※前世の記憶がある伊月


 いつだったか、伊月が教えてくれた。
 『愛してる』という言葉がなかったその時代、夏目漱石の生徒が『I love you』を『我君を愛す』と訳したところ、日本人がそんな台詞を口にするものか。日本人ならば『月が綺麗ですね』でも訳しておけと、そう言ったそうだ。日向は鼻で笑った。なぜ『愛してる』が月の話に変わってしまうのだ。話が逸れてしまっているではないか。それに生徒の訳の方が意味もそのままでわかりやすいだろうと。しかし伊月は先に話を進める。一方、小説家の二葉亭四迷は『I love you』を『私、死んでもいいわ』と訳したのだと。日向は今度こそわけがわからなかった。なぜ愛しているのに死なねばならないのだ。愛しているのなら大切にしてやればいいだろうに、昔の人の考える事は自分には到底理解出来ない。そう言った。日向にしてはらしい意見だがと、伊月は少し肩を竦める。日向はもう少し頭を捻らなければ。これはお前が思っている以上に奥が深いのだと。しかし日向の脳は既に許容力を超えてしまったようで、現代人は素直に『I love you』と伝えれば良いのだと言って考える事を放棄した。呆れた伊月は今度は大袈裟に肩を竦めて見せた。
「ーーもしさ、俺がお前に『月が綺麗ですね』っつったら、お前どう答える?」
「日向が? ははっ、そしたら、そうだなぁ、何て言ってほしい?」
「おい、俺今ワリと真面目に聞いてんだけど」
「ああごめんごめん、日向がそんな事聞くなんて珍しくて、つい」
「あのなあ……」
「俺は、そうだね、多分――」
 『私、死んでもいいわ』とは言わないな。伊月はヘラりと笑ってそう言った。なんだそれ、それじゃあ俺はフられんのか。日向は不満げに伊月を睨む。違うよ日向、そうじゃない。だって、愛し合っているのに俺だけが死んでしまうなんてそんなの不公平じゃないか。日向が生きるなら俺も生きたいし、日向が死ぬなら俺も死ぬよ。『I love you』って、そう言う意味だろ? 日向は成る程と思った。そうか、そういう事なのか。
 伊月に納得したことがばれないように、そうだなあと呑気に答える。俺も伊月に先に死なれても困るなあ。だから早死にすんなよー、ダァホ。伊月の背中を強めに叩く。彼は日向に比べたら細い体をしているので、簡単に体がぐらついた。いってーな、するわけないだろ早死になんて。日向も長生きしなきゃダメだからな、だあほ。伊月も負けじと背中を叩く。日向の体はほんの少し揺れた程度だった。
「――あの日もさ、満月だったよね、日向」
「あ? あの日っていつだよ」
「え、やだな忘れたの? あの日満月だから月を見に行こうって日向を誘ったんだよ」
「わざわざ月を見にか?」
「それで日向が言ったんじゃないか。『月が綺麗ですね』って」
「はぁ? 俺が? 言ってねーよそんなこと」
「なんだよ日向、覚えてないわけ?」
「それ、アレだろ? 夏目漱石の。俺そんな柄じゃねえし、月も見てねえよ」
「嘘だ、日向は俺に言ってくれたよ、『月が綺麗ですね』って、『貴女と見る月はとても綺麗に見える』って、俺に、言ってくれた」
「だから、俺そんなこと言えねーって。夢でも見たんじゃねえの?」
 ああでもほら、なんなら今日言ってやろうか。曇が掛かってちょっとしか見えねえけど。『月が綺麗ですね』ってのは、『愛してる』って意味なんだろ? いくらでも言ってやるよ、そんなもん。
 違うよ日向、違うんだ。伊月は首を大きく横に降る。違うんだよ日向。それはね、『愛してる』っていうのはね。
「『愛してる』が『私、死んでもいいわ』って訳されてるのは、きっと愛と死が紙一重だってことなんだと俺は思うんだ」
「は? なんでだよ」
 あれ、これ前にも言わなかったかな。まあいいや。伊月はええっとと言葉を紡ぐ。
「つまり、これから先貴方を愛していく上で、私は死をも覚悟しています、貴方を愛している限り、死など恐れることはない、みたいな」
「……お前、ポエムとかそういうの向いてんじゃね」
「ちゃんと聞けよ日向」
「でもまあ、お前の考えも解るけどよお、なんか重たくねぇか?」
「重い……?」
「あー、ほら、なんつーの? 背負い過ぎっつーかさ。死ぬとか何とかまで背負わなくたって、好きなもんは好きなんだからそれでいーだろ」
「それなら愛してるって言わずに好きだって言えばいいだろ」
「んな好きも愛してるもさほど変わんねぇだろーが」
 違うんだよ日向。そうじゃない。好きは『like』で愛は『love』っていうだろ。中学の時に英語でやったじゃないか。
「それに、そんなに沢山言われてもなんだか有り難みがなくなっちゃいそうだし」
「お前ってワリとめんどくせーよな……」
「だってそうだろ? そのうちごめんの代わりに『愛してる』って言われるようになったら俺は堪らないよ」
「そんなもんかァ? わかんねぇな俺は」
 嘘付き。日向は解っててあの日『月が綺麗ですね』って言ってくれたんだろ。意味が解らなくて日向を見つめていたら丁寧にその意味を教えてくれたじゃないか。――そうだよ、最初に教えてくれたのはお前じゃないか、日向。それを忘れた、だなんて。照れ隠しのつもりなのかもしれないけど、それにしてはちょっとタチが悪いよ。絶対日向なら覚えてくれてると思ったのに……残念だな。
 でもほら、ホントに月キレイだぞ。日向は空に浮かぶ大きなそれを差した。伊月は満月だからね。当たり前だよ。そういう意味を込めてうんと頷く。
 月光に照らされているのか、街灯に照らされているのか解らない日向の後ろ姿を伊月はぼうっと眺める。
 伊月はもう随分長いことこの背中を見てきた。

『ーーへぇ、物知りなんやなぁ、相変わらず』
『実は今日せんせから教わったんだ。日本人はこう言うたら伝わるんやて。かっこええなぁ』
『ヒュウガはんは江戸からいらしはったんでしょう? 話し方が変に混ざっとる。わざわざ江戸からこないな所まで』
『別に意味なんかはないさ。けど、ここに来たことで御月さんと出会う事が出来た。こうして君と話しとる時間が凄く楽しいんだ。その度やっぱりここに来てよかった思うんよ』

 日向に出会ってから、どれだけ時間がたったのだろう。そう思うたびに、覚えきれない年月の間ヒュウガと一緒に居るのだという事実にとても興奮する。
 あの時貴方はごめんと謝った。ひとりにしてごめん。守ると言ったのに、先に逝ってしまう事になってごめん。君を、御月を見送れなくなってしまって、ごめん。そう涙を流していた。
 けれど、もう大丈夫。泣かなくていい。謝らなくていい。貴方を見つけられたから。もう一度貴方に出会える事が出来たから。日向と、ヒュウガと、またこうしてあの日と同じように月を見る事が出来たから。
 俺はずっと、これからもずっと、日向の隣に居るから。だからまた、あの日みたいに二人で大きな月を見よう。日向が忘れてしまったなら、俺がまた何度でも教えてあげるから。
 だから、お願いだから、今度は置いていかないで。逝くのなら俺も一緒に連れて行って。ひとりは、とても冷たいんだ。
 日向が居ない世界はなんて冷たいんだろう。日向が居た世界はなんて暖かかったんだろう。
 日向が居るだけで、世界はこんなにも変化する。

 帰るか、伊月。そう言って日向は伊月の指を絡め取る。日向の手、あったかいね。伊月は日向の手を強く握った。お前は冷てーからな。俺の手があっためねえと伊月の手が凍えちまう。それじゃあ、俺は手が冷たくてもいいや。日向が居れば、いつでも手をあっためてくれるね。そうでしょう? 日向。お、おう。日向が照れ臭そうに頷いた。伊月はとても嬉しそうである。
 ねえそうだ、聞いてよ日向。少し背の低い伊月が日向の耳に口を近づける。
 
「遺棄した死体も息したい、キタコレ」




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