夏を名乗るのにはまだ早いこの時期に、太陽は構うことなくじりじりと地球を焼いていた。窓から見える限りでは雲はひとつも浮かんでいなくて、地面にできる日陰が少ない。蝉の声が聞こえてきそうだな、と思うくらい、カレンダーを追い越して夏がやって来そうだった。少し前にこの地域も梅雨入りしたとニュースで見たような気がするのだが、少なくともここ数日は傘の出番がない。今日も折り畳み傘は家に置いてきている。雨が続くよりも晴れの日が多い方が当然いいのだが、こうも暑い日が続くと気が滅入ってしまう。抱えていた段ボールを一旦下ろして、夏来はこめかみを伝う汗を手の甲で拭った。今からこんな気温でいられたら、本当の夏が来る頃には溶けてなくなってしまいそうだ。
High×Jokerの面々は、クーラーの付かない部室で片づけに追われていた。通常、夏休み前に大掃除が全生徒に設けられるのだが、High×Jokerはその時期にちょうどユニットでの仕事が入っていて大掃除に参加できないため、時間があるときに部室だけでも掃除してくれ、と教師に言われたのだ。
そういうわけで、五人揃って時間のある今日――本来今日は休日なのだが、許可をもらって登校している――暑さにやられながら蒸し暑い部室を片しているのだった。今はじゃんけんで負けた隼人と春名がゴミ出しのため外に出ているので、現在部室にいるのは四季と旬、そして夏来の三人だけなのだが。
「あー! ハヤトっちたちにアイス買ってきてって頼めばよかったっす!」
ついに暑さに耐えられなくなった四季が、床でゴロゴロと転がりながら大声で叫んだ。近くにいた旬が鬱陶しそうにうるさいです、と言い捨てている。いくら掃除したとはいえ床は汚いだろうにと、夏来は四季が雑巾になる前に手を差し伸べて、起き上がらせた。
「電話、してみれば……?」
「う〜ん、したところで二人とも財布持ってないと思うんすよね」
失礼しまぁす、と隼人と春名の鞄を勝手にごそごそと漁っては、ああ〜、と四季は残念そうな声を出す。恐らく、どちらの鞄にも財布が入っていたのだろう。アイスアイスと駄々をこねる四季を見ていると、床に転がるまでではなくとも、夏来もアイスが食べたくなってくる。今はさっぱりとしたシャーベット系のアイスが食べたい気分だった。そういえば、と夏来は鞄に入っている財布の中身を思い出しては、軽く計算する。あまり多くはないけれど、アイス代ぐらいはあったはずだ。
「俺、買ってこようか……?」
「構うなよナツキ……。四季くんも。駄々捏ねてる暇があったら早く掃除を済ませる努力をしてください」
「うわ〜ん! ジュンっちの鬼! いいっすもん、掃除終わったらご褒美に買うっすから!」
ぶう、と拗ねた様子の四季は夏来を見るなりナツキっちありがと、と打って変わってまぶしいくらいの笑顔で礼を言うので 、夏来も返事の代わりに笑みを返した。別に、四季だけのために買いに行こうとしたわけではないのだけれど、確かに旬の言う通り片付けを済ませてしまったほうが賢いだろう。後でみんなで食べられたらいいな、と帰路でアイスを食べる面々をぼんやりと思い浮かべる。部室もだいぶ片付いてきたので、そろそろ終わりも見えてくる頃だ。
残りも早く片してしまおうと、先ほど置いた段ボールをもう一度抱えなおして、机の上に乗せた。旬がその中を覗いては、これはもういらないな、と呟く。見覚えのあるようなないような、そんなプリントの束と、埃の被ったがらくたがごちゃごちゃと箱の中で入り乱れていた。恐らく夏来たちの前の代の部員が残していったものだろう。ぱっと見どれも重要ではなさそうなものばかりなので、旬の言うように処分してしまって構わなさそうだ。一応あとで隼人と春名にも聞こう、と夏来はひとまずその段ボールをそっと閉じた。
「ねージュンっち、あれなんすかね?」
濡れた雑巾を片手に四季は棚の上に乗っかったままの箱を指して、旬に問うた。その箱も表面の色が褪せていて、ずいぶん触られていないことが見てわかる。旬も中身がわからないようで、棚に近づいて箱を見上げた。
「椅子に乗れば届くっすよ!」
「やめてください。仕事が控えてるこの時期に落ちて怪我でもしたらどうするんですか」
「ええ〜。ジュンっちってば、心配性っす」
「俺も……、届かない、かな……」
見上げる旬の隣に立って箱に向かって手を伸ばしてみるが、指先が掠める程度で箱を持ち出せそうにない。背伸びをしてうんうんと頑張ってみるけれど、四季と夏来はそう身長は変わらないので、四季が届かないのなら夏来も届くわけがなかった。
「恐らくあれもゴミ行きでしょうが……。春名さんたちが戻ってきたら頼んでみましょう」
「でもでも、大事なものが隠されてるかもしれないじゃないっすか! なんかこう、メガレアなお宝が入ってるかもしれないっすよ!?」
「たかが学校の部室に何を求めてるんですか」
「夢っすよ、夢! 希望! ロマン! そんで青春!」
馬鹿げた質問をしてしまった、と旬の顔が語っていて、その露骨さに夏来はくすりと小さく笑う。確かに、ちょっと宝探しじみたものは感じるかもしれない。色褪せたそれは少し指先で突くと動きはするけれど、中身に何が入っているのかまではわからなかった。
「ナツキっちナツキっち、こっちの箱はどうするんすか?」
いつのまにか先ほど夏来が抱えていた段ボールを見つめていた四季に名前を呼ばれて、視線を棚の上の箱から後ろにいる四季に移そうとする。その箱は、捨てる前に隼人たちに確認しようと思っていたものだ。――そう、四季にも伝えようとしたのだけれど。
突然、夏来の視界はぐらりと揺れた。蒸し暑い部屋にいるはずなのに凍えるような寒気が全身を襲い、ぶわりと冷や汗が吹き出たのがわかる。自分の足では立っていられなくて、たまらず近くにあった棚にしがみつくようにもたれた。覚えのある感覚に、貧血だと気付くのにはそう時間はかからなかった。すぐそこからナツキ、と旬の焦った声が降ってくる。
「ナツキっち!? 大丈夫っすか!?」
「四季くん、あまり大きい声は……」
「平気、だよ……ちょっと、くらっとした……だけ……」
ぐわんぐわんとかき混ぜられるような感覚に耐えながら、夏来は近くにいる旬と目を合わせるが、かえって旬の眉間にしわが寄ってしまった。大丈夫だと、気にしなくていいと伝えたかったのだけれど。夏来が暑さに弱いのなんて今に始まったことではないので、そんなに顔を青くしなくてもいいのに、と思う。少し休めば良くなるのだ。夏来だって慣れている。なんてことない、と言うと流石に嘘になるけれど。
だから本当に大丈夫だと、重ねて言おうと夏来が口を開いたが、音になる前に四季の一際大きい声に遮られた。
「あー! センパイたち、上……ッ!」
上、と言われて、旬と夏来はそろって上を見上げる。すると、先ほどの色褪せた箱が二人をめがけて落ちてくるところであった。あ、と旬のものか夏来のものかわからない声が聞こえたような気がした。夏来は考えるよりも先に咄嗟に旬を庇うようにして覆い被さる。ガン、と頭に鈍い衝撃と同時にぎゃあ、と四季の悲鳴が上がった。見上げると頭上には何もないので、落ちてきたのは先ほどの箱だけのようだ。
「……ジュン、大丈夫だった……?」
「大丈夫って、お前の方が――」
旬の顔を覗き込むようにして尋ねると、夏来を見た旬はより一層顔を青くした。旬の瞳が何を映しているのかがわからなくて、夏来は困惑する。まさか、今のでどこかを痛めてしまったのか。
「ナナ、ナツキっち、血! 血出てるっす!」
「ち…………?」
夏来を指差した四季は、あわあわと慌ただしく室内を走り出した。ち……、ともう一度呟いて、そういえばじんじんと痛むこめかみ辺りに触れると、手がわずかに赤に染まった。なるほど、確かに血が出ている。
「たっだいまー……って、なに? どうした?」
「うわ、ナツキ怪我してる!? なんで!?」
ゴミ捨てを終えたらしい隼人と春名は戻ってくるなり、血を流した夏来とそれを見て固まる旬、そして部屋を走り回る四季を見てそれぞれに驚いた。それはそうだろうな、と思いながら夏来は痛むそこを押さえる。傷は大して深くもないし滴るほどの血の量ではないけれど、せっかく掃除した部室を汚したくはなかった。
「オレが、オレが箱気になるって言ったから! ナツキっち怪我しちゃって……ッ!」
「待った待った、シキは落ち着けって、な? ナツキ、大丈夫か?」
「うん……。シキ、ちょっと切れただけ、だから……大丈夫、だよ」
ついにべそべそと泣き出してしまった四季に声をかけるけれど、夏来の言葉で涙が止まることはなかった。隼人があやすように四季の背中をさすりながら、夏来に視線を寄越す。平気だよ、とでも言うように笑った。隼人なりの気遣いだろう。
だいたい、四季が謝ることはひとつもないのだ。勝手にバランスを崩して棚に縋ったのは夏来であり、そのせいで箱が落ちてきたのならそれは自業自得だった。だから四季は、気にしなくていいのに。
「……ジュン? 大丈夫……?」
視線を感じて旬の方を向くけれど、旬は夏来を凝視したまま動かなかった。ジュン、と名前を呼びかけても反応がない。固まる理由を一生懸命脳内で駆け巡らせて、ひとつの答えを見つけては慌てて旬の肩を掴んだ。
「や、やっぱり、どこか怪我したんじゃ――」
「怪我してるのはお前だろ!」
一変して突然声を張った旬に、夏来は驚いてて思わず手を離した。隼人も春名も、泣いていた四季すらも旬に視線を集めて、しんとした室内の時間が止まる。ハ、とその空気に遅れて気付いた旬は何かを言おうと口を開閉させるけれど、それが音になることはなくそのまま俯いてしまった。
怒らせてしまった、と夏来は漠然と思った。何が旬の気に障ったのかはわからなかったけれど、明らかに旬の様子がおかしいのは夏来のせいだ。ごめん、と謝ろうと口を開くけれど、原因もわからないのに謝るのは更に怒らせてしまうのだろうと思うと、何も言えなかった。いつも言われているのだ。わかりもしないのに謝るなと。
「……ジュン、大丈夫だってさ。ナツキはとりあえず保健室行こうぜ」
数秒あった静寂を破ったのは春名だった。冷えた空間から切り離すように、夏来の腕が引かれる。いつもの調子の声を聞くと、強張った身体が自然とほぐれたような気がした。
「え……へ、平気、だよ……」
「いーから。ハヤト、頼んでいい?」
「わかった。ハルナもナツキお願い」
「りょーかい」
いこ、と春名に連れられて、夏来は引きずられるがままに部室を後にする。出る間際に振り返って旬の様子を伺ったけれど、ひとり冷たい空気に取り残されているかのように、俯いたままだった。
*
廊下は窓から吹き込む風が涼しくて、だんだんと汗が引いていくような気がした。いくら窓を開けていたとはいえ、部室は空気がこもってしまっていたようだ。
春名に知られないように深く、ゆっくりと呼吸を繰り返す。どうやら思っていたよりも動揺していたようで、心臓がまだどくどくと大きく脈打っているのがわかる。怪我の痛みというより、四季を泣かせてしまったことと、旬を怒らせてしまったことに対して。春名に繋がれたままの手を見つめながら、また後で謝らないと、と懸命に頭を働かせる。四季はともかく、旬への謝罪の言葉が浮かばないのだけれど。
「――お、あったあった」
突然声を上げたかと思えば、春名は振り向いてポケットから取り出したハンカチで夏来のこめかみを押さえた。驚いて目を瞬いていると、春名は弁解するように口を開く。
「今朝渡されたやつだからキレーだと思う。大丈夫」
「そ、じゃなくて……汚れちゃう、よ」
「いいって。ハンカチなんてそういうもんだよ」
ほらいこ、と再び手を引かれて、保健室へ続く廊下を歩く。押さえなければならないほどの傷ではないのだけれど、ハンカチを返すタイミングを逃してしまったので夏来はそのまま押さえていることしかできなかった。相変わらず手は繋がったままで、春名はどうして手を離さないんだろうな、とぼんやり思う。離したら夏来が逃げてしまうとでも思っているのだろうか。もうここまできたら戻るのも面倒だし、大人しくついて行くのに。
校内にいません、というカードが保健室の扉にかかっていて、そうだろうなと思ったところで春名も同じように呟いた。今日は休日なのだ。職員室まで行けば何人か教師は居るだろうが、それも面倒に思ったのか春名は気にせず扉を開ける。鍵はかかっていないようだ。
「消毒くらいしかできないけど、いい? センセー呼ぶ?」
ううん、と夏来は首を振る。見てもらうほどの傷ではないので、むしろ軽く消毒するくらいで十分だろう。消毒消毒、と口ずさみながらうろうろしている春名を見つめながら、近くの椅子に腰掛けた。他の教室に比べて広い保健室には春名と夏来の二人だけなので、さらに広く感じる。先ほどまで狭い部室にいたので、余計に。
「――で、そのケガどーしたの」
探していたものが見つかったのか、両手が塞がっている春名は振り向いて夏来に尋ねる。そういえば、隼人と春名は夏来が怪我をした経緯を知らないのだった。
「えっと、くらっと、して……たぶん、貧血…………それで、棚に掴まったら、箱が落ちて……」
「あー、なるほど……てか、貧血の方が大丈夫か? 寝る?」
「もう、だいぶ楽、だから……大丈夫……」
「言われてみれば顔色あんまよくないな……ごめん、気付かなくて無理に連れてきた」
「い、いいよ……ほんとに、大丈夫だから……」
春名まで申し訳なさそうに眉を垂らすので、夏来は慌てて首を振る。四季にしろ旬にしろ、みんなにそういう顔をさせたいわけではないのだ。なってしまったことは仕方がないし、夏来だって防げるのだったらそうしたいのだけれど、いかんせんそうもいかない。優しさゆえのことだとわかってはいるけれど、困ったような顔を見るたびに夏来の心臓がきゅう、と締め付けられるような気がして、苦しいな、と思う。
実際、春名に連れてこられなければ夏来は自分の足で保健室に向かうことはなかっただろうし、この傷だって放っておいただろう。今回に限った話ではないけれど、いつも感謝しているのだ。あまりうまく伝えられてはいないけれど。
「……ありがとう、ハルナ」
「え? いや、勝手に連れてきただけだし」
「それでも、ありがとう……。ハルナに言われなきゃ、何もしなかった……と、思うし……」
だから、と続けて念を押すようにもう一度ありがとうと告げると、傷を消毒しようと手を出したところだった春名は散々視線を泳がせた後、目をそらして小さくうん、と呟いた。
春名はやさしいひとだから、こうして人によくしてやることが当たり前になっているんだろう。夏来はそのひとつひとつを見つけて、ありがとうを伝えたいなと思っている。どんなに小さくても、すごくなんてなくても、春名にやさしくされると心があたたかくなる。ほっとする。――時々、無性に泣きたくなる。
夏来は、春名からたくさんのものをもらっていた。もらった分を同じだけ返せたらそれがいちばんなのだろうけれど、それが難しいことを夏来は知っている。春名がそれを特別望んでいないことも。だから代わりにありがとうと言うのだ。言葉にできないたくさんの気持ちを込めて。
「……消毒、染みるかも」
春名が背負っている夕日のせいか、わずかに耳が色付いていた。消毒液に浸されたコットンを手に、何でもないように春名が尋ねる。赤いね、とは言わず、代わりにいいよ、と夏来は短く頷いた。
「俺、結構好き……」
「えっ、痛いじゃん! 痛くないの?」
「痛い、けど……こう、じわじわって…………、きもちよく、ない……?」
「ええ〜、わかんない……痛いのは全部ヤダ!」
いてて、と消毒する側の春名が痛そうにするので、不思議と夏来は痛みを感じなかった。まるで、春名が夏来の分の痛いものを掬ってくれているみたいに。そんなことはあり得ないのだけれど。
消毒が済んで、絆創膏がいるか否かで少し言い合って――結局春名が折れて絆創膏はつけていない――、時間にすると十五分にも満たないくらいだったけれど、ずいぶん長い間春名と二人でいた気がする。あまり遅くなると心配させてしまうので、そろそろ戻らなければならなかった。そもそも、片付けだって済んでいないのだ。
「ナツキ、もう行けそう?」
夏来の気持ちを汲むように、やさしく春名は言った。春名と話してだいぶ落ち着いていたのだけれど、先ほどの部室の様子を思い出すと夏来の心臓がまた忙しなくなる。心配かけてごめん、もう大丈夫だと、そう告げればいいだけなのだけれど。
「…………う、ん」
「んー、じゃもう少しゆっくりしてくか」
「え、でも……」
「さっきゴミ出し行ったし! ハヤトには悪いけど、まあドーナツ奢りってことで」
「俺、なにもしてない、よ……」
「ナツキは病人だからいーの。さっきよりはマシだけど、まだくちびる白いしさ」
だからちょっとサボろ、と春名は笑った。迷惑をかけているな、という自覚はあるのだけれど、今すぐ立ち上がれる気もしなかった。わかっているのに、肯定も否定もせずただそこにいるだけで甘えてしまうのだから敵わない。やさしい春名にも、そのやさしさに浸る夏来自身にも。
「…………ごめん、ね」
「こら、謝るなって。オレがナツキを付き合わせてんの。ナツキはなんも悪くないよ」
またごめん、と口に出そうとすると、春名は夏来の口を手で覆った。もう言わせない、と春名の目が言っている。しばらく見つめ合っていたけれど、きっと夏来がうなずくまでこうしているのだろうから、諦めてこくりと首肯した。それを見た春名はよし、と満足げに笑う。そんな春名を見てしまえば、勝てないな、心の中で呟くことしかできなかった。
「ジュンも心配してたんだよ。シキと同じでさ。怒ってるわけじゃないって」
「…………そう、かな……」
「ナツキは怒ってるって思う?」
「……わかん、ない…………」
わからないのだ、情けないことに。春名はあの様子の旬を見て怒ってはいないと判断しているらしいけれど、夏来はあの瞬間も今も、怒らせてしまったと思っている。メンバー内では四季、隼人に次いで旬も感情的な面があるので、春名からしたら少し大きな声を出しただけ、ということのなのかもしれないけれど、旬が夏来に対して声を荒らげることなんて滅多にないので、夏来は余計に考えてしまうのだ。
「わかんない、けど……、怒ってても、そうじゃなくても……俺が、悪い……から……」
「謝る?」
「う、んと…………」
一点して譲らないくせに解決策もなにもないので、夏来は吃って項垂れる他ない。地面とにらめっこをしたって、なにも浮かんではこないのだけれど。それでも、こんなどうしようもない夏来を黙って待っていてくれるのだ、春名は。
「わかんなかったら、わかんないこと全部ジュンに聞いてみようぜ。それからどうするか考えよ。な? オレも一緒にいるからさ」
「…………うん」
「おっし、じゃあそろそろ行くか! 聞く前にサボったのバレて怒られたくないしな」
夏来の頭をやさしく撫でてから、立ち上がった春名は当然のように夏来に手を差し伸べて、共に部室に向かおうとする。縋るように、夏来はその手を取って立ち上がった。
夏来ひとりじゃ辿り着けないような答えを、春名はいとも簡単に連れてくる。春名が言うと本当にそんなような気がして、本当にできそうな気がしてくるのが不思議だった。
そうだ。聞いてみればいいのだ。まずは心配かけたことを謝って、怪我も大丈夫だと伝えて、それから聞いてみよう。春名に頼るのは申し訳ないし、もとはといえば関係もないのだけれど、いてくれるだけで心が落ち着くのは確かだった。それだけで、ない勇気も湧いて出てくるような気がした。
「帰り、ハヤトの分買うついでにみんなのドーナツも買ってこうかなー。ナツキなにがいい?」
「俺は、なんでも……。あ、シキが、アイス食べたいって……」
「あー! アイスもいいな! うわー、どうしよう、どっちも買う?」
「おなか、壊すよ……」
いつのまにか心臓は痛くもなんともなくて、くらくらと視界が歪むこともなく、夏来はまっすぐ立っていられる。窓の外の夕日は頭のてっぺんが見えなくなってしまうところだった。じきに外も学校内も暗くなっていくだろう。
行きと同じように、春名に連れられるようにして来た道を引き返す。電気の点いていない廊下は既に薄ぼんやりとしていて、近くに春名がいるはずなのに顔がよく見えなかった。見なければならない理由は特にないのにどうしてだか見えないことが不安で、夏来は置いていかれないように春名について歩いた。
部室の前に着くと、春名は一度足を止めるので、夏来も春名の少し後ろで立ち止まった。中からは四季と隼人の声が聞こえてくる。片づけは終わったのだろうか。春名はああ言っていたがもう動けるだろうから、何かできることがあれば手伝いたいのだけれど。
「いい? ナツキ」
「…………うん」
一呼吸おいて、春名が扉を開ける。中にいた四季と真っ先に目が合って、ナツキっち、と名前を呼ばれたかと思えば飛びつくように抱きつかれた。その勢いのまま倒れそうになるけれど、春名に支えてもらってなんとか耐える。よかったあ、と奥から隼人が安堵した様子でやってきた。もう大丈夫だよ、痛くないよ、と抱きついた手を離さない四季を宥めるように伝えて、顔を上げる。部室の中を見回してから、今度は春名と目が合った。
「ハヤト、ジュンは?」
夏来の代わりに春名が隼人に尋ねる。確かに扉を開ける前、聞こえてきたのは四季と隼人の二人の声だけで、旬の声は聞こえなかった。みんなで隅に寄せておいた荷物も、ひとつだけ足りない。
「えっと、ジュンは……」
「ナツキっちたちが出てったあと、すぐに帰っちゃったっす」
「シ、シキ……!」
「だって、隠してもしょうがないじゃないっすか!」
「そ、それはそうだけど……」
痛くなくなったはずの心臓が、また軋む音がした。やっぱり、怒っていたのだ。他の誰でもない夏来に、きっと旬は苛立っていた。夏来と話をする前に、逃げるように帰ってしまった。
ナツキ、と春名に名前を呼ばれているのがずいぶん遠くに聞こえる。どうしよう、どうしようと、脳みそが空回りしているのがわかる。ここにいる誰に聞いたって答えは出なくて、夏来自身にもわからなくて、旬に聞かなければなにもわからないし解決だってしないのに、その旬がここにはいなくて。旬が帰ってしまった理由すらもわからないのだ。
そのあと結局部室は片付いたのか、アイスは、ドーナツは買ったのか、そんなことが曖昧のまま夏来はひとり電車に揺られていた。本当なら隣に旬が座っているはずなのに、ひとり端の席に座ってぼんやりと窓の外を眺めている。夕日はとっくに沈んでいて、月明かりがうっすらと街を照らしているけれど、電車の中が明るくてよくわからない。
四季に、隼人に、春名に声をかけられて、夏来がいつどんな風に返したのか思い出せない。何かしら答えられていたならいいけれど、無視してしまっていたら申し訳ない。あとで聞いて、謝ろう。明日は日曜日で練習もないから、月曜日に集まる時に、また改めて謝ろう。それから、旬にも。――そのあとのことは、今は考えられる気がしなかった。