R18

 シーツの擦れる音がやけに頭に響く。いけないことをしているみたいだと、春名は思わず逃げ出したくなった。それでもベッドに沈む夏来は春名を縋るように見つめていて、春名の指は夏来のなかを犯していて、体の奥の方がじんと熱を持ちはじめていて、春名はひどく餓えていた。いけないことだとしても、もう、後には引けないのだ。うぅ、と顔を歪めて体を捩る夏来を見て、春名の体が固まる。本来相応しくない場所を無理やり抉じ開けているのだから、夏来の反応としては正しいものだった。
「……ごめんな、つらいよな」
「ン、……へい、き……」
「そんな顔で言われてもさ」
「…………だいじょうぶ、だから……やめない、で」
 そう言いながらぎゅう、と力なく引っ張られては、春名は縦に首を振ることしかできない。ローションの代わりにしては心許ない、夏来が鞄から取り出したハンドクリーム――ベーシストは指のケアが欠かせないのだ――をさらに垂らして、夏来のそこをほぐす。うあ、と快感には程遠い声がこぼれて、落ちた。
 指を動かしながら一度、夏来の顔色を伺う。家に来たときと比べると随分血色がよくなっていた。それがただ単に暑さのせいなのか、気持ちがいくらか落ち着いたからなのか、それともこの行為のせいなのか、春名にはわからなかったけれど、血を抜かれたように青白いままでいるよりかはよっぽどいい。目が合うと夏来は続けて、と訴えるように春名を見た。わかってるよ、と小さく呟いて、ぐち、となかをかき混ぜる。ひ、と引きつったような声が響いた。
 どうして、なんて理由をつけるのも億劫だった。春名は夏来が欲しくて、夏来は春名に縋っている。それぞれを埋めるのにいちばん手っ取り早い方法がこれだったのだ。正しいとか正しくないだとか、今の春名には判断しようもなかった。いくら言い訳を考えたってどうせこの部屋には春名と夏来のふたりしかいないのだから、春名の中で完結する他ない。
「……ナツキ、指増やしていい?」
「…………、ん、」
 頷くかわりにゆっくりと閉じられた瞼を見て、春名は指を増やす。ようやく余裕を持って動かせるようになったのだけれど、たった一本増えたところでまた振り出しに戻ってしまったようだった。
 やめないで、続けて、なんて言うけれど、夏来の体は未知の感覚を恐れて無意識に逃げようとしている。痛かったら言ってほしいとはじめに伝えたのだけれど、頷いたきりなにも言わないので、懸命に耐えているのだと思う。痛みと、異物感と、それに伴う不快感に。
 けれどそれらを押し殺してでも、夏来には欲しているものがあるのだ。春名と繋がることでそれを得られるのかどうかはわからないが、一瞬でもからっぽな夏来を満たすことができたらいい。こんなことで満たされるのなら、春名はいくらでも付き合ってやる気でいた。不純だとか、不潔だとか、側から見たら“正しくないこと”であるのだろうが、関係なかった。原因はなんであれ、これは春名と夏来のふたりの問題なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。春名が、夏来が、ふたりが納得すれば、それでよかった。
 それでも夏来が顔を歪めているのは変わりなかった。普通、こういうのは何日も前から準備をして、“それ用”に体を慣らすべきなのだ、きっと。夏来はその準備期間をすっ飛ばしていきなり行為に至ろうとしているので、こうしてたくさんを我慢してもらわなければならなかった。
「――えっ、は、はるな、」
「ごめん、一回イっといたほうがラクかなって思って。前も触るな」
「も、……さわって、……ッ、」
 勃ちあがらない夏来のそれを這うようにゆっくりとなぞり、撫でる。性器も夏来の体に相応しいように、例外なく美しかった。つくりもののようだけれど、触れると確かに生を感じる。
「ナツキ、どこ触んの好き?」
「わ、わかん、ない……」
「自分でシないの?」
「…………、あん、まり……」
 自分で問いかけたくせに、春名は目を泳がせる夏来を見て笑ってしまった。実際、こうして春名のベッドに組み敷いている時点で半ば夢のようなのに、夏来が自室のベッドで寝転んでひとり事に及んでいる姿はあまり想像できない。ひとりですらあんまりなのに、今ここで春名に委ねてしまっていいのか、とまでは思っても聞けなかった。
「……――ッ!? あ、っ……! そ、こ……!」
「ん? 先っぽがいい?」
「ひあっ、……うぅ、や、やだ……、あ……ッ!」
「やなの? オレも先っぽ好きだよ。ここさ、ぐりぐりってするときもちーの」
「あっ! ま、……ま、って、はるな、――!」
 反応が良かった先端を少し強めに押しながら、なかをぐちぐちとかき混ぜる。気持ち悪いのか、気持ちいいのか、痛いのか、痛くないのか。なにもわからない、とでも言うように、夏来はふるふると首を振って、背中を丸めた。同時に体が震えて、びゅ、と白濁を吐き出す。短く息を吐いて、はるな、と上擦った声で名前を呼ばれるので、頷きながら汗でじっとりと額に張り付いた前髪を掻きあげた。
「うん、ちゃんとイけたな」
「…………ん、」
「……ここで終わってもいいけど、」
 達したばかりでぼうっとしているだろうに、夏来はしっかりとした眼差しでじっと春名を見つめた。よくない、と抗議するような目だ。もとより春名の指は夏来に咥えられたままなので、春名自身も終わろうとは思っていないのだけれど。わかった、と短く答えてから、一度指を引き抜いて薄い腹に散らばった精液を掬い、後孔に塗り込むように馴染ませる。ハンドクリームよりゆるい液体は、いくらかこぼれてシーツに染みをつくった。
「あ、……ン、…………っ、ふ、」
「そうそう、息吸って、吐いてー……力抜いてな」
「っん、は、あ、……っふ、あっ」
「ゆっくりでいいから、ラクにラクに」
「む、っ……む、り……っ、……!」
「だよなー……」
 なかはだいぶ解れてきていて、夏来に確認を取る前に三本目の指が入っているのだけれど、一度射精したとはいえ未だに痛みや違和感は拭えないようだった。逃げるように身を捩り、けれど逃げたくないのだと夏来は首を振る。心配したように見つめてしまったのがバレたのか、おねがい、とうわごとのように呟きながら強請った。嫌がる体とは裏腹に夏来のなかは煮えるように熱く、ここに春名のものを挿れるのだと思うと目の前が眩むようだった。
 それにはまず、夏来にできるだけ痛みがないように、少しでも気持ちよくなってもらえるように、春名が丁寧に慣らさなければならない。
「ふ、……ッ、――ハ、ルナ……、」
「ん?」
「も、……いい、から、」
「今挿れたって痛いだけだって」
「いい、よ……痛く、ても……」
「…………、オレが、やだよ」
 だからダメ、と少し強く説き伏せて、引き続き指を動かしはじめる。ハルナ、と縋るように呼ばれたって、春名は答えなかった。
「……あのさ。きもちいとこ、あるはずなんだ」
「きもちい、とこ……?」
「うん、ここだけでもイけるんだって」
 探るようになかを掻き混ぜながら中指を手前に折ると、ひあ! と一際高い声が上がって、声を上げた本人が驚いたように目を瞬いた。春名の指は、夏来のなかで柔らかくふくらんでいる何かに触れている。
「…………なっ、……、な、に、……いま、」
「……いま、気持ちよかった?」
「わ、かんない、けど……、ヘン、……びりびりって」
「たぶんそれ、キモチイイってやつだよ、ナツキ」
 試しにもう一度しこりに触れると、夏来は声にならない悲鳴を上げて仰け反った。ここが夏来の前立腺だろう。思ったより早く見つかったようだ。あ、あ、と頻りにこぼれる声は先ほどよりも熱が籠っているようで、痛みや不快感以外のなにかがそれには混ざっていた。
「まっ、まって、あっ! だ、め……っ、ひあっ、!」
「ナツキ、ここだけでイけそう? きもちい?」
「へ、へん、……っ、へんに、なっちゃ……!」
「いいよ、ヘンになっていいよ」
「や、あ……っ、! アッ……、ひっ! っン、……――アァっ!」
 がくがくと体が大きく震えるのと同時に、なかがきゅう、と締め付けられる。白濁を吐き出すことはなかった。ゆっくりと指を引き抜くと咥えていたものがなくなったそこは、代わりのものを求めるようにひくついている。ぼんやりと余韻に溺れたように夏来は、口をはくはくと開閉して魚のように酸素を求めていた。
「……大丈夫か? ナツキ」
「は、……う、……は、るな、……」
「うん?」
「…………、はや、く……」
「え、ちょっ、ナツキ?」
 ぐい、と強く腕を引かれて、夏来を潰してしまいそうになるのを反対の腕を出してなんとか堪える。すぐそこで涙目の夏来が春名を見つめていて、はるな、と掠れた声で名前をなぞられた。熱い吐息が、溜まった涙が、目の前でこぼれる。
「……――はやく、……ハルナが……ほしい、よ……」
 時が、止まったのだと思った。次に夢だと思った。けれど春名の腕を掴む夏来の手が嘘のように熱くて、飛んで行きそうだった意識が一瞬で戻ってくる。春名を映すことはないと思っていた夏来の空のような瞳は、間違いなく春名を映していた。春名の名前を呼んで、縋って、欲しいと、夏来がそう言っている。それがこの瞬間のためだけのものだとしても、夏来が春名を求めている事実は変わりない。
 答えのない春名を見て夏来がもう一度、春名を呼ぶ。強請るように、そして大丈夫だよ、とでも言うように、小さく笑った。もう十分慣らしたから痛くないよ、という意味だろうに、春名のすべてを見透かされたような気がして、うん、と夏来の呼びかけに答える春名の声は、みっともなく震えてしまった。
 ガチャガチャと音を立てて、ベルトを外す。これ自体はし慣れた動作なのに、無駄にもたついて金具が余計なところに引っ掛かった。じれったくて、引き抜くことも面倒で、半端に緩めたまま脱ぎ捨てる。下着の下からきちんと主張するそれが視界に入って、夏来にもそれを見られて、恥ずかしさのあまり目をそらした。これっぽっちで恥ずかしいだなんて、夏来はとっくに下着も脱がされて、前も後ろも春名に触られているというのに。
「……、よかった、」
「へっ? なにが」
「……男、だから…………。しない、でしょ……こういう、こと」
「そりゃ、まあ、」
「きもちわるい、かなって、……思ってた……」
「……そんなことないよ」
「…………、ハルナ、やさしい、から」
「やさしくなんかないよ。ずるいだけ。……言ったろ、オレはナツキがほしいんだって。きもちわるくなんてないよ。キレイだよ、ナツキ」
「……やっぱり、やさしいよ、ハルナ」
 夏来のそれは、からっぽになったところに漬け込んで、やさしいふりをして、家に連れ込んで、ベッドに沈めて、今から組み敷こうとしている男に向けるような顔ではなかった。
 やさしくなんてないのだ、本当に。夏来が求めるような器すら持ち合わせていなくて、不釣り合いで、情けない。あんなにその瞳に春名を映してほしいと羨ましく思っていたのに、今では夏来の視線の先に春名がいることがこわかった。それでも夏来はいつものように、かわいい、なんてからかってきたあの日のように、変わらず春名を呼ぶ。
「…………、ごめん、ゴムとかない」
「いい、よ……そのまま、」
「……次は、ちゃんと用意する、から」
「次、も、……してくれる、の…………?」
「……、それは…………」
「…………じゃあ、俺も……次は、準備、するね……」
 する前から次の約束をしてしまうので、春名はなんだか笑ってしまった。無意識に春名が次があると思い込んでいたのも、夏来が「してくれる」なんて言い方をするのも、答えを濁したずるい春名に「俺も」と答えてくれたのも、すべてがおかしくて、くすぐったい。
 いれるよ、と声をかけると、夏来はこくりと小さく頷いた。ぐずぐずになったそこに、春名の性器をあてがう。夏来のなかのハンドクリームと精液が混ざり合った液体が音を立てて、部屋に響いた。あう、と苦しそうに喘いだ夏来を見てピタリと動きをやめそうになるけれど、その前に夏来がはやく、と春名を急かす。指とは比べ物にならない質量と異物感だろうに、夏来は顔を歪めながら懸命に呼吸を繰り返していた。
「ふ、……っ、……はる、な」
「ん……? なに、」
「…………やめ、ないで……ね……」
「……うん、やめない」
 答えると、夏来は安心したように息をついた。ぐち、と水音がするたびに身動いで、声をこぼして、うわごとのように春名の名前を呼ぶ。それにいちいち頷きながら、春名はゆっくりと自身を奥に進めた。
 夏来のなかは熱かった。この手で散々かき混ぜたくせに、ほんの数本で感じた熱よりもよっぽど熱くて、この細くて薄いからだに春名のすべてを持っていかれそうだった。――あつい、あつい、あつい、きもちいい、もどかしい。夏来は、と尋ねなくても、上擦った声になぞられる春名の名前を聞けば同じなのだろうな、とわかる。肉壁に絡めとられるように、導かれるように、夏来の体は春名のものを呑み込んでいく。相変わらず痛みに耐えているようだったが、こぼれてくる声はずいぶんあまいものになっていた。一度果てた夏来のそれは、ゆるゆると再び硬さを取り戻している。
「……ナツキ、痛くない? 大丈夫?」
「ん、……だい、じょうぶ…………」
「ほんと?」
「うん…………。……ね、ハルナ、」
「なに?」
「…………キス、して……」
 抱き寄せるように春名に手を伸ばしてくるので、春名はそれに従うように夏来に覆いかぶさって、くちびるを重ねた。ぐちゅ、と下で音が鳴って、夏来も一緒に声をこぼす。触れて、息継ぎのために一瞬離れて、またすぐに押し付ける。塞ぐのでも、触れるだけでもなくて、夏来を求めるように薄いくちびるを割って舌を侵入させた。びく、と夏来の身体が震えたけれど、すぐに口を開けて春名の舌を迎え入れる。つつくように触れて、夏来の舌を絡みとって、じゅ、と音を立てて吸う。お互いのあふれる吐息が熱くて、どちらのものかわからない唾液がぐちゃぐちゃになって、目の前が歪むように眩んだ。
 あ、と夏来が声を上げて、同時に奥に届いたのがわかった。一度離れて繋がっている部分を見ると、確かに春名のものはすっかり呑み込まれている。ナツキ、と呼ぶ自分の声が思ったよりも掠れて、上擦っていて、余裕のないものだった。ぜんぶはいったよ、と伝えると、夏来は安堵したように微笑んだ。
「……なかに、ハルナ、……いる、…………」
「うん……ナツキのなか、あついよ」
「ハルナも、あつい、ね……」
「……ごめん、ナツキ……、オレ、あんまヨユー、ない……、かも、」
「いいよ…………、うご、いて……」
 正直、少し動いただけで達してしまいそうだったけれど、夏来のためにも春名はゆるく腰を前後に動かす。内壁と亀頭が擦れて、体が震えた。ぐちゅ、ぐちゅ、と春名の律動に合わせて水音が部屋に落ちる。ベッドが軋む音も、シーツの擦れる音も、いやらしい水音も、夏来の喘ぎ声も、何もかもを春名の耳が拾って、そのすべてが体を熱くする要因になっていた。
 夕日はとっくに沈んでいて、部屋の中は薄暗い。オレンジ色に染められていた夏来の髪は影に溶けてしまいそうだったけれど、今はもう不安ではなかった。こうしてお互いの熱を交えて、お互いの名前を呼んで、夏来の目には春名が映っていて、春名も夏来を見つめている。消えも溶けもせず、確かに夏来はそこにいる。必死に繋ぎ止めるように手を伸ばさなくても、すぐそばにいる。
「はる、な……、? は、あ……っ、」
「ん……? 痛い?」
「ううん……っ、ハルナの、ほうが……」
「……? オレ?」
 すっかり熱の籠った夏来の手は、やさしく春名の頬を撫でた。先ほど同じようなことをされたのを思い出して、春名はあれ、と声を漏らす。目を瞬くとつう、と確かに水滴が頬を伝い、夏来の上に落ちてしみをつくった。涙が出ていることすら気が付かなかったのに、自覚すると嘘みたいに水が溢れてきて視界がどんどん歪んでくる。それでも春名を呼ぶ夏来の声は、きちんといつものようになぞられた。
「オレ、また泣いてんの……?」
「うん…………。今日のハルナ、……泣き虫、だね……」
「はは、なんか止まんないし……、ナツキにかっこわるいとこばっか見られてる」
「いい、よ、……かっこわるく、ても……」
 両手で顔を引き寄せられて、額にひとつキスを落とされる。ちゅ、と控えめな音が鳴って、夏来はやさしく微笑んだ。
「痛いの、とか、……悲しいの、とか…………ほしい、から」
「…………それ、オレの、」
「俺も、は……だめ……? ……――ッアァ!」
 鼻の奥がツンと痛み、泣いているのに更に泣きそうになって、誤魔化すように夏来の奥を突いた。
 だめじゃない。だめなわけない。そう言いたいのに肝心な言葉は音にならなくて、春名は懸命に首を振った。
 ――夏来をはじめて見たとき、それはきれいで脆そうな人形のようだと思った。同じ生き物だとは思えなかった。それが今、そのきれいな生き物を春名は抱いている。抱かれている夏来は、夏来を欲しがる春名と同じように春名を欲しがっている。
 夏来になら全てをさらけ出してしまえるだろうなと、春名は思う。今まで話さなかったことも、誤魔化してきたことも、きっと夏来には少しずつでも話すことができる。そういう春名の一部を預けられるようなものを、夏来は持っていた。
 同時に、そういう関係が旬と夏来との間では既に完成されているのだと思っていた。実際完成されていたのかどうかは春名にはわからないけれど、夏来がからっぽになった今、夏来にとってのそういう居場所が春名になればいいな、と思った。夢のような話だ。
 旬の代わりでもいい、と少し前の春名なら言っただろうが、今の春名はそう言い切れる自信はなかった。夏来と過ごすなんてことない時間を大事に抱えるだけでよかったのに、夏来はすぐそばに、手の届く場所にいる。近すぎて、我儘だとか傲慢だとか、汚い感情が次々にあふれてきて、蓋ができなくなって、夏来の目に触れてしまうかもしれないけれど、もし春名が抱えるすべてを夏来が受け入れてくれたとしたら、どんなにしあわせだろうか。
「……そんな、かお……しない、で……」
 へ、と間抜けな声を出して、春名は自分の意識が飛んでいたことに気が付いた。顔を上げると今度は夏来の方が泣きそうな顔をしていて、人の心配をしている場合か、と思った。
「……どんな顔?」
「…………ゆめ、見てる……みたいな……」
 目尻に溜まった涙を拭われて、それから抱きしめられる。小さい子供のように頭を撫でられて、だいじょうぶ、とやさしくあやされた。
「ゆめ、で……終わらせちゃうのは、さみしい、な……」
「……さみしいの、ナツキは」
「さみしい、よ……ぜんぶ、なかったことになっちゃうよ……。やさしくしてくれたのも、あついのも、……きもちい、のも……泣き虫、なのも……」
「さいごはいらなくない?」
「いる、よ……。泣き虫なハルナ、俺しか知らない、から……」
 だから、夢にしないで。そう言って、夏来は懇願するように目を細めた。
 そうは言っても、春名にとっては夢のようなものだった。春名の都合のいい妄想だと言われた方が納得できる。あれだけ線を引いていたのにも関わらず、いったい何度こうして夏来を組み敷く自分を思い描いたことか。
「……ナツキも、オレと一緒なの」
 ゆるりと腰を動かすと、答えの代わりにア、と短く夏来の声が漏れる。
 知りたい。夏来の気持ちを知りたい。でも、同じくらいこわい。聞きたくない。夢ならまだ、覚めないでほしい。
「一緒、だよ……」
 これまでにないくらいにやさしい声が、春名の中に落ちた。
「おれ、も……っ、ハルナと、いっしょ、だよ……」
 ゆらりと、視界が歪む。夏来の手に拭われるけれど、溢れてぼたぼたと雫が落ちてしまった。
 春名は知らないふりをしていた。見て見ぬふりをしていた。だって、名前を付けてはいけないものなのだと、今でずっと思っていたから。
「あっ、……あ、……ッ、は、るな……っ!」
「なつき、なつき、……オレ、……っ、オレな、」
「ひぅっ……アッ! ハルナ、はるな、……!」
「オレ、ナツキが……っ!」
 言葉の続きが音になる前に、春名の体は震えた。夏来のなかもびくびくと痙攣し、春名にしがみ付くようにして身を丸める。春名と夏来は、同時に果ててしまった。
 ずるりとなかから引き抜くと、春名を掴んでいた夏来の手が、夏来に覆いかぶさっていた春名の体が、力なくベッドに沈む。しばらくお互いの呼吸を整える音だけが部屋に響いていた。さっきまでの熱は嘘みたいで、けれど体はまだあつくて、何もかもが溶けてしまいそうだった。
「――ナツキ、」
 ようやく絞り出した声は掠れて、涙声で、ひどく格好悪かった。涙で顔はぐちゃぐちゃで、見れたもんじゃないはずなのに、春名はこの顔を晒してでも夏来が見たくてしょうがなかった。
「…………ナツキ、こっち見て」
 素直に顔を上げた夏来はまだ火照ったように赤くて、汗と涙で髪の毛が張り付いている。潤んだ瞳には春名の瞳が反射していた。夏来の顔がよく見えるように、張り付いた髪を掻き上げる。逃げ場がなくなった夏来はしばらく視線を彷徨わせたあと、春名と目を合わせた。
「は、るな……、」
 もう冷たくなんてない夏来の手が、春名に触れるだけで気持ちいい。この熱は、確かに?春名が与えたものだ。
「……オレさ、うぬぼれてもいいかな」
 最後までずるいのだな、と口に出して思う。とっくに春名の中にはかたちがあるのに、夏来がそうさせたかのように訊ねて、委ねる。これだけ熱に浮かされて、格好悪いところを見られて、夢なんかにしないでと夏来に言われて、それでもなお春名はこわかった。
 じっと夏来に見つめられて、それからゆっくり春名のくちびると夏来のくちびるが重なる。やはり夏来には、すべてを知られているような気がした。
「いい、よ……」
 呟いてから、夏来は春名にすり寄ってきた。体温を確かめるように、存在を確かめるように。
「…………俺も、そうする」
 言い終えてから間を開けずに、すう、と腕の中で寝息が聞こえてきた。控えめに名前を呼ぶが、返事が返ってくることはない。絞り出すように言葉を口にしてから、ついに疲労に負けてしまったようだった。
 今日、夏来が春名に何度もしてくれたみたいに、目尻に溜まったままの涙を優しく拭う。少し身じろいで、夏来の手が弱く服の裾を掴んだ。はじめの、縋るように手を伸ばしたそれではなくて、夏来も春名に委ねているかのように。自惚れている春名と同じように夏来もそうなのだと、そう応えてくれているみたいだった。
「……ごめん。ありがとな」
 夏来の拠り所になれば、なんて、大それたことを思っていたけれど、救われてしまったのは春名の方だった。自分で引いた線を自分で越えて、消してしまって、手を伸ばして、夏来に縋った。しまっておくつもりだったものに、名前までついてしまった。かたちとなってしまった。
 それらを、今まで抱いていた気持ちと一緒に、なくしてしまわないように、夏来ごと大事に抱える。
「オレ、……ナツキが好きだよ」
 夏来は、と、今なら聞けるような気がした。寝ている夏来に訊ねても、静かな寝息しか返ってこないけれど。
 掻き上げた前髪のせいで露になっている額に、キスを落とす。きっとこのまま寝てしまえば、きっと日付が変わる頃に空腹とともに目を覚ますだろう。起きたらふたりで風呂に入って汗と涙と体液を流して、散歩ついでに遅めの夕飯とドーナツを買いに行こう。そして落ち着いてから、夏来は、と聞けばいい。
 そこまで考えて、瞼が重たくなってきた春名は従うように目を閉じた。暗闇に包まれても近くに夏来を感じるこの瞬間がどの時間よりも満たされているようで、泣きたくなる。痛いのではなくて、夢を見ているのでもなくて、これは恐らく、安堵の涙だ。これ以上泣いてしまったら干からびてしまいそうなのに。
 もう一度目を開けたら本当に泣いてしまいそうなので、春名は強く目を瞑ってやってくる睡魔を待った。――目を覚ませば、いちばんに夏来が視界に飛び込んでくる。また、春名の一日が夏来ではじまる日々を期待して。


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