※付き合ってる大学生椿雛




 明日の朝は絶対に遅れてはならないからと、予定の二時間も前から目覚ましをセットしたのはいったい何処の誰だったか。日が昇りきる前に起きるはずだった椿は、既に窓の外が明るくなっていたことが信じられなかった。信じられなかったが、だからといってどうのこうのと後悔だの絶望だの感じている暇なんて、椿にはコンマ一秒でさえも残されていない。すっかりあたたまった布団を蹴飛ばして枕元の携帯を手に取り、残されていた複数のメッセージを聞くことなくそのまま通話ボタンを押した。気持ちよさそうにさえずっている小鳥たちに理不尽な怒りを覚えつつ、夢の中から連れ出してくれなかった目覚ましを睨みつけた。時刻はもうすぐ十時半を回るところで、つまりはとっくに待ち合わせ時間を過ぎてしまったのである。


***


「珍しいな、椿くんが寝坊するなんて」
「本当に、本当に申し訳ない! まさかこんなに寝てしまうなんて……」
「別に構わない。いい思い出にもなるし、旅にはハプニングが付き物だ」
「僕は朝から冷や汗が止まらないくていい思い出どころでは……いや自業自得ではあるんだが、というか僕だけ空回りしているせいなんだが」
「とりあえず深呼吸をしよう、椿くん。ああほら、モイモイを抱っこすると気持ちが落ち着くぞ」
「あ、いや、大丈夫だ、大丈夫。深呼吸すれば落ち着くはず、落ち着くはず……」

 今日から浅雛と一泊二日のプチ旅行に出かけるといって、前々から二人で細かく計画を立てていた。何時に何処に集合して何時発の電車に乗り、向こうに着いたらまずは旅館に荷物を置きに行き、そのあとはゆっくり観光スポットを巡り……と、全ては順調に進むはずであった。昨夜、椿が夢の中に旅立つまでは。
 大きな溜息が椿の口から吐き出された。自分が犯した失態に思わず頭を抱える。だって今日という今日は、本当に楽しみにしていたのだ。椿自身はもちろん、浅雛だって、普段はあまり自分から掛けてこない電話を寝る前にわざわざ椿に寄越したくらいなのだ。そうとう心待ちにしてくれていたのだろう。それを椿は、朝寝坊というとんでもなく間抜けでみっともない過ちで台無しにしてしまったのだ。結局あれから家を出たのは十一時を過ぎた辺りで、向こうに着くのは早くても昼過ぎである。予定ではその頃にはもう昼食を済ませ、観光スポットへと向かう時間であるのに、完全に時間を無駄にしてしまった。考えれば考えるほど悪いことしか浮かばない椿は、もう一度、それも先ほどよりも大きな溜息を吐いた。

「本当に、すまなかった、浅雛」
「椿くん、今だって私はワクワクしているし、向こうに着いてからが楽しみだ。それに時間はまだたっぷりある」
「……すまない、僕がちゃんと起きていればこんなことにはならなかったのに、大切な時間を潰してしまった」
「だから、そう気にすることはないと言ってるだろう。そろそろ鬱陶しいぞ、椿くん」
「う、うっとうし……!」
「今回の旅行、とことん楽しもうと言ったのは椿くんだ。私は楽しんでいる椿くんが見たい」

 そうだ。例え椿が失敗をやらかしたことには変わりなくても、今この瞬間は椿の時間ではなく浅雛との時間なのだ。当然、こんなくだらない自己嫌悪に浅雛を付き合わせるわけにはいかなかった。椿は頭を大きく振って、マイナスな気持ちを吹き飛ばした。反省なんて返ってきてから好きなだけやればいいことだ。今はふたりの時間を楽しむことが最優先である。全く、これではどっちが彼氏でどっちが彼女なのかもわからない。地面と睨めっこしていた顔をゆっくり上げると、どうやら安心したのか浅雛は優しく薄っすらと微笑んだ。椿は目の前にいる浅雛が酷く眩しくて、暫く直視出来なかった。


***


 夕食を済ませて旅館に帰って来るなり、ふたりは畳に転がった。時間が短い分あれもこれもと手当たり次第回った末に、歩き疲れてしまったのだ。高校時代ならともかく、大学に入ってからは椿も浅雛も体を動かす機会があまりなかったため、明らかに体力が落ちたこの体には結構応えたらしい。

「なんだか、たくさん振り回してしまってすまなかった、浅雛。足は大丈夫か?」
「平気だ。なんてことはない。椿くんはどうだ?」
「僕も平気だ。けど、疲れが残っては明日楽しめなくなるだろうから、今日は早めに休もう」
「そうだな、それがいい」

 それじゃあ私はお風呂に入ってくると、浅雛はのっそり起き上がった。いってらっしゃいと背中に声を掛けようとすると、それとも一緒に入るか、なんて似合わない冗談を言ってくるので、椿ものっそり立ち上がりながらそうだな、一緒に入ろうか、なんて言いながら浅雛の背中を追った。これでもし混浴だったらどうしようかと言ってしまったあとに色んな気持ちをかき混ぜた椿だったが、浅雛はさっさと女湯の向こうに消えてしまったので椿はホッとしたような、残念だったような難しい感情に襲われた。男というのはなんとも面倒臭い生き物である。

 一足先に風呂から上がった椿は着慣れない浴衣に身を包んでぼんやり外を眺めていた。朝はそれこそ気持ちも思考回路もドン底であったが、浅雛の一喝もあってかそれ以降はとても充実した時間を、少なくとも椿は過ごせたと思う。あとで浅雛にそれとなく楽しかったか聞いてみようと、先ほど買ったペットボトルお茶を口に含んだ。
 浅雛とは何度も一緒に出掛けたことはあるが、遠出して外泊することは今回が初めてだった。お互い別々の大学に通っているためなかなか休みが合わず、一週間二週間会えないことがよくあり、出掛ける頻度も高校の時と比べて格段に減ってしまったのが現実であった。しかしどうにかその空白の時間を埋められないかと考えたのは椿で、旅行という案を出したのも椿だった。浅雛もそれを聞いた時から随分と乗り気で、嬉しそうに行き先を考えていたのを覚えている。
 そういえば、浅雛の表情が最近柔らかくなったように思う。笑うことが多くなったし、何より、椿といる浅雛はとてもしあわせそうなのだ。椿も、そんな浅雛の隣にいることができて、とてもしあわせだった。

「ただいま、椿くん」
「ああ、おかえり。浅雛」
「ここの温泉はとても大きいな。全部回ろうとしたが、多すぎて逆上せそうだから途中で上がってしまった」
「朝にまた入ればいいさ。僕も朝もう一度行こうと思ってたところだ」
「それじゃあ、朝は混浴らしいから今度こそ一緒に入るか?」
「えっ、こここ、コンヨク!?」
「ふふ、冗談だ。ここは混浴はない」

 夜風に当たって涼んでいたはずなのだが、一気に体温が上がったような気がした。いや、気のせいではないだろう。恥ずかしいほどに顔が熱く赤くなっているのが鏡を覗かなくともわかる。そんな椿を見て浅雛が可笑しそうに笑った。そんな笑顔につられて、椿も顔が赤いまま笑った。

「あ、椿くん、浴衣が崩れてる」
「え、本当か」
「私が直そう。帯も随分と緩いみたいだ」
「すまない、ありがとう」

 慣れた手つきで着崩れてしまった浴衣を直していく浅雛の手をなんとなく見つめた。相変わらず色白で細く綺麗な手をしている。男の椿の手とはだいぶ形が異なっていた。当たり前なのだが、この差がなんとも愛おしく思える。浅雛を守るのは誰でもない自分なんだと、そう思える。椿は浅雛の手が好きだった。

「はい、できたぞ。動きにくくはないか?」
「ああ、大丈夫だ。どうもありがとう」
「どういたしまして」

 すっと離れていく手が名残惜しくて、無意識に手を引き寄せてしまった。浅雛は驚いた様子で椿を見上げた。この見上げられる視線も、椿は好きだった。

「どうかしたか、椿くん」
「いや、離れてしまうのがなんだか惜しい気がして」
「私は手を引かなくてもここにいる」
「……それでも、いつかは離れてしまうかもしれない」

 いつまでも掴まれたままの手と椿の顔を交互に見つめながら、浅雛は困惑した様子だった。椿が話しているのはこの手ではなく、これから迎える未来の話だろうか。いつか遠くても近くても、浅雛が椿の元からいなくなってしまうという話をしているのだろうか。果たして、浅雛はそんなことを思わせるようなことをしただろうか。

「……椿くんと別れ話をするときが来るとでも?」
「なんでもない、なんでもないんだ。今のは忘れてくれ」
「私は椿くんにそう思われるようなことをしたのか? 不安にさせるようなことを言ったのか?」
「違う、浅雛は何もしてない。僕が勝手に思ってしまっただけだ」
「どうしてそう思ったんだ、椿くん」

 これは純粋な疑問だった。今まで喧嘩は多々あったけれど、そんな風に感じてしまう場面は少なからず浅雛は感じていなかった。それとも、浅雛がわからなかっただけで、椿はそう捉えてしまったことがあったのだろうか。浅雛は椿と別れるなんて考えたことはないし、椿も同じだと思っていた。もしかして、浅雛ではなく椿が別れたいと思っているのだろうか。

「僕は、浅雛のパートナーとして相応しいかというのを考えしまうんだ。今までだって、今朝のことだってそうだ。僕は浅雛と一緒にいたいのに、僕では役不足なんじゃないかと」
「そんなことはーー」
「考えても仕方がないということはわかっている。それでも、そんな僕に浅雛が愛想を尽かしてしまったら一緒にいられなくなってしまう。……それが、そんな自分が、嫌なんだ」

 浅雛はなんて馬鹿なことを考えているのだろうと、目の前の男を見つめた。だって、浅雛はずっと椿の背中を見てきたのだ。彼の良いところだって悪いところだって、たくさん知っている。役不足だなんて、自分を卑下するのも大概である。
 大きく息を吸ってゆっくりとそれを吐き出した浅雛は、椿の目を見てはっきりと告げた。

「椿くんのそういうところも、いいところも、全てを含んだ椿くんが私は好きなんだ。椿くんの苦手なことは私がカバーしたいし、私が苦手なことは椿くんにカバーしてもらいたい。椿くんが全てやることはない。そういうのが、パートナーというものなんじゃないか?」
「浅雛……」
「それに、愛想が尽きるならとっくの昔に尽きている。もう何年一緒にいると思ってるんだ」

 握っていた手をさらに引かれ、浅雛は椿の腕の中に収まった。いきなりのことで驚いたが、すぐに自分のものよりも広い背中に腕を回す。それはいつか自分を助けてくれた椿の背中より随分と大きくなっている。ずっと見てきたこの背中は、少しずつ確実に成長してきたのだ。

「今日は、なんだか浅雛に喝を入れてもらってばかりだな」
「私は椿の気持ちが知れて嬉しい。普段はあまり話してはくれないから」
「それは浅雛も同じく、だぞ。ということは、僕たちは似た者同士というわけか」
「それなら、これからも仲良くやれそうだ」

 浅雛を抱きしめる力が強くなった。浅雛も負けじと抱きしめ返してやる。椿がもう不安に思うことがないように、離してやる気もないというように、強く、優しく、椿を抱きしめた。椿は嬉しそうに、それに応えるかのように浅雛の頬に唇でそっと触れた。時計の針が、午前零時を回った頃だった。





title by Rachel


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