『YOU LOSS』の文字を見つめ、今日何度目かわからない溜息を吐く。軽くなった財布の中身を覗いて、目の前に座る北城の様子を伺った。彼はまだやる気だ。薄暗い店内にはふたりと奥の方に何人か、それと店員しかいない。休日ともなればこの店もそこそこ人が入るのだが、今日は平日である。さすがに学生の姿も少なかった。

「あ、ワリィ俺もう帰るわ」

 ふと時計を見ると、時刻は19時を回っていた。普段ならもう少し遊んで帰るのだが、今日ばかりはそうは行かない。100円玉を投入するところだった北城は不機嫌そうに顔をしかめ、如月に続いて席を立った。コンテニューのカウントは赤く点滅している。

「なんだよ、お前はまだやってればいいだろ」
「ひとりでやったって面白くねぇよ。腹減ったし俺も帰る」

 それなら不機嫌そうな顔をしなくてもいいのにと、そう思いながら如月は財布をブレザーのポケットにしまった。
 外に出ると思った以上に暗くなっていて、街灯がチラチラと揺れていた。雲が厚く空を覆っていて、これはまたひと雨降りそうな空模様である。そういえば今朝の天気予報では夕方から雨が降るかもしれない、なんてことを言っていたかもしれない。ここ最近不安定な天気が続いているため、テレビは毎日同じようなことを言っている。
 如月はこの時期が嫌いだった。

「今日なんかあんのか」
「あいつにノート見せてもらう約束してて」
「ああ、そういや真山に絞られてたな、お前」
「うるせーよ」

 あまりにも如月の授業態度がよろしくないと、危うく部活動禁止令が下されるところだったのだが、そこをたまたま通りかかった向井がありがたいことに助け舟を出してくれた。よって部活動は通常通り参加できることになったのだが、その代わりに毎時間のノート提出を求められた。授業中、放課後の部活動のために体力を温存している如月はもちろんこれまでの授業の板書を取っているはずもなく、泣く泣く幼なじみにノートを貸してもらうよう頼み込んだのだ。全教科を机とロッカーに詰め込んでいる如月とは違って、幼なじみは毎日きちんと持ち帰っているようで、家にある分は帰ってから貸すと言われたのだ。如月はそのために帰路を急いでいる。

「期末点ヤバかったらスタメン外すしかないって向井先輩に言われてんだよ。今回は流石にやらねえと……」
「とか言ってる奴がゲーセン来るかよ」
「今日はその、あれだ、息抜き」
「スタメン落ち確定だな」

 ぐうの音も出なくなったところで北城と別れ、幼なじみの家に急いだ。きっと彼女は今も家で如月の帰りを待ちぼうけているに違いない。電話で催促するなりすれば良いものを彼女はじっと如月の帰りを待っているのだから、相変わらずというか、彼女らしい。
 ぽつりと、如月の頭に雫が落ちた。それを合図に、怪しかった雲は如月の勘通り冷たい雨を降らせた。乾いていたコンクリートがだんだんと黒く染まっていく。当然のように雨具を持ち合わせていなかった如月は、重たい鞄を傘代わりに駆け出した。


***


 幼なじみの家に着くなりタオルやら着替えやらを渡されて、仕舞いには「もうお風呂に入っちゃいなさい」と彼女の母親に催促され、再び彼女と顔を合わせる頃には如月は酷くさっぱりしていた。
 幼なじみとはいえ異性の家の風呂に入るなんて立派な男子高校生である如月は気が気でなかったし、毎日彼女がこの空間で入浴していると考えただけで頭が破裂しそうだった。そのくせ、彼女自身は何でもないような様子で「おかえり」なんて笑顔で如月を迎えるので、これもまあ結局はいつも通りなのである。そっけなく「おう、風呂サンキュ」と答えて、適当な場所に座った。よく考えれば彼女の部屋に入るのも随分久しぶりで、ノートを探している彼女をよそに部屋を見回した。この部屋にいるだけで彼女の香りがするものだから、落ち着こうにも落ち着けない。

「はいノート。これで全部かな?」
「おー、多分」
「もう、毎日ちゃんと授業受けてればあとから追い込まなくて済むのに」
「説教は真山だけで十分だっつーの」

 借りたノートを何となくパラパラと捲った。落書きと自分でも解読不能な文字が並んでいる如月のノートよりもはるかに見やすく、彼女らしい字が並んでいる。

「そういえば、お母さんが斗真もご飯食べていけばって言ってたよ。どうする?」
「飯? いや、そこまでは悪いって。風呂まで借りてんだし」
「それは別にいいんだけど……あ、そうだ、確か数学の宿題が出てたよね」
「げっ、あったかそんなの」

 教科書を取り出してここだね、と宿題の問題を指した。そういえば今日こんなページを眺めたような気がするとぼんやり思い出しながら、気のない返事で適当に返した。ただでさえノートを写すのに時間がかかるというのに、宿題まで出すなんて真山はとんだ鬼教師である。そう如月は心の中でグチグチと不満を並べた。口にしたところで目の前にいる幼なじみに綺麗に拾われて丁寧に叱られるのだから言うだけ損だ。

「……斗真、聞いてる?」
「あ?」
「だから、ご飯食べていくついでに宿題一緒にやろうって言ったの。ひとりでやるより一緒にやった方が早く済むでしょう?」
「……ここでか」
「嫌なら斗真の家でもいいけど」
「いや、そう、そうじゃねーよ。そーじゃねーけど! あー、あー……クソ、なんでもねえ」
「え? なに?」
「飯も食うし宿題もやるって!」
「? わかった、お母さんに言ってくるね。斗真もおばさんに連絡いれといてね」

 扉が閉まる音を背中で聞いて、如月はひとつ控えめに溜息をついた。色々と言いたいことや思うことがあったが、彼女の部屋でボロボロ零していくのも何だか気が引けるので、母親に一言メールを送ったあと、おとなしく鞄の中から中身の少ないペンケースと如月のノートを取り出して、彼女のものと並べる。濡れていたはずの鞄は綺麗に水滴が拭き取られていた。
 如月のノートをペラペラと捲ってページを遡っていたが、思ったより遡るページが少なかった。以外とノートを取っているじゃないかと思ったが、ただ単にノートに手をつけた頻度が少なかっただけらしい。ページの間の日付が随分飛んでいる。これはもう、今夜は寝られないかもしれない。


***


 早くに宿題を終わらせたらしい幼なじみは何らかの雑誌を眺めている。それをいいことに、少しばかり答えを拝借しようと彼女のノートに手を伸ばせば、案の定叱られた。ケチ、と呟いた如月は再びわけのわからない公式を睨みつける。こんなものをやったって、どうせ大人になれば忘れてしまうのだ。むやみやたらに詰め込んだってただ如月の頭が痛むだけである。

「……うわ、今週ずっと雨かよ」

 ニュースが流れていたテレビは天気予報に変わり、アナウンサーがモニターを使って解説している。どうやら如月が住むこの辺りも梅雨入りするらしい。

「サッカー部は雨でも練習やるんだよね?」
「まあな。あまりにも酷けりゃ中で走り込みか筋トレしてっけど」
「そっか、大変だね」
「だから嫌いなんだよこの時期は……」

 ノートに顔を押し付けて練習ができない苛立ちをどうにか抑える。サッカーボールに触れたい。思い切りグラウンドを駆け回りたい。キーパーの構えるゴールに向かって、力強いシュートを打ちたい。けれども、この雨と目の前のノートがそれを許してはくれなかった。

「でも、わたしは嫌いじゃないかな」
「はあ? まあ、お前は試合とかに出るわけじゃねえから関係ねえだろうけど……」
「斗真は知ってる? 6月がなんの月か」
「だから、梅雨だろ」

 それもあるけど、と幼なじみは今まで読んでいた雑誌を斗真の方に向けて広げた。そのページには純白のドレスに身を包んだ女性たちがしあわせそうにして並んでいる。見慣れない単語が見出しとして大きく印刷されていた。

「じゅーん、ぶらいど?」
「6月の花嫁っていう意味。6月は家庭の守護神ジュノーの月で、西洋ではこの月に結婚した女性はしあわせになれるって言われてるんだって」
「へえ…」
「あ、斗真興味なさそうな顔してる」
「いや、べつにそうじゃねーけど」
「日本では梅雨時期の売り上げを伸ばそうとヨーロッパの言い伝えを広めたらしいけど、なんだかこういうのって憧れるよね」
「あー、そうか……?」
「ふふ、やっぱり興味なさそう」

 嬉々としてジューンブライド特集のページを眺める幼なじみの様子を如月はじっと見つめていた。こういうものに興味を持つのはやはり女性だからだろうか。
 そういえば、よく考えなくても彼女はもう今年で17歳になる。ということは、とっくに法律上結婚出来てしまう年齢なのである。世の中の女子高校生は早くも結婚を考えながら日々の生活を送っているのだろうか。そして、彼女もそのうちの一人なのだろうか。如月は今まで結婚について考えたことがないし、結婚という単語を口に出すのもしっくりこない。自分と結婚はまだ遠い関係だと思っている。法律で結婚出来る年齢に差があるのは、つまりこういうことなのかもしれないと、他人事のように考えた。

「ねえ斗真、このドレス素敵じゃない?」
「あー、なんか地味すぎね?」
「そうかなあ、シンプルでいいと思うけど」
「お前ならこっちの方が……」
「あ、本当だ、ふんわりしててかわいい」

 無意識にドレスを指してから如月はハッとして慌てて手を引っ込める。頭の中で幼なじみが『ふんわりしててかわいい』ドレスを身に纏うところまで想像して、如月は今にも破裂しそうになった。自分で勧めておいて言うのもなんだが、そのドレスを着た幼なじみはきらきらと眩しくて、あまりにも直視できなかった(どこまで事細かく想像したのかというツッコミはなしでお願いしたい)。恐らく真っ赤に染まっている顔を隠すように再び突っ伏する。いつだって平静さを保とうと努力しているのに、それを知らない彼女は平気でそれを壊してしまうのだ。どうしたら人間はこんなにも鈍くなってしまうのか。随分と長い間彼女の隣にいる如月も、その答えはわからなかった。

「……ふふ」
「なんだよ、いきなり」
「ううん、なんだか、こうしてふたりで雑誌見てると新婚さんみたいだなあって」「し、しんこ……!?」
「もし結婚式挙げるなら、こんな風にふたりでウェディングドレスを選んだりしたいなあって……あれ、斗真?」
「おまっ、お前は、そうやってすぐ期待しちまいそうなことを……!」
「え、斗真? 大丈夫?」

 流石の如月も目眩がした。机に打ち付けた額がじんじんと痛むが、それどころではない。彼女は一体何を思ってそういう言葉を口にするのか。ーーいや、彼女の言葉は全て本音である。如月を誘おうだとか、アピールしようだとか、そういうことは一切ない。つまりは、彼女のただ素直な感想なのだ。
 それにしたって今回のは今までの中で最高にHPが削られた。というより、一発KOである。どれだけ如月の寿命を減らせば気がすむのだろうか。

「……お前な、それだと俺とお前が結婚することになんだろ」
「あれ、ほんとだ」
「あのなあ、毎回言ってんだろ……そういうことはもう少し考えてからーー」
「でも、斗真と結婚したらきっと子供もサッカーが上手になるね!」

 斗真に似てかっこよくなりそう、勉強は少し苦手かな、ピーマンは小さい頃から食べさせてあげないと、なんて次々と爆弾を投下してくる彼女にはもう、如月は敵わなかった。敵わないが、黙って聞いていれば恥ずかしいことばかりを並べてくるため、聞き入れまいと努力する如月の顔がじわじわと染まってくる。これでもう何度目だ。彼女も彼女で嬉しそうに語っているので、如月はもうふたりは付き合っているのではないかと錯覚した。再び額に痛みを覚えた頃には錯覚から目覚めたが、それでも彼女には敵わない。今日の幼なじみは強すぎる。

「……お前に似た子ならかわいいに決まってるだろ」
「斗真? 何か言った?」
「いや、なんも」

 随分とほったらかしにしていた数字と文字の羅列が寂しそうに如月を見つめる。週末は一部の地域で晴れ間が見られますとアナウンサーが言った。隣にいた男性が結婚式にもってこいの日ですね、なんて馬鹿らしい笑顔で返して、ニュースが終わる。窓の外は相変わらずの土砂降りで、止む気配はない。握っていたシャープペンシルの芯をしまい、開いていたノートをそっと閉じた。
 やはり、この時期は嫌いだ。


title by rrr

間に合わなかったジューンブライド


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