夏来をはじめて見たとき、それはきれいで脆そうな人形のようだと思った。真っ白な真新しい陶器が魔法のように動いていて、しばらく視線を縫い付けられたように見入ってしまったのを覚えている。それくらい、同じ生き物だとは思えなかった。ふ、と息を吹けば飛んでいきそうなくらい軽そうで、崩れてしまいそうで、触れることすらためらっていた。
けれど時間を共に過ごすうちに、彼は随分と人らしい人であることがわかった。春名と同じものを見、同じものを食べ、同じものを感じている。他のメンバーと比べても、いちばん波長が合っているのだと思う。気を遣わなくていいというか、張らなくていいというか。夏来がどう感じているかはわからないけど、一緒にいて楽だった。
軽そうに思えたそれも、人間らしい意識がはっきりとそのきれいな風貌に詰まっているように見えた。きっと夏来と、それから夏来が大事に抱えているものの根源である幼馴染みの間には、春名や他の人間が簡単に足を踏み入れることができない何かが、長い間ふたりを隔てている。それに慣れてしまっているのか、見て見ぬ振りをしているのか、それすらも春名にはわからないけれど、それは決して明るくはないのだろうな、と漠然と思う。夏来の旬に向ける視線のうちに何が含まれているのか、何を求めているのか、――旬がそれを理解しているのか。
ふたりの関係について、春名はただの部外者で赤の他人でしかない上に、こんなことを憶測だけで考える資格もない。けれどそれだけでは夏来はあまりにも不安定で、剣呑であった。
隼人は、四季は、二人をどう思っているのかはわからない。三人の中では隼人がいちばん付き合いが長いから、もしかしたら何か知っているかもしれないけれど、かといって聞くのも気が引けるし、仲間に遠慮している自分がもどかしい。どういう心情であれ、所詮他人であることには変わらないのだけれど。
別に、全てをさらけ出す必要があるとは思わない。春名だって話していないことも、きっと聞かれてもごまかしてしまうようなこともある。そういうことなのだろうな、とは思うけれど。
それにしたって、夏来はあまりにも宙ぶらりんで、不恰好で、やはりどこか脆かった。
*
「あれ、ジュンは?」
真っ赤に燃えた夕日が今にも落っこちそうで、つまりはもうじき夜が訪れる頃であった。教室を出る際に担任に捕まって、ようやく解放された頃にはこんな時間になってしまった。
がらんとした部室を赤く染めるついでに、細い銀の髪も同じように色付いていた。見えてはいないものの、きっと春名も同じように染まっているのだろう。いつもは騒がしいこの部室も、今日は随分と静かであった。
部室の扉を開けると、ぽつんとひとりこの世界に取り残されたみたいに、夏来は窓に頭をもたれて遠くの空を眺めていたので、てっきり誰もいないのかと思ったくらいだった。
「ジュンは……委員会、あるから……」
「あ、そっか。そういや言ってたっけ」
今日は旬をはじめ、隼人と四季もそれぞれ不在だった。なので、時間があるのは春名と夏来の二人だったのだが――春名はついさっきまで忘れていたのだけれど――二人と言われてもできることは限られていた。今練習中の新曲は特別難しいものではなく現時点でだいぶ飲み込めているし、収録までまだ時間があるので無理して詰め込む必要もない。夏来もその辺はわかっているだろうから、そんなに退屈そうにしているなら帰ってしまっても構わないのに、と春名は思う。それでもそうしてここで待っていたのは、ただ単に春名が部室にやって来るのを待っていただけなのだろう。なんで、と春名が尋ねても、なにが、と不思議そうに聞き返されるのが目に見える。
ドカ、といつもの定位置に座って、隣にある椅子をぽんと叩く。そこは普段なら隼人が座っている場所だった。座る場所を決めたわけではないけれど、なんとなくいつも決まった場所に座ってしまうのだ。今は二人しかいないので、わざわざ離れて座るのもおかしな話だろう。遠くへ行ってしまいそうな夏来を連れ戻すように「おいで」と声をかける。返事をする代わりに、夏来はおとなしくそこにすとんと座った。なに、と目が訴えている。
「どーする? 二人だけだけど。練習したい?」
「ベースは……持ってきた、けど……」
「あは、ナツキねむい? 目開いてない」
「ううん……、まぶしくて……」
夕日は随分落ちてきていて、春名と夏来は二人そろって橙色に照らされている。さっきまで真っ赤な世界を見ていたくせに、夏来はまぶしいと言って目を細めた。
「もう少し待てば日も暮れるだろうし、そしたらまぶしくなくなるだろ。それまで待つ?」
練習がしたいのかと思っていたが、夏来はすぐには頷かず、バイトは、と春名に問うた。他の誰でもない夏来に夏来のことを聞いているのに、夏来は春名の様子を伺うのだ。まるで、染み付いたそれのように。
「ないよ。今日はオフ。てか、しばらくあんま入れらんないんだよなー」
「……プロデューサーさん?」
「そー。ちったあ休め! って目の前でシフト組まされてさあ」
「ハルナ……頑張りすぎる、から……」
「そうでもないよ」
実際、随分前からバイトはもうやめてもいいんじゃないか、とプロデューサーに言われていた。それをなあなあに流して今まで過ごしてきたのだが、ついに捕まってしまったというわけだった。それでも深くは問いつめてはこなくて、ただむやみに詰めすぎだから体を休ませろ、ということらしい。そういう部分は察して放っておいてくれるので、なんというか大人だな、と思う。いつもは春名がどうしても歳上になってしまうのだけれど、こういう時は自分はまだまだ子供なのだと思い知らされる。
「……行こ」
「へっ?」
ガタ、と突然立ち上がって、夏来は春名を見下ろした。どうやら夏来の中ではすでに答えが決まっていて、話が進んでいるらしい。今度は春名が取り残される番だった。
「練習は? しないの?」
「しない」
珍しく言い切られて、春名は思わず狼狽える。その間にも夏来は帰る支度を始めていて、本当に取り残されそうなので春名も後に続いた。――気が変わったのだろうか。それとも元々練習する気分ではなかったのか。出て行こうとする夏来を追いかけて、二人で部室をあとにした。もう二人以外に部室を使う人間はいないので、鍵をかけて職員室へ返しに行く。その間に他の生徒とはすれ違うことはなくて、結局春名と夏来は静かに学校を出た。
駅までの道のりを、二人で並んで歩いている。ところどころ街灯がぼんやり点きはじめていたり、看板がライトに照らされたりしていて、街が徐々に明るくなっていく。昼間は青々としていた木々も、今はぼんやりと色白く光っていた。
「帰るの?」
「……どっちでも」
当然帰るんだろうと思いながらも――夏来はゲーセンなどに寄ろうと言い出すタイプではないし――そう尋ねてみると、どうしてか春名に委ねるような答えが返ってきて、反射的にえ、と声が漏れてしまった。どっちでもって、どういうことだ。
「ナツキ、帰りたいんじゃないの?」
「…………、ハルナが」
「うん? オレ?」
「……息抜き、できるなら……帰ろ」
あー、と春名は思わず間抜けた声を出した。そうだ。夏来は、そういう人間だった。ついさっき、そう考えたばかりじゃないか。
頭をガシガシと掻きむしって、ちょっと待って、と呟いた。うん、と頷いたきり、夏来は静かに春名の答えを待っている。燃える世界を見つめていた時と同じように、春名が次に口を開くまで、きっと夏来はいつまでもそこで待っていてくれるのだろうなと、夕日に照らされる夏来を見てそう思った。
「……じゃ、さ。うち来てよ、ナツキ」
きょとんと、文字がそのまま浮かんできそうな顔で、しばらく夏来は春名を見つめた。これは考えている目だな、と空の色のような瞳を見つめ返す。そこまで考え込むような答えでもないだろうに。
「……俺、いたら、邪魔じゃ……」
「そんなこと思ってたら呼ばないって。まあ、いつも通り汚いし、ナツキがそれでもいいなら。それともなんか用事ある?」
ふるふると、ゆるく首を振る。逃げ道を作っても、夏来はそれに乗らなかった。
「行く……」
「お、そんじゃ早く行こうぜー。飯とかどうする? ちょっと早いけど途中で食ってもいいし」
「それでも、いいよ……」
「家ヘーキ?」
「うん……家誰もいない、から……。買って帰るつもり、だったし……」
「あれ、ナツキの母さんいないんだ。仕事?」
「と、兼ねて旅行……妹も、一緒に」
「置いてかれた?」
「みたい……? まあ、学校とか、仕事とかあるし……。妹は、ギリギリまで駄々こねて……泣いてた、けど……」
だから、一緒にご飯食べれるよ、と夏来は続けて言った。それなら確かにひとり家にいても寂しいだろうし、親がいないのならイコール門限がないのと同じだ。夏来の母は連絡さえすれば大丈夫なのだと以前言っていたけれど。それじゃあそうしよう、と春名は夏来に答えるように大きく頷いた。
「あっ、そういえば。家の前のさ、青いのれんのラーメン屋わかる? そこのおばちゃんに割引券二枚もらったんだけど」
「……食べる」
「よっしゃ! 決まり」
いつもはそれぞれ逆の方向の電車に乗る春名と夏来だが、行き先が同じならば話は別だ。夏来は春名について行くようにして歩いていて、そのまま二人はピ、と音を鳴らして同じ改札を通る。はじめて夏来を家に招いた時はなんだか同じ電車に乗っていることが不思議だったけれど、今となれば慣れたものだった。
一時間ほど電車に揺られ、春名は夏来を連れて家の前の通りにあるラーメン屋に向かう。時間的にはそろそろ混み始める頃だが、ここはこの辺の住民しか利用しないのでカウンター席に一人、手前のテーブル席に一人、と相変わらずガラガラだった。人目を気にすることなく、食券機の前に二人で並んで文字だけのメニューを眺める。
「割引券塩と豚骨なんだけど、ナツキどっちがいい?」
「うん、と…………、しお…………あ、でも……とんこつ…………」
「どっち?」
「えっと…………ハルナ、は……?」
「オレどっちでもいいよ。ナツキの好きな方選んで」
「え、……うん…………」
店に着く前に聞けばよかったな、と、思いつつ、食券機に並ぶ塩ラーメンと豚骨ラーメンの文字とにらめっこしてうんうんと悩む夏来を見て思わず笑ってしまう。けれどカウンターの向こうで退屈そうにこちらを見ている店主の視線が痛いので、じゃあさ、と春名は口を挟んだ。
「どっちも頼んで、はんぶんこしようぜ。そしたら塩も豚骨も食えるだろ?」
「ハルナはいいの……?」
「ナツキ、さっきからそればっか。いいってば。オレは別にチャーハン頼むしさ。ナツキはなんか追加で食う?」
「俺は……ラーメンだけでいい、かな……。はんぶんこ、しよ」
「オッケー」
塩と豚骨をひとつずつ、それから春名の分のチャーハンを購入して、出てきた券を暇を持て余した店主に手渡す。割引券は会計時に出せば良いので、ひとまずポケットに押し込んだ。
人がいない奥の席に向かう途中、夏来がセルフだ、とぼやいて、ふたり分の水を持って春名の後に続く。以前夏来と行った別のラーメン屋は店員が注いでくれていたのを思い出した。ご自由にどうぞとお世辞にも綺麗とは言えない字で書かれた張り紙と煙草の煙などで黄ばんだ壁を背に、はい、と水を春名に差し出す夏来は、やっぱりどこか浮いていた。
「…………なに?」
「いや、ナツキこーいう店似合わないなーって」
「そう……?」
「あんま来ないだろ」
「……ハルナとは、結構来るよ……」
「ええーっ、それオレのせいじゃん!」
「ハルナのおかげ、だよ……」
客が少ないので、少しの間世間話をしているうちに二人分のラーメンとチャーハンが出来上がって運ばれてくる。暑くなる前にとブレザーを脱ぐと、夏来もつられたように脱いで、同じように椅子にかけた。
長めの髪を耳にかけ、はふはふと細くまっすぐな麺を冷まして、控えめにズズ、とすする。夏来は豚骨ラーメンを食べていた。薄い体をしているくせに夏来は随分と食べるので、春名と同じくらいのペースで麺とスープが消えていく。半分ほど食べたところでハ、と何かに気付いたように動きを止めて、静かに箸を置いた。そのまま食べてしまう気だったな、と春名は夏来の一連の動きを見て小さく笑った。
「ナツキ、全部食べちゃいそうだったな?」
「そ、んなこと……ない……」
「そこ誤魔化すの? そっちうまいなら食べちゃってもいいけど」
「…………、はんぶんこ、する」
ラーメンひとつでも律儀に約束を守ろうとするので、なんというかおもしろい。食べてもいいと春名がいくら言おうと夏来は譲らないだろうから、はいよ、と短く答えて塩と豚骨を交換する。春名の元にやってきた豚骨ラーメンには、運ばれてきたときと同じ場所にチャーシューが乗っていた。
*
目的は春名の家だったはずなのだが、家に着く頃には随分夜も深くなっていた。あれからラーメン家を出たあと、食後の散歩がてら遠回りして二人分のドーナツを買って来たのだが、思ったよりゆっくりしていたらしい。
買ったドーナツの袋をぶら下げて、錆びれた外付けの階段を上がった。今日は春名のほかにもう一人ぶんの足音が、後ろからついてくる。ふんふんと鼻歌を歌っていると、後ろからも合わせるように同じメロディーが聞こえてきた。
「あ、片づけるからベッド乗っといて!」
家に入るなり、春名は袋をぶら下げたままま散らばった服やらなにやらを抱えて、洗濯機に放り込む。そのついでに風呂場に行って湯張りのボタンを押して、部屋に戻った。ベッドの上にちょこんと小さく座る夏来が、これは?と何かを春名に差し出してきた。
「あ、それ中学ん時のジャージ。今の寝巻き」
「今も履いてるの……?」
「え? 履かない? バリバリ現役だぜ? 何なら高校のジャージも寝巻きにしてる」
知らない世界だ、とでも言いたげな夏来は、物珍しそうに春名のくたびれたジャージを見つめている。最近は暑くなってきたので上は適当なTシャツを着ていた。あたりにそれは見当たらないので、たぶんさっき他の服と一緒に洗濯機の中に消えたのだろう。
確かに、夏来はこういうジャージの使いまわしではなくてきちんとパジャマらしいパジャマを着ていそうだ。妹とおそろい、なんていうのもあるかもしれない。
それ貸して、と夏来からジャージをもらい、その場で履き替える。ついでに上も脱いで、洗濯に出す。半裸のままうろついて、夏来の分の着替えまで出してから春名ははた、と唐突に我に返った。――自分は今、何をしようとした?
「…………ナツキ、オレ今ナツキが泊ってくつもりで風呂まで沸かしたんだけど……。もしかしてオレなんも言ってない?」
「うん……? うち来て、とは、言われた……けど……」
「えっ、ハズくない!? スッゲー泊まりな気分だった! 自分でびっくりしたんだけど!」
「ふふ……最近、泊めてもらってばっかり、だもんね……」
夏来の言う通り、ここ最近はよく夏来を家に泊めていた。別にリズム隊としての作戦会議!というわけでもなく――この壁の薄い家では練習もできやしないし――二人でいなければならない理由も特になかったのだが。確かきっかけは、旬ではスパルタすぎるので夏来に追試の勉強を見てもらおうと話しを持ち掛けたことだったと思う。それからはそれとなく理由をつけたり、つけなかったりして、よく家に招くようになった。頻繁に家に来ては止まる予定がなくても寝落ちることが多かったせいか、夏来の母も最近では夏来が何も言わなくても「春名くんの家でしょう?」と言われるようになったらしい。それはそれで、なんだか恥ずかしいのだけれど。
「あー、えっと……。泊ってく?」
「……ハルナが、いいなら……ふふ」
「いつまで笑ってんの! てか頼むから泊って! 風呂沸かしちゃったし!」
「ハルナ、顔真っ赤……かわいい、ね?」
「も〜、かわいいとか言うなよなあ……」
なので、それを言い訳にするのもあんまり格好がつかないのだけれど、家に着いたら散らかった部屋を片しつつ、風呂を沸かす――この時期だと春名はシャワーで済ませてしまうので、湯張りするのは夏来が泊まる時だけなのだ――。夏来を先に風呂に入れて、その間に春名のものか、夏来が以前持ってきたものかわからない服を出して、脱衣所に置いておく。――ここまでの流れが、ここ最近で体に染みついてしまっていたようだった。
相変わらず楽しそうにしている夏来を、ちょうどいいタイミングで湯張りを終えた風呂場に押し込んで、ひとりベッドに腰を掛け一息つく。手つかずだったドーナツの袋を開け、たくさんある種類の中から一つだけ選んで、口に含んだ。この食後だというのにやたら数の多いドーナツだって、夏来が泊っていくものだと無意識にそう思いながら多めに買ったものだった。次々とトレーにドーナツを乗せていく春名を不思議そうに見つめていた夏来の心境が、今になってわかる。数時間家にいる間のおやつにしては、確かに量が多い。
玄関先にはベースが置かれていて、鞄とブレザーはベッドの上に残されている。どれも夏来のものだ。
春名の家に夏来のものがあるのも、随分慣れてきた。もういっそ夏来専用のマグカップや歯ブラシ、着替え一式なんかを買い揃えようかと考えるほどだ。
朝目覚めていちばんに視界に入るのが気持ちよさそうに眠っている夏来の寝顔で、時にはハルナ、と優しい声で起こされたりして。すぐそこに夏来がいることが、少しずつ春名の中で当たり前になっていた。夏来といると心がふわふわと浮ついて、あたたかくなる。High×Jokerの榊夏来でも、幼馴染みを崇拝するように見つめる榊夏来でもない、ただの人間である榊夏来を、この家にいる間は春名だけが見ることができる――なんて、随分と過ぎたことを最近はぼんやりと思うのだけれど。
それでも例えば、朝一番に牛乳を少し入れたコーヒーを必ず飲むことや、春名の家のベランダから見える景色が好きでよく外を眺めていることや、春名のことをかわいいと言っている時のやさしい表情を、春名以外の人間は果たして知っているのだろうかと、どこか優越感に浸りながら春名は考えるのだ。今日部室に姿を現さなかった三人は、きっと夏来が春名の家にいることすら知らない。そういう、秘密になり得ないふたりだけの時間を、春名は馬鹿みたいに大事に抱えている。
自惚れかもしれないけれど、出会った頃に比べれば夏来の春名に向ける視線は随分とやわらかくなっていた。お互いにどう接しようか、距離感を測りかねていた時期が遠い昔のように、その春名を見つめるその瞳は、春名の名を呼ぶその声は、たまらなくあたたかい。改めてどう思っているのかなんて、聞けやしないけれど。
春名も夏来もHigh×Jokerで、アイドルで、アイドルである限り、視線の先にはファンがいるというのが必然である。春名から見た旬と夏来の関係性もこれに近いのだと思う。キーボードで音を奏でる旬を見れば、素人目にもその腕が確かなことはわかる。夏来はきっと、その旬の奏でる音をずっとそばで聞いていたのだろう。それはもう信仰者のように、崇めるように。
誰かの神になるなんてことは不可能で、それは考えるまでもなくわかっている。別に元からあったふたりの形を壊したいだなんて思ってはいないのだ。ただ少し、羨ましいな、と夏来の視線を辿ってしまうだけで。望まなくたって、旬はその視線を得ることができる。ただ見つめられているだけではなくて、そこに込められたいろんな感情を、すべてを、何でもないような顔をして旬は注がれている。隼人も四季も、春名自身も、それが当たり前の風景だと思い込んで、日常としていた。普通なのだ。旬にとっても、夏来にとっても、そして春名にとっても。
だからこそ、このふたりの時間を春名は噛み締めていた。旬と夏来の過ごした時間に比べれば、ほんのひと握りにすらならない僅かなものだけれど、夏来にとってはなんてことない時間かもしれないけれど、少しでもこの手で抱えていたいのだ、春名は。我儘だとか、傲慢だとか、誰にも見せられないような汚い感情が渦巻いているのを見て見ぬ振りをして、蓋をして、ただ春名は夏来を見ているのだ。ふわふわと浮ついた心地があわよくばいつまでも続けばいいのに、とすら、春名は無意識に祈りながら。
聞こえていたシャワーの音が止まり、扉の開く音がする。もうじき、湯気をまといながら体を濡らした夏来が戻ってくるだろう。よし、と春名は小さく声を出して立ち上がり、母が買ったドライヤーを準備する。春名が自分で使ったことはなくて、最近ではもっぱら夏来専用になりつつあるものだ。丁寧なようでいて以外と大雑把な夏来はいつもタオルドライで満足してしまうので、春名が毎度乾かしてやっていた。夏来は別にいいのに、と言いつつ、いざドライヤーを当てられると気持ちよさそうに春名に委ねて、目を閉じる。そうして春名に任せてくれるほど気を許してくれているのが、嬉しくてたまらない。だって誰も、夏来の濡れた髪の毛なんか乾かそうともしないだろうから。数少ない、春名だけの特権なのだ。
「……ハルナ、準備はやい、ね……?」
「ふっふーん。ナツキ専属のスタイリストは抜かりないのだぜ。ほい、ここ座って」
「ハルナも、アイドル……」
「今はスタイリストなの! てか、いくらオレが乾かすっつっても少しは水気取ってこいって! ビショビショじゃん!」
「やり甲斐があると、思って……?」
「おー? なるほど、そうくる? そりゃうれしいけど、風邪引くからある程度は拭いてきてな」
「うれしいんだ……」
そりゃうれしいよ。もう一度重ねて言うけれど、ドライヤーのスイッチが入ってしまえばそれは夏来に届くことはない。なに、と夏来が春名に尋ねたような気がしたけれど、ごうごうと吹く風に吹き飛ばされて、どこかへ行ってしまった。なんでもない、と強風に負けないくらい大きな声を出して、細くて柔らかい髪を丁寧に乾かす。普段使っている春名の家のシャンプーも、夏来から漂う香りはどこか違うような気がして、くらくらと目の前が眩むようだった。
ふわふわに仕上がった髪を、春名は満足げに見やる。こくりこくりと船を漕いでいる夏来を起こして、ベッドに寝かせた。眠たそうな目を擦りながら春名が風呂から上がるまで起きている、と夏来は言ったが、きっと春名がシャワーを浴びる頃にはすでに夢の中だろう。今にも閉じそうな瞼をこじ開けようと奮闘している夏来がおかしくて、寝てていいよ、とベットに転がる夏来に言い残して、春名も風呂場へと向かった。
次、夏来がうちに来るのはいつだろう。夏来と二人でいられる時間は、どれだけあるだろう。そんなことを、春名は一人になるとすぐに考える。今度はどこか遠出をしてもいいし、近くの公園でピクニックするのでもいい。叶うかもわからない予定を立てるのが楽しかった。
錯覚してしまいそうなこの距離感がいちばんなのだ。半ば言い聞かせるように、春名は目を閉じる。これ以上は望まない。羨ましく思っても、それまでだ。きっと夏来は振り向いてはくれるだろうけれど、その代わりにあの脆い身体は壊れてしまう。ただでさえ不安定な夏来を壊してしまうことが、なによりも怖かった。だから、これでいい。このままふわふわと浮ついた心地を感じることができればいい。できれば、少しでも長く。でも叶わないのなら無理には追わない。きっと諦められる。大丈夫だ。
今頃春名のベッドでぐっすり眠っているであろう夏来を思いながら、春名はさっさと済ませた。いくら春は過ぎたとはいえ、風呂上がりをそのまま放置したら風邪を引いてしまうかもしれない。風呂を出たら薄い布団を引っ掛けて、夏来の隣で眠ってしまおう。猫のように丸くなりながら無防備にすうすうと寝息をたてて眠る夏来を眺めて、春名も夢の中に意識を飛ばす。そうして朝起きれば、いちばんに夏来が視界に飛び込んでくる。
また春名の一日は、夏来ではじまるのだ。