季節にそぐわないような空模様の下、泉はひとつく小さなしゃみをした。先日までは気温も高く春らしい陽気だったのだが、どうやら今日はそうはいかないらしい。せっかく咲き始めた桜も曇り空を背景にするのには気が向かないだろうし、何より春らしさが感じられないのが少し残念だ。

 年度が変わり、無事皆が進級することができた西浦高校の野球部は、またいつものようにグラウンドに集まって各自アップを始めている。春休み中も毎日練習は行なってきたのだが、やはり学校があるとのないのでは雰囲気も違うものだ。このあと授業があると思うと何だかやるせない気持ちにもなったが、さっそく単位を取り損ねたりしたら例の彼女が黙ってはいないだろう。
 そこまで考えた泉も、むず痒い鼻を啜ってからグラウンドに入っていった。

「おっす泉ー、今日遅かったな」
「あー、そうか?」
「おう……ってか、鼻赤くね? 花粉症?」
「花粉症は持ってない」

 何だか重たい体を動かしてのろのろと着替え始めると、田島の急かす声が遠くから聞こえた。どうやら阿部に三橋を取られたため、ペアが居なくなってしまったようだ。丁度近くにいた浜田とやろうとでも思っていたが、田島がああして呼んでいるのならば仕方が無い。ようやく着替え終わった泉はやれやれと溜息を付き、帽子を手に取ろうと手を伸ばした。

「……あ」

 するとどういうわけだか、その拍子にバランスを崩してしまい、あまりにも簡単にその場に倒れてしまった。それと同時に周りの心配の声も聞こえるような気がしたが、その声は段々と遠くなっていった。目の前が真っ暗になり、冷や汗が吹き出して血の気が引いていくのがわかった。終いには頭がガンガンと鳴り響いていて酷い頭痛がする。
 泉は、突然に意識を手放してしまったのだ。



***



 見慣れたグラウンド、手に馴染むグローブ、懐かしい風景。目を覚ました泉の視界に飛び込んできたのは、少しのセピア色がかかった世界だった。そして、一通り辺りを見回した泉はここが何処なのかがすぐにわかった。
 ここは、昔浜田とよくキャッチボールをしていたグラウンドだった。

「なんだ、もう来てたのか! どうせなら
行く前に声掛けてくれよ」
「……浜田」
「よーし、じゃあいくぞ泉!」

 記憶に新しい浜田と比べるとかなり小さくて幼い浜田は、相変わらずな様子でグローブを填めた手をブンブン大きく振っている。
 キャッチボールをしている内に、泉は何故自分がここに居るのかということを冷静に考え出した。確か、目を覚ます前は学校のグラウンドにいたはずだ。気怠さを背負ってひとり遅れて来て、浜田に話しかけられて、着替えた記憶もある。
 そうだ、そのあと、帽子を取ろうとしてバランスを崩してそのまま気を失ってしまったのだ。

 ああ、それならこれはちょっとした夢なのかもしれない。そう泉は思った。だって、この場所にはもう随分と来ていないし、小さい浜田とキャッチボールをしているのだ。これが現実なわけがない。

 それはそうと、よく考えればこうして浜田とキャッチボールをするのは酷く久しぶりである。昔は学校帰りに必ずと言っていい程毎日この場所に来て、ボールを投げ合っていた。休みの日にはバットを持参して打ち合いをしたりもした。

「……懐かしいな」
「なんか言ったかー? 泉」
「いや、なんでもねーよ」

 今では浜田の体のことも考慮して全くしなくなったし、そうでなくても今更二人でキャッチボールなんてこっぱずかしいことは出来ない。
 だが、こうやってまた浜田と投げ合っているのは、やはり楽しかった。もっと投げていたい。打ち合いたい。共にあの興奮を分かち合いたい。そんな風に、既に体が「野球がしたい」と疼いているようでなんとも落ち着かなかった。

 何より、浜田と同じくグラウンドに立ちたいと強く思ったのだ。



***



「いっ、泉! やっと目ェ覚めた……!」

 薄っすら瞼を開けると、目の前に金髪の見慣れた顔があった。なぜだか目は赤く腫れ、涙目になっている。
 まだ意識が朦朧とする中、浜田は泉の手を取り、感激のあまりブンブンと大きく振り始めた。

「お前、急に倒れるんだもんよ。微熱だったらしいし、もう一生起きないんじゃないかって俺超心配してたんだかんな!」
「……デカイ」
「はっ?」

 散々夢で幼い浜田の顔を見たからか、急に成長したかのように思えて、少し面白い。

「……夢で、お前とキャッチボールしてた」
「キャッチボール? あ〜。よくやったなァ、毎日放課後に」
「相変わらずウザかったけどな」
「ひでぇ……」

 今だってキャッチボールくらい出来ると肩を回して見せた浜田だが、泉はそっと目を逸らした。

 彼が野球が出来ない悲しみに絶望している姿は今でも忘れられない。これはきっとこれから先も忘れることはないだろう。

 泉はずっと浜田と野球をするつもりでいた。というより、特にそういったことを意識していたり、願っていたわけではないが、そういう予感がしていた。きっと中学、高校と先輩後輩の関係を保ちつつ、お互い良いライバルになるのだと予感していたのだ。
 しかし、あまりにもあっさり破られてしまったそれは、泉にとっても悲しく、また非常に理解し難いことであった。まさか、あの浜田が野球を断念することになるなんて。

「んじゃ、今度久しぶりにキャッチボールでもすっか!」
「……」
「泉?」

 そんなことあるはずがない。そう思ったのだ。

「……野球したくなるから、やだ」

 彼の背中を追いかけて、いつかは追い抜いてみせると心の中で誓ったあの時。いくら振り向いてもあの目指した背中を見ることが出来ない今。そして、何処かで気付いていたけれど、気付かない振りをして背中を向けていた、この想い。

「お前と、野球したくなるから、いやだ」

 様々な想いが涙と化して溢れんばかりに流れ、白いシーツを濡らした。
 何故泣いているのかなど、泉でさえわからない。ただ、どうしょうもない程に流れ続けるこの涙はいくら目を擦っても止まらなかった。

「ええっ、泉、泣いてんのか?」
「う、うっせェ、こっちみんなっ……!」
「俺と野球出来ないから? マジ?」
「だからうっせェってーー」

 次の瞬間、泉は浜田に抱き寄せられた。すぐさま離れようともがく泉だが、より一層抱きしめる力が強くなる一方である。

「ちょっ、おい、浜田! 離せ!」
「……サンキューなぁ、泉。俺今スッゲー幸せだわ」
「は……?」
「俺も、お前と思いっきり野球してーなぁ」

 ずずっと、少し上の方で鼻を啜る音がした。それに釣られて、泉も控えめに啜る。保健室のベッドで何をしているんだと我に返るが、泉を縛るこの手はどうも離してくれそうもないので、大人しく黙っていることにした。そういえば、自分は熱があることを忘れていた。それじゃあきっと、この鼻水は風邪のせいなのだ。
 泉はそう思うことにして、気付かれないようにそっと浜田に怠い体を預けた。


title by Rachel


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