※モブ月描写あり
重たい扉を開けた瞬間、黒子の心臓は停止したかのように思えた。酸素の吸い方を忘れたまま彼の名前を呼ぶが、それは音にはならずに二酸化炭素として吐き出される。酸素は未だ吸えていない。ヒュウヒュウと喉が鳴った。それは黒子のものではなく、彼が発したものだった。苦しみながら酸素を取り込もうとしているのが、音を聞いただけでわかった。僅かに入り込む夕日が、彼の黒髪を赤く染める。どろりとした血のように見えて思わず身体が震えた。
呼吸を整えて、きちんと酸素を吸ってからまた彼の名前を呼んだ。聞き取れる程度の音にはなったが、今度はみっともなく震えてしまった。足元に転がる彼は名前に反応しない。死んでしまったかと思ったが、さっき彼の喉が鳴っていたことを思い出す。大丈夫、死んではいない。そう自分に言い聞かせてもう一度名前を呼んだ。しばらく間を空けたあと、返事代わりに彼の瞼が少し震える。大丈夫、生きていた。黒子は大きく息を吐いた。
「伊月先輩、何があったんですか」
「誰かと思った……脅かすなよ、黒子」
「驚いたのは僕の方です。此処で何があったんですか」
「大丈夫だよ、もう平気」
「答えになっていません」
伊月はもう答える気はないようで、立ち上がるのに肩を貸してくれと言い出した。薄暗いせいで分かりにくいが、彼の体にはいくつもの痣とほんのり赤い痕があった。かなり乱された服装は風紀委員である伊月からは到底想像できないもので、これらの条件から導かれた答えに気付いてしまった黒子は泣きたくなった。けれど、本当に泣きたいのは黒子ではなく当の本人である伊月の方で、それでも泣かないのはいかに伊月の中の伊月自身の存在が小さいかということを表しているのだと思った。
「伊月先輩、どうして黙っていたんです」
「必要ないからだよ」
「必要が、ですか」
「そうだよ。必要ないんだ」
何が、とは言えなかった。もし聞いたら、伊月はなんと答えるだろうか。その答えを聞いてしまったら、伊月は消えてしまうかもしれない。死んでしまうかもしれない。黒子にとって、そんなことは耐えられなかった。
「そういえば、黒子はなんで此処に来たんだ? この倉庫は随分使ってないみたいだし、用事なんかないだろ」
「その使っていない倉庫に人が頻繁に出入りしていたので、何かあるのかと」
「そりゃあ、あれだけいれば不思議に思うよなあ」
伊月は俯きながら痛々しく笑った。
彼はどうしてこんなにも自分が傷付く生き方をしたがるのだろうか。他にも道は山ほどあるだろうに、伊月はあえてその道を選んで、歩んでいる。ボロボロになりながら、誤魔化しながら生きている。なんてかわいそうな人なんだろうと、黒子は思った。
「……帰りましょう、伊月先輩。他のみんなが心配してしまいます」
「ああ、そうだな」
「伊月先輩」
「大丈夫だよ、そんな顔するなって。痣は目立つけど痛くないし、もう平気だから」
乱れていた服装はいつの間にか整っていて、目の前にいる伊月はいつもの伊月であった。苦しそうな呼吸も、痛々しかった笑顔も、もうそこにはなかった。
伊月を見て、今回が初めてというわけではないのだろうと黒子は思った。こんなことは決してあってはならないはずなのに、伊月は当然のように受け止めている。黒子にはわからなかった。彼には信頼できる仲間がすぐ近くに居るのだから、押し潰されてしまう前にその仲間に話しを持ちかければいいではないか。きっと日向をはじめ、誠凛バスケ部全員が彼のために力を合わせ、全力で協力するだろう。なのに何故、自らボロボロになってまで手を伸ばそうとしないのか。黒子には、何もわからなかった。
夕日に照らされる伊月の横顔はぞっとするほど綺麗だった。そして、強い風に吹かれたら簡単に崩れてしまうかもしれないと、しょうもない心配をした。伊月俊という男は決して弱い人間ではないのに、壊れていくイメージが脳内で再生されてしまう。しかし、そう思ってしまうほどに伊月の姿は脆く儚なかったから、本当に触れただけで消えてしまいそうな気がした。
この人はこれ以外の生き方を知らないのだ。黒子がおかしいと思っている生き方を、伊月は当然だと思っている。この方法しか存在ないと思っている。少し周りを見回せば沢山の道が見つかるのに、伊月は下を向いてただひたすらに突き進んでいるのだ。かわいそうだと思った。馬鹿馬鹿しいとも思った。もう黒子には彼のためになるようなことをしてはやれない。黒子では役不足なのだ。
伊月と過ごしたこの数分間を、ふたりきりだったあの時間を、どこかに置いておければよかったのにと、黒子はそっと瞼を閉じた。怒鳴られた伊月の嬉しそうに笑う声だけが、真っ暗な闇の中に響いた。
title by Rachel
(君はどうしようもなく愚かだね)