つう、と伝う汗を手のひらで拭って、眩しい朝日に目を細めた。まだ冷えた風が火照った体をほどよく冷やしてくれている。それでも、このまま朝日を見つめていればかえって風邪を引いてしまうかもしれないので、足早にその場を後にすることにした。
まだ窓の外は薄暗くて、城の中も、鳥も、太陽すらも眠っている時間帯。木々は、随分と早くに目が覚めてしまったのだ。もう一度寝直すには微妙な時間であったし、一度起き上がってしまえば二度寝する気力も失せてしまった。
だからこうして木々は、朝早くから剣を振るっていたのである。いつの間にか朝日が顔を出しているので、だいぶ長い時間体を動かし続けていたのだと思う。お陰で起きたてで肌寒いくらいだったのが、今では水を浴びたいほどには体を温めることができた。
オビなんかにばったり会えば、物好きですねぇ、流石ですねぇなんて、褒めているのかなんなのかわからないようなことを言われるのだろう。ちなみに木々は、馬鹿にされているということにしている。彼の本心など真剣に探ろうとする方が馬鹿馬鹿しい。
「――お、木々。朝から険しいな」
いつものヘラヘラした顔を思い浮かべて思わず顔をしかめた木々は、突然目の前に現れた男に音もなく驚いた。この男はヘラヘラした顔というより、世話好きが高じて滲み出ているというか、人の良さそうな顔である。決して、言ってはやらないけれど。
「……おはよう」
「おう、おはよう。随分はやいな?」
「目覚めちゃったから」
「なるほど」
たくましい相棒だな、なんて言いながら、目の前の男は木々の頭にふんわりと手を乗せ、もう片方の手で軽く腰を抱いた。まるで割物を扱うようなその手つきと、流れるような一連の動作が気に入らなくてじとりと睨むと、すぐにその手は離れて宙を彷徨う。眉を八の字にしてすまん、と謝罪の言葉が降ってきた。たくましい、という言動に扱いが伴っていないのだけれど。
「ミツヒデ」
「すまん、その、あれだ。……やましい気持ちがあったとかじゃなくてだな」
「……もういい」
追いかけてきそうだった手をそっと躱して、木々は歩きはじめた。先程に比べたら随分とマシになったけれど、それでも汗がベタついて過ごしやすいとは言い難い。はやく水を浴びて、着替えなければ。
そう思っていたのに、突然腕を引かれて木々の背中はあっという間に壁と仲良くしてしまっている。ミツヒデの顔に影が落ちて自分に迫っている、と認識する前に、木々のくちびるにはほんの一瞬だけ、やわらかな感触を感じた。
この男、と睨みながら周囲を見渡すと、ちょうどここは柱の陰になっていて外からは見えそうもなかった。見えそうもないけれど、だからといってそういう問題でもない。
「……ミツヒデ」
「いや、すまん……魔が差した……」
「やましい気持ちは」
「………あったな……」
べし、とミツヒデの顔を手で塞ぐように覆うとむぐうだとかうむむ、とかいう鳴き声が聞こえる。このまま顔面を塞いでおきたい気持ちは山々なのだが、木々の本来の目的は汗を流すことだ。オビにだって頼むことはできるが、それはそれで絵面がむさ苦しいので、木々の方から願い下げである。
「水、浴びてくるのか」
今更か、とも思ったが、別に木々がそうする目的を口にしていたわけでもなかったので、そうだけど、と短く返事をした。だから邪魔しないで、という気持ちも込めて。しかしこの男、まったく退ける気配もなく、だからといって何を言うでもなく、木々を見つめている。もちろん先程引かれた腕は未だ掴まれたままだ。
「……なんなの」
「あー、いや、なんていうか、その」
「焦れったいな」
早く離せ、と腕に力を込めるけれど、口はもごもごしているくせに力だけは本当に強くて、ピクリとも動かない。汗で髪や服がじっとりと張り付く不快感と、目の前の要領を得ないミツヒデに対する苛立ちで、木々の眉間には深くしわが刻まれる。
だいたい、どうしてこの男は朝からこんなに盛っているのだ。らしくないといえば、大変らしくない。一応、場所は選べる男だとは思っていたのだけれど。
普段のミツヒデからは想像できないこんな姿、白雪が見たら驚いて泡を吹いてしまうかもしれない。ゼンは苦笑いで流しそうであるし、オビに至っては手を叩いて笑い転がりそうだけれど。
「もったいない、と思って」
「は?」
絞り出された音は正常に木々の耳に入ってこなかったのか、よく理解できなかった。
もったいない、と言ったか。もったいないとはなにがだ。うだうだしているこの時間こそもったいないと、木々は思うのだが。
「もったいないと思って、思わず手を伸ばした。すまん。水、浴びてきてくれ」
早口でまくし立てるミツヒデは、今度は自分の手で顔を覆うようにして木々からも数歩離れた。
は、と短く音をこぼして、もう一度頭の中でミツヒデの言葉を繰り返すけれど、やはりこの男が何を言っているのか木々には理解しかねる。
けれど。けれど、それでも。自身の顔を覆う指の隙間から覗く熱い視線が木々を刺して、離さない。ミツヒデが何を言っているのか理解できなくても、その目を一瞬でも見てしまえば木々はすべてを察してしまった。ミツヒデが必死に抑えて隠し通そうとしているそれを、木々は難なく見つけてしまった。
ほんのわずかな時間ミツヒデのその瞳を見つめてから、木々は静かに背を向けた。ミツヒデが言うように、木々がはじめからそうしようとしていたように、水を浴びに部屋に戻るのだ。後ろから木々を追ってくる気配はない。木々を引き止める声も、強引に腕を引くこともなく、ミツヒデは恐らくその場に立ち尽くしたままだ。
「――十分」
「へ?」
「十分で終わる」
年頃の可愛らしい女ならその先も言葉として紡ぐのだろうが、生憎木々はそういった人種ではないので、一度止めた足を再び動かすだけである。とんだ間抜け面をしているのだろうな、と思いはするけれど、振り返るのは癪なので延々続く廊下の先を見つめて歩いた。言葉が足りない自覚は普段からあるけれど、その分ミツヒデは見えない部分ごと掬い上げてくれるので実際甘えているのだ、『たくましい相棒』とやらは。
角を曲がる際、やはり気になってちらりと背後を見やると、ミツヒデは相変わらずそこに立っていた。立ち尽くしていて、木々をまっすぐ見つめていて、けれどそれは間抜け面でもなんでもなくて、木々はすぐに振り向いたことを後悔した。まるで感染したように体の奥が熱く疼く感覚は、残念なことに木々は心当たりがある。本当に、残念なことに。まさか自分が、こんなことで浮かされてしまうなんて。
もう振り向いたってミツヒデの姿は見えないし、熱い視線で射抜かれることもないのに、木々の体は熱を増している。――はやく、はやく水を浴びて熱を冷まさなければ。
汗を流すためのものが、違う他のもののためになってしまいそうで、木々は静かに息を吐き出した。どうしてこんな時間から、相手に乗っかってしまったのか。理由を探すのも億劫で、十分後部屋に訪れる男の顔を思い浮かべながら、足早にその場を去る。朝日はようやく、昇りきったところだった。