夏来がこの胸を騒つかせる気持ちに気付くのは、そう遅くはなかった。はじめはただ漠然と思い当たって、それから段々と象られてきたものだ。
 今ではもう一言で言い表せてしまうこの騒めきを、夏来は今日まで、そしてこれからも、大事に抱え続けることを既に決めている。
 日常に溶け込む春名を見ているのが好きだった。ひとつひとつの動作が、視線が、当たり前だけれどどれも春名のもので、春名にしかないもので、夏来はそれを辿るのが好きだった。気付かれないようにこっそりと目で追うことが、いつのまにか癖になっていた。
 春名の日常に、時々夏来が入り込むことがある。話をしたり、勉強を教えたりなんて、些細なことばかりだけれど、それだけ胸がいっぱいになってしまう。小さな『好き』が、毎日たくさんこの胸に溜まっていく。あわよくばもう少し、なんて、身の丈に合わないものを欲してしまう。
 それでも夏来はもう決めてしまった。これは誰も知らない、夏来だけの秘密なのだ。

 ――そう、思っていたのだけれど。

 *

 窓に打ち付けるような雨音が気になるのか、春名は数分置きに窓の外に視線をやっては「雨酷いなあ」と呟いた。「集中、」と問題文を赤ペンで刺すのも、もう何度目か。糖分補給という名目で買われたドーナツは随分前に消え失せ、紙袋だけが部屋の隅に追いやられていた。
 雨で冷えた体を風呂で温めて大好きなドーナツを胃の中に納めてしまえば、春名は目的を果たしたも同然なのだ。――そう口にはせずとも心には同じような気持ちがあるのだろうなと、退屈そうに欠伸をこぼしている春名を見つめる。退屈なのは解答欄が埋まるのを待っている夏来の方で、春名には真っ白なページと向き合うという今日いちばんの大仕事が待っているのだけれど。
 つい先日、「ヤバいナツキ、課題が終わらない!」と春名は旬がいないところで夏来に泣きついてきた。
 聞けば、随分前に提出すべきだった課題を先生のお情けで提出日を延ばしてもらったそうなのだが、それでも春名はその課題に手を付けていなかったらしい。ちょうど先生とのやりとりを旬に目撃されていた春名は耳が痛いほどに旬の説教を浴びたのだが、まるで効果がなかったようだ。旬の怒りが少しでも静まることを祈りながら、夏来は春名の家に招かれることにした。

 そうして、今に至る。
 あの緊迫感は何処へやら、のんびりとした休日モードが春名をまとっている。このまま放っておいては夢の中に旅立ってしまいそうだ。
「……ハルナ。そろそろ、真面目に頑張って……」
「う、ナツキの目がマジだ」
「マジ、だよ……」
 だってさあ、と手付かずの問題を指して、公式がどうの数字がどうのと不服そうに夏来に訴える。ちょうどそこは数分前に夏来が一から教えた問題だったが、結局理解できていなかったらしい。
「わからないとこ、教えるから……。なにが、わからない?」
「なにがわかんねーのかわかんねー……」
「……えっと」
 今度はもう少し噛み砕いて説明すべく――逃げ場をなくすためとも言う――春名の隣に移動し、夏来は羅列する数字を指してこれはね、と解説話を始めた。
 同時に、ドド、と地鳴りのような音が響いて、しばらくしてから窓の外が強く光る。それと同時に部屋の電気も、テレビの音も、何もかもが消えてしまった。ザア、と途端に強まる雨音だけが、黒に染まる部屋に響いている。バケツをひっくり返したような、とはこのことだろうな、と夏来は思った。
「びっ、……くりしたあ」
「近かった、ね……」
 懐中電灯どこだっけ、と探しに行こうと春名春名が立ち上がる気配を感じたが、決して綺麗とは言えないこの部屋を目が暗闇に慣れていない状態で歩き回るのは危険だろうと、夏来は春名を引き止めた。ブレーカーが落ちたのではないのだからそのうち復旧するだろうし、覚えのない探し物のために無闇に歩き回るより大人しく待っている方が利口だ。
 春名もそれがわかったのか、素直にその場に座り直した。
「停電とか久々だなー。……ナツキ、いる? どこ?」
「……いる、よ。となり」
 確かに障害物を避けて歩くには心許ない暗さだけれど、これだけ近くにいる夏来を見失うほどではない。
「えー、ほんと?」
 くすくす笑いながら、春名は手探りで暗闇に紛れる夏来を探している。こちらからは殆どが丸見えなのがおかしくて、夏来も釣られて笑ってしまった。
 途中で夏来の手が春名の手に捕らえられる。そのままゆっくりと重なり合って、なぞるように指が絡む。そうして気付けば、お互いの呼吸のするさまが、やけに大きい心音が、肌に感じられるくらいに近付いていた。
「……ナツキ」
「…………な、に」
 あのさ、と夏来にかける声は、他の誰にも聞こえない内緒話のそれのようで、耳がくすぐったい。
「オレ、……わかっちゃった」
「…………、さっきの、問題……?」
「えー、それはわかんない」
「……わかんなきゃ、だめ、だよ……」
「そーだけど」
 どうでもいいことのように、夏来の言葉が簡単に躱されてしまう。春名が手を掴んだまま更に近付いてきても、情けないことに夏来は一ミリだって動くことができなかった。
「ナツキ、オレのこと好きだろ」
 そう言った春名は笑っているような気がするし、真剣にこちらを見つめているような気もする。すぐそばにいるのに、春名がどんな顔をしているのかわからなかった。手探りで探さなくたってわかるくらい、もうとっくに目は暗闇に慣れているのに。
「……なんで、わかるの」
「んー、なんでって」
 フ、と春名の言葉を遮るように、部屋の明かりが点いた。停電が復旧したようだった。急に大量の光が夏来と春名を包んで、目の前が真っ白になる。春名がどこにいるのかも、夏来が今どんな顔をしているのかも、何もかもがわからなくなった。
「ナツキの目が、オレのこと好きって言ってる」
 ゆっくりと目を開けると、春名の目がすぐそこにあった。春名は、今の夏来の目見てもそう思うのだろうか。この忙しい心臓の音も、春名には知られてしまっているのだろうか。
「……俺は、ハルナの目、見ても……わかんない、よ……」
「こんなに近いのに?」
「ちか、すぎて……」
 見えないよ、と音にする前に、それごと口に含むように唇を啄まれて、夏来は呼吸を忘れた。
「わかった?」
 離れてもまだ鼻先が触れる距離にいる春名が、意地悪そうに問う。呼吸を忘れたままの夏来は酸素を取り戻すのに精一杯で、何も考えられなかった。
「……わかん、ない」
「えー、マジ?」
 じゃあもういっかい。
 息をする間もなく、もう一度春名の唇が降ってくる。角度を変えながら何度も口付けられて、夏来はただそれを受けるだけだ。溢れるどちらのものかわからない吐息が響いて、意識が遠くなる。やわらかくて熱いそれが、夏来のからだに刻まれるようだった。
 このまま夏来がわからないままでいれば、春名はこうして何度も教えてくれるのだろうか。――わからない振りをいつまで続けられるかどうか、わからないけれど。


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