浅雛菊乃は、ただひたすら走っていた。
校内を生徒会執行部のメンバーである自分が走る事など許される事ではないというのは既に承知している。だがしかし、今はそのような事を気にしている暇などないのだ。
風を切るようにして走り抜けた先には、体育館が見えた。場所からして裏側だろう。何も考えずに走っていた浅雛は、最早場所など何処でもいいとでも言うようにその場に壁に寄り掛かりずるずるとしゃがみ込んだ。ゆっくりと息を整えている間に、先程の情景が脳内に映し出される。それを思い出してしまうのが嫌で、頭を大きく左右に振るが、効果はてんで零に等しい。その情景が酷くこびりついているのだ。
『俺が見たかったのはお前のその顔だ、デージー』
同じ台詞がリピートされるなか、浅雛は懸命に頭の中を整理していた。先程、何処で誰に何がどうされたのか。しかし本当は、そんなこと整理せずともわかっている。だが、これが事実だと認めたくない自分がいる。認められない、自分がいる。
***
「デージー、資料取りに行って来てくれないか?」
「了解」
今から数10分前、まだ生徒会室にメンバーが仕事のために残っていた。浅雛は会長である安形に資料を取りに行くよう言われたので、速やかに資料がある教室へ向かった。何しろ、自分の仕事が未だに終わっていないため、早く帰って片付けてしまわないと遅くまで学校に残ることになる。そんなのは御免だと眉を潜め、より足を早めた。
「……これか」
沢山ある資料の山の中から、目的である資料をひとつ、ふたつと棚から抜き出し、一旦近くにあった机に置いた。小さく溜息を付いた浅雛は背を壁に預け、天を仰ぐ。
ここのところ、働きすぎではないのかと周りに心配されるようになった。確かに、と浅雛自身も自覚はあった。だが、自覚があっても働かなければならない現実は変わらない。しかし、最近は以前より仕事が増えている気がする。特に、浅雛に。何故だかはわからない。信頼があってこその事ならばそれは嬉しい。だが、そうではなく悪意のこもった行為だったなら。彼らにはそういった疑いは一切無いが、浅雛はいつ彼らに裏切られてもおかしくないと思っている(それは彼らには限らないが)。
だが結局、椿がいる時点でそういう事は起こらないだろう。椿は恐らくそういった事が嫌いだ。気に入らない事があれば単刀直入に本人に言うだろうし、周りにもそう言わせるはずだ。
「…………」
こめかみを暫く抑え、再び小さく溜息を付いた後、机に置いた資料に手をかけた。それと同時に、教室のドアの開く音がした。咄嗟に身構えるが、人影の正体がわかったところで身構える必要がなくなった。
「何やってるんだデージー、遅いぞ」
「……資料を探すのに手間取った」
「まあ、そんなのはどうでもいいけどよ」
さっきの険しい顔はどうした、といつの間に近付いたのか、安形は浅雛の頬を優しく撫でた。浅雛は嫌そうに手を静かに払いのけ、別にとそっけなく答える。この人に、何を話せというのだ。
「そうやって嫌そうな顔すんなって。そんな顔ばっかしてるとシワになるぞ、シワに」
「余計なお世話だ」
「へーへー。無愛想なところも相変わらずですな」
さて、戻るかと呟いたのでやっとかと資料に再び手をかけたが、またも阻止され、先ほど少し世話になった壁と安形に挟まれてしまった。浅雛はわけがわからないといった目で安形を見上げた。
「……戻らないのか」
「いや? 戻るぜ」
「なら早く……」
「かっかっか! やっぱデージーはそうでなきゃな」
何が、と言いかけた瞬間、浅雛は 何が起きたのかすぐに理解出来なかった。目を開けると安形の顔がすぐ目の前にあって、唇に何かが触れている。
ー−会長の、唇だ。
そう理解したとたん、次第に顔が赤く染まっていくのがわかり、咄嗟に安形を突き放した。安形は赤くなることなく、余裕の笑みを浮かべている。
「だけどなぁ。一回見てみたかったんだよ」「なに、を……」
「お前のポーカーフェイスが、崩れる瞬間」
「なっ、……!」
「俺が見たかったのはその顔だ、デージー」
資料持ってくぜ、と2冊の資料を片手に抱え、安形は教室をあとにした。が、浅雛は動けなかった。動けるはずがなかった。
何故安形が浅雛にこんな事をしたのか。悪ふざけにしては度が過ぎないか。
浅雛のファーストキスは、こんなにもあっさり奪われてしまったのだ。
title by アメジスト少年