※婿が決まったことを一番に旦那に告げる木々と、駄々をこねるミツヒデの話





 時が止まった、とはこういうことを言うのだなと、ミツヒデは氷だけになったグラスを揺らしながらぼんやりとそう考えた。だって現に周囲の音は一切遮断されていて、隣にいる木々が何を言っているのかよくわからない。わかりたくない、の間違いかもしれないけれど。
 木々はそんなミツヒデをお構いなしに、大事そうな話をつらつらと並べている。その表情は凛々しくもかなり無に近くあった。いつもこんな顔だろうと言われればそんなような気もするけれど、木々もまた他人事のようにそれを語るのだ。人間が産まれてから死ぬまでの中で大きな事柄のうちのひとつであろうそれを、木々は淡々と、いつもの業務連絡のようにミツヒデに告げている。
 最近また短くなった髪の毛は、木々のわずかな動きに合わせて揺れていた。太陽の下になんかいなくたって、仄かに照らす人工的な光でもその髪はきらきらして眩しい。伸ばそうか、なんて言ったのはいつだったか。それに少し浮かれたのは、誰だったか。
「聞いてる? ミツヒデ」
 ようやく聞こえてきたのは不機嫌そうな木々の声で、目が合うとじろりと睨まれる。
「……あまり」
 木々もミツヒデも酒が入っているからか、声に感情があまりにも素直に乗っていた。珍しく木々がボトルを持って部屋に来るものだから、なんだか楽しくなってペースが早くなっていた自覚はあるのだけれど、それにしたってミツヒデの声は不貞腐れた子供のようにひどかった。
「眠いなら寝たら。今聞かなくても、そのうち嫌でも聞かされるだろうし」
「眠くない」
 ビリ、と空気が、もっと言うと、木々を纏うオーラが震えた気がした。面倒臭い酔っ払いだと呆れているのか、それともただ単に話を聞いていないことに苛ついているのかはわからないが、今のは確かにないな、と自分でも思う。いい歳した大人が出す声ではない。
 何か言おうとしばらくミツヒデをじっと睨んでいたけれど、諦めたのかグラスに入った酒を一気に呷った。あ、と声が出る前に、木々はグラスを置いて立ち上がり、それじゃあと口にした。帰るのだ。今のミツヒデでは話にならないと見切りをつけて、面倒臭いのがもっと面倒臭くなる前に、帰ってしまおうとしているのだ。
「それ、飲んじゃっていいから」
 オビでも誘って飲めば、と振り向きざまの目がそう言っている。確かにボトルを見ただけで喜びそうなくらい、これはいい酒だ。
「それじゃあね」
 もう一度、重ねて木々は別れの言葉を放った。なんの重みもない、すぐにまた会うことを前提とした言葉だ。実際、寝て起きたらすぐに顔を合わすのだから、何も間違いではないのだけれど。
 にこりともしない横顔がカーテンのような髪の毛に隠れて、そのまま木々は背を向けた。髪が長ければ、髪を結っていれば、後ろを向いても耳がわずかに覗いていたのに、今はそれすらもわからない。どうして木々は、髪を切ったのだろう。
「……木々は、そいつのなんだ」
 扉に手をかけかけた木々は、ミツヒデの声を聞いて動きを止めた。今度は木々の時間が止まる番だった。
「いや、違うな……。そいつは、木々のなんだ?」
 そのまま帰ってしまえばいいのに、ただの酔っ払いの戯言だと扉を開けてしまえばいいのに、律儀に木々はその場に立ち止まっている。どちらかというと立ち尽くしている、と言うほうが、合っているかもしれない。
「なんて答えれば、あんたは満足するの」
 ミツヒデは、ゆるゆると首を横に振った。だってもう答えはとっくに出ていて、ミツヒデは聞こえないフリをしているだけで、知りたくないだけなのだ。木々が何を言ったって、ミツヒデが満たされることはない。きっと木々も、わかっているだろうに。
「髪、伸ばすって言った」
「……いつの話」
「それだと顔がよく見えない」
 扉と向かい合っている木々の顔を見ようだなんて無理な話であるのに、髪を切った木々が悪いとでも言うように責めた。アルコールに漬かった脳みそは何もかもを棚に上げて、木々に押し付けて、ミツヒデは被害者ぶる。
「背中を合わせるのに、顔色を見る必要はないでしょ」
 それが長年培ってきた信頼から生まれた言葉であるのはわかるのに、ミツヒデは泣きそうな顔で木々を見つめた。
 それでは、ミツヒデは木々と目が合わないのだ。背中越しではどうしたって、ミツヒデよりいくらか小さい背中を感じることしかできなくて、ミツヒデも木々も目の前を見ることしかできなくて、振り向くことすらままならない。全ては命よりも大事なこの国の王子を守るためで、そのためにミツヒデはここにいる。木々の隣にいる。
 今でも芯にあるものは変わらずそこにあるし、これからも揺らぐことはない。あの日木々に告げた言葉だって、何ひとつ変わらないと断言できる。この身は殿下を守る為にあり、生涯をかけると誓ったのだ。
 その近くにいるのが木々だ。これまでも、きっとこれからも、側に居続けるのが木々だった。
「……それじゃあ聞くけど」
 カツ、と音を立てて、木々が戻ってきた。間抜けた顔をしている自覚は充分あったけれど、どうしてか視線が縫い付けられて目を逸らすことができない。間抜け面のまま、近づく木々を見つめるしかなかった。
「あんたは、私のなんなの」
 目の前まできた木々は、何でもないような顔をしてミツヒデと同じようなことを投げかけた。ソファに腰掛けているミツヒデを見下ろすように、木々は静かに答えを待っている。睫毛の影が頬に落ちるさまを見送ることができるくらい『顔色を伺う』ことはできるけれど、やはりその表情は無に近い。
 相棒だ、と口にすることは、できなかった。相棒であることも、無二の騎士であることも、ミツヒデを語る上で欠かせない存在であることも、どれも間違いなく確かだけれど、ミツヒデの中にある何かがそれを言わせなかった。厳重な箱にしまわれて、鍵をどこかに忘れてしまったみたいに、それは取り出すことができない。ただ相棒だと、これまでの年月や信頼をたった一言で表現してしまうのはもったいないと思った。
 もったいない、というより、足りないのかもしれない。足りないけれど、それに見合う器がわからない。上手い言葉が、浮かばない。
「……私は何と答えようとそれを疑おうともしないけど」
 ぎし、とわずかにソファが軋んで、ミツヒデの隣に木々は座った。けれど隣というにはお互いの間には距離があって、ほんの数センチの空間が遠い。ただ、と続けて、木々は静かに口にした。
「やっぱり、あんたを見てると察しが悪いなとは思うよ」
 弾かれるようにして木々の方を向くけれど、長い睫毛が影を落としきったころで、目が合うことはなかった。
 そもそもの選択肢がもとよりなかったのだ。すぐそこにまで迫っているこれからの未来のために、そういうように昔から育てられてきた木々よりもずっと視野が狭くて、ひとつの道しか見えなくて、その先にあるものが全てだと信じていた。今だってそうだ。戻ることも、道を逸れることもないだろう。
 いつか別の道を歩む時がくるということは、随分前からわかっていたことだ。ただその時が訪れたというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。ミツヒデは、事実を飲み込む他なかった。
「……木々に対する思いは、あれから変わることはないが」
 けれどどうしたって、その事実をこれっぽっちも想像することができないのだ。
「それでも木々の顔が見たいと願うのは、間違いなんだろうか」
 ゆっくりと閉ざされたまぶたが持ち上がって、瞳はミツヒデを映した。今木々の世界には、きっとミツヒデしかいないのだろう。ミツヒデも同じように、瞳いっぱいに木々が映っている。木々に合わせて揺れる髪は相変わらずきらきらしていて、眩しさのあまり顔をしかめた。
「そういうところがミツヒデなんだろうね」
「え、どういう意味だ」
「そのままの意味だけど」
 ふ、と、困惑するミツヒデを見て小さく笑った木々は、やっぱり飲むと半分ほど残っているボトルを手にして自分のグラスに注いだ。
「……あまり飲むと明日に響くぞ」
「お互いさま」
 ほら、とミツヒデのグラスを出すように言われて、しばらく渋るけれど、結局ミツヒデはそれに従った。溶けかけた氷と氷がからんと音を立ててぶつかって、抗うことなく酒に浮かぶ。
「ああ、もしかして身を案じてる?」
「き、木々……」
「冗談」
 小さく笑いながら酒を飲む木々はずいぶん酒に酔っていた。白い肌に水で薄めた色を乗せたような、ほんのりと赤い木々の頬を見て、自分の顔もまた熱を持っていることに気が付く。木々がここまで酔うのも珍しいけれど、ミツヒデもそれは同じことだった。
「……他所でも言うのか」
「なにが」
「そういうことを」
「さあ、どうだろう」
 以前にもこういうやりとりがあって、勘弁してほしいと木々に何度か告げているはずのだけれど、今の木々ミツヒデの反応を伺っては面白がっている。酒を呷る前とは明らかに様子が違うので酔っているのだろうとは思うけれど、ここまで酔いがあからさまに出るのはずいぶん珍しい。
「俺は……男だぞ、木々」
「知ってるけど」
「酒も飲んでる」
「そうだね」
「酔ってるんだ。俺も、お前も」
 だから、と木々の目が問う。ミツヒデの心の中まで見透かされてしまっているのではと思うほど、その瞳に吸い込まれそうであった。
「俺よりも木々の方が……必要だろう」
「それ、三度振った相手に言う言葉なの」
「さ、三度……?」
「今さっき振ったでしょ」
「……あ、れは……その……」
 はあ、と溜息を吐く木々は、今度こそ明らかに呆れていた。すまん、とつい謝りそうになるけれど、それはそれで違うような気がして、しばらく考えたあと口を噤んだ。あんたが狼狽えてどうするの、と視線だけ寄越して木々は言う。以前も、木々の方が強くあったなとぼんやり思い出しては、はは、と力なく笑った。
「ミツヒデには無理だよ」
 少し時間を置いて、言い切るように木々は告げた。グラスの中で揺れている酒を見つめながら、誰よりもミツヒデのことを知っているように。ミツヒデ本人すらもわからないことを、木々は知っているように言った。
「……どうして」
「あんたはそういう性分でしょ。そういう線引き は理解してるし、きっと越えない」
 そうだろうな、と思う。実際、口にしても現実味はないし、そういうことをする自分が想像できない。恐らく度胸のかけらもないのだろうな、と他人事のように考える。
 けれど先程も言ったように、ミツヒデは今、酒に酔っていた。冷静に自分を分析している自分と、得体の知れない何かを抱えている自分がいるようで、頭が混乱する。頭は冷えているつもりでいるのだけれど、木々の言う『そういう性分』のミツヒデはどちらなのか、わからなかった。
 ぐ、と木々の細い肩を掴んで、こちらを向かせる。驚いて目を白黒させている木々は、なに、と小さく呟いた。急に体を動かした反動で、木々の手の中にあったグラスは床に転がっている。
 顔を近づけて、覗き込むようにして木々の瞳を見つめる。殴るなり蹴るなり、すぐに拒絶されるものだと思っていたのだが、どうしてか木々もミツヒデと同じようにミツヒデを見つめていた。
 鼻先が触れそうになるほど、木々の吐息を感じることができるほど、ミツヒデは木々の近くにいる。肩を引いた時にはすぐにしてしまおうと思っていたのに、ミツヒデは随分と長い間木々を見つめているような気がした。木々もまた、口を開くことなくただじっとそこに座っている。近すぎて、木々がどこを見ているのかはわからなかった。
 ぎし、とソファが軋んだのを感じながら、そっと唇を寄せた。木々の赤く色付く薄い唇ではなくて、酒のせいで染まった頬に、一度だけ。
 木々は二、三度目を瞬いて、じっとミツヒデを見つめた。何事もなかったかのように澄ましているのか、それともこの続きがあるのだと思っているのか。少なとも頬が赤いのは、酒のせいだ。
「……これじゃあ、越えたことにはならないか」
 これがミツヒデの限界だと告げているようなものだった。これ以上望まれても、体が動いてくれるような気がしない。
 ミツヒデの問いに答える素振りもなく、木々は相変わらずミツヒデを見つめている。穴が開きそうなほど、とはこのことで、見えやしないのに心の底まで覗かれているような気がして、ミツヒデは目を逸らしたくなった。
 ぎし、と再びソファが軋んたかと思えば、今度はミツヒデが木々に肩を掴まれていた。え、と短く声を出して、少し高い位置にある木々の顔を見上げる。怒らせたか、と背筋がぞわりと震えた。
 けれど待っていたのは怒号でも軽蔑の言葉でも拳でもなくて、木々の顔だった。先程と同じように近くまで迫って、鼻先が触れる。息が出来なかった。心臓が、止まりそうだった。
 時間にしてたった数秒の時間見つめあって、それから木々は唇を寄せる。けれどそれはミツヒデの唇と触れることはなくて、そのまま何もなかったように離れていった。
 落ちたグラスを拾って机に置いた木々は、静かに立ち上がってミツヒデに背を向けた。帰るのだな、とまだ働かない頭がわずかに状況を飲み込んだ。――帰ってしまうのか。ミツヒデがしたことも、今の木々だって何も言わずに、ミツヒデの問いかけにも答えずに、木々は今日を終えてしまうのか。明日にはまたいつものように涼しい顔でおはようと告げるのか。
 はくはくとみっともなく口を開閉するミツヒデを一瞥するように、木々は扉の前で立ち止まる。やっぱり短い髪がカーテンのように邪魔をして、木々の顔は見えなかった。
「……おやすみ」
 一言、そう言って木々は部屋を出て行った。涼しい顔をして、酒を飲んだことすらなかったような様子で、ミツヒデに告げた。
 ようやく思い出したように、ミツヒデは息を吸い込んで、吐き出す。呼吸するのを忘れていた。待て、の一言すら言えなかった。
 一晩の余韻すら残そうとしない声を思い出しては、泣きそうになる。ミツヒデから近づいたあの瞬間が、いちばん夢のような時間だった。もしかしたらあり得るのかもしれない何かが、見えた気がしたのだ。そんなものはなくて、ただのミツヒデの妄想に過ぎなかったのだけれど。
 そこにいたのだと証明してくれる僅かな熱が、手の中に残っていた。逃げてしまわないように、縋るような気持ちで強く握り締める。
「……ああ、俺は」
 ミツヒデの手の中にはなにもないのだ。はじめからそこにあるような気がしていて、それが当然とすら思っていて、永遠にあるものだと決めつけていた。つい先ほどまで、本当に。
 ミツヒデはひとり俯いて、転がったグラスが作ったしみを見つめる。木々がどうして今夜この部屋に来たのかも、髪を短く切った理由も、先程顔を寄せた木々の心情も、今ならわかるような気がした。どうやら、木々の言う通りミツヒデは察しが悪いらしい。
 次木々に同じ質問をされたとき、ミツヒデは相棒だと答えることができるだろうか。最高の騎士だと、胸を張って言えるだろうか。――いいや、いいや。言えはするだろうけれど、恐らくその心は晴れやかではない。気付いてしまった今、ミツヒデに木々を語る資格すらなかった。
 木々に注がれたきり手をつけていなかったグラスを一気に呷って、乱暴に机に置く。足を投げ出してソファに転がり、天を仰いだ。どこかで時計の針が規則的に時間を刻んでいる。――ひとりだ。ひとりだった。手に残っていた温もりは、もうどこかへ行ってしまっていた。木々の髪を煌びやかに照らしていた明かりも、今は虚しくミツヒデの上で光を放っているだけだ。ミツヒデは静かに目を閉じて、起きてから一番に顔を合わせるであろう木々と、自然に挨拶を交わす自分を何度もイメージする。そして、いつかやってくる木々への祝いの言葉を告げる自分も。精一杯の誠意を込めて、何度も、なんども。
 いつのまにか濡らしていたソファを見て見ぬ振りをして、ミツヒデはそのまま眠りにつこうと意識を手放した。寝てしまおう。忘れてはならないことだけれど、今夜だけは夢であったと思えるように、さっさと夢の中に溺れよう。謝ると木々は怒るだろうけれど、ミツヒデは小さくここにいない木々に謝罪して、眠りについた。――最高の相棒だと答えられなくて、すまなかった、と。




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