べつに、意識なんかしていなかった。ただ目の前に、酷く白い背中があって、それに全てを吸い込まれそうになって、慌てて目を逸らした。それだけだった。それを見たのはあの日が初めてというわけでもなかったのに、あの日の白はやけに潔くて、それでいてとてもか弱そうに見えた。
 ただ、偶偶、視界に映ったのだ。酷く白い、紫色の痣が目立つ、その背中が。



***



 ふたりの呼吸がその内合わさればいいのにと、日向は叶いそうもない夢を抱いた。
 同じボールをこっち側で追いかけていたとしても、彼はいつだって先を見ていた。日向は隣にいるのに、ボールを呼んでいるのに、彼は顔を寄越さなかった。それでも、そこらに落ちている石ころのように無視されているのかと聞かれれば、そうではないと日向は答える。日向が隣にいることをわかっているし、呼んだらきちんと応えてくれる。けれど、違った。それは日向が望んでいる彼との距離ではなかったのだ。

 それなりに、前向きに考えたこともある。何処の誰よりも彼と過ごす時間が多い自信はあったし、いつかの彼を見捨てた奴らとは違って日向はずっと彼の側に居たいとも思っている。彼が孤独を嫌い、孤独に怯えていることも、わかっている。
 けれど、やっぱりあの大王様は、ちっぽけな日向の力では当分倒せそうになかった。



***



「ねえ、ソレ、いたそう」

 なんでかは忘れたけれど、あの日の部室には日向と彼のふたりしか居なかった。日向がボールをせがんでいたら、他の部員が帰ってしまっていたとか、多分そんな理由だ。思い切り跳んだのと同時に、誰かの声に答えたような、気のせいのような。
 とにかくそこにはふたりしか居なかったので、日向の声はやけに響いた。思わず口にしてしまった言葉に、日向自身も驚いた。けれど彼は、特に気にした様子もなく、ただ平然と言葉を並べた。

「別に、痛くねえ」

 嘘つき。日向はそう言ってしまいたかった。でもそれを言ってしまえば、彼は更に傷つくことを日向は知っていたので、尚更言えなかった。

「いたくないの」
「おう。痛くねえ」
「なんで。なんでいたくないの」
「さあ。痛くねえから痛くねえ」
「わけわかんない」
「俺もわかんねえ」

 一秒とか二秒とか、それくらいあけてふたりで少し笑った。ああ、この顔好きだなあ、なんて思いながら、調子に乗ってバカだのアホだの言ってやった。言いたいことは山ほどあるのに我慢してやってるんだから、これぐらい許してほしい。
 着替えた後も、なんとなく部室に残った。いつもは即行で部室を出て行くのに、あの日はふたりともそうしようとはしなかった。数学の先生が怖いとか、今の体育は詰まらないとか、そういえば昔あんなテレビを見ていたとか、本当にどうでもいい話をした。バレー以外で彼とこんなに話すのは、もしかしたらあの日が初めてかもしれない。
 楽しかったのに、やっぱり楽しい時間はすぐに終わってしまうんだなと、日向は寂しく思った。彼の制服のポケットに入った携帯が、震えたのだ。
 嫌な予感がした。見ないで、触らないでと言いたかった。でも、それより先に彼の手が動いてしまった。薄暗くなった部室にぼんやりとした光が現れる。彼の顔も、ぼんやりと照らされる。悲しそうな、痛そうな、よくわからない顔をしていた。

「なんで、大王様なの」

 我慢ならなかった。だって、あんなに優しく笑うことができる彼に、こっちが泣きたくなるぐらいの悲しい顔をさせるなんて、我慢できるわけがなかった。日向には、彼を笑わせることができる。けれど、大王様には彼を悲しませることしかできない。
 そんなの、彼のしあわせじゃない。

「さあ。なんでだろうな」

 黒いエナメルバックを手にした彼は、日向の顔を見ずにそう答えた。
 まただ。また見てくれない。彼はきっと、画面の向こうにいる大王様を見ている。日向は今目の前にいるのに、彼はその先を見ている。ずっとずっと、届かないくらい遠くの方を。

「おれ、おまえが傷つくのやだ。おまえ、笑えんのに、なんでそんな顔しなきゃいけないんだよ。やだよ、やだよおれ」
「そうだな。俺も、やだな」
「じゃあなんで、なんで大王様なの。おれは、おれはだめ? おれおまえが好きだ。大王様よりいっぱい、いっぱい好きだ。ずっといっしょにいる、ぜったいいっしょにいるから」
「お前、それアレみたいだ、ぷろぽーずってやつ」
「いいよ。ぷろぽおずでいいよ。だって、いっしょに世界まで行くんだろ。約束しただろ。そんで、世界まで行っても、それからもいっしょだ。ずっとずっと、いっしょにいたいよ、影山」

 泣きたかった。どうしてって、彼は、影山は、それでも日向の顔を見ようとはしなかったから。ぼんやりとした光はもうないけれど、影山はやっぱりその光の先を見ていたから。
 すっかり暗くなった部室は、近くにあるはずの影山の顔を黒く塗りつぶした。きっと、影山が日向の顔を見ても、同じように真っ黒に染まっているんだろう。もう、影山がどんな顔をしているのか、わからなかった。

「なんかいってよ、影山」

 日向の声が響いた。これじゃあまるで、振り出しに戻ったみたいだけど、さっきのより随分声が擦れて、馬鹿みたいに震えていた。恥ずかしかった。
 女の子って大変なんだなって、こんな時にそんなことを思った。勇気を振り出して相手を呼んで、自分が口にできる精一杯の言葉を選んで、並べて、緊張で頭がグラグラ煮だって、何を言ってるのかわからなくなって、それでも頑張って想いを伝えようとして。今なら、ほんの少しだけ女の子の気持ちがわかる、ような気がした。

「俺と、及川さんは、お前が思ってんのとは多分ちげえ。コイビトとかじゃないし、俺が及川さんをスキとか、その逆とかも、ない。そもそも、スキとかレンアイとか、わかんねえ」
「……おう」
「そんで、お前のスキは、その、そっちの意味だろ、多分。だから、それと、及川さんのを比べんのは、もっとわかんなくなる」
「ばかだな、おまえ」
「うっせえ」

 少し手を動かしたら、影山の手に当たった。影山はすぐに引こうとしたけれど、日向はそれを許さなかった。手のひらを見つけて、ぎゅっと握ってやる。この間テレビで見た、コイビトツナギで、だ。きっと影山は、コレを知らない。
 影山の手が熱い。照れてるのか、怒ってるのか、もともと熱いのか、それはわからないけれど、日向は自分のいいように解釈した。これで耳まで赤くなっているなら、願ったり叶ったりである。
 影山のか、日向のかわからない手汗がベトベトとまとわりつく。気持ち悪いのに、心地よかった。

「……関係ないお前に、助けろなんてムセキニンなことは言っちゃいけねえと思うから、言わねえ。し、言ったとしても、負けた気になるからどっちみち言わねえ」
「おう」
「それと、お前にこれから先何言われようと、俺はお前か及川さんかなんて、選べない。比べるアレじゃねえのはわかってっけど、多分無理だ」
「……おう」
「だけど、俺は、お前といっしょに世界に行きたい。いっしょに、バレーをやりたい。
 そう思っちまうのは、多分お前と、お前とのバレーが好きなせいだ」

 
 今度は、影山の声が響いた。日向のものりかはマシだったが、彼の声も震えていた。そう思ったのは日向だけかもしれないが、この部室には影山と日向のふたりしか存在しないのだから、日向だけがそう思ってもいいじゃないかと、日向は思った。
 


***



 怖かったのだ。眩しすぎる光の中に飛び込むことが、とても怖かったのだ。それは手を伸ばすことすら、億劫だった。だから、見れなかったのだ。もし見てしまったら、この眼が潰れてしまいそうで、無意識に目を逸らしていたのだ。
 その反面、生温かいあの空間は居心地が良かった。だから、抜け出せなかった。もしあの空間から逃れてしまったら、この身が凍えてしまいそうで、その生温かい麻薬の思うがままに流されていたのだ。

「トビオちゃん、お前はバカだね、ほんとうに」
「そのバカにハマってんのは、誰ですか」
「ハマってるなんて下品ないい方やめてよ。そんなんじゃない。俺はお前にしあわせをあげてるんだから」
「自分をシアワセにしてるの間違いでしょう」
「はは、まさか。お前が俺をしあわせにできるわけないでしょ。自惚れてんなよ、飛雄」

 日向は、大王様はとても強くてかなわない相手だと。影山は、及川徹という男はきっと世界で一番可哀想な生き物なのだと、そう思った。



***



 切れかかっている街灯がチラチラと灯る道を、のんびりふたりで歩いた。途中、肉まんをひとつ買って、半分に割って食べた。ふたつ買おうとしたのに、影山の財布は悲鳴をあげていたので、日向が奢ってやったのだ。
 日向はとてもしあわせだった。影山と並んで、同じものを食べて、同じ道を歩いていく。もうそれだけで、十分満たされた。
 影山は、遠くの空の星の数を、数えていた。


title by 白群


2014.11
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