ビルの明かりや車のヘッドライトに照らされるきらびやかな街を前に、夏来はわずかに目を細める。ステージの上で感じるものとはまた違ったまぶしさだけれど、最近はどちらもだいぶ慣れてきた。まぶしいせかいを見るのも、まぶしさの中に立つことも。都会ならではの人の多さとそろそろやってくる本格的な暑さには、相変わらず目を回してしまうのだが。
 抱えているものがそこそこ大きくて重たいせいか、ふらつきながら夏来は何とか前を歩く四季たちに追いつこうと必死に歩いていた。久しぶりの五人揃っての仕事が終わったのはそこまで深い時間ではなかったはずなのだけれど、気付けばずいぶんと経ってしまっていて、先ほど慌てて店を出たのだ。今はその足で駅に向かっている。良好とは言えない視界の中、ナツキ、と声が聞こえたかと思えば、前を歩いていた春名と旬がもたつく夏来に気が付いて戻ってきてくれたようだった。もっと前の方で四季が「はやくー!」とこちらに手を振っている。
「あはは、ナツキ顔見えてないじゃん。半分持つよ」
「ハ、ハルナ……」
「何か入れるものを持ってくればよかったですね……。貸して、ナツキ。僕も持つから」
「え、っと、ありがと……」
「別に。一応主役なんだから手ぶらでいいくらいだろ」
 だから早く歩け、と旬に催促されて、夏来はふたりに甘えて前についていくことに専念することにした。実際、四季と隼人の背中がだんだんと小さくなっている。
 五人揃ってのラジオの収録のあと、せっかくだからと四季が提案したらしい夏来の誕生日会が開かれた。誕生日会、といっても高校生の財布に優しい行き慣れたファミレスで食事をしたくらいなのだけれど、高校生五人が居座るにはちょうどいい場所なのだ。少し遅めの夕食を取りつつ、みんなが持ち寄ってくれたプレゼントを貰って、次の収録の話やそろそろやってくる試験の話――一部は頑なに耳を塞いでいたけれど――をしていたらあっという間にこんな時間になってしまった。明日は学校なのであまり遅くまで長居しないようにしましょうと初めに旬が釘を刺したはずなのだけれど、話が思った以上に盛り上がってしまって結局今に至るのだが。
「ジュンっちにハルナっちにナツキっち! 早くしないと地元の電車なくなっちゃうっすよ!」
「おーおー、元気だなシキ。お前のがいちばんかさばるんだけど?」
「えー! ハイパーかわいいのに! あっ、ナツキっち、もしかして嬉しくないっすか……?」
「かわいいし、うれしいよ……ありがと、シキ」
「なんか、ナツキがそれ抱えてるとかわいいな……」
「ハヤトまで足を止めないでください。本当に帰れなくなりますよ」
「うわっ、そうだった!」
 俺も持つよ、と隼人まで夏来が抱えていた最後のプレゼント――ずいぶん大きくて目に優しくない配色のくまのぬいぐるみだ――を持ってくれたので、夏来の手荷物は背負っている自分の鞄だけになってしまった。元はといえば夏来が貰ったものなので断ろうとしたのだが、足元が覚束ないままちんたら歩かれるよりはましだろうから、夏来はやはり懸命に歩くほかない。
 飲み歩いているのであろう男女の集団や、スーツ姿でベンチに転がる男、結構なボリュームで大笑いしている女子高生たちを横目に、夏来たちは早足に駅構内を駆け抜けた。漸く目的の改札を見つけて、行き交う人々を掻きわけるようにして五人が順番に通る。電車は既に到着していて、扉が閉まるとアナウンスが告げているところだった。
「はやくはやく! 電車行っちゃうっすよ!」
「ナツキは大丈夫!? 着いてきてる!?」
「オレの前にいるー!」
「早く乗ってください四季くん、君が乗らないと僕たちも乗れないんですよ」
「だ、だいじょうぶ……」
「ナツキっちの無事かくにーん!」
 四季が乗り込んで、隼人、旬と続いて乗り込んだので、夏来と春名もそれに続く。貰ったプレゼントが潰れてしまわないかが心配だけれど、体を押し込まなければ電車には乗れそうにない。
「――ナツキ」
 ふいに後ろにいた春名に名前を呼ばれて、夏来は思わず後ろを振り返った。なに、と問おうとしたところで腕を引かれて、乗れそうだったはずの電車がわずかに離れる。あ、と声を出すのと同時に目の前で扉が閉まり、まもなくふたりを置いて電車は発車してしまった。ドア付近にいた旬が驚いたように目を開いていたような気がするけれど、たぶん夏来も同じような顔をしていたと思う。だって、本当なら扉の向こう側にいたはずなのだ。夏来も、後ろにいる春名も。
「…………行っちゃった……」
「……行っちゃったな」
 引き止めたのは春名のくせに、夏来のつぶやきを繰り返すようにそう言った。まるで他人事のような口ぶりで去ってしまった電車を見つめている。何が起きたのか理解が追いつかない夏来は同じようにその先を見つめていたが、すぐに夏来のスマホが着信を知らせるようにポケットの中で震えた。おそらく旬たちからだろう。目の前で乗りそびれた――というより乗れなかったのだけれど――のを見られているので、どうかしたか、と心配してくれているのだ、きっと。ポケットから取り出してメッセージを確認しようと画面を開くが、夏来が目を通す前に春名がひょいとそれを取り上げてしまった。
「え、……」
「ちょっとごめん」
 そう言ってすぐに返ってきたスマホをいじっても反応はなかった。充電はまだあったはずだが、画面は変わらず真っ暗のままである。どうやら、春名が電源を切ってしまったようだ。わけがわからず電源を切った本人である春名を見ても、素知らぬふりをするように夏来と目を合わせない。
「ハルナ…………?」
「……――電車、来るな」
 まもなく――線に――行きの電車が参ります、と春名の言う通りアナウンスが電車の到着を知らせる。都会は電車を逃してしまってもすぐに次の電車がやって来るので便利なものだ。これに乗れば、旬たちと合流はできなくてもそれほど間を空けずにあとを追いかけることができるだろう。先程の電車にほとんど乗り切ってしまったのか、春名と夏来が立つホームは人がまばらだ。速度を落としてやってきた電車も満員と言えるほどではないので、余裕を持って乗ることができそうである。――をご利用の方は――線にお乗り換えです、とアナウンスが夏来たちを急かすように響いた。けれど春名は扉の前から動こうとはせずに、そこに立ち尽くしている。ふたりの後ろにいたスーツを着た女性がじろりとこちらを睨んで、さっさと電車に乗っていった。ハルナ、と小さく名前を呼んでも聞こえていないのか、それとも無視しているのか、春名は何も答えない。「来るな」と言ったのはこの電車を待っていたからなのではないのか。
 扉が閉まります、と痺れを切らしたような音と同時に、夏来は動かない春名の手を取って電車に背を向けた。へ、と間抜けた声が聞こえたような気がしたけれど、振り向くことなくついさっき通った改札を出る。往復しただけなのでチャージした分の金額は減らないままだ。数分と経っていないはずなのだけれど、先ほどよりも人の数はまばらである。やはり、旬たちが乗って行った電車が混雑のピークだったのだろうか。
「――あは、マジか、ナツキ」
 改札を出たのはいいが行きたいところもないし、片手で足りる程度しか訪れたことがない場所だったので土地勘もない。仕方なく先ほど来た道を辿るように歩いていると、後ろで春名が可笑しそうに笑った。信じられない、とでも言うように。
「な、なに……」
「いや、だって、まさか改札出るとは思わなくて」
「……ハルナが……止めた、から…………」
「うん、そう。オレのせい」
 だって、だのまさか、だの、まるでこんなことまでは望んでいなかったみたいに春名は笑った。そのくせ自分のせいだと言う割には夏来を可笑しいと言っているようで、春名のせいだよ、と夏来は念を押すようにじっと見つめる。確かに、改札を出たのは夏来だけれど。
「……怒られる、よ」
「ジュンに? あー、それはちょっとカンベンだなあ。ってか、ナツキは怒んないわけ?」
「俺……?」
「だって、帰ろうとしてたのにオレに引き止められたんだぜ」
 しばらく考えるけれど、不思議なことに夏来のなかに怒りはなかった。仮に怒るとしたら春名のせいなのに夏来を笑う春名に対して、だ。今ここにふたりでいること自体夏来の中ではあまり問題ではなかった。
「怒って、ない……? かも……」
「なにそれ。ヘンなの」
「ヘン、かな……」
「ヘンだよ」
 そうか、変なのか。もう一度心の中で繰り返すと、春名の言葉が夏来のなかにすとんと落ちる。別に春名だって怒ってほしいわけではないだろうに、まるで怒ることが正しいとでも言うような言い草だ。夏来が変だと言うのなら、そういう春名だって変だろう。おんなじだ。怒らない夏来も、その夏来を変だと言う春名も変なのだ、きっと。
 もし引き止められたのが夏来ではなく旬だったら、今頃旬は怒っているんだろうか。むしろ改札なんて出ようとすらしないだろうな、と夏来はホームで怒る旬の姿を思い浮かべる。――そもそも、今日誕生日だったのが旬だったら、四季や隼人だったら、春名は同じように引き止めたのだろうか。
「怒る、より……なんでかなって、思う、けど……」
「……ナツキはなんでだと思う?」
「なんで、……」
 なんだか考えさせられてばかりだな、と思いつつ、夏来はつい数分前のことを思い出す。春名は腕を引く前、夏来の名前を呼んだ。いつものように、けれどどこかいつもとは違うように。どう違ったかどうかまではわからないし、覚えていない。夏来だって振り向きはしたけれど腕を引かれるまで本当に電車に乗ろうとしていたし、そのために焦っていた。その夏来を引き止めたのは、電車に乗ってほしくなかったからなのか。――でもどうして? 明日は学校があるし、放課後にもスタジオでの練習があるのでどのみち会う予定はある。あの時無理に止めなくたって、家まではどうせ同じ電車なわけなのだし。
「……帰りたく、ない……?」
「誰が?」
「…………ハルナ?」
「うーん、まあ、おまけのマルって感じ?」
 曖昧な答えとも言えないような答えを出して、それよりどこ行くの、と春名が静かに彷徨う夏来を見透かして意地悪そうに聞くので、夏来は少し考えてから知らない、とふて腐れたように答える。そんなの、こっちが聞きたいくらいだ。
「じゃあ海行こう、ナツキ」
「海……? 今から……?」
「バスとかまだ出てるかな。こっからなら歩いてもそう遠くはないと思うけど」
「……明日、学校……」
「まあまあ、赤信号みんなで渡ればなんとやらって言うじゃん」
「ふたり、しか……いない、よ……」
「ふたりも、だよ」
 夏来の話を聞こうとしない春名は、自分のスマホを取り出して海までの行き方を調べ始めた。それに習って夏来もついでに通知を確認してしまおうとするが、電源を消されたことを思い出して、真っ暗な画面をしばらく眺める。それを春名に見られているなと思いながらも、結局何もせず再びポケットにしまってしまった。
「……電源、入れないんだ」
「…………うん」
「なんで?」
「……怒られるの、ハルナ……だから……」
「おー? なるほどー?」
 言うなあナツキ、とスマホを見ながら春名は言った。夏来の話を聞く気がないらしいので、それくらいは春名に押し付けても文句は言われないだろう。改札を出たのは夏来だけれど、そもそもの原因は春名にあるのだ。夏来のもとにきている通知は同じ内容のものが春名のものにも届いているだろうし、海までの行き方だって二人がかりで調べるものでもない。
「あーあ、バス終わってるや。歩いてこ、ナツキ」
「……散歩?」
「ん〜、散歩? 走ってもいいけど」
「む、むり……」
「あはは、オレもむり! のんびり歩こうぜ」
 夏来が掴んでいた手が離れたと思えば今度は春名に手を取られて、夏来は連れられるように海へと続いているらしい方へ歩き始めた。夜は遅くても車通りが多く、街灯がない場所でも車が照らしてくれるお陰で足元はよく見える。その代わり、春名と繋がっている手もよく見えているとは思うのだけれど、春名は気にすることなく歩いている。こういうのはオドオドするから余計に怪しく見えるんだって、といつか自信満々に言っていたっけ。その時も確かこうして暗い道をふたり並んで歩いていた気がする。今と違って街灯もまばらで車通りも人通りも少ない住宅街だったけれど。



 スマホの電源が入っていないので、今の時間がわからない。春名に聞いてもいいのだけれど、なんとなく本当の時間を教えてくれそうに思えなかったのでやめておいた。まだ日をまたいではいないと思うのだけれど。
 ざざ、と静かな海岸に波の音が響く。泳ぐにはまだ早い時期のせいか、ゴミひとつないきれいな砂浜だった。駅からここまで、春名はそれほどかからないようなことを言っていたけれど、結局途中で道に迷って予定よりもずいぶん歩いた気がする。日中に比べればマシだけれど、それにしたってじっとりと服が肌に張り付いて気持ちが悪い。いくら手で仰いでも生ぬるい風しかこないので、あまり意味はなかった。貰ったプレゼントの中にプロデューサーから預かったという扇子があったのだが、夏来は手にしていないし春名が持っているものでもなかったので、今頃電車に揺られているのだと思う。やはり何か一つ持っておくべきだったな、と夏来は今更ながら少し後悔した。まっすぐ歩けない夏来が悪いのだし、それを気遣ってみんなが持ってくれたのはありがたいことなのだけれど。
「海久しぶりだなー! 最後にきたのいつだっけ?」
「前、撮影したときは……冬、だった……十一月、くらい……?」
「そーだ! ちょー寒かった! 雪まで降ってさあ!」
「四季は、元気だった、ね……」
「鼻真っ赤にしてなー。ナツキも元気そうだったけど?」
「俺、は……寒いの、平気……」
「知ってる。夏はバテバテになるのもな」
「う、…………ごめん、」
「いーよ。しょうがないだろ。そればっかりはナツキのせいじゃないって」
 先を歩く春名の後に続くように、足跡に夏来の足を重ねながら誰もいない浜辺を歩く。海に着くまでの間手は繋がったままだったのだけれど、海を目の前にした春名がうみだ、とおもちゃを見つけた犬のように走り出したので、夏来はそれをゆっくり追いかけてきたのだ。なので、今夏来の手はどちらも空いている。本当に帰りたければ春名を置いて駅に戻ることもできるが、今来た道をまたひとりで歩いて帰るのは考えるだけでも億劫なので、早々にあきらめてしまった。
「…………ハルナ、いつ帰るの」
「んー? もうちょっと、かな」
「ちょっとって……?」
「なに、お兄さんとのデートはいや?」
「いじわるは、いや、だよ……」
「あー、ごめんって! 別にイジワルしたいわけじゃなくてさ」
 先ほどまでは話をちっとも聞いていなかったくせに、夏来がその場に立ち止まると慌てた様子で春名が戻ってきた。夏来も別に意地悪されたなんて思ってはいないのだけれど、なんとなく夏来だけが何も知らないでいるのは不公平な気がして、それが少し気に食わないだけだ。何もわからないまま春名に連れられるのも、それはそれで楽しくはあるのだけれど。
「…………ホントはさ、あの電車に乗っちゃうかと思った」
「……次に来たやつ?」
「そ。だって、乗りそびれた? ことになってただろ、一応。だから次来たのに乗るんだろうなーって思うじゃん」
「……俺のせい、なの…………」
「ちがうって、びっくりしただけ! ナツキにバレちゃったかもって」
「ばれ……? なにが……?」
「いや、なんでもないけど。――んで、不思議そうにしてる割りには迷いなく改札出るし、そのくせどこ行くかわかんないし」
「そ、れは……」
「あはは、……うん、ごめんな。困らせちゃったな」
「…………うん」
 宙ぶらりんだった夏来の左手を取って、春名は再び歩き出した。夏来も春名に合わせて足を動かす。ざあ、とぎりぎりまで押し寄せる波の音が心地いい。以前撮影で訪れた時とは違った気持ちだ。春名と一緒だからか、ひどく心が落ち着いている。目を閉じたらそのまま眠ってしまいそうだった。
「――ナツキ、いいこと教えてあげる」
「なに……?」
「オレのスマホ、ジュンたちからの通知で充電切れそう」
「……自業自得…………」
「ナツキのもすっごいぞ、たぶん。よかったなー、電源切っといて」
「それ、ハルナが言うの…………」
 実際、春名のスマホはずっと点滅していて、見る限りではそれに返信した様子はない――返信していたら通知は鳴りやんでいるだろうが――。おそらく、夏来と連絡が取れないからその分春名に回っているのだろう。夏来を引き止める前に何か一言でも言っておけばよかったのにと今更思うけれど、店を出てからあの瞬間までにそんな悠長はなかった気がする。ホームに駆け込んで、旬の背中を追うように電車に乗ろうとしたところで春名に呼ばれて、振り向いている間に後ろで扉が閉まっていたので。――というより、旬たちに一言言う前に夏来に言うべきものだ、それは。
「……なんで、帰りたくなかったの……?」
「え? あー、いや、帰りたくなかったっていうか……、ってかわかんない? ナツキが考えるよりずっと簡単だって」
「なに、それ……わかんない、よ……、帰りたくない、わけじゃないの……?」
「帰ろうとしたナツキをオレが引き止めたんだぜ? ――ナツキを帰したくなかったの、オレが!」
「…………? な、なんで……?」
「えっ、聞いちゃう? それ」
 より一層首を傾げる夏来を見てうう、だとかえーっと、だとか言いながら、春名は立ち止まってなにやら考えはじめたようだった。波の音にさらわれてしまいそうな春名の独り言に、夏来はそっと耳を澄ませる。澄ませたところでうにゃうにゃと悩んでいるだけのようだったけれど。
「うー……、……ホントにちょっと待って、もうそろそろ……――って、ああ!?」
 待って、と言いながらスマホを取り出した春名が突然大声を上げるので、それに驚いた夏来はうぇ、と釣られて声を出した。
「な、なに……?」
「充電! 切れた!」
「……? ……ああ、通知……」
「まって、マジで今何時!? ナツキ、スマホ! 貸して!」
「ハルナが電源切ったのに……」
 早く早くと急かされるので夏来は仕方なくポケットからスマホを取り出すと、ひったくりか何かみたいに奪うようにしてスマホを取られてしまった。そんなに焦ったってしょうがないだろうに、いったい何をそんなに必死になっているのか。
「うわーっ! 過ぎてる! マジでちょっと待ってナツキ!」
「ずっと、待ってるよ……、……で、何時……?」
「あっだめ! ナツキは見ちゃだめ! ああもう、こんなはずじゃなかったんだって!」
「だから、なにが……」
 何がなんだかさっぱりわからないが、しばらく頭を掻きむしってああでもないこうでもないとひとりでぶつぶつ呟いている春名は見ていておもしろいので、退屈はしないのだけれど。ここに来たときは静かで波の音が心地いい――なんて思っていたのに、今では目の前で春名がじたばたと暴れている。情緒もなにもないなと夏来は春名にバレないように小さく笑った。まあ、別に波の音を聞きにわざわざここまで来たわけではないのだろうけど。
 しばらくして漸く落ち着いたのか、春名は夏来と向き合ってごほん、と一つ咳払いをしてからナツキ、と改まった声で名前を呼んだ。
「……あー、えっと……ホントはもっとこう、かっこよくキメる予定だったんですけど……」
「です……けど……?」
「……誕生日おめでと、ナツキ」
 ぽかんと、夏来は春名の言葉をうまく噛み砕けなくてしばらくまっすぐ向けられるその瞳を見つめてしまった。噛み砕くもなにもそのままの意味だろうに、夏来は一生懸命考えた。だってついさっき、仕事終わりに行ったのはなんだったのだっけ。
「……さっき、聞いたよ……?」
「でもホントの誕生日は今日だろ?」
「…………? あ、れ……今日、何日……?」
「えっ、次の日学校だから前の日にちゃんとお祝いしようって話だったじゃん。今日が十八だって」
「あ…………、そう、だった、……?」
「えーっ、そっから!?」
「たくさん……お祝い、してもらった、から……もう終わった気でいた……」
「あー……いや、ナツキっぽいっていうか、まあ反応薄いからそんな気はしてたけど……」
「ご、ごめん……?」
 力が抜けたのか、ふにゃりと笑う春名を見てなるほど、と夏来は心の中で手を打った。一応言い訳をすると、ありがたいことに六月に入ってからは行く先々で祝ってもらっていたので、文字通り毎日が誕生日の気分だったのだ。貰ったケーキやらお菓子やらを持ち帰かえっては家でも食べているので、いつが誕生日だなんて頭になかった。
「いちばん、に……お祝い、してくれようとした……?」
「散々祝われてるだろうし、みんなでフライングしたからいちばんって感じじゃないけどな! ま、ほら……あいつらも改めてお祝いしてるし、こんなかじゃいちばんじゃん?」
「あ、ほんとだ……」
 ほら、とスマホの画面を見せられて、大量の通知とともに夏来を祝うメッセージが流れている。「早く返事しろ」という旬からのメッセージも四季からの「スタンプを送信しました」の文字ですぐに画面外へ消えてしまった。夏来のスマホを春名が自分のものであるように見せてくるのは不思議だけれど。
「電源切ったのも、……?」
「ジュンたちから連絡あったらそのまま素直に電車乗りそうだなって思ってさ。乗っちゃうならそれでもいいかなって思ってたけど」
「言ってくれれば、乗らない、よ……たぶん……」
「まーそこはさ、雰囲気大事じゃん?」
「うん……?」
 電車の中でも、なんなら地元に着いてからだって言えないことはないだろうに、わざわざ夏来だけを引き止めて、海なんかに来たりして。結局とっくに日付は変わってしまっていたし、おそらく春名の思い描いていたような瞬間にはならなかったのだろうけれど、ふたりだけの時間が、特別が出来たのは紛れもない事実だった。
「ハルナって……意外に、ロマンチスト……? だよね……」
「えっ、そお? ……引いた?」
「ううん、……ふふ、うれしい、よ……」
 じっと春名を見つめて、相変わらず繋がれている手に倣って反対の手も握る。暑さのせいか、どちらの手も熱いような気がした。
「……ありがと、ハルナ」
「…………うん。ごめんな、かっこわるくて」
「ハルナは……いつも、かっこいい、よ……」
 春名にあげられる夏来のいちばんがあるのだな、と思う。夏来が持っている限りのいちばんを春名にあげたいし、春名にほしいと思われていたい。同じ数だけ、春名のいちばんも夏来がほしい。春名といるとどんどん自分が欲張りになっていくのがわかって少し怖いけれど、それすら春名も同じだったらいいな、なんて思うので救われないのだ、きっと。夏来を引き止めたときの春名の目を、いつまでも見ていたい。いつだって春名にほしい、と思われたい。夏来だって、春名がほしいから。
 一歩近づいて、ゆっくり春名のくちびるに触れた。外だから、とはじめは触れるだけですぐに離れるつもりだったのに、春名が夏来の腰を引いて離れようとしないので、夏来はされるがままにくちびるを啄ばまれる。ん、と吐息がこぼれてもすぐそこまでやってくる波が全部さらってしまうから、考えるだけ無駄なのかもしれない。だいたいもうこんな時間だし、見ているのは海とその上に浮かぶ月くらいだ。人影なんてありもしない。――そこまで考えて、夏来ははた、と思い至ってしまった。こんな時間に、春名と夏来は今どこにいる?
「…………ハルナ、」
「ん……?」
「え、と……、電車……」
「へっ…………――あ、ああ! エッ、今何時!? 終電!」
「この辺は、まだある、と思う……けど……」
「てか駅からだいぶ歩いたよな!? やべー! 間に合うかな!?」
「わ、わかんない……どうしよう……」
「とりあえず走るぞ! この時間ならウチの近くまでならなんとか行けるかも!」
「は、しる……」
「お兄さんが引っ張ってやるから! 急げナツキ!」
「む……むり……」
「家までたどり着けなきゃ絶対ジュンとプロデューサーに怒られるって! 頑張れ!」
「ハルナの、せい……だよ……!」
 春名に引きずられるように、夏来は先ほど来た道をがむしゃらに走った。梅雨が来たという割には夏のような暑い日が続いているせいで、深夜の東京もじんわりと気温が高い。どう見ても走るのに最適な気候ではなかった。暑くたって寒くたって、いつだって走るのが嫌なのにはわかりないのだけれど。
 ぜえはあとみっともなく呼吸を繰り返しながら、夏来は必死に春名について行く。こっちだっけ、たぶん、あのコンビニ見た気がする、うそ、さっき見たよ、なんて不安も不安でしょうがない会話を交わしながら、暗い夜の街をひたすらに駆けていた。先ほどまでのんびり浜辺を歩いていたのに、今は足がもつれそうになるくらい走っているので、夏来の心臓はびっくりしているだろう。どくどくと脈打つ音が、風を切る音に負けないくらい体に響いている。時折前から頑張れナツキ、という声が聞こえるけれど、うん、と呼吸の合間に頷くことしかできない。
 時間に追われているせいか、まるで夢だったかのようにあの瞬間が遠く感じた。何かから切り離されるみたいに春名に腕を引かれて、見渡せばいくらでも人はいたのに、急にふたりだけの世界になってしまったみたいでドキドキした。海に行こうと提案した春名が別の世界に行こう、と言ったみたいでわくわくした。世界も何も、たどり着いたのはほんの数十分歩いたところにあるただの海辺なのに。
 でも、夏来はそれでもいいと思った。春名が連れて行ってくれるのなら、夏来はどこへだってついて行こうと思える。それがたとえ電車を数回乗り継げば行ける隣町だろうが、地球の反対側だろうが、この空に散らばる星たちのなかのひとつだろうが、春名がこちらに手を差し伸べてくれるのなら、夏来は間を空けずにその手を取ることができるだろう。そう言えば春名は困ったように笑うのだろうから、言わないでいるけれど。夏来を引き止めたくせにその場から動かなかったのは、乗っちゃうならそれでもいいかな、なんて言ったのは、きっと春名のやさしさだ。春名はやさしいから、夏来がどちらを選んでもいいように選択肢を残しておいてくれた。どっちでもよかったというように、そう言うのだ。
 やさしくしてくれなくたっていいのに。いつだったか、ベッドの上で熱に喘ぎながら上に覆いかぶさる春名に言ったことがあったが、その時も春名は困ったように笑っていた。同じつくりをしているのにやたらと壊れ物のように扱うので、朦朧とした意識の中で口にした言葉だった。一瞬目を見開いて、それからふよふよと視線を漂わせて、ようやく夏来を見たかと思えばやさしくさせて、と返されたので、結局その夜はぐずぐずに甘やかされてしまったのだけれど。
 だから――というのも変な話ではあるのだけれど、もしも本当に春名と夏来のふたりだけの世界にたどり着いたとしたら、春名は何も気にせずに夏来といてくれるのだろうか、なんてことを考える。だってふたりしかいないのだから、次の日のことなんて考えなくてもいいし、ふたり以外の人間を意識する必要もない。別に、やさしくされるのが嫌なわけではないのだ。ただ、そうやって丁寧に扱わなくたって夏来は壊れたりしないし、どこかに行きやしない。それを春名にわかってほしかった。
 振り返ると建物の間からまだ海が覗いていた。随分と遠くなってはいるけれど。春名の話す声と、波が押し寄せる音と、砂を踏む足音だけが響くあの時間が、ひどく愛おしかったと今更夏来は記憶に浸った。ゴミ一つないきれいな砂浜にふたりの足跡を残してきたけれど、今頃もう波に消されてしまっているのだろうな、とぼうっと考える。油断したら欠伸がでてしまいそうで、口を閉じて噛み殺した。
 前からナツキー、と名前を呼ばれる。うん、と答えながら前を向くと、橙色の頭の向こうには先ほど訪れたはずの駅が見えてきた。もうあと数分走れば駅に着くだろう。――なんだ、思ったよりも海はすぐそこにあったじゃないか。
 遠ざかる海を見て終わってしまうな、と思った。誕生日という意味では日付もかわったばかりなのでそんなことはないのだけれど、夏来はただ終わってしまうな、と思った。まるで夢を夢だとわかっているときの夢のように、終わりが近づいているのがわかった。電車に乗ったら夢は覚めてしまうのだ、きっと。ふたりだけの世界はそうではなくなって、ふつうの、いつもの街のなかにふたりは紛れていく。時間が経って日が昇れば、朝がやってくる。気の早い太陽がじりじりと地球を焼き始める。夏来はそんな世界を、目を細めて見るのだ。
 今度は夏来が前を行く春名の手を引いたら、春名はなんて言うだろうか。何も言わずに立ち尽くしていたら、春名はまた海に連れて行ってくれるだろうか。今度は道を覚えたから迷わず行けるのにな、なんて思いながら、夏来は足を止めることなく春名に続いた。ハルナ、と小さく名前を口にすると、聞こえたらしい春名はおー、と答えてくれる。このほんの一瞬のやりとりで胸がいっぱいになるので、夏来はもう後ろを振り返らなかった。
 ただ、もう少しあの海に、ふたりの世界にいたかったな、と夏来は欲張りなことを心の中でぼやく。それこそどうしようもないわがままなのだけれど、このまま手を繋いでいれば春名はまたふたりの世界に連れて行ってくれるような気がするので、夏来は黙って春名について行く。漠然と、これから先、この手が離れることはないんじゃないかと、そう思うのだ。


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