※R15





 肩までの茶色い髪の毛をゆらして、裾をぎゅっと握って、赤くなった顔を隠すようにうつむいて、目の前の彼女は残酷な言葉を夏来に放った。
 彼女はファンだと言った。High×Jokerが好きで、中でも夏来が特に好きなのだと言ってくれた。売れ始める前から気になっていて、最近は大きな会場でライブをやることも増えて、いちファンとしてもとても嬉しいことだと、そう言った。
 夏来はこういう機会に疎かった。春名や四季ならそつなくファンサービスを交えながら対応するのだろうが、どういうわけか人は夏来を避けて通るので、こうして直接ファンと話すことはあまりないし得意でもない。
 だから、というのもなんだが、素直に嬉しかった。だって彼女はこうして校舎裏まで足を運んで、夏来のために会いにきてくれて、話をしにきてくれて、時間を割いてくれたのだ。
 その分できる限りのことはしてあげたかった。それだけだった。サインが欲しいと言うので色紙に名前を書いたり、握手がしたいと言った彼女に手を差し出してしばらくの間握られたり、髪が綺麗だと褒められ黙って髪を触られたり。ひとりのファンに特別対応してやるのは褒められたことではないのかもしれないけれど、夏来のために彼女が苦労した分は返してやりたいと思ったのだ。
 けれど今のこの状況を見て、夏来は失敗を悟った。ぷるぷると震える女は、どんな言葉を期待しているのだろうか。夏来にはわからなかったけれど、夏来が伝えようとしている言葉ではないことだけはわかる。できれば悲しませたくないけれど、ファンとアイドルの線引きは大切だ。それ以上は、夢の中だけの話で留めて置くべきである。寿命の短い職業は、それなりに面倒なことを守らなければすぐに死んでしまう。それは今この瞬間にも言えることだった。
「……ごめんなさい。あなたの気持ちには、応えられない」
 赤かった顔が一気に引いていくのが、目に見えてわかる。泣かせてしまっただろうか。もう夏来を、High×Jokerを好いてはくれないだろうか。行きすぎた感情は拒絶して捨てるくせに、適度な好意は求め続けるなんて、ひどく贅沢で我儘だ。
 彼女は泣いていた。潤んだ瞳はまっすぐ夏来を捉えて、じろりと鋭く睨んでいる。――こんなにも好きなのに。私は誰よりも夏来くんのことが好きなのに。私というファンがいなかったら、あなたたちはここまで人気にならなかったのに。彼女は燃えるように言葉を吐き捨てた。聞いていたくない言葉ばかりで耳を塞いでしまいたかったけど、聞いてあげることが償いなのだろうと思った。もう一度彼女を見るけれど、それは好きな人を見つめる目ではなかった。
 好き、とはなんだろう。夏来は身近な人を思い浮かべる。旬は好きだ。隼人も、四季も、春名も、それからプロデューサーや、事務所のみんなも。もちろん家族だって、夏来は好きだった。
 それじゃあ彼女は?
 彼女は、どうだろうか。はじめに名前を教えてくれたけれど、夏来はもう忘れてしまった。別に人の名前を覚えることが苦手なわけではないのだけれど、何故か夏来の脳内にはもう彼女の名前はなかった。
 ファンは大切だ。アイドルを支えてくれるありがたい存在だ。好きかと問われれば、好きだと答えるかもしれない。
 そうしたら、彼女のことも好きだということになるのだろうか。涙に濡れた目に射抜かれながら、夏来は考える。――いいや、いいや。夏来は力なく、ゆるゆると首を振る。名前も知らない彼女のことは好きではない。彼女はもう、ファンの域を超えてしまった。
「それじゃあせめて、キスをして」
 彼女はそう言って一歩、また一歩と夏来に近づく。夏来はぎょっとして後ずさるけれど、半歩と下がる前に冷たい壁に阻まれてしまった。
 キスなんて、妹のために読んだおとぎ話に出てきたきりだ。あれは確か、眠ってしまったお姫さまが、王子さまのキスで目を覚ます話、だったか。随分ロマンチックなものだったけれど、今の夏来とは状況が違いすぎる。逃げなければ、と夏来の本能が告げていた。
 どうしようかと視線を迷わせている間に、彼女が近づいてくるのがわかった。突き飛ばてしまえばいいのだろうけれど、仮にも相手は女性だ。もしも、彼女に怪我を負わせてしまったとしたら。後日対応に追われ、電話の向こうの相手にペコペコ頭を下げるプロデューサーの姿が浮かんで、それは出来そうにないと逃げるための選択肢から早急に消えた。
 ふと、建物の影から見慣れた丸い頭が覗いているのが見えた。それどころではないのは明確であるのに、自然とその黒髪に視線が縫い付けられる。風に揺られる艶やかな髪は、夏来を安堵させた。どうしてこんなところにいるのだろうかと疑問に思ったけれど、一度ジュンだ、と思うと自然と緊張感が薄れた。
 そしてまた夏来は失敗を悟る。気付けばもう彼女は目の前にいて、ガチ、と固いものが唇に当たった。勢いのまま後ろに倒れたので、夏来は壁に頭をぶつける。にぶい音が響いて、顔をしかめた。
 今のがキスと呼べるのなら、キスをしたあと彼女は夏来を置いて何処かへ行ってしまった。ひとり残された夏来はずるずるとその場に座り込んで、痛む頭を抑える。衝撃に頭が追いつかなくて、視界が白黒に点滅した。ステージに立っているときに感じるチカチカした眩しいものとは違う、夏来の身体が訴えているチカチカだ。座っているのに目の前はぐらぐらと揺れていて、夏来が揺れているのか地球が揺れているのかしばらくわからなかった。
「――ナツキ」
 夏来の名前が呼ばれる。作られた上ずった声ではなくて、今度は耳に馴染む心地の良い声で。その声を聞いただけで、視界がクリアになったような気がした。
 見上げると不機嫌そうな様子で夏来を見下ろす旬が、すぐそこに立っていた。さっきは校舎の方にいたのに、いつの間にやってきたのか。
「なんだよ、いまの」
「ジュン、見てたの……?」
「いつまで経っても戻ってこないから、探しにきた」
 なるほど。それは、随分と手間をかけさせてしまったようだ。申し訳なく思いごめんね、と謝ると、旬の不機嫌さは増してしまった。
「……行こう」
 旬に手を引かれて、ゆっくりと立ち上がった。握られた手は思いのほか力が強い。それと同時に予鈴が虚しく響いて、夏来はああ、と声を漏らした。
「昼休み、終わっちゃった……」
 先に食べてていいと言ったのだけれど、旬は昼食を食べたのだろうか。手ぶらなのは、部室か教室に弁当を置いてきたからなのだろうか。
「……あれ、ジュン……? そっち、教室じゃ……」
 手を引かれるがままに歩いていたけれど、旬は教室とは反対の方向に夏来を引いて歩いていた。教室はこっちだよ、と引き返そうにも、夏来よりも小さな背中が黙ってついてこいと言っているようで、何も言えないまま旬と夏来は教室から遠ざかった。



***



 足元に転がっていたバスケットボールを跨いで、旬の後に続いた。そこに座って、と指されたのは三段程度の跳び箱で、夏来は躊躇うことなく素直に旬の指示に従う。随分使われていないのか、この空間はひどく埃臭い。
 旬に連れられてやってきたのは、校舎裏の奥にある古い体育倉庫だった。あまり訪れたことのない場所で、他の生徒も恐らくほとんどここには来ないだろう。夏来だって、目の前に古びた建物が現れて初めて存在を思い出したくらいである。
「――ナツキ」
 旬が、潜むように名前を呼んだ。まるで昔冬美の本家でしたふたりきりのかくれんぼみたいだと、ぼんやり思う。うまく隠れる旬を見つけられなくて、ただの遊びであることを忘れた幼い夏来はよく泣いていた。
 もう授業はとっくに始まっているので、今体育倉庫にいる旬と夏来は無断で授業を欠席していることになる。遠くの方で複数の生徒の声が聞こえて、思わず体がこわばった。きっと、体育の授業を受けているのだろう。より一層、悪いことをしているという事実が、腹のなかでじくじくと疼きだす。旬も夏来も、世間ではよく『良い子』だと評価されてきたけれど、今回ばかりはふたりそろって『悪い子』だった。
「手、出して」
「……手?」
 何を言い出すのかと思えば、旬が求めたのは夏来の手だった。首を傾げながらも、夏来は断ることなく右手を差し出す。
 夏来の座る跳び箱は随分と低く、座った状態で旬を見上げる形になるのでなかなか新鮮だった。
「そっちも」
 反対の手も所望されて、その通りに左手も旬に捧げた。それを受けた旬は、夏来の手を旬の手で包むように握る。握って、開いて、指と指が交わるように、手を重ねた。
「……冷えてるな」
「…………うん」
 触られている感覚があまりなくて、夏来はずいぶん長い間外にいたのだと思い知った。冷えた指先が旬から与えられた熱によってだんだんと溶けていくようで、心地いい。
 いくらか握ったあと、片方を残して旬の手は夏来の髪を梳いた。優しく撫でるように、何度も遊んでいる。
「髪の毛もつめたい」
「うん…………」
 少しずつ、旬との距離が近くなる。旬のにおいが、夏来の鼻をくすぐった。
 髪の毛なんてそう珍しくもないだろうに、やわらかいだとか、細いだとか、短い感想をぽつりぽつりとこぼしては、距離が近いのもお構いなしに夏来の髪を弄っている。
 旬の手が後頭部を掠めたとき、夏来は思わずいた、と声を上げた。じんじんと後から痛みがやってきて、今さらながら思い出す。そういえば、頭をぶつけていたのだっけ。
「あ、ごめん……痛い?」
「ちょっと、だけ……」
「……少し腫れてるな。あとで氷貰いに行こうか」
 正直、旬に触られるまで頭をぶつけたことをすっかり忘れていたので、別に大丈夫なのだと思う。ぐらぐらしていたのだって、きっと地球が揺れていただけなのだ。だから氷はいらないよ、と伝えたかったが、旬と目が合わないのでなんとなく言いそびれた。目を合わせられないほど、旬との距離が近いのだ。
「……あとは?」
「え?」
「手と、髪と……、あとどこ」
 順番に、確かめるように、旬は夏来の手を握って髪を梳いた。まるでなにかの儀式みたいに丁寧に触れて、そのくせあっさり離れる。けれど旬は、どこか寂しそうだった。
 夏来は覚えがあった。手を握られたのも、髪を触られたのも、つい先ほどのことだ。だからこの先、旬が夏来に言わせたいことが夏来にはわかる。夏来がそう口にしないと旬が困ってしまうのも、なんとなくわかっていた。
「…………、……くち、びる」
 冷たい空気を吸って、二酸化炭素と一緒に短く吐き出す。すると一瞬の間も開けることなく、吐き出した空気ごと食べられるみたいに、旬に夏来の唇を啄まれた。口に含んでは離れて、また触れて、押し付けて。
 倉庫の中は随分と寒いのに、旬の唇はひどくあつくて、やわらかい。経験に疎い夏来だけれど、これがおとぎ話で見たキスなのだろうと思った。あんなにロマンチックできらきらしていたキスシーンとは比べ物にならない、薄汚くて、寒々しい場所だけれど。
 旬の舌が、唇をちろりと舐める。どうやら下唇が切れていたようで、旬は執拗にそこを舐め、口に含み、吸い付いた。びりびりと痛むけれど、それ以上に身体の奥の、手を伸ばしても届かないようなところが熱くて仕方がない。じゅん、と名前を呼ぶけれど音にならず、なりそこないは床に転がった。
 満足したのか、下唇に構うのをやめた旬はなんとか捩じ込もうと熱い舌を突き出した。ぬるりと咥内に侵入しそうなそれに驚いて、きゅっと目と口を一緒に結ぶ。行き場を失った舌は寂しげにしまわれて、旬は可笑しそうに笑った。
「嫌だった?」
「び………びっくり、した……」
「そうか、ごめん」
 ごめん、と口では謝るけれど、旬はそこから退く気はなさそうだった。相変わらず手は握られていて、もう片方は肩にそっと添えている。まるで夏来に逃げられたくないみたいに、繋ぎ止めているようだった。
「……いい? ナツキ」
 旬は、夏来が首を横に振ると思って聞いているのだろうか。それとも、夏来が拒絶してもしなくても関係などないのだろうか。夏来には旬が今なにをどう思って夏来に迫っているのかわからない。しかし直前の問いに答えるのなら、夏来の中に答えはひとつしかなかった。
「…………いい、よ」
 一度軽く唇と唇が触れて、離れる。それから口を開けるよう低く囁かれて、夏来は何も考えずに薄く口を開いた。その隙間を抉じ開けるように旬の舌が割って入ってきて、夏来の舌と触れた。突付くように触れて、夏来の舌が絡み取られて、吸われる。舌が熱くて、息が熱くて、旬から注がれる視線が、熱い。思わず目を逸らそうとしても、逃げ場なんてどこにもなかった。
 時折漏れる鼻を抜けるような声がどこか遠くて、自分の声には思えなかった。手で押さえたかったけれど、旬が代わりに塞いでいるので夏来の思いは虚しくも叶わない。舌と舌の境目がわからなくなりそうで、もしかしてもうとっくに一つになっているんじゃないかと、ぼうっと旬を見つめながら思う。埃の舞う小さな空間に、口腔を犯される音と夏来の上ずった声がぽろぽろと溢れて、転がっていく。拾いたくても、酸素の足りない頭ではそこまでに至らなかった。
「――ナツキ、なまえ呼んで」
 熱のこもった吐息が、夏来をくすぐる。それは夏来をここまで連れてきて、ここに座らせたような旬の思惑のうちではなくて、かわいいお願いのひとつだった。おもちゃを買ってほしいとねだる子供のように、旬は夏来に縋っている。
「…………、ジュン」
 熱さにやられて掠れた声は、ほろりと口からこぼれ落ちた。旬はうん、と小さく頷いて、もう一度、とねだる。夏来が旬の名前をなぞるたびに、旬はそのひとつひとつを拾い集めて、夏来の代わりに抱き寄せた。
「ジュン………」
 今のこの空間を、状況を、そして旬を、すべてを肯定するように、夏来は旬の名前を呼んだ。握られていない方の手で旬の服を掴んで、受け入れている意思表示をする。言葉で伝えられたらそれがいちばんなのだろうけれど、夏来はどうもできそうにない。だからせめて、少しでも伝わるように、そっと旬に寄り添った。――そんなに必死に繋ぎ止めなくたって、どこにも行かないから。力の入っている手が少しでも緩むように、旬に身体を委ねた。



***



 沈みかけた夕日が、優しく部屋を彩る。夕焼けを背にピアノに向かう旬があまりにも絵になるので、夏来は作業を中断してその光景を目に焼き付けた。
 最近はまた、旬とふたりで過ごすことが多くなった。High×Jokerのみんなと一緒にいても、練習が終わって解散すれば自然とふたりきりになるし、仕事があっても旬からくる連絡に従うように合流するようになった。大体は旬の家にそのままお邪魔して特に会話をすることなく課題を片付けたり、練習の延長のようにふたりで音を合わせたり、時々旬がピアノを弾いてくれたりして、ふたりだけの時間を過ごすようになった。
 みんなにこそこそしているみたいでなんだか忍びないのだけれど、別に悪いことをしているわけではなかった。そもそも、悪いことをしたのは数日前の一度だけだ。
 旬に口止めされたわけでもないけれど、夏来は誰にもあの日の事を話していなかった。誰かに聞かれたりしてもいないので、旬も話していないのだと思う。ちなみに、夏来の中の『悪いこと』とは無断で授業を欠席したことであり、それ以上でもそれ以下でもない。
「……ナツキ、こっち」
 いつの間にか演奏をやめて目の前まで来ていた旬は、夏来が手にしていたシャーペンを机の上に置いて、旬を視界に入れるように言った。途中だった課題はそこで強制的に終了し、夏来の世界には旬しかいなくなる。
 ソファに座る夏来の上に跨って、旬は両手で、夏来の顔をやさしく包んだ。こうなってしまえば、夏来はただ目を瞑って待つ他ない。
 これはそういう『合図』だった。夏来の名前を呼んで、夏来の視界から一切を遮断する。それから旬は、やさしく夏来に触れるのだ。
 あの日以来、ふたりで過ごしている時間の半分以上は、こうしてあの時と同じようなことを繰り返している。この行為が一体なんの意味を生み出しているのかというのは、わからない。ただ旬に求められているので、夏来はそれに応えている。それだけだ。
 するりと旬の舌が顔を出して、夏来の唇を舐める。夏来は当然のように口を開けそれを受け入れた。
 正解を知らないので上達したかどうかなんてわからないけれど、歯をぶつけることはなくなったし、息ができなくて苦しくなることも少なくなった。少しずつだけれど、慣れてきた……と、思う。そしてぐるぐる渦巻く困惑よりも、煮えるような何かがずいぶんと増えた気がする。ただ口を開けて舌を迎え入れる他に出来ることはないので、ぼうっと旬を見つめているだけなのだけれど。
「……う、あっ」
 旬の白い手はいつのまにか夏来の腹の上を這っていて、くすぐったさに思わず声を上げる。ぺたぺたと子供のように触るくせに、それはどこか焦れったい。
「ど、したの……?」
「嫌だった?」
 ううん、とゆるく首を横に振る。このやり取りも、もう何度も繰り返したものだ。旬は毎度律儀に尋ねるけれど、夏来は平気、大丈夫、と答えるだけ。形式的だけれど、それは夏来の本心だった。旬にはどう思われているかわからないけれど。
 そう、とたいして興味なさそうに答えた旬は、時折キスを落としながら、変わらず夏来を触った。いつもなら触るといっても手を繋ぐ程度で、こうして服の中を弄ることは今までなかったのだ。
「……触るから、嫌だったら言って」
 そう言って、旬は夏来のシャツとセーターを一緒にめくった。晒された腹部をまるで割れ物を扱うかのようにやさしく撫でて、指を這わせる。浮いたあばらをなぞっては、もっと食べろよ、と小言をこぼした。特別食べないわけではないのだけれど、うん、と夏来は正直に頷く。それを言うならきっと、旬も食べたほうがいい。細くて綺麗な手を見ながら、心のなかで呟いた。
 思い出したかのように、唇にひとつキスを落とす。夏来はなんとなくこれが好きだった。初めてのキスが衝撃的だったのも相まって、旬とするキスはやさしくて、あたたかい。
「じゅ、ジュン……」
 いつの間にか腹を撫でていた手は胸もとをまさぐっていて、片方の手がぴん、と控えめに突起を弾いた。痛くも痒くもなくて、少しくすぐったい程度だけれど、それよりも夏来の胸もとを旬がまさぐっている事実に、その光景に目がくらむ思いだった。まじまじと身体を見られて、いくら幼馴染みとは言えはずかしい。一緒に着替えたり、風呂に入るのとはわけが違うのだ。
 思わず名前を呼んでしまったけれど、呼ばれた当の本人はあまり気にしていないようで、夏来を一瞥したあと、あろうことか胸もとに顔を寄せて、突起を舌でちろりと舐めた。驚きのあまり、制するように旬を読んだ声が裏返る。
「だ、だめ、だよ……」
「どうして?」
「どうしてって…………」
 嫌なら言えと言ったのは旬なのに、旬はやめようとはしなかった。こっそり手を繋いだり、キスをしたりするように舌で転がしているけれど、胸を弄られるなんてキスよりも何倍も恥ずかしい。やだやだと駄々をこねるように声を零すけれど、やっぱり旬はやめなかった。
「そんな……おれ、おんなのこじゃない、のに……っ」
 片方は旬の舌で弄られて、もう片方は指先にあそばれている。嫌なのに、恥ずかしいのに、夏来の胸元はじくじくと疼いてたまらない。なにより、夏来の薄い身体に夢中になって、舌を這わせて、きっと誰にも見せることはない旬のこの姿を、夏来だけが見ることを許されているという事実が、夏来の身体を熱くさせた。
「別に、女性の身体に興味があるわけじゃないよ」
 顔を上げた旬がそう呟いて、夏来の唇を啄んだ。ぺろりと唇を舐めて、少し荒く吸われる。あの日倉庫でキスをした時みたいに、夏来のすべてを食べられてしまいそうだった。
「これは僕の……くだらないエゴだ」
 ぽつりと溢れた言葉が、夏来の上に落っこちる。それは夏来に訴えているようにも聞こえるし、自分自身を戒めているようにも聞こえた。
「間違ったことをしてると思ってるし、それをナツキに付き合わせてるのもわかってる。だけど僕は、確かな証拠が欲しかった。……僕だけがこうしてナツキに触れられるっていう事実が、欲しかったんだ」
 ぎゅう、と加減なく握られた手は小さく震えていて、夏来は心配になった。そのくせ表情はいつも通りで、まるで台本を読んでいるかのように静かだった。――いいや。多分、旬は自分の感情を押し殺すように、『いつもの冬美旬』を演じているのだ。淡々と流れてくる言葉に、これといった抑揚はなかった。
「ナツキは、きっと誰にも言わないから。理由も聞かずに黙って受け入れてくれると思ったから。だから僕は何も言わずに、エゴを押し付けて、甘えて、漬け込んだ。……それだけだよ、ナツキ」
 なんでもないように話す旬は少し俯いていて、夏来と目は合わない。それでもやっぱりいつも通りのジュンなんだな、と夏来は思った。これはきっと台詞ではなく旬の本当の気持ちであって、けれど全てを曝け出せるほどの勇気がないから、なんでもないように淡々と告げている。
 旬の中の葛藤を夏来は知ることができないけれど、あの日のように旬が求めている言葉はなんとなくわかるような気がした。きっと今も、旬は夏来に甘えている。
「……間違ってない、……と、思うよ」
 ヒュ、と空気を飲む音がした。弾くように顔を上げた旬と、今度はばちりと目が合った。
「ジュンがしたくてしたことなら、それは……、間違いじゃ、ないよ」
 旬が己の欲に忠実に動いて夏来を連れ込んだあの日には、明確な答えがわからずともそこには確かに旬が望んだものがあったはずで、旬は今日までずっとその答えを探していたのだ。
 そして、きっと旬はその答えを見つけたのだと思う。だからこうして、言葉にすることができているのだ。
「……俺は、どこにも行かないよ……ジュン」
 目を見開いたあと、くしゃくしゃに顔を歪ませながら旬は夏来を抱きしめた。少し苦しくなるくらいぎゅうぎゅうと抱かれながら、夏来は旬の体温を感じる。強く抱きしめられるのも、このあたたかさも、旬の大切な気持ちだ。
 しばらくしても動かないので、もしかして泣いてるのかな、と旬の顔を覗き込むと、充血した目がこちらを覗いた。赤くなってはいるけれど、泣いてはいなさそうだった。
「馬鹿だな、ナツキは……本当に……」
 その赤い目でじろりと睨まれて思わずぎょっとするけれど、待っていたのは旬からのキスで、夏来はそのまま目を閉じた。やっぱり旬とするキスは、あたたかい。
「……順番がめちゃくちゃでごめん」
 一度離れて、夏来の顔をやさしく包んだ旬は、申し訳なさそうに眉を垂らした。
「好きだよ、ナツキ」
 そう言って、旬はやさしく微笑んだ。
 差し込んでいた西日はもうとっくに沈んでいて、部屋の中は薄暗い。闇に塗れてしまいそうな旬をもっと近くで見たくて、夏来はゆっくりと顔を寄せた。
 好き、とはなんだろう。旬は夏来を好きだと言った。あの日、夏来もいろんな人を思い浮かべては好きだと思った。その中にはもちろん、旬もいる。それじゃあ旬の『好き』と夏来の『好き』は、同じ『好き』なのだろうか。
 旬の『好き』は、身体の奥が熱くなった。みんなに内緒でキスをする時みたいに、ゆらりと揺れる瞳に見つめられた時みたいに、ぐつぐつと何かが煮えている。あつくて、くすぐったくて、手の届かないずっとずっと奥がうごめいている。
「…………さわって、くれる……?」
 夏来ひとりじゃわからなかった。だって届かないのだ。何が夏来をこうさせるのかも、そこに何があるのかすらも、夏来にはわからないのだ。
「おねがい、ジュン……俺に、おしえて……?」
 旬がそうしたように、夏来も探したかった。探して、見つけて、理解して、それからきちんと旬に伝えたかった。旬が旬の気持ちと向き合ってくれたように、夏来も自分の気持ちをもっと知りたい。
 旬がふたりきりになりたがるのだって、キスされるのだって、身体に触れられるのだって、夏来は今まで断ったことはなかった。嫌だと思わなかったからだ。旬がなにを考えているのかはわからなかったけれど、旬に求められているから、嫌じゃなかったから、夏来は全て受け入れてきた。
 夏来だけを見ている旬の視線は心地いいし、旬とするキスはあたたかくてやわらかくて、絡み合う舌から溶けてしまいそうで、ひどく気持ちいい。だけど夏来の中にあるのはそれだけではなくて――これだけでは、足りないのだ。もっと奥に、もっとたくさん、旬が欲しかった。
「……なまえ、呼んで。ナツキ」
 嗚呼、そうだ。この目だ。
 ゆらりと静かに燃える瞳が夏来だけを捉えて、離さない。捕まった獲物のように、夏来の身体は自由が利かなくなる。その視線に、そのくちびるに、夏来は囚われて動けなくなる。夏来の全てが旬に支配されるようでたまらない。
「じゅん…………」
 自分の口から出たはずの音は上擦っていて、僅かに震えていた。それを聞いた旬は満足そうに微笑んで、キスをする。薄い身体を静かに這う手は、鍵盤の上を滑るように綺麗だ。焦れったい動作がくすぐったくて、もどかしい。
 はやく、とねだろうとした時、腹の上を這っていた手はいつのまにか下腹部に伸びていて、制服の上からやさしくそこを撫でられる。ひ、と声が引きつって、思わず両手で口を塞いだ。
「自分でここ、触る?」
「あ、あんまり……」
 そっか、と短く返した旬は夏来のベルトを緩めてするりとズボンを下ろした。
「僕がよくしてやるから」
 下着をゆるく持ち上げている自身を、旬は優しく撫でた。形をなぞるように、そこを白い指が滑るように這う。
 いつもは鍵盤の上を滑る、見慣れた白い指。その指を、その動きを、それを操る旬を、夏来はずっと前から知っている。まぶたの裏にその光景が浮かぶほど、ずっとそばで見ていたのだ。きっと誰よりも、その時間のことを夏来は知っていた。
 それが今、この瞬間。見慣れた指は夏来のものを愛おしいように撫でて、布越しにやわく握っている。溢れそうな声を必死に抑えている夏来を見る旬の表情がまた優しげで、熱っぽい。
 知らない。夏来は知らない。だってこの指は鍵盤の上を踊るもので、きれいな音をつくるもので、旬の音を奏でるものだ。夏来の熱を持ったそれに触れる時がくるだなんて、誰が考えただろうか。
 夏来よりもいくらか小さい旬の手は、しばらく布越しに夏来のものを愛撫したあと、ゆっくりと下着を脱がした。
「あっ、う、……っ」
 存分に愛でられたそれは布が擦れるわずかな刺激ですら馬鹿正直に拾ってしまうので、たまらない。旬の名前を呼ぶ上擦った自分の声も、溢れる熱い吐息も、まるで自分のもののようには思えなくて、うんざりするほどのその甘さに溺れてしまいそうだった。
「気持ちいい? ナツキ」
 昂ぶったそれを根本から扱き上げながら、耳元でそう旬は囁く。じくじくと熱を孕むものを握られて、どうしようもなく身体が疼いて、それが気持ちいいというのなら、そういうことなのだろう。わけもわからず、ただ夏来はこくこくと首を振った。酸素が足りない頭の中は真っ白で、目の前がチカチカする。これは、あの日とはまるで――
「ま、まって、出ちゃっ……ジュン、出ちゃう、から……っ!」
「出していいよ」
 そう言って握る手に少し力を入れただけだろうに、夏来はあっけなく果てた。腹の上に散る白濁をぼんやりと眺めながら、肩で息をする。未だに目の前は点滅していて、酸素は足りない。はくはくと餌をねだる金魚のようにみっともなく口を開けて、空気を体内に取り込む。いつのまにか果てたあとを処理し終えたらしい旬の唇が餌の代わりに降ってきたので、旬の吐いた空気をそのまま夏来が吸い込んだ。それから探り合うようにして舌と舌が触れ合って、絡み合う。足りないものを補うように、貪るように。
 下腹部にまた熱が集まるのがわかるのと同時に、足の付け根に違和感を感じた。どうやら旬も同じようで、ぴったりなサイズの制服がひどく窮屈そうである。夏来は一度抜いたけれど、触れてすらいない旬のそれは悲しいほどに布を押し上げていて、見ているだけでもきつそうだ。
「ジュン、も……して、あげる……、ね」
 身体を起こして、旬のベルトに手をかける。ガチャガチャと音を立てながら外そうとすると、どうしてか旬の手が優しくそれを制した。見上げると旬は困ったように眉を垂らしていたけれど、瞳の奥は未だにゆらりと揺れている。
「無理しなくていいよ、ナツキ」
 そういえば、夏来からこうして旬にしてやろうとすることははじめてだった。知識もなにもない夏来は待つことしかできなかったから、旬からすれば随分と珍しいことなのかもしれない。相変わらずなにもわからないし、夏来が触ったって気持ちよくもなんともないかもしれないけれど、触りたいと思うのは本心だった。
「してない、よ……俺がしたい、から、するの。だめ……?」
「……だめじゃない」
 そう言って折れた旬は、自分で手際よく脱いでくれた。一度も触られていないそれは布越しで見るよりよっぽど痛々しくて、夏来は思わず息を飲む。
「痛かったら、言ってね……」
 小さく息を吐いたあと、旬のものに優しく触れた。夏来にしてくれたみたいにやわく手のひらで握り、旬の動きを思い出すように上下に扱く。時折先の方を空いている方の手で軽く引っ掻いてやると、それに合わせて旬の身体は震えた。
 けれどやっぱり、旬が感じてくれているのかどうかはわからない。もしかしたら痛いのを我慢しているのかもしれないし、気持ちよくなんてないけれど悟られないように演じている可能性もなくはなかった。
 もしそうだとしたら、ひとりで善がってさっさと果ててしまったのは、あまりにも情けなく恥ずかしいことなのではないか。
 そう考えると途端に怖くなって、火照った身体が一気に冷めたような気がした。いくら知識不足とはいえ、自分の意思を押し通して触りたいと言い張った身である以上、虚しい思いをさせてしまうのはいけないことだ。旬の様子を伺って、どう触ればいいのか聞いてみよう。そう思って、恐る恐る顔を上げた。
 けれど。
「――ジュ、ン」
 今まで以上に熱く揺れる瞳は確かに夏来を捉え、それでいて夏来の髪を撫でる手は何よりも優しい。その目はだめなのだとついさっき感じたばかりなのに、夏来はそうプログラミングされたロボットのように動けなくなる。旬のものを握ったままの手を、先走りがつう、と静かに伝った。
「ナツキ……してみたいこと、あるんだけど」
 何かを堪えるかのように眉間に皺を寄せながら、旬は絶え絶えに言った。わけもわからずこくりと頷いた夏来は、旬の指示通りソファの上で仰向けに転がる。途中で机に放り出されたままの課題が視界に入って、そういえば、と記憶を取り戻した。今日はもともと、旬の家で課題を進めようという話だったのだ。
「そう、それで足持って。体育座りするみたいに」
「う、うん……」
 そのまま、と短い声が聞こえるのと同時に、閉じた太股の間を割るように熱いものが入ってくるのがわかって、全身が震えた。ゆっくりと侵入して、旬との距離もだんだんと近くなる。
 ごっこ遊びのようだな、と茹だった頭でぼんやりと考えた。言葉の響きは幼稚だけれど、していることは随分と背伸びしている気がする。――いや、高校生ならこんなものか。その辺には一等疎いので、よくわらないけれど。
「…………、ジュン、きもちい……?」
「……ん。…………なんか、変な感じ、だな」
「へん……?」
「ナツキと、こういうことするの」
 腰を緩やかに動かしながら、少し考えて今更か、と旬は笑った。きっかけは突然で、それでも夏来はあれから拒むことも、旬を避けることもできたはずだけれど、今こうして旬と『こういうこと』をしているので、本当にそうだと思う。旬の言葉を繰り返すように、夏来も「今更だね」とつぶやいた。
 動くたびに、ふ、と旬は短く息を吐く。こめかみから伝う汗が一滴、ぽつりと夏来の元に落ちる。見上げるようにしてそんな旬を見つめていると、視線に気がついた旬はなに、と優しく問うた。ゆるゆると首を振って、なんでもない、と答えて、太股を割いているそれに片手で軽く触れる。ひ、と引きつったような声を出したのは旬で、困ったように眉を垂らしながら夏来の名前を呼んだ。さっきから困ってばかりだな、と考えて、夏来はくすりと笑う。
「きもちい……? かなって、思ったんだけど……」
「そ、……れは……」
「嫌なら……、やめるよ」
「嫌じゃない……けど、」
「けど?」
「……結構くる」
「…………? なにが……?」
「なんでもない」
 ぐ、と強く押し込まれるように旬のそれが侵入して、夏来のものと擦れる。なに、ともう一度尋ねようとしたのに、突然押し寄せる快感が先行して声が出なかった。
「教えてって言われたのに、してもらってばっかりだ」
「そんな、こと、……」
 そんなこと、ないのに。むしろ、今も、今までだって、夏来は旬から沢山のものをもらってばかりだ。夏来に少し音楽の知識があるのだって、元を辿ればきっかけは旬なのだ。ずっと一緒に、ずっと横顔を見ていて、勝手にもらっていた。そんなことないのだ。まったく。
 言葉に詰まる夏来にせめて、と続けて、旬は夏来の手をそっとふたりのそれに重ねる。あ、と思わず声が漏れた。
「どうせ触るなら、一緒に」
「う、……ん、――ア……ッ」
 旬の動きに合わせながら、ゆるゆると上下に擦る。少しずつ速くなる律動につられて、夏来の身体もゆさゆさと僅かに揺れている。
 さっきはごっこ遊びなんて幼稚な言葉を浮かべたけれど、靄のかかった視界で快感に溺れそうになっていると本当に旬と『こういうこと』をしているんじゃないかと、少し考えてしまう。旬のそれを足で挟んで、それらしく旬が動いているだけなのに、もしかしていつのまにか繋がってしまったんじゃないかと、錯覚する。繋がる、なんて、何をどうするかもわからないのに。
「あっ……! ちょ、ちょっと、まって、ジュン……ッ」
「……っ、いきそう?」
「ちが、……う、……んっ、や、やだ……、ちがう、のに…………っ」
「ナツキ?」
 突然、身体の奥から迫り上がってくるような感覚が夏来を襲って、わけもなく駄々をこねた。確かにもうじき達しそうではあったのだが、それとは別の何かが、溢れ出てしまいそうだった。
 それを否定するように、夏来は懸命に首を振る。所詮、夏来のただの錯覚なのだ。酸素の足りない頭が作り上げた、幻に過ぎない。けれども身体が馬鹿正直にそう信じてしまったかのように、必要以上に色んなものを拾っている。自分の手と太股と旬のものに擦られ、支えるように旬の手が足に触れていて、旬が不思議そうにもう一度名前を呼んでいる。いつのまにか律動は止まっていたのに、身体は火照るばかりだった。
「ナツキ、どうした? やっぱり嫌だったか?」
「ちっ、ちが、う……そ、じゃ……なくて……」
「うん」
「わかん、なくて…………、わかってるのに、身体が……変で……」
「…………、なに?」
「だ、から、……えっと…………、」
 わかってるんだかわかってないんだか、結局どっちなんだよと、旬の目がそう言っている。そんな目で見られても、夏来だってわからないのだ。わかってるのかもわからないし、どうしてわからないのかもわからない。同じような言葉が頭の中で洗濯機の中みたいにぐわんぐわんと回り出して、どれがどれやらさっぱりだ。
 けれども旬は夏来の答えを待っているので、散らばった言葉を掻き分けてあれでもないそれでもないと脳みそを整理する。あのね、まってね、と必死に探していると、代わりに見つけたとでも言うようにああ、と旬は声を零した。それから目をぐるぐる回している夏来を見て、小さく笑う。わからないものが更にわからなくなって、夏来はぱちぱちと目を瞬いた。
「ジュ、ジュン……?」
「別に、今わからなくてもいいよ」
「な、なにが…………」
「今度、してみれば違いがわかるだろ」
「…………――へっ」
 ナツキがよければだけど、と付け足して、旬はまたゆっくりと動き出した。ア、と思わず声が出て、そのまま文字に起こすには短すぎる音をぽろぽろとこぼす。――してみるって、なにを。揺さぶられながら、わかりきっていることを聞いてみたくなって口を開くけれど、出てくるのはどれも言葉のなり損ないだった。
 そうか、今度があるのか、と、夏来はひとり納得した。今まで旬とは随分長い間一緒にいたけれど、どうしてか今日はこれきりなのだと漠然と考えていた。けれど、そうか。少なくとも、旬は今度があると思っているのだ。だったらきっと、そうに違いない。両手で足りないくらいの長い時間を過ごしてきたのに、これで終わってしまうなんてはずがないのに、どうしてそう思ってしまったんだろう。今日はわからないことだらけで、頭をたくさん使った気がする。糖分が欲しい気分だ。
「…………、ジュン」
「ん?」
「キス、……したい……」
 ギシ、とソファが軋んで、旬は夏来に覆い被さるようにしてキスをする。二、三度ほど角度を変えながら軽く唇に触れて、どちらからともなく舌を絡める。ん、う、と小さく声を漏らしながら、あるはずのない糖分を探すように、旬の咥内を貪った。どちらのものかわからなくなった唾液が、顎を伝って落ちてゆく。なんとなく甘い気がするのは、脳みそがぐらぐらと煮えてしまったからだろうか。
 キスをしながら、下もかなり限界に近いことを悟った。恐らく、旬も同じだろう。溢れる声が次第に大きくなっていくのを感じながら、無意識に旬の腕に縋る。あの日、旬が夏来を繋ぎとめようとしていたみたいに。
 ナツキ、とひどく甘い声で名前を呼ばれた気がして、けれど答えることもできず、旬と夏来はほぼ同時に達した。夏来の薄い腹の上にふたり分の精液が散らばっている。ぼんやりとした頭が重くて、起き上がることができない。
 するりと足の間から自身を抜いた旬は、わずかに空いているスペースに夏来と同じように寝転んだ。落ちてしまわないように、そっと旬を抱き寄せる。じっとりと汗をかいていて、ふたりでくっついているには少し暑かった。けれどそんなことも気にならずに足を絡めて、旬も答えるように夏来を抱きしめる。
 こうして並んで寝るのは随分久しぶりだな、と目の前の丸い頭を見て胸がぽかぽかとあたたかくなるのを感じる。後始末もしなくてはいけないし、そもそもふたりとも人前には出られないような格好なのでせめて下着を履かなければならないのだけれど、だんだん重たくなるまぶたには逆らえない。ぼうっとした頭と、心地よい疲労感と、それから馴染みすぎた旬の匂いで、条件は十分すぎるくらいだった。ナツキ、と同じくぼんやりとした声に言葉を返すことができたかどうかわからないまま、夏来は静かに夢の中へ引きずりこまれていった。
 あれ、そういえば。かろうじて留まっている思考が、ふと動き出す。そういえば、どうしてこんなことになったのだっけ。――おしえて、と言ったのだ。夏来が。ああそうだ、そうだった。わからないから、一緒に探してほしかったのだ。旬に尋ねるでもなく、ひとりで一つづつ解決していく。けれど結局、わからないものがたくさん増えた気がした。それでも旬は、今はまだわからなくていいと言ってくれた。今度があると。またこうすることができるのだと。だったら、次があるのなら、それでいいか。待たせてしまうことになるけれど、今はそれより夢の世界が手招きしていて、頭がまともに働きそうにない。
 ごめんね、と呟いたのが夢なのか現実なのかわからなくて、それでも確かめる気力も残っていなくて、夏来はそのまま沈むように今度こそ意識を手放した。


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