主人公名=イレブン
カミュ、と小さく名前を呼ばれて、カミュは後ろを振り返った。本当は床で正座をして待っていようかと思っていたぐらいだったのだが、そこまですると興奮が抑えられないただの変態のように見えてしまいそうで、いつものように――あるいはいつも以上に格好つけて、足を組み無表情を意識しながら椅子に座っていた。振り返る勢いが思ったより良かったので、あまり意味はなかったのかもしれないけれど。
振り返るとそこには、一見すると女物の洋服のような、ひらひらとした服を着たイレブンが立っていた。
紫色が映えるその洋服は明らかにイレブンの好みではないし、もちろんカミュも見覚えがなかった。どこかのおっさんを思い出させるその奇抜さに、思わず眉間にしわが寄ったのを思い出す。
荷物整理をしていたときの話だ。持ち物が増えてきたので、各自いらないものを選別して翌日それらを売りに行こうと提案したのはベロニカだった。一同がその案に賛成し、それぞれ荷物を抱えて部屋にこもったのだ。普段は大抵男女に分かれて部屋を取るか、テントの中で雑魚寝するのだが、今日はなんと一人につき一部屋設けられてある。
どう言うわけかって、ここ最近人助けであちこちを駆け回っていたせいか、お礼と言う名のお駄賃がいい具合に貯まったのだ。武具も最近新調したばかりだし、緊急で金が必要になる予定もない。たまには贅沢もいいだろう、というのも満場一致の意見だった。
けれど今、カミュはイレブンの部屋にいた。別に初めから何かやましい気持ちがあったわけではなくて、荷物整理が終わって暇を持て余していたから少し話し相手になってもらおうと部屋を訪れただけだ。その時はまさかこんな姿のイレブンを見ることになるなんて、もちろん思いもしなかったけれど。
普段から口数の少ないイレブンは、話を聞きながら首肯してきちんと話を聞いていることを主張する。先ほどもそんな様子で、うんうんと頷きながら途中だった荷物整理のため手を動かしていたのだ。
あ、とイレブンの口から声――というよりひとつの音のようだった――が漏れたのは、その最中だった。なにか重大なことがあったとかそういう雰囲気はなく、ただ何かに気が付いたような声だった。
「どうした、なんかあったか?」
丸まった背中に問いかけると、カミュの話を中断してしまったためか、やや申し訳なさそうな顔をしたイレブンが振り向いて見せてくれたのだ。
紫が映えるあの服を。
生唾を飲み込む、とは言ったもので、数秒間を空けてからごくりと喉がなった。普段隠れている白い足がひらひらした布からすらりと伸びて、その身体を支えている。十六歳らしい成長途中の細い脚だけれど、出会った頃よりたくましく思えるのも確かだ。健康的で、程よい肉付きである。
着心地が悪いのか、イレブンは落ち着かない様子で服の裾を掴んでいた。もぞもぞとぎこちなく動いているのは下に何も履いていないからか。いや、いくらなんでも下着くらいは履いているだろうけれど。
「そんな悪いもんでもないだろ。それ着て踊ってたんじゃないのか?」
これはシルビアが用意してくれたパレード用の衣装だそうだ。散らばった仲間を探していたところにシルビアと偶然遭遇し、突然パレードのリーダーを任されたイレブンはいつのまにかこの服に着替えさせられていたという訳らしい。――なんというか、この勇者さまのお人好し度は想像を遥かに超えている。しかもこの格好でひたすら踊り続けていたというのだから、驚きのあまり全身の力が抜けるところだった。
以前服をシルビアに返そうとしたそうだが、「イレブンちゃんにプレゼントよん」とかなんとか言われたらしく、それが今になって再び姿を現したというわけだ。
なるほど、と口では言ってみたものの全くわからないし、これを着ながら踊るイレブンも全く想像できない。確かにかわいらしいというか、年相応かそれより幼く見えるような顔立ちではあるが、体格は確実に男であるし、似合うのか似合わないのかと言われてもわからなかった。誰かに問われたわけではなくて、完全に自問自答なのだが。
だから、このお人好しな勇者さまに言ったのだ。俺にも見せてくれよと。
それだけだ。それだけだった。それがどうして、こんなにも。
少し遅れて、こくりと頭が動く。先ほどのカミュの問いに対する答えだろう。――ああ、本当に踊ったのか。この格好で、お前は。
イレブン、と名前を呼んだ。俯いたままだったイレブンはカミュの声で顔を上げて、不思議そうに見つめる。早く脱ぎたいという思いがその目に見られなくもなかった。けれどカミュは御構い無しに一歩、また一歩と近づいて、ひらひらとした布の上からイレブンの足を撫でるように這った。あ、とまた、イレブンの声が漏れる。今度はさっきの音よりも焦りの色が見えて、上擦っていた。
つう、と指先が太ももの上を滑る。せっかく目が合ったのに、イレブンはまた俯いてしまった。ほんのり耳が赤くなっているようで、カミュは自然と表情が緩む。大変なこんな時期に俺は一体何を、と僅かに残る冷静な思考を頭から追い出して、もう一度イレブンの名前を呼んだ。反省なんて、あとでいくらでもすればいい。カミュの声にも自然と熱がこもった。
こんなはずではなかったのだ。シルビアのおっさんが知っていることを自分が知らなかったから腹が立った訳でもないし、こうしてイレブンの身体に触れてどうにかしようと思っていたわけでもなかった。ただの興味本位で発した言葉に過ぎなかったのだ。
潜り込むように、布の下に手を忍ばせる。あ、だとかう、だとか、何かの動物のように、カミュの動きに合わせてイレブンは鳴いた。お互いにだんだんと息が上がってきて、薄っすらと汗をかいている。じっとりとした肌と肌がときどき触れ合っては、名残惜しそうに離れていく。
ああ、もう、だめだ。
一度思ってしまったら、もうだめだった。壁際に立っていたイレブンの足の間に自分の足をねじ込んで、退路を塞ぐ。どうか逃げないでくれなんていうこの場にそぐわない弱々しい気持ちも、ほんの少し。俯いたイレブンの顔を覗き込むと、控えめにこちらに視線を寄越した。瞳が潤んでいるのは、まさか自分が泣かせてしまったのだろうか。
「……ごめんな」
何に対しての謝罪なのかカミュ自身にもわからなかったけれど、イレブンのそんな顔を見てすぐに出てきたのは口だけの謝罪だった。案の定なんのことだかわからないイレブンは、目を少し見開いて驚いていた。それよりももっと驚くことを、お前に散々しているだろうに。
目が合って数秒、もしくは数秒にも満たない短い時間、イレブンはカミュをじっと見つめたあと恥ずかしそうに小さく笑った。弧を描く薄いくちびるが、鼻にかかったような声が、ゆっくりとカミュの名前をなぞる。
ぶわりと、汗が吹き出した。心臓が止まったとさえ思った。
目の前が真っ白になって、それでも確かにイレブンはそこにいて、カミュの名前を呼んでいる。勇者でもなんでもないただの十六歳の男が、旅の相棒ではなくひととして、今この瞬間、他の誰でもないカミュを求めていた。
どうして。ぽつりと、不意に浮かんだ疑問が音になりそうだったのを、どうにか飲み込んだ。
「顔、見せてくれよ。イレブン」
お人好しなのか、求めているのか、イレブンは素直に顔を上げて二人の視線は呆気なく絡んだ。互いの瞳に吸い寄せられるように、距離は縮まる。イレブンの吐息がくすぐったかった。
ただの、十六歳の男だった。成人したばかりのまだ幼さが残る彼は、ただまっすぐにカミュを見つめていた。頬を、耳をほんのり染めて、濡れた瞳がカミュを映している。
どちらからともなく近づいて、触れ合うだけのキスをした。イレブンが笑って誤魔化せば、カミュが冗談だと言ってしまえばなかったことになるくらい、くちびるが触れ合ったのはほんの一瞬だった。イレブンのくちびるがあまりにもやわらかくて、どうにかなりそうだった。
見つめ合って、もう一度求めるように、今度は何度も角度を変えながらキスをする。空気と一緒に漏れるイレブンの掠れた声が、たまらなくカミュを高揚させた。もう、冗談だとは言えなかった。
ああ、どうして。どうしてなのか。胃の底からせり上がってくるどうしようもない感情が、溢れてしまいそうでたまらなかった。
目の前にいるのは、かつては普通の男の子であったのだ。痛みも悲しみも怒りも恐怖も、その全てを嵐のように全身に浴びて、傷付いて、傷付いて、傷付いて、癒える間もなく傷付いて。それでもなお顔を上げて、剣を掲げて、家族を、仲間を、世界中の人々を守るために勇者という鋼のように重たい肩書きを背負って、世界を救おうとしているのだ。十六年と少ししか生きていないこの青年に『勇者』だなんてまるでお伽話に出てくるような大層な名前を与えて、たったひとりにこの世界というとんでもなく膨大なものを救わせようとする神は、人は、なんて身勝手なのだろうか。
カミュの名前を呼ぶ声が、ひどく震えている。不安と、緊張と、少しの期待が、声に乗って伝わってくる。心臓が痛かった。それよりももっと、もっと奥の、手が届かないようなところが苦しくて、悲しかった。カミュの中にある感情が、イレブンに対する意識が、勇者という存在が、綺麗に仕分けされていたはずの箱が全てひっくり返って何が何だか分からなくなった。どこに何があったのかも、どこで仕切られていたのかも、分からなかった。
ただそこには年下の青年がいて、彼はカミュを見つめている。カミュの名前を呼んでいる。カミュを、求めている。たったそれだけだ。勇者だとか、魔王だとか、世界だとか、そんなものはここには関係なくて、線引きなんて必要なくて、ただカミュはそれに答えればいいだけなのだ。だのに、どうして人々は、世界は、神様は。ああ、どうして。どうしてなのか。
どうして俺たちは、こんな出会い方を。