君の涙は、僕の胸を、しめつける
『……兄さん!……テツヤ兄さんっ……!……』
ぼやけた痛みの無い世界で泣いているのは、僕の大切な弟
スゥー……スゥー……、
微かな呼吸音が、僕の肌に触れている
「……ぁ、………せい、くん……」
そうだった、昨日の真夜中に僕の部屋を訪れた弟
僕と一緒に眠りたい、と懇願する甘えん坊な赤い少年
昔はぎこちなかったのに、いつの間にかおねだり上手なりましたね
昨日の出来事を思い返した後、さっきまでの出来事を自分の意識に繋ぎ合わせて、目の前にいる瞼を伏せた弟を、ジッと見つめる
痛みを感じる、僕の体に
征くんに、抱き締められているから
ただの夢だったのか、と一息吐く
夢の中での小さな小さな君は、消えかかっている透明な僕を、泣きながら必死に掴もうとしていた
可哀想で切なくて、僕も手を伸ばしたけれど、嘲笑うようにすり抜けてしまう
僕を繋ぎ留められなくて、大粒の涙を零す姿は、痛々しい程だった
だけど、現実での君は、こんなにも容易に僕を包んでしまっている
なんだか、とても、安心しました
そういえば、征くんが我が家に来て間もない頃、慣れない環境と情緒面の不安定さから、彼は眠れない日々が続いていましたね
心配した僕は、下手くそながらも弟の為に子守唄を歌ったり、本を読んであげたり
ただ、一番君の眠りを誘えたのは、唄でも本でもなく僕が君を優しく抱き締めてあげる事だった
確かに、人の体温は安心する、それにその人の柔らかな匂いも
今まさに、抱き締められている僕も、そう感じているから
包まれている事で尚その安らぎは増大し、君の頑丈な糸が張り巡らされた心を徐々にゆるゆると穏やかにさせたのかもしれません
あぁ、僕たちは、こうして一緒に眠っていました
彼の不眠症が改善されてからは、添い寝する事は少なくなっていきましたけど、成長した今では眠るには眠っても良質な睡眠とは言えない状態です
彼は日頃から眠りが浅く、眠る位なら読書や詰め碁をする方が有意義だと口にしているけれど
「………征くん、朝ですよ…」
「………ん………ぅ……、」
今日はぐっすり深い眠りについているようですね
2年生ながら中等部のバスケ部を統率したり生徒会長をしたり…沢山の役割を担っている多忙な征くんは、顔や態度に出さないだけで、本当は物凄く疲れているはずだ
だからこうして少しでも質の良い睡眠をとって貰えると、僕も少しは安心出来るのですが
「……それにしても…、」
ぎゅう…ぎゅう…、
「…僕は抱き枕ですか…」
ずっとずっと抱き締められていたようですね、征くんに、僕は
少しも力が緩んでいません
もしかしたら、ちょっと痣になっている可能性もありますね
征くんは程よく筋肉のついた標準的な体型ですが、思いの外、力が強かったりします
よく怒りに任せて、自分より背も体重もある黄瀬くんの胸倉を掴んで吊し上げたりしますから、侮れない腕力の持ち主です
そんな彼に、力強く、ぎゅうぎゅう抱き枕にされて、節々が痛まないはずがありませんでした
僕が盗られるのが嫌だと拗ねていましたが、まるで小さな子どもですね
みんなの前では大人びいているのに、僕の前だと時折子どもじみた行動をする征くん
かわいいにはかわいいのですが、なんというか…加減を知らない抱き締め方をする困った弟です
だけど、誰にも甘えない征くんが僕にだけ甘えてくれるのは、“兄”として嬉しくもありますから、僕も大概ブラコンですね
幼い頃は仲の良かった兄弟も、成長と共に疎遠になったり険悪になったり、そういう話を聞いた事はありましたが
「………テ…ツヤ……に……さん」
「…………ふ、……昔と変わりませんね……」
僕たちは、あの頃のままだ、きっと
うん、そうであって欲しい
「征くん、いい加減に起きないと朝練に遅刻しますよ」
「…ん……おはよう……兄さん…、」
「はい、おはようございます………あの、征くん」
「ふぁ………なに?どうしたんだい…?」
「…征くんの馬鹿力のせいで…身動きがとれません。腕を放して下さい」
「………もう少しだけ、」
「…もう十分です。駄犬に関してでしたら、ちゃんと消毒されてますよ」
「…うん、もう、大丈夫そうかな……駄犬の匂いも抱き締められた感覚も消えたよね……僕が消毒したから」
「そうですね…抱き締められた部分が痛いですから、征くんのせいで」
「……ごめんなさい」
「まぁ、許しますよ……許しますけど、いい加減離れなさい。こんなにくっついて……はぁ…きっと、今の僕は、征くんの香りしかしませんよ」
「……ふふっ…そうだね……僕も…兄さんの香りしかしない………安心する」
そうして、君は初めてぐっすり眠れた日の朝と同じように微笑んで、
『……兄さんのおかげで……眠れました……テツヤ兄さんの香り……とても…安心します』
同じ言葉を言うから、僕はなんだか、くすぐったい気持ちになりました
昔も今も、あたたかくしてくれます
征くんの笑顔は、僕の心を
そんな風に平和な1日が過ぎてゆくと思っていました
しかし、現実はそう簡単に平穏無事な時間を与えてくれる訳がありませんでした
夢の中で泣いていた君を、抱き締めてあげられなかった事
夢の話で片付けられる現象では無かったのでしょう
現実世界での君の涙、僕は、ずっとずっと、見えて、いない