遠くの空が燃えていた。青々と茂る木々が赤く照らされて、ゆらりゆらりと葉が揺れている。夏が近いので、あたりはまだそれほど暗くはない。いつか見た景色と同じような赤だな、と窓の外を眺めながら春名はいつかを思い出す。同じような、といっても日はいつだって登っては沈むので、変わりようもないのだけれど。そもそも、ここには春名はひとりしかいないから、いつかを思い描くには少しさみしい。春名の記憶にはもうひとりいて、振り向いては赤く染まった瞳をこちらに向けてはハルナ、とやさしい音で名前をなぞるのだ。
夕暮れの空に溶けるように、あの銀の髪がほんの短い間でも春名と同じ色になるのが好きだった。心のなかに春名がいなくても、その時間だけは自惚れることを許されているような気がしたから。小さな秘密がまた、少しずつ増えていくような気がしたから。自分の髪色が変わっているなんて夏来は気付いてはいないだろうし、その瞳は春名でも夕日でもなんでもなくて、唯一の幼馴染みを映しているのかもしれないけれど。
それでもいいのだと思っていた。ほんとうに。どうしたって埋められるようなものではないし、代わりになることもできない。春名も、夏来も、旬すらも、誰もがただの人間で、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
それでも、ふたりでいることを初めから許されていて、いちばんはいつだって決まっていて、ふたりをよく知らない人間ですらふたりでひとつのように扱って、ふたりでいないことを不自然に思ったりして。そういう、春名には到底手に入れられないようなふたりの普通が、ひどく羨ましかった。遠くて、手を伸ばすことすらためらうほどに。だから羨ましいと指を咥えて見ているだけのはずだった。この距離感が春名にとってのいちばんなのだと、誰よりもそう思っていたはずなのに。
*
日付が変わる前から何度目にしたかわからないメッセージを見つめながら、春名は廊下を歩いていた。壁も床も、窓からあふれる橙色に抵抗なく染まっている。
放課後の校舎内はひとがまばらで、時折教師や生徒とすれ違う程度だった。部活はとっくに始まっている時間であるし、学校に用のない生徒は既に帰宅しているのだろう。春名も普段なら前者で今すぐに部室に向かわなければならないのだが、今日の春名は特別急ぐことなくのんびり歩いている。先ほど他の教室を覗いてはきたのだけれど、連絡は事前にあったのでみんなそれを受け各々好きに動いているのだろう。春名だってバイトがあればそちらを優先してしまうのだが、最近は数を減らしているので今日もバイトはなかった。疲労からではなく暇を噛みしめるように欠伸を噛み殺すのは、果たしていつぶりだったか。
『明日の練習はなしになります』とグループにメッセージが届いたのは昨日の夜のことだった。送り主は旬で、こんな時間まで起きているのは珍しいな、と思っていたのだが、その間に四季から『なんでっすか』『練習し足りないっす!』『みんなで集まりたいっすー!』と怒涛のメッセージが送られてきた――同じ数だけ送られてきた騒がしいスタンプは割愛する――。なんとなく口を挟まずにそれを眺めていたのだが、後から来た隼人が四季を宥め、明確な理由を告げることを避けしつこい四季をかわしながらそういうことだから、と強引にその場を締めた。これはあらかじめ旬が隼人に相談したのだな、と春名は察する。オッケー、と短く了承の旨を伝え、そのまま画面を閉じずに未だグループに現れない一人を待った。けれど待っていたメッセージが来ることはなく、結局一人足りない状態でグループでのやり取りは終了した。朝改めてグループを覗いたら既読が一つ増えていたので、練習がないこと自体は伝わっているはずなのだけれど。
だから特別気にしなくてもいいのだろうが、春名はどういうわけか部室に向かっていた。なんとなく、そこに夏来がいるような気がして。いたところで用事もないし、なに、と問われればなんだろう、と聞き返してしまいそうだった。けれど、ただなんとなく思い描く絵が寂しいので、その空いた空間を埋めたいな、と思った。それだけだ。
部室の近くまで行くと、予想通り静かであった。夏来がいても人がいなくてもそこは静かなので、あまり当てにはならないのだけれど。いつかの、ひとりぽつんと窓の外を眺める夏来を春名はまた思い出す。世界に取り残されたようにただぼうっとしている夏来は、いったい何を考えていたのだろうか。
そうのんきに考えていると、ガラ、と音を立てて部室の扉が開いた。春名が扉に触れる前だった。春名ではない他の人間が扉を開けて、中から出てきたのだ。そのひととばち、と目が合って、思わず春名の体は固まる。
「あ…………、――ジュン」
「何ですかその変な間は」
「いや、まあ……はは……」
春名の目の前に現れたのは、昨夜グループにメッセージを送った本人の旬であった。今日は練習ないですよ、と春名の目を見ずに旬は言う。うん、知ってる、とだけ答えて、春名は目を瞬かせながらその先の言葉を探した。しばらく――といってもほんの数秒だろうけれど、それよりも長い間に思えた――旬を見つめてしまって、あ、と声が出そうになり春名は慌てて口元を押さえる。先日の旬と夏来の件を思い出して、春名は恐らくその答えを見つけてしまった。
「……ナツキなら、中にいますよ」
「お!? おお……」
心の中を覗かれたのかと、春名は口元を押さえていたのを忘れて声を上げた。夏来が中にいるということは、春名の導いた答えはほぼ正解なのだ、きっと。旬には今度はなんだ、という目でじとりと睨まれている。
「探しに来たんじゃないんですか?」
「えっ、あー、いや……ここにいるかなーって思っただけで、別に探してたとかじゃ……」
「それを探してるって言うんですよ」
はあ、と呆れたようにため息を吐く旬は、中にいる、と言いつつも扉の前から動こうとはしなかった。夕日が差し込んであの日と同じように世界は赤く燃えているけれど、旬の髪は艶やかな黒のままだ。
「……怒ってる?」
言うべきか否か、というより、首を突っ込んでいいのかもわからなかったのだけれど、件のときいちばん夏来と一緒にいたのは春名であるし、夏来の気持ちも知っているのも一応は春名だ。関係ないと言い切られてしまえばそれまでなのだけれど、尋ねるくらいは許してほしかった。
「春名さんも、ナツキみたいなこと言うんですね」
旬は特に隠す様子もなく、部外者だからと切り捨てるわけでもなく、するりと答えた。答え、というには求めていたものではなかったのだけれど。それでも予想よりもあまりに呆気ないので、春名は拍子抜けした。
「みたいなっていうか……ナツキから聞いただけだけど」
「……別に、怒ってないですよ。誰が悪いっていう話でもないですし」
「でも、ナツキは――」
「わかってます。だから今日の練習時間をもらいました。もうこれきりなので、安心してください」
安心とは。これきりとは、なんだ。すぐそこまで出かかった言葉が、音になることはなかった。今後練習の時間が潰れることはないということか。もう、喧嘩はしないということか。
「……オレ、よくわかんないけどさ。二人がこう……なんつーの? 仲良くっていうか、納得するまで? とにかく、時間はかけていいと思うぜ。練習より大事だろ、そっちの方が」
「……もう終わったので大丈夫です。ご心配をお掛けしました」
そう言うと、旬は背中を向けてさっさと行ってしまった。黒い頭が小さくなるまで、春名はただそれを見送ることしかできない。簡単に話すのだな、と思ったが、これはやはり関係ないとあしらわれたのではないか。それとも春名の言う『納得』に行き着くことができたのか。旬の言う『終わった』とは、何を指しているのか。ここで立ち尽くしながら考えていたって、正解は見つからないのだけれど。
余計な思考を吹き飛ばすように頭を強く振って、春名は扉に向き合う。ここに来るときはただ会いたいからというくだらない理由だったのに、旬と話してから夏来と会うとなると妙な緊張が春名を襲っている。ふたりがどうなろうと、所詮他人の春名には関係ないことなのに。
あくまで普段通りの自分をイメージして、わざと音が鳴るくらいに強く部室の扉を開ける。夏来がどこにいたって聞こえるように、春名が来たとわかるように。
旬の言う通り夏来は中にいた。夕焼けと一緒になって赤く染まる夏来は、椅子に座ってあの日と同じように外を眺めている。違うのは、誰かがやってきたことはわかるだろうに、視線を寄越さないことだ。いつもは見つけてくれるようにハルナ、と呼んでくれているのに。
「……ナツキ、ヘーキ?」
安心して、という旬の言葉を思い出す。旬は本当に春名がこうして夏来の元へ行くことをわかっていながら、ああ言ったのか。
しばらくの間を空けて、夏来はうん、と小さく答えた。やっとの思いで絞り出した声のようだった。それでも窓の外を見続けているので、夏来の瞳に春名が映ることはない。
「ヘーキじゃないときはヘーキじゃないって、言ってもいいんだぜ」
「…………へいき、だよ」
視線を寄越さないまま、先ほどよりも言葉を少し強めて言った。春名の問いかけへではなくて、まるで自分に言い聞かせているみたいに。あくまで平気であることを装っているつもりなのだろうけれど、その姿はまるで脆い。
「……そっか。じゃあ帰ろうぜ、ナツキ」
「…………一緒に?」
「一緒に」
だって、このままどこかに消えてしまいそうだから、とは言えなかった。 夕陽に照らされて、そのまま溶けてしまいそうなのだ。抗うことなく、惜しむことなく、諦めてしまうように、夏来は消えてなくなってしまいそうだった。
ナツキ、と名前を呼ぶと、ようやくこちらに視線を寄越した。透き通るようなオレンジが夏来を彩っている。手を差し出すと少し考えたのちに夏来の手が重ねられるので、春名は音もなく安堵した。――大丈夫、この手は拒絶されていない。
駅までの道を、ふたりは静かに並んで歩いていた。正確には、夏来がほんの少し後ろを歩いているのだけれど。学校を出てすぐは春名がなんてことない話題を投げかけていたが、夏来は会話をする気がないようだったので途中でやめてしまった。話している方が気がまぎれるかと思ったのだが、どうやらその余裕もないらしい。春名は黙って、夏来の歩調に合わせるようにゆったりと歩いている。
今までも特に無理して会話しようとして会話したことはなく、しばらく会話のない時間を過ごすこともあった。そういうときはお互いあまりそういう時間を苦痛に思っていなくて、むしろ心地いいとすら思っていた。気付けばどちらかが寝入ってしまっているくらいには、ふたりの間には心地よさがあった。けれど今この瞬間、初めて沈黙が苦に思えて仕方がない。それを誤魔化すように暑いな、とぼやくけれど、やはり返事はなかった。
改札が見えて、春名は立ち止まった。それに合わせて後ろからついてくる足音も止まる。あとからやってくる中高生がふたりを邪魔そうに一瞥して、通り過ぎていく。
「…………、ナツキ」
また明日、と別れの言葉を切り出せなかった。噛みしめるように、名前だけなぞる。呼ばれた夏来は、俯いたまま春名の少し後ろで立っていた。
「――うち、くる?」
ぽろ、と落ちるように出てきた言葉になんで、と思ったのは言い出した春名だった。踏み込めないと思ったのも、赤の他人だと言って線を引いていたのも春名なのに、こうして夏来を引き止めようとして、うちにくるか、なんて言ったりして。結局赤の他人じゃいられなくて、たった一本の線で隔ててしまうのがもどかしくて、春名は無意識のうちに手を伸ばしている。なにより、それは自分から作った壁であるのに、だ。
「………………、…………」
しばらく沈黙を決めていた夏来は、返事をする代わりに春名の裾を力なく引っ張った。それが夏来の今できる精一杯の返事のように思えて、春名は何故だか泣きたくなった。
まもなく、と電車の到着を知らせる声がホームに響く。春名はその手を何も言わずに取って、足早に改札に向かう。何かに奪われてしまわないように、溶けてなくなってしまわないように、春名はしっかりと手を繋いだ。あわよくば、もしどこか行ってしまいたくなったらこの手を引いて、春名も連れて行ってほしい。――なんて、こればっかりは春名のわがままでしかないのだけれど。
外はこんなにも暑いのに、繋いだ夏来の手はあの日の部室に取り残されていたかのように、ひどく冷たかった。
*
グラスに入れた麦茶に手を付けた形跡はなくて、溶けた氷がからん、と軽い音を立てて底に沈んでいく。沈黙を埋めるように麦茶を呷ったので、春名のグラスは空っぽだ。けれど注ぎに行くのも面倒で、諦めて空っぽのグラスをテーブルに置いてしまった。
ベッドに腰をかけたきり、夏来は動かなかった。俯いているのでよくわからないけれど、顔色があまり良くないような気がする。色白いのはいつものことなのだけれど、どちらかというと血の気が引いている色、というか。この前のように貧血なのではないかと思って先ほど声をかけたのだが、ゆるく首を振るだけだったので、隠しているのでなければ具合が悪いわけではないのだろう。からん、ともう一度音を立てながら氷が溶けて、落ちる。今度は春名のものだった。
「…………言いたくかったらいいんだけどさ」
一言断って、一歩だけ踏み込もうと声をかける。夏来は拒絶もせず、けれど肯定もせず、ただ黙って床を見つめていた。
「ジュンに、なんか言われた?」
沈黙。けれどこれは肯定の沈黙なのだろうな、と思う。何かは言われたのだろうけれど、問題はその内容だった。旬の様子は普段とあまり変わりなかったように思えたが、対する夏来はこの様なので、一方的にものを言われることでもあったか。――あまり、想像でものを考えたくはないのだけれど。
「怒られた?」
しばらく経って、ようやくゆるりと首を振る。そうだ、旬も怒っていないと言っていた。そういう話ではないのだと。
「じゃあ、なんて?」
「…………、俺が、わるくて……」
「ナツキが?」
「……俺の、せい……だから、」
「ナツキが悪いんだって、ナツキのせいだって、ジュンがそう言ったのか?」
「…………、……………………」
それは旬の言葉ではなくて、夏来が思っていることなのだろう。あの日も保健室で夏来はそう言っていた。旬が怒っていようがいなかろうが、悪いのは夏来なのだと。
春名には、夏来のなにが悪いのかわからなかった。だって、箱が落ちる原因は確かに夏来だったかもしれないが、その箱から旬を庇ったのも夏来ではないか。貧血を起こした夏来は別に体調管理を怠っていたわけではないだろうし、箱が落ちたのだってそれこそわざとではない。ごめんねとありがとうで終わる話ではないのか、これは。――ではないから、こうなっているのだろうが。
「…………おわり、だって、」
「終わり?」
旬も、言っていた言葉だ。これきりだ、もう終わりだ、と。なにが、と問うと、夏来は膝の上で握っていたこぶしをさらに強く握って、は、と苦しそうに息を吐いた。
「……、いらない、から……、もうおわり、って」
「……え、…………いらないって、なに」
「俺……そういうつもり、なくて……ほんとに、ただ、…………――ただ、聞いてたかった、だけ……なんだ…………、」
静かに、誰かに訴えるような声は、終わりにかけて震えるように消えていった。誰に訴えていて、なにがいらなくて、なにが終わりなのか。他人なくせに、春名はそれらがすべてわかってしまった。夏来の視線の先を知っていたから、視線に込められる気持ちを、知っていてしまっていたから。軽く引っ張るだけで解ける紐のように、それは簡単だった。
「……そんな、ものみたいに言うもんじゃないだろ」
「…………、俺が、悪いから……しかたない、よ……」
「なんでそんな一方的なんだよ、……だって、だってジュン、言ってたぜ。誰が悪いっていう話じゃないって。だったらナツキだって悪くないじゃん」
「……いらない、から…………」
「え?」
「いらない、から……捨てちゃえば、…………ないことに、すれば……悪いもなにも、ない……でしょ……」
たぶん、そういうこと。
寂しそうな、でも夏来にしては何か物足りないような声に、春名は違和感を覚えた。そういうことじゃないだろ、だとか、言いたいことはたくさんあったはずなのに、夏来のその声を聞いてしまっては、春名はどうしてか何も言えなかった。
「俺、は、……ずっと、ジュンのピアノを、音を、聞いていたいって、思ってて…………、でも、……ジュンが、それを重荷に、感じて……邪魔だって、思って、たら……それは、邪魔なものでしか、なくて……」
「…………、」
「ジュンの音が、好きで……でも、俺の、好きだって気持ちを、……ジュンがいらないって、……捨てろって、言ったら……、俺は…………、捨てる、しか……ないんだ……」
そんな話だっただろうか。わからないと嘆いていた夏来が望んだのは、そんな答えだっただろうか。旬と夏来が何を話して、どういう経緯でその答えに至ったのか、春名は知る由もないけれど、旬がその答えでもう大丈夫だと言い切れた理由が、夏来がそれを納得しているような口ぶりで話している理由が、春名にはわからなかった。ふたりの間にあるものは、旬の放った一言で簡単になかったことにできるものなのか。夏来の視線を何年も受け止めながら、旬はそれをいらないと、捨てろと言ってしまえるのか。
「俺が、悪いんだ……ずっと、一緒にいたのに……ずっと、見てきたのに……、ジュンが、そう思ってること、わからなくて…………俺、口だけ、で……ほんとうは、わからないこと、たくさんあって……」
「……ナツキ、」
「怒って、なかった……あの日も、……俺に呆れて、面倒になって、……それで、帰っちゃった、って……。……ハルナの方が、ジュンのこと……わかってた、ね……」
「ナツキ、なあ、」
「守る……とか、そういうつもりは、なくて。ただ、俺がこわいから、勝手にやってただけ、で……。でも、結局また、傷つけちゃった…………どうしよう、キーボードも弾けなくなったら、……アイドルも、バンドも、やめるって言ったら――」
静かに淡々と自分を傷つける夏来の言葉が、途切れた。正確には、無理やり春名がそのくちを塞いで、飲み込むようにして止めた。春名の声は夏来に届いていなくて、それでもこれ以上夏来の声を聴いていられなくて、ほぼ無意識で食いつくように重ねたそれは、雰囲気も何もない。あれだけ夏来の手は冷たかったのに触れたくちびるはひどく熱くて、当たり前なのに生きているのだな、と見当違いなことを思った。
「……、ハルナ……泣いてる、の……?」
「へ、」
今、春名は夏来にキスをしたのに、泣いている、なんて的外れなことを言われて、春名ははじめて自分の視界が霞んでいることに気が付いた。ぽろぽろととめどなくあふれる涙は、頬を伝って夏来のスラックスにしみをつくる。夏来が止めてしまった言葉を、代わりに春名がこぼしているように。
「あは、みたい……?」
「ど、して…………」
「……ナツキが痛がってるから、かな」
「…………? わ、わかんない、よ……なんで、ハルナが泣くの……?」
「ナツキが痛いとさ、やだなあって思って……オレも痛くなるんだ、たぶん。だって痛いもん、いま」
「……お、れも…………ハルナが痛いのは、いやだよ……」
「そお?」
口に出して、ああ痛いな、と自覚した。痛くて、けれど本当の痛みがわからなくて、勝手に寄り添うように、勝手に泣いているだけだ。
きっと、夏来と同じことだった。夏来の旬に対するそれのように春名も勝手に線を引いて、そのくせ夏来が傷つくのを恐れて、こうして触れてしまって。
今の夏来はからっぽだった。そのきれいな風貌に詰まっていた人間らしいものを、きっと夏来は捨ててしまった。何年も抱えてきた大事なものが、もう夏来にはない。すぐそこにある夏来の瞳は確かに春名が映っているはずなのに、どこか遠くを見ている。――なにも。なにもなかった。夏来がかろうじて手にしているそれは、旬を傷つけてしまった罪の意識だけ。その痛みだけで、夏来はそこにいる。
「……オレは、さ。楽しいとか嬉しいとかはモチロンだけど、痛いのとか、悲しいのとか……そういうとこも、欲しいなって思うよ」
ずるいな、と思う。最低だ、とも。やさしいひとを装って、その何も映っていない夏来の瞳に春名を映してほしいと、からっぽな夏来が欲しいと、みっともなく口が開く。
「…………、ハルナの、邪魔になる……かも、しれない」
「ならないよ」
だって、ずっと欲しかったのだ。見ているだけで、ほんの少しでも一緒の時間を過ごせるだけで、本当はそれだけでよかった。夏来の視線の先なんて、いちばん大切なものなんて、夏来をよく見ている春名じゃなくたってすぐにわかる。四季も隼人もプロデューサーも、下手したらファンの子も、みんながわかることだった。だから一線を引いたのだ。
それなのに。
「ナツキがいい。オレ、ナツキといたいよ」
夏来は、とは聞けなかった。旬がいい、旬といたい、と言うかもしれないけれど、なんとなくそれはないかな、と春名は思っていた。かといって、自分の名前を挙げられるとも思ってはいないけれど。それでも今まで大事に抱えていたものに縋って、それを頼りに生きてきたのであろう夏来は、何もなくなった今、代わりになるものを無意識にでも探しているはずだった。そうでなきゃあのまま春名の手を取ることもなく夕日に溶けていただろうし、春名の制服の裾を引っ張ったりなどせずそのまま家に帰っていただろうから。
「…………ハル、ナ、」
する、と、春名の頬に夏来の手が添えられた。やさしく撫でるように、伝ったままの涙を拭う。かわいそうなほどその声は震えていて、その手はつめたくて、けれど熱を孕んだ夏来のくちびるの感触は忘れられなくて、春名は答えるようにもう一度くちびるを重ねた。今度は塞ぐのではなくて、触れるだけの優しいキス。熱を確かめるように触れて、名残惜しくも離れて、ふと目が合って、それから引き合うようにまた触れる。しばらくこちらを見つめていた夏来の目は、春名に委ねるようにゆるりと閉じていった。