『赤司くん、』


ただ、名前を呼ばれた、だけ。その行為自体、誰でも出来る、特異性の無いもの。しかし、誰でも出来ないのは、“ふつう”の音を、“とくべつ”な音にする事だ。鼓膜をやさしく震わせる、最愛の恋人の音色は、僕の心に熱をもたらしてゆく。想いが通じ合う前、僕が彼に見込みのない片想いをしていた頃は、そんな安心感は決して生まれなかったもの。ときめきと焦燥の混沌。名前を呼ばれれば、心臓がビクンっと跳ね上がり、素知らぬ顔で心拍数を速めてくれるものだから、冷静さを装うのが大変で苦労したものだ。彼が、その澄みきった声で、僕以外の人間の名前を呼ぶ、それで嫉妬する下らない自分もいたあの頃。彼の言葉・行動ひとつひとつに、気が気でない。自信も余裕も何もなかった日々と別れを告げたのは最近のこと。喉から手が出る、いや、心の奥から狂おしい手が出てしまいそうになる程に、彼という人間を欲して恋して愛して。それでも、打ち明けてはいけないと、自分の心を戒めて苦しめて痛めつけて。

ある日突然、堪忍袋の緒が切れたように、一気に爆発した、臆病な偽りの無い感情。嗤われる、怖かった、でも、嗤われたら、やっと、この歪んだ邪な想いを殺してもらえる。テツヤが僕を受け入れてくれる確率は、0.00001%かなと絶望的な仮定に乾いた嗤い。大敗を予期しながらも、賭けた勝負は、予想外の結果に終結。

苦痛に満ちた片想いが終わり、恋い焦がれた影の子と心が結ばれたんだ。僕の心の中に積もり続けた陰鬱さを明るく照らし、一瞬にしてあたたかなシアワセを灯してくれた、黒子テツヤの笑顔。そんなカオを見せられたら、もう一生手放せないじゃないか。嬉しくて嬉しくて嬉しくて、たまらない。この両想いを機に、無表情が定着していた彼の顔はら多彩な面を覗かせるようになる。以前よりも喜怒哀楽が解りやすくなって、心の距離がグッと近付いた気がする今日この頃。僕にとって喜ばしい事に変わりないのだけれど、新たな悩みのタネになってしまった。

『赤司くん、ちょっとだけ、甘えてもいいですか…?』

眉毛を下げて上目遣いで僕に擦り寄って来た、まるで仔猫のようなテツヤ。一見何ら害など為さないように思える、この無垢な瞳をした愛猫。だがしかし、僕の鍛え抜かれた理性をことごとくなし崩しにしようとする、厄介な甘えん坊だ。急激に近付いた関係は、お互いの皮膚と皮膚が、呼吸と呼吸が、触れ合ってしまう、心臓に悪いものへ変貌。危うく、思考回路が退化しそうになる。人間らしい大脳新皮質など、使い物にならない。いっそ、本能に身を任せて、獣になってみるのも、一興か。そこまで血迷いながらも、結局理性に鞭を打ちつけてどうにか思い留まる。僕はテツヤに嫌われることを、最も恐れている臆病極まりない人間だからだ。

『…あぁ、おいで、テツヤ』

僕の膝に頭をのせてまどろむ恋人の髪をやさしくやさしく撫でれば、安心したのか緩々と力が抜けてゆく。

『……あかし、くんの…て……きもちい…です……』

本当に猫のようだと考えながら、手でサラサラの髪を梳かしていると、

すぅー……、すー………、

何時の間にやら聴こえてきた、微かな寝息。膝の上に感じる重みや温かみ、それらの感覚は全てこの無防備な仔猫のもの。

ゾワゾワゾワ、ゾクゾクゾク

心に巣食い始める穢らしい欲望を、鋏でジャキジャキ切り刻めたらいいのに。このままでは、きっと、早々にテツヤをボロボロに傷付けてしまうだろう、己の欲のままに。心と身体がちぐはぐな自分を、上手くコントロール出来ない未熟さ。そんな僕を知らない、いや、そんな僕なんて知らなくていいテツヤと、どう接するべきか図りかねる。片想いの頃よりも数段難儀な問題だ。触れてもいい、だけど、触れ過ぎたら歯止めが効かなくなる。最善策を早く見つけなければならないのに、僕の瞳がテツヤを捉えれば、ただただ本能と理性のせめぎ合いが始まってそれどころではない。心はぐちゃぐちゃだ、白と黒でぐちゃぐちゃテツヤを守りたい白、テツヤを汚したい黒、混ぜた所で嘘つきな灰色にしかならない。そうしていると、条件反射のように身体が逃避してゆく。僕の瞳がテツヤを視認すると、逼迫した心が独断で身体へ緊急退避命令。どう見ても不自然な距離をとるようになってしまった。視界の端々に映るテツヤの顔は、最初は不思議そうに、段々と不安そうに、終いには悲しそうに、翳りを帯びてゆく。

あぁ、違うんだよ、テツヤ。そんな顔をさせたい訳じゃないんだ。ただ僕はお前を傷つけたくなくて。これじゃあまるで、あの時と一緒だ。笑顔にさせたいのに、笑顔に出来なかったあの時と、いっしょ。心の中で一人勝手に言い訳してみても、テツヤに伝わるわけがない。これでは、片想いの時より尚更、悪い方へ逆走しているじゃあないか。何をしているんだろう僕は、一体何をしたいんだ僕は。自分の過失を認めながらも、心身のコントロールは空回りばかりする。これではいけない、これでは、


「ねぇ…赤ちん、」


ひとり四苦八苦思い悩む、僕の後ろから僕の名前を呼ぶのは、


「……敦、どうしたんだい?」


僕がとても可愛がっている紫原敦だった。ただいつもの敦とは、どこか違う。そう、何かが、違うんだ。


「黒ちん、要らないなら、俺が食べちゃうよ」


本気の瞳で、信じられない言葉を、僕に告げるのは、僕の知らない紫原敦。


「…、……ダメだ、そんな事をしたら、敦でも殺す、テツヤは僕のモノだ、誰にも渡さない」


条件反射、本気で返事をした

僕は何だか、泣きそうになった


「……そっかぁ。…良かったねぇ、黒ちん」


僕の心臓がガタガタ震えている間に、敦はいつもの敦に戻って、その影からひょっこり出て来たのは、


「……ありがとうございました、紫原くん」


久しぶりに瞳が合った、黒子テツヤ。逃げたくても、心臓が、逃げ出せない。捕えられてしまった、僕の大好きな無垢な瞳に。

「………テツヤ、」
「赤司くん、もし今度僕を避けたら、紫原くんに僕を食べてもらいますからね」

いたずらっぽく笑ったテツヤに、僕はいたずらに笑う事は出来なかった。

「えぇ〜…黒ちんを食べちゃったら、俺が赤ちんに殺されちゃうから、やだよぉ〜」
「大丈夫です。紫原くんの事は、僕が身体をはって守りますから、安心して下さい」
「ほんとぉ〜?さすが黒ちん、男前だねぇ〜……、」


「かわいいのにかっこよくて…惚れちゃいそう、だよ」


あぁ、そうか、そうなんだな

もうずっと前から、惚れていたんだな、お前は

僕はテツヤと自分しか見えていなくて、何も気付けていなかった

さっき、お前の本気の瞳を向けられるまで、僕は何もわかっていなかった

いつもの調子でゆったりと言葉を浮かばせながらも、テツヤを見つめる表情、緩く細められた瞳の奥には、


「…こんな黒ちんに想ってもらえる赤ちんって…、本当に、シアワセモノだねぇ〜…」


息苦しいほどの切なさが、滲みでているというのに

ポロリと、零れ落ちなくても、僕には見えたヒトシズク

それでも、大切な友人の秘められた恋情を、犠牲にしてでも、僕はテツヤをひとりじめにしたいんだ


“敦、すまない、テツヤを大切に大切に愛していくから、どうか意地汚い僕を許しておくれ”


僕が知り始めたのは、恋の喜びや苦しみ

そして、誰かの笑顔の裏に誰かの涙があることだった





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