初めて作ったそれは歪な形をして少し焦げていた。あまり美味しいとは云えず子供の口には合わなかったかと見つめる。子供は俯いたまま何も云わなかった。
「……好きではないのか」
「…………」
「違うのを作るか」
「…………」
 子供はやはり何も云わなかった。俯いたまま口を閉ざす。だが俯くことすらあまりしなかった子供だったから何かあったのかと奇妙に思う。
「うーー、これ苦い」
 なにかを云おうとしたとき乱歩の声が聞こえてきて、ぴしりと福沢の口許がひきつった。
「お前が食いたいと云うから作ったのだろう」
「でも苦いもん」
「良いから全部食べろ」
「えーー」
 嫌だと云う乱歩に無理矢理食べさせようと格闘しているうち子供は部屋の隅に移っていた。食べぬのかと聞いてもそこから動くことはなかった。


 夜、風呂も入り眠る時刻となった。
 福沢は普段は使わない部屋に布団を敷き乱歩にここがお前の部屋だと云う。そしたら乱歩はむぅと唇を尖らせた。
「その子は何処で寝てるのさ」
 指差されたのは福沢の足元近くにいる子供。指を指されてぎゅっと身を寄せてくる。
「その子だけずるい! 僕も一緒に眠る」
 乱歩が駄々っ子のように声をあげる。またかとうんざりとしてしまった。うんざりとして、福沢はその時の子供の様子を見ることができなかった。今にも泣き出しそうな顔をした子供を。


 乱歩が来て二日め。
 午前中は今後暮らすことになる乱歩が使うものを押し入れの中から探し、足りないものを書き出した。午後からは福沢の仕事で外に出る。一人で行こうかともしたが乱歩はついてくる気満々だった。福沢が玄関に行く前にすでに靴を履いて入り口で待っている。大きな声を出されるのに慌てて向かう。その後を子供がついてきて玄関で立ち止まった。出掛けるのをじぃと子供が見つめている。
「あの子は行かないの」
「あれは外に出るのは好まん」
 福沢の後ろをとことこ着いてくる子供であったが外にだけは着いてこなかった。いつも玄関で立ち止まる。行かぬかと聞いてもじぃと見上げてくるだけで嫌なのだろうと判断した。もう四年も子供は外に出たことがなかった。
「ふーーん」
 乱歩が不思議そうに首を傾けた。
「外行きたそうだったけど」
 歩いていた足が立ち止まる。乱歩を驚きの目で見つめるのにさらに驚くようなことを彼は云った。
「抱っこしてもらいたかったんじゃないの」
 固まった足。脳が聞こえた言葉を処理することを拒んだ。誰が何をしてもらいたかった。
 子供の姿が浮かんだ。四年前から傍にいた子供。じぃと見詰めてくるだけで何かを直接云ってくることは一度もなかった。
「昨日のだって食べたくないとかじゃなくて前から食べたいって思ってたからだと思うけど」
「何でそう思う」
「何でて見てたら分かるよ」
 喉が震えた。張り付いた声。音が少し乱れ声が出なかったのに乱歩はさらりと云う。何もかも見透かせるような緑の目が告げるのに衝撃が走った気がした。まあ、良いけどと乱歩がさっさと歩いていくのを見送って唇が震える。四年前出会ってから子供はただじぃと見上げてくるだけ。何をするにもじっと。家のなかでは福沢の背をぬいぐるみを腕にとことこついて回る。それだけだった。何も云ってきたことはない。我が儘らしきものをしたのは勝手に福沢の布団のなかに入ってきた一度だけ。出ていくよう云っても出ていかずそのままともに寝るようになった。名前以外の言葉を聞いたことはない。いつの頃からか置物にまで思い始めていて……。
 それが……。
 昔のことを思い出した。
 まだ、共に暮らし初めて直ぐの頃。後をついて回る子供はよく福沢の服の裾を握ってきた。裾を握りじぃと見つめてくる目。何かを云いたいのだと分かっていた。だけど何を問い掛けても答えが返ってくることはなく、そのうち諦めてしまった。
 元々人と過ごすのは苦手で何を考えているのか分からぬ子供といるのは苦痛で、じぃと何かを求めてくる目が嫌で考えることを止めてしまった。
 だけど云われてみればそうだったのかもしれない。
 初めて出掛けようとしたあの日、子供の手はほんの少し福沢に向いていた。あれは抱っこを求めていたのやも……。
 福沢の目が家の方を見た。
 ずっとそこからでたことのない子供。朝行くときは玄関まで必ず着いてきた。帰りは何も告げてないのに玄関で待っていて。
 待っていたのだろうかと思った。連れ出すのをずっと待っていたのかと。思わず戻りかけた足を早く行かないと遅れるよと云う声が我に戻す。時間を見るともう走らねば厳しいほどの時刻となっていた。


「ただいま! ……バカなの」
 玄関を開けると入り口で固まった乱歩がすぐに吐き捨てた。乱歩に振り回され疲れきった福沢は思わずぶつかりかけるのを塞ぎながら乱歩が見ているもの、玄関のところに座り込んでいる子供を見る。いつもみる光景である。
「ずっとこんなところにいる何て。帰ってこないのわかってるんだから部屋に戻ればいいじゃん」
 乱歩の言葉にどきりとした。何処かで気付きながら気付かぬふりをしてきたことだった。子供の手がぎゅっとぬいぐるみを抱える。小さな頭がぬいぐるみのなかに埋まってとてとてと玄関から離れてしまった。
 福沢はまだそこにいる。


 居間に行けば子供はそこにいた。居間の隅に丸くなっている。ぬいぐるみを抱えぎゅっとなる姿はいつもの事だが、いつもなら真っ直ぐに向けられる目が今はぬいぐるみ越しだった。
「……治」
 久しぶりに子供の名を呼んだ。ここ暫く呼ぶことがなかった。その響きにぴくりと子供の肩が震え福沢を覗く部分が増えた。じぃと不安そうに見つめてくる。
「……何か食べたいものはあるか」
 声が裏返りながらも問い掛けたのに子供はその目を僅かに揺らした。それが何故なのか福沢には分からなかった。きゅっと噛み締められた唇。視線が揺れ動く。小さな唇が開こうとした。
「僕オムライスが良い!」
 はいはいと両手をあげて福沢の後ろから乱歩が声をあげる。一歩遅れてから無理だと福沢が答える。福沢の意識は子供ではなく乱歩に向いてしまった。
「ええー、良いじゃん」
「駄目だ。今日は」
こいつが食べたいものをそう云いかけた声が子供をみて止まった。福沢をみていた目が外れてしまっていて、ぬいぐるみにその顔が完全に隠れてしまっている。
「治」
 ぎゅっと変形したぬいぐるみは動く気配がない。それと同じに子供の頭もぴくりとも動かなかった。
「どうかしたのか」
 具合でも悪いか。触れようとした手が途中で止まった。子供に福沢から触れたことは一度もない。どう触れていいのか分からず触れられなかった。今も触れられず手を握りしめる。俯いた子供は顔をあげなかった。

  ***

 玄関でまた子供は止まった。ぬいぐるみの隙間からじぃと見つめてくるのに福沢もまた固まる。何かを云わなければそう思うのに言葉が出ていかなかった。
「……」
 見つめ合うのに早くと声をかけられる。
「もう行くよ」
 乱歩にせかされるのに足が動いてしまった。子供の目がゆらゆらと揺れた。
「ほら、早く。遅れるとダメって云ってたのは福沢さんでしょ」
「……」
「お前も何時までも分かってくれるなんて馬鹿な考えしてるなよな。云わないと何も分かって貰えないの。それぐらい分かってるだろ」
 強い口調で乱歩が責めるのに福沢は思わず乱歩と声を荒げた。乱歩は福沢を睨み付ける。
「何さ、本当のことを云っただけだろ」
「それで「分かんない癖に!」
 乱歩に意識が向いてしまっていたのに随分前に聞いた声が耳に届いて意識を戻す。掠れた声。ぬいぐるみを強く握りしめた子供が下を向いていた。ぷるぷるとその肩が震えている。
「何も知らないくせに云わないでよ」
 掠れ掠れの声が叫ぶ。俯いた顔をぬいぐるみに埋め子供が部屋の中に逃げていく。
「待って」
 追いかけるのに襖がぱっしりと閉められた。
「治!」
 子供の名前を呼ぶが返事はない。閉じ籠ってしまった。その扉を開けることは福沢にはできなかった。


「ただいま」
 玄関を開けた時、子供はそこにいなかった。当然かと思いながら子供が閉じ籠ってしまった部屋の襖の前に立つ。
「治……。開けてもいいか」
 声を掛けても言葉は帰ってこなかった。仕方なくそこを離れようとしたのに福沢さんと焦った声が聞こえた。珍しく顔を青ざめた乱歩が走りよってくる
「その襖を開けて、あの馬鹿!」
 嫌な予感がした。聞こえた声に素早く襖を音を立ててあける。力が入り過ぎてめきめきと壊れる音がする。だけどそんなものは耳に届かなかった。目に見える光景がすべて奪った。部屋の中に子供はいなかった。

 部屋のなかどころか家の中にすら子供はいなかった。


 それから数年。子供はあの日から姿を消したまま。何処を探しても見つかることはなかった。乱歩の頭脳を活かすため武装探偵社を作ってからは依頼人や軍警にことあるごとに子供の話をして探しているがそれでも見つかることはなかった。
 見つからずもう半分諦めていた。惰性で探していたのにある日突然子供の情報が降って落ちてきた。
 それを持ってきたのは乱歩だった。
 福沢さんと何時かのように青褪めた顔で社長室の扉を開けた。客人を対応していた所だったので出ていかせようとした福沢に治がと叫ぶ。福沢の動きが止まった。
「あの馬鹿が何処にいるのか分かったんだ。早くしないと、早くしないとアイツの友達が死んじゃう!」
 ひゅっと息を飲んだ。
 何だと顔を出してきた与謝野と国木田に車の用意を、与謝野は着いてきてくれ、客にはほんの少し待っていてくれと捲し立てていた。乱歩の推理で壊れた屋敷まで福沢は向かう。多くの人が倒れるそこを駆け足で登っていく。広い入り口に出た。その中央に人が……。
 成長していた。もう十年たって福沢の記憶にあるよりずっと大きくなっていた。それでも子供の面影が残りあの子供だとすぐにわかった。
「治!」

 






 その日、敦は何でもするつもりだった
 あまりの空腹に倒れ、死ぬのかと思いながら、死にたくないと立ちあがりどんなことをしてでも生き残ってやるつもりだった。生き残るために財布だって奪い取ってやろうと決めたのに通るのは絶対無理だと思えるような者たちばかり。心が折れそうになりながらそれでもと目を見開いた敦が見たのは川を流れる棒の用な何か。
 ……足だった。人の足だった。
 ええと戸惑った表情が浮かぶ。これはノーカンだろ。ノーカンにしてくれ。次こそはと云ったけれどこれは……そう考えているのが分かる顔をする。それでも流れていくその人を見過ごすことができなくて敦は飛び込んでいた。

 げほっ、けほ
 激しい咳がでる。細身とは云え自身よりは体格の良い男を抱えて岸まであがるのに相当な体力を消耗してしまっていた。はぁと息をはくのにぱちりと男の目が見開く。
 そして驚くほど素早く起き上がっていた。川に溺れていたとは思えない早さだった。
「あ、あんた
 川に流されてて……大丈夫?」
 恐る恐ると声をかける。男は敦の質問には答えなかった。答えずに空を見上げそして……。
「ーー助かったか。………………ちえっ」
 えと、敦の動きが固まる。ちぇっつったかこの人と相手を見る。
「君かい。私の入水を邪魔したのは」
「邪魔なんて僕はただ助けようと
 …………………………入水?」
 声をあらげかけた敦はその途中あれ? と固まった。何か妙な言葉を聞いたようなと水に濡れた男を見る。男はあっさりと笑みを浮かべた。
「知らんかね、入水。つまり自殺だよ」
「は?」
「私は自殺をしようとしていたのだ。それを君が余計なことを」
 云いかけていた男の言葉が止まる。何かを考えるそぶりをした。
「まあ、人に迷惑をかけない清くクリーンな自殺が私の信条だ。
 だのに君に迷惑をかけた。これは此方の落ち度何かおわ」
 また云いかけていた男の言葉が止まった。今度はその目が大きく見開いて何処かを見つめる。
 あっと男が声をあげた。
 何だと思うのに男の指が橋の中央の辺りを指す。正確にはその根本何かが張り付いているのが見える。水に流されそうになりながらも張り付いて耐えている茶色の……。何だあれはと目を凝らすのにとってと男が声をかけてきた。
「あれ、取ってきて」
「へっ?」
「私を抱えてここまでこれたのならあれを取って来ることだって簡単だろ」
「え、いや、なんで僕が……」
「良いから取ってきて!!」
「はい!」
 男の声に思わず体が動いていた。
 再び川に飛び込む。流れはきつかったが何とか橋の元まで行き茶色のものに手を伸ばす。水に濡れてずっしりとした重み。手にまとわりついてくる毛。何だこれはと物体をみて、一瞬溺れかけた。敦が手に取ったのは何とぬいぐるみだったのだ。何でこんなものと思いながら早くと云う男の声が聞こえて男の元に急ぐ。何でこんな事にと盛大な溜め息がでた。
「これでいいんですか」
 濡れたぬいぐるみを差し出すと男の顔がパァと輝いた。ありがとうと抱き着いてくる。
「え、なん」
「これがなくなったら私死んじゃうところだったよ。本当ありがとう」
 抱きつかれそしてさらりと取られたぬいぐるみ。
 ぎゅーぎゅーと強く抱き締めている。それなら入水等をしなければと思うが何となく云えなかった。敦の腹がなる。
「空腹かい少年?」
「実はここ数日何も食べてなくて……」
 恥ずかしいと思いながらも、これはチャンスなのではとも考えて口にした途中男からも腹がなる音がした。
「私もだ。
 ちなみに財布は流されている」
「ええ! 助けたお礼とぬいぐるみのお礼にご馳走って流れだと思ったのに
!」
 敦が驚いた声をあげる。そんなーと情けなくも崩れそうになったときおい! と遠くから呼び声がした。
「こんな所に居ったか唐変木!」
「また流れていたのか」
 遠くから聞こえた呼び声の方を向く。そこには二人の人影が……
「織田作! 来てくれたのだね! 国木田君もご苦労様!」
「苦労は凡てお前のせいだこの自殺嗜好!
お前はどれだけ俺の計画を乱せば」
 人影のうち一人金髪の男が叫ぶ。もう一人赤髪の男が何かを云っていたがそれは遮られ聞こえなかった。男は金髪の言葉を聞いてる様子がなく敦に向かってそうだと声をかけた。
「良いことを思い付いた。彼らは私の同僚なのだ。彼らに奢ってもらおう。特に国木田君に」
「へ?」
「人の話を聞け!」
 敦がこの人は何を云っているのだと首を傾けた。それはこの人が決めることではないのではと考えるのに聞こえる男の声。苦労してそうだと思う。だが腹はぐるぐるなっていて
「君名前は」
「中島……敦ですけど」
「ついてきたまえ、敦君。何が食べたい?」
 はぁ、あのと声が出る。金髪の男は苦労してそうだと思う。助けた礼だとしても男でない相手からおごってもらっても良いのかとも思うが腹が減っているのだ。敦は素直に口にした。
「茶漬けが食べたいです」
 その一言にぬいぐるみを抱き締めた男が笑う。
「はっはっは! 餓死寸前の少年が茶漬けを所望か!
 良いよ国木田君に三十杯くらい奢らせよう。織田作もきっと奢ってくれるよ」
「俺の金で勝手に太っ腹になるな太宰!」
「奢るのは良いがお前も少しは出せ、お前を助けてくれたんだろう太宰」
 二つの声がする。
「太宰?」
 敦が首を傾けるのに男が笑った。
「ああ、私の名だよ。
 太宰。太宰治だ」
 男の腕の中でぬいぐるみが敦を見ていた。

  ***

 いつもよりずっと静かな探偵社の中で国木田が何かを探すようにきょろきょろと回りを見ていた。どうしんだろうと思いながら仕事をしていた敦は国木田と目が合い思わず姿勢を正す。
「おい、敦。太宰が何処に云ったのか知らぬか」
 問われた言葉に敦の首は傾いた。
「え? 太宰さんですか。太宰さんなら織田さんと一緒に出掛けましたが」
「何!? 何故行かせた! あいつはこれから俺と依頼に行く予定だと伝えておいただろう!」
 何で知らないのかと思いながら口にした敦は国木田から飛び出した言葉に驚いて肩を跳ねさせた。信じられないと云う顔をする。
「ええ!? だってそれは谷崎さんが帰ってくるから谷崎さんと行くことになったって。依頼の内容的にも自分より彼の方が適任だからって太宰さんが……」
「そんなの奴の嘘に決まっているだろうが!」
 ええ! そんなぁ。がっくりとした声が落ち敦の肩が下がるのにはぁと国木田からはため息が落ちた。まあ、まだ入ったばかりだから仕方あるまいとは思うもののまた太宰に逃げられた悔しさで歯噛みしてしまう。
「すみません」
 しょんぼりと落ち込んだ様子で敦が謝罪する
「いや、良いが……。彼奴の云うことはまず疑ってかかれ、いざと云うときは使える奴だがそうでなければ彼奴はただの唐変木だ。如何に仕事をさぼるかしか考えん」
 国木田の言葉を今度は失敗しないぞと云う気持ちを込め真剣な面持ちで聞いていた敦はその途中首を傾けた。
「でも織田さんと出掛けたのも仕事なんじゃ」
「もともと織田一人でも十分な仕事だったんだ。どうせ織田にやらせて一人遊んでるに違いない」
「そうですかね……。前一緒になったとき太宰さん凄く仕事してましたが」
 そうなんだと聞いていた敦はやはり途中で首を傾けた。ん? と首をかけてでもと思い出したことを口にした。ちょっと前の太宰と織田と仕事に行ったとき、太宰はまともに……、敦が普段見ている姿よりずっとまともに仕事をしていたような。
「何、奴が!」
 国木田はとても驚いた顔をした。信じられないと目を見開きお前それは幻覚を見ていないか等云いたげな顔をした。そんな国木田に話を聞いていた周りがそれぞれ声をあげた。
「そもそも奴は織田と一緒だと真面目に仕事してるだろ」
「織田さんと一緒の時はちゃんと仕事してるの見ますよ」
「なにいいいいいいい!」
 絶叫が響く。目を大きく見開き愕然としている。
「く、国木田さんは知らなかったんですか」
 あまりの大声にぎょっと体を後ろにさがりながら敦が恐る恐る通った。鬼のような顔をした国木田はぎょろりと首事敦に顔を向けた。さらに敦が後ろに下がる。歯軋りの音まで聞こえたが、敦のその様子に国木田ははぁと深いため息を吐き出し怒りを抑えようとした。抑え込めてはなかったが。
「……知らん。織田と一緒に仕事をすることがないからな」
「あーー、二人とも優秀だからね」
 忌々しいという顔をして国木田が吐き捨てた。それに納得する声を与謝野が開けたが敦はまた首を傾けた。
「太宰さんも」
「彼奴は一人だとサボるだろ」
「ああ……」
 優秀ですよねと思ったが続いた言葉に納得してしまった。一人でなくともサボるのだから。一人で働かせたらそれこそなにもしないだろう。それだけならいいがまた何か問題を起こしたらと考えただけでたらりと冷や汗が流れた。
 仕方ないかと頷くとでもあれって首を傾けた。何でだろうと敦は国木田をみた。
「何で、織田さんとなら仕事するんですか?」
「知るか! 俺が聞きたいわ!」
 疑問に返ってくる怒声。ごもっともだと頷いてしまう。それでも気になるので何でだろうと自分で考えるのにどんどんと疑問が溢れてくる
「織田さんと太宰さんって何であんなに仲いいんですか。織田さんとなら真面目に仕事しますし、毎日一緒にいますよね」
「そうだね、織田の云うことなら素直に聞くしね」
 そしてつい聞いていた。敦の疑問にうんうんと与謝野が頷く。そりゃあ不思議だろうなと。今だ怒った顔をしている国木田も頷いている。いつの間にか敦だけでなく賢治、谷崎なども興味津々な目で見つめていた。
「あの二人ってどういう関係なんですか? 探偵社くる前から一緒だったって話聞いたんですが」
「え、そうなんですか」
「あーー、それはまあ妾達が云えることじゃないね」
 谷崎が疑問を口にしたのに国木田と与謝野は目を合わせてそらしあった。与謝野が云いがたそうに口にする。逸らした目がキョロキョロと動くのに聞いてはいけないことなのかと判断して会話を何か変えようとした。考えこんでからそう云えばともう一つ気になっていたことがあるのを敦は思い出した。織田と太宰の関係も不思議だが、その二人の関係の方がずっと不思議に写っていた。
「不思議って云えば社長と太宰さんも不思議ですよね」
 言葉にするのに探偵社に緊張のようなものが走った。
「そう云えば……一緒の家に住んでるんですよね。あんなに仲悪そうなのに……」
 何だと思いながらも谷崎は聞いてしまっていた。敦よりも長く見てきているが福沢と太宰の関係はよく分からないままだった。社長である福沢と太宰は何故か一緒に暮らしているようなのだが、二人が仲良く話している姿はみたことがない。もう家を出ている乱歩との方が数倍も仲が良いぐらいだった。
「まあ、ね。太宰は社長の育て子らしいからね」
「そうだったんですか」
 敦が驚いた声をあげる。谷崎も吃驚した顔をしていた。信じられないとばかりに見つめる。二人の仲はとてもそうだとは思えない。谷崎が最初に云っていたように仲が悪く見え家族だと云われても信じがたい。福沢は太宰を気にかけているようだが、太宰は福沢を避けているようで……。福沢に話しかけられても無視することも多い。
 敦は少し前に嫌っているのですかと聞いたことがある。それに対して太宰は冷たい目を向けてきた。真っ黒な色をしたとても冷たい目。嫌っているんだなとその目で敦は判断した。それなのに家族なんだ。と驚く。色々な家族がいることは分かるがそれにしても奇妙に写った
「その話なら僕聞いたことありますよ。乱歩さんより前から社長と一緒にいたんですよね」
「ええ、乱歩さんよりも」
 聞いたことがあると賢治が話したのにさらに敦の目は丸くなった。まさかあの乱歩さんよりも太宰さんの方が長く一緒にいただなんて……。谷崎も信じられないらしく嘘だと呟きぱちぱちと目を瞬いていた。
「あれ? でも太宰さんが探偵社に入ったのは国木田さんよりも後だって僕前聞きましたよ?」
 首を大きく傾けて敦が聞いた。ええと混乱した声が疑問符だらけだった谷崎からでた。理解が追い付かずに固まってしまっている。二人に与謝野が苦笑をし、国木田は何とも云えない顔をした。
「まあ、色々あるのさ」
 流すような声にこれもまたあんまり聞いてはいけないことなのかと感じ取ってまた話題の転換を考えた。どうしようかと悩むのにぎぃと扉が開く音がした。ぱっと音がした方向を慌ててみた。今、ここには社員全員がほぼ集まっていて新しくやってくる人と云えば三人ぐらいしかいなかった。そしてそれは……
「あ、社長」
話の渦中だった三人で。
 扉を開けたのが社長だと確認した与謝野の声は安堵していた。太宰には今帰ってこられたくなかった。隠そうとしてもきっと太宰なら先程まで己の話をしていたことを気づくだろう。そして絶対に機嫌を悪くする。太宰は己の話、特に福沢との話をされるのが大嫌いなのだ。
 与謝野だけでなく他のみんなもほっと息を吐き出していた。
 その様子に小さく目をまるめながら福沢は室内を見渡した。部屋のなか、隅から隅、一人一人を見つめていく目は誰かを探しているみたいだった。見つからなかったのか国木田に目が行く。
 もしかしてとその姿に全員が一人の姿を思い浮かべる。
「太宰はいるか」
 予想した名前を福沢は口にした。
「太宰なら織田と依頼に行きましたが」
「国木田とではなかっ、いやそうか」
 一度は首をかしげかけた福沢は口にしながらああ、そうかという風に言葉を止めた。織田と出掛けてしまったかと小さな声が呟く。普段と少し違う声に周りのみんなは何とも云い難い顔をした。太宰はどうみても嫌っているが福沢はそうではないようでどうしてなのだろうとそんな疑問を持つ。太宰を気にかけるような姿に違和感みたいなものを抱いてしまう。
「何か、太宰さんに用事ですか。帰ってきたら伝えましょうか」
「いや、良い」
 敦が云うのに福沢は首を振った。
「何かあったんじゃないのかい」
 与謝野が問い掛けるのに何でもないと云おうとして口を閉じた。じいと見つめてくる幾つもの目にさすがの福沢も白旗をあげた。
「いや、会合の後用が出来たので今日の夕飯は外に食べてくるよう伝えようと思っていただけだ。織田と行ったのなら夕飯は食べてくるだろう」
 だからいいと福沢はいう。
 確かにそうだろうと皆思った。織田と出掛けた後は何時も織田の家に夕飯を食べに行くのが太宰の常だから。
 ただその事を福沢に告げている姿をみたこともなかった。何だかなと二人の関係とは云えども複雑な思いが過った。



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