おーっす、と我ながらずいぶん間延びした声だと思いつつ、ガラリと扉を開けた。パレットの上に絵の具をぶちまけたような、そんな鮮やかな橙が室内を彩っていて、入り口に立つ春名をも染める。すでに揃っている四人もとっくに橙色だった。お疲れ、と口々に言われて少し後ろめたくなったけれど、何も言わずにおう、と短く答える。一応、良い悪いの区別はつくのだけれど、それとこれとは残念なことにイコールではなかった。
 見ればわかる通り、春名が部室に向かおうとした頃にはもうとっくに授業は終わっていた。上からグラウンドを覗けばジャージ姿の生徒がボールを追いかけたり連なって周辺を走り回っていたりして、こんなはずではなかった春名はありゃ、と誰もいない屋上でひとり声をこぼした。
 今日は朝から取材や撮影などソロの仕事が詰まっていたため学校を公欠したのだが、予定よりも早く終わったのでスタッフが「学校行っても大丈夫ですよ」と気を遣ってわざわざ学校まで送ってくれたのだ。その時点で時間は昼過ぎであったが、まあかといってこれから授業に参加する気にはなれなかったので、送ってくれたスタッフに礼を言ってそのまま屋上に直行したわけなのだが。――まさかちょっと昼寝していこうと思っていたらいつの間にか日が暮れていました、なんて、自ら首を絞めるようなことは言えるはずもなかった。幸いにも、普段は目敏い旬ですら「そのまま直帰でも構わなかったんですよ」なんて言うのだから、かえって笑ってしまう。小さな嘘をついて何でもないような顔をしている春名が座ったのを見て、四季がところで、と話を再開した。どうやら、春名が遅れてやってきたのはもう済んだことらしい。ありがたい限りだ。
 安心したところで、鞄の中に入れてきたドーナツの紙袋を取り出して、ひとつくわえる。新商品らしいそれは、ここ最近同じような味ばかり与えられてきた口内が新鮮さを覚えるようで、満たされる思いだった。食べ慣れた定番もいいけれど、やはりたまには刺激がほしいものだ。
 盛り上がる四季と隼人を横目にいつものごとくドーナツを堪能していると、ちょん、とかわいらしいSEが聞こえてきそうな触り方で、春名の袖が引っ張られた。隣に座る夏来だった。ドーナツいる?の意でん、と尋ねると、じっと春名を見つめていた夏来はふるふると首を振る。西日に照らされた銀色の髪がきらきらと目映くて、夏来はそれすらもまぶしそうに顔をしかめるけれど、春名を見ると小さく、本当に小さく笑った。きっと、夏来の正面に座る旬も分からなかったくらいに。
「ん? いらねえの?」
「……ハルナ、屋上で寝てた……でしょ」
「んぐっ」
 ドンドンドン、と食道の途中で止まりそうなドーナツを振動で落として、飲み込んだ。斜め前で旬がノートから視線を寄越して呆れたような目で一瞬訴える。うるさい、と。ごめん、とジェスチャーで謝罪するけれど、その頃には旬の視線はまたノートに向かっていた。
 ふふ、と今度は聞こえるくらいに笑った夏来は、飲みかけのお茶が入ったペットボトルを手渡してきた。夏来のだろうな、と思いつつ、遠慮なく一口いただく。夏来はいつになく楽しそうだ。
「えっなになに、ハルナどうかした?」
「いやっ!? ちょっとむせただけだって!」
「死因がドーナツって嫌すぎるっす……あ、でもハルナっちだったら本望?」
「こら、勝手に殺すんじゃありません」
 死ぬなよー、と隼人に半ば適当に言葉を投げられて、年寄りじゃあるまいし、と何故か旬が答える。直前の会話は聞こえていなかったのか、誰も屋上で数時間過ごした春名に問い詰めるようなことはなかった。いつもの光景だと言わんばかりに、四季と隼人は話に戻り、旬はノートとにらめっこしている。――というか、この時間はいったいなんだ。
「……正解?」
 覗き込むように尋ねる夏来は、やっぱりどこか楽しそうで、どことなくいじわるだ。ありがと、とペットボトルを返して、誰にも聞こえないように夏来の耳元でつぶやいた。
「なんでわかったの……」
「……におい、」
「えっ、なんか臭う? 汗臭い?」
「あ、ちがくて……お日さまのにおい、するなって……」
「お日さま?」
 すん、と試しに自分の体を匂ってみるけれど、いまいちよく分からない。そお?と問うと、夏来も寄ってきて一緒になってすんすんと鼻を鳴らす。少し遅れてうん、する、と短く答えて、もう一度すん、と嗅いだ。そうかなあ、とぼやきながら、太陽に照らされた自分より西日に当てられる夏来の方が、よっぽどいい匂いがするけどな、と思う。シャンプーなのか洗剤なのか、それとも夏来自身の匂いなのかわからないけれど、ふんわりとしたやわらかな匂いが春名の鼻をくすぐっている。
「そこ、何やってるんですか」
 まるで虫けらでも見るような目で旬は自分の匂いを嗅ぐ春名と、その春名に身を寄せている夏来を見ていた。その声に四季と隼人も顔を上げるけれど、四季なんかはうわ、と明らかに何かに引いた声を出している。
「いや、ナツキがお日さまの匂いするって言うからさ」
「お日さま?」
 春名と同じように声を上げる旬を見て、やっぱりそういう反応するよな、と返そうとした。けれどそれよりも先にあ、と何かを思い出したかのように春名の口から声が漏れる。ただでさえ小さい脳みそが更にギュッと縮まったような気がした。せっかく屋上でサボっていたことを誤魔化せていたのに、自ら首を絞めるようなことはしないのではなかったか。
「ハルナ、駅から歩いてきたって……だから、かな……?」
「え?」
「あ、そういうことか。今日あったかいもんなー」
「ぽかぽか、だね……」
 ね、と念を押すように、夏来が春名を見る。口を滑らせた春名に助け舟を出してくれた夏来の目が、散々陽の光を浴びながら眠ったおかげでぽかぽかだね、と言っている。その通りです、と全てを肯定するようにうんうんと首を振った。あったかいっていうより暑いくらいっすけど、と四季が怠そうにつぶやいている。
「……なんでもいいですけど、外では考えてくださいね」
「へ? なにを?」
「別に、気にしないでください。……四季くん、終わりましたよ。本当に予習したんですか?」
「えーっ!? バッチリしたっすよ……ってうわ、バツばっかり! なんで!?」
「公式を頭に叩き込むところから始めてください。話にならない」
「ヒィッ! 助けてハヤトっち〜!」
「え、ええ……俺去年の数学とか覚えてないよ……」
 それじゃあ練習始めますか、とカラーペンを細いケースに入れて、旬は立ち上がった。なるほど。どうやら春名が来るまでの間四季の勉強を見ていたらしい。当の本人は隼人と何やら漫画を囲んで盛り上がっていたようだが。その直し、宿題ですからね、とビシッと言われ、はうわ〜、と四季はよくわからない声を上げて項垂れた。完全に家庭教師だな、とぼんやりその流れを眺めるが、油断しているとこっちにも火の粉が飛んできそうなのでそっと目を離す。離した先には、夏来がいた。逃げ道を見つけたかのように、じりじりと夏来との距離を詰める。
「……ハルナ?」
「いやー、その……あ、そうだ。ナツキくんにはこの新商品のドーナツをあげよう」
「いいの……?」
「うん。口止め料。もう一個はみんなで選んでな」
 夏来はしばらくきょとんとして、それからあ、と思い出したように口を開ける。別に夏来は旬たちに言いふらしたりはしないだろうけど、なんとなくあげたくなったのでそれらしい理由を付けたまでだ。べつにいいのに、と言おうとしたらしいその口に、ドーナツを押し込む。むぐ、と声を上げて、けれど嫌がる素振りもなく夏来は与えられるがままにもごもごと口を動かしている。細身なくせに案外結構食べるほうなのは知っているし、その食べるスピードもなかなかにはやいのも目の前で何度も見ているのだが、いったいその体のどこに食べ物が消えていくのかと未だに不思議でたまらない。
 ぼんやりドーナツを食べる夏来を眺めていると、いつのまにかほとんど食べてしまっていたようで、春名の指まで食べられてしまう前に慌てて手を離した。さっさと平らげた夏来はごちそうさま、と満足げに笑う。
「そこも、ふざけてないで始めますよ。明日からはまた全員集まるのは難しいんですから」
 そういえばそうだった、と春名は自分のスケジュールを思い出した。今日は久しぶりに五人揃って練習ができる日なのだ。明日からはまた数人抜けた形で集まることになるだろう。
 よっしゃ、と元気よく立ち上がり、未だに項垂れている四季を元気付けて練習を開始する。窓の外はすでに真っ赤に染まりきっていて、夕日が地球に落っこちてしまいそうだった。



***



 ふう、と一息ついて、額にじんわりと滲む汗を拭う。目の前に立つ夏来は涼しい顔をしているけれど、やはり春名と同じように汗を拭っていた。あちーな、と零すと、夏来はそれに答えるようにひとつこくりと頷いた。
 あれから一通り今日の分の練習を終えたあと、春名は気になる箇所がいくつかあったので夏来に自主練を付き合ってもらっていた。そのついでにダンスで不安な場所があるという夏来を見ていたのだが、気付けば赤く色付いていたはずの教室は薄暗くなっていて、向こう側に立つ夏来が闇のせいで少し遠く見える。きらきらと眩しかった夏来の髪が嘘だったかのように、黒に塗れてしまいそうだ。ほんの数歩という距離のはずなのにそれを遠いな、とぼんやり考えて、春名は立ち上がり夏来の隣に座る。これだけ動いた後なのに、近くに寄るだけで夏来のやさしい匂いがふんわりと春名を包んだ。
「ごめんなー。長引いちまったな」
「ううん……俺が、見てほしいって言った、から……」
「いいっていいって。オレもあそこ気になってたからさ。どう? なんとなくわかった?」
「うん……すごく、わかりやすかった、よ……。ありがとう、ハルナ」
「どーいたしまして!」
 それじゃあ帰るかあ、と体をうんと伸ばしてから散らばったタオルやスマホを回収にかかる。今日は久しぶりにバイトがオフなので春名自身は特別急ぐ理由はないのだけれど、部室の鍵を返しに職員室に寄らなければならないのでなるべく早く済ませた方がいいだろう。
 あらかた片付け終わったので窓の戸締りをしようとしたのだが、不意に視界に入った一冊の漫画が春名の視線を離さなかった。――これは確か、隼人と四季が盛り上がっていたあの漫画ではなかったか。勝手にバトルものの少年漫画か何かだと思っていたのだが、それにしては表紙もタイトルもずいぶんと可愛らしいもので、それが少女漫画であると理解するにやや時間がかかった。パラパラとページをめくるけれど、やはり春名の思うバトルシーンはなさそうだった。
「なあこれ、誰の?」
「あ、それ……ハヤト、かな……。サキにオススメされて、借りたんだって……」
 忘れちゃったんだね、と言いながら夏来も漫画を覗き込む。夏来も少女漫画は読まなさそうだな、と思いながら、なんとなく適当にページをめくってふたり一緒に眺めていた。
「ここ……ハヤトが好きなシーンなんだって、言ってた……」
「へえ?」
 白くて細い指が一つのコマを指す。学校一美人な生徒会長にキスを迫られた平凡そうな主人公が、顔を真っ赤にして動揺しているシーンだ。隼人が好きな理由がなんとなくわかって、ははあ、と思わず声を漏らした。夏来はよくわからないような顔でそのコマを見つめている。
「ナツキはどっちかって言うとこっちの生徒会長側だもんなー」
「……? 俺、男だよ……?」
「そーだけど! でも、ナツキが相手ならオレも緊張しそうだし」
 一体なんの話だ。言葉にしてから首を傾げる夏来と一緒に疑問符を浮かべるところだった。一生懸命春名の言葉を理解しようとしている夏来に忘れて、と告げるけれど、相変わらずよくわかっていないようである。わからないのならわからないままでいいのだけれど。
 夏来がこの漫画をわからないのは、きっと主人公に感情移入できないからなのだと思う。自覚はないだろうしもしかしたら気付いてすらいないのかもしれないけれど、High×Jokerの榊夏来としてはもちろん、学校内でも圧倒的に人気があるのだ、夏来は。それこそこの生徒会長のように『高嶺の花』なんて言われたりして。クラスの女子の会話を盗み聞くにファンクラブなるものがあるんだとか。夏来はよく人に避けられる、なんてしょんぼりして言うけれど、避けているのではなくて近寄れないのだろうな、と思う。
 実際、まだHigh×Jokerとして活動を始める前、春名が留年回避のため軽音部に再び足を運ぶようになったころ、夏来との距離はあいまいだった。近寄りがたい、というより、近寄ってはいけない。あのきれいなものを自分の手で穢してしまうのが怖い――そいういう感情が、春名の中にはあった。それは確かだ。今はそれほど気にすることはないのだけれど。だから夏来を相手にすると、春名は生徒会長を前に動揺を隠せないこの主人公の気持ちがわかるような気がするのだ。
「…………、緊張、する……?」
「へっ……」
 夏来の声が聞こえて顔を上げるけれど、そのきれいな顔がすぐそこにあって、春名は思わず固まった。夏来の吐いた息をそのまま春名が吸ってしまえるくらい、ふたりの距離は近い。
「ナ、ナツキさん……?」
「ハルナが……緊張するって、言うから……」
「どっちかっていうとびっくりしてるけど……」
 そう言うけれど、離れるでもなくふたりはじっとお互いを見つめ合った。夏来はよく観察するように人を見ているので、夏来の視線を感じること自体は普段からある。それこそ初めのころは何だか見定められているような気がしてムズムズしたのだけれど、今となってはすっかり慣れたものだった。
 タイミングを逃がした気がして、春名は夏来から視線を逸らせないでいた。どうしてか離れるどころか吸い寄せられるようにお互いの距離が縮まって、夏来の空のような瞳がすぐそこにある。目を瞬いた瞬間にやわらかい何かが、唇に触れるのを感じた。触れて、すぐ離れてしまったけれど。
「…………できた、ね……?」
「……できたな?」
「緊張、した……?」
「え、いや、うんと……」
 緊張した、と言われても、気づいたら近くに夏来の顔があって、気づいたら唇が触れて、離れたのだ。まさか夏来とキスするなんて思いもしなかったので、心境がどうこうと考えている暇などなかった――そのようなことを言ったのは確かに春名ではあったが――。どう感じたなんて思い出そうとしても、なんだか心がふわふわして、よくわからなかった。
「…………忘れたから、」
「……うん」
「も、もう一回……」
 考えるよりも先に春名の口からぽろりと出てきた言葉はなんだかみっともなくて、格好つくようなものではなかった。けれどうんうんと頭を悩ませるより、もう一度して確かめたほうが明らかにはやい。少女漫画の主人公が散々悩んでいるキスを、こんな簡単に繰り返してしまっていいのかどうかはわからないけれど。だいたい春名も夏来も同性で、あの話とは根本的な違いがある。春名だって普通に女の子が好きだし、そういうこともいつか女の子とするものだと思っていた。今、そういうことをしているのが、目の前にいる夏来なのだが。
 もう一度同じようにお互いの顔を近づけて、見つめ合う。夏来の長い睫が色白い頬に影が落とすのがわかるくらい、その距離はゼロに等しかった。夏来の呼吸を感じながら、同じ速度で息を吸って、吐く。影が落ち切ったのを見送って、その呼吸を重ねた。今度は先ほどよりも少しだけ長く。
「……した?」
「緊張ってより、ドキドキ? って感じはするかな……。ナツキは?」
「…………、目、つむった……」
「……俺の顔見たらナツキ、緊張する?」
 しばらく考えてから、じゃあもう一回、と今度は夏来のほうから目を開けたまま近づいてくる。これでもう何度目だ、と春名はくすりと笑って、その薄い唇に触れた。触れて、離れて、それから見つめ合って、もう一度。やわらかいそれの感触を確かめるように、啄んで、口に含んだ。食べてしまうみたいだな、と考えながら、唇を重ねながら夏来を見つめる。まだお日様の匂いするね、と呟いた夏来と目が合って、しばらく見つめたのちにふたりして笑った。何がおかしくて笑ったのかはわからないけれど、帰る身支度をしていたのにいつのまにか漫画を手に取って、ふたりしてそれを眺めて、そのあとはどうしてかキスをして、もう一度、と何度もねだって。遡ればすべてがおかしいような気がして、春名は考えるのをやめた。
 高嶺の花だと崇めるように、信仰するように人は夏来と距離を置いているけれど、今の春名はきっと誰よりも夏来に近い。夏来はカミサマでも何でもなくて、春名と同じ人間なのだということをいちばんこの身で感じていた。
 一緒に眺めていたはずの漫画はいつのまにか机の上に追いやられていて、夏来が指したコマの続きがわからないままだった。あの後主人公は生徒会長とキスをするのだろうか。耐えられなくて逃げてしまうのだろうか。どのみち、これじゃあ主人公の気持ちはわかんないや、と春名は動揺した青年の様子を思い出しながら夏来の唇を奪うように口付けた。この狭い部室に取るようなひとなんて、誰もいやしないのに。それでもこれは春名のものだと世界に知らせているかのようにナツキ、と上擦った声で夏来の名前をなぞる。応えるように春名を呼ぶやさしい声を誰にも聞かせたくなくて、大事にしまい込むように夏来を抱き寄せた。――ふたりを見ているのなんて、せいぜい空に浮かぶ月くらいだというのに、おかしな話だ。



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