どくり、どくり。

 血液が流れていくさまを手のひらで感じながら、温かいんだなあなんて当たり前なことを思う。けれど出久の方が体温は高くて、下で時たま苦しそうに咳き込む勝己の顔色は青白い。酸素が十分に回っていないのだろう。額には脂汗が滲んでいる。かわいそうにとその汗を拭おうと手を添えると、汚い害虫をあしらうように出久の手が弾かれた。じんと痛みが広がるけれど、これまでのものに比べればなんてことはない。かわいいものだ。何もなかったかのように再び額に手を伸ばすと、今度はジロリと切られてしまいそうなほど鋭い目で睨まれる程度で、拒まれはしなかった。いや、これは彼が今できる限りの拒絶なのだろうが、それは虚しく、出久には微塵も伝わらなかったようだ。

 どくり、どくり。

 気付けば、こうなっていた。血走った目で出久を見上げる勝己は今まで見てきたものの比ではないくらい怒りに満ちていたし、同時にこの世の終わりを悟ったかのような眼をしている。出久は、どんな顔をしているのだろう。特別怒りを感じてはいないし、自分が今酷く冷静である自覚もある。おかしな話だ。幼なじみの上に跨って、首を圧迫し続けているというのに、こうして冷静でいられる人間なんてこの世に何人いるだろうか。特に出久には、勝己に対して殺意も何もない。そりゃあ幼い頃から言い尽くせないくらいに嫌がらせを受けたこともあるし、中学時代なんていじめ同然だった。けれど出久には仕返ししてやろうとか、来世まで恨んでやるなんて、そんなことは一度として思ったことはなかった。
 優しすぎるのだと、以前麗日に言われたことがある。確かその日はすれ違いざまに肩がほんの少し触れただけで酷く怒鳴られ、出久は謝るしかなかった。ただ、あんなことは日常茶飯事だし、良くも悪くも慣れてしまっていた。それより、なんだかいつもより機嫌が悪いだとか、もしかしたら体調があまり優れていないんじゃないかだとか、そんなことを考えてしまっていた。それを口にすれば麗日は酷く驚いて、眉をひそめたあとにこう言ったのだ。「デクくん、優しすぎてこわいよ」と。
 あの時、自分がどういう返答をしたのか思い出せない。特に気に留めなかったのだろう。優しいのに、こわいのか。そう漠然と疑問に思ったことは覚えているが、ろくな答えは出ずにそのまま記憶から消えていった。

 どくり、どくり。

 勝己のあの燃えるような紅い瞳は、今は生理的な涙で濡れている。変わらずその目で出久を睨んでいるが、構わず出久も見つめ返す。勝己が瞬きをひとつすると、目尻から溜まった涙がこぼれた。昔から出久を泣き虫だと言っていたけれど、勝己も大概泣き虫である、と出久は思う。タフネスなのは本当だし、出久よりも何倍も強くある人間なのはわかっているけれど、勝己の涙はそう珍しいものではなかった。また泣かせちゃったな、なんて思いながら先ほどと同じように涙を救って、今度はそれをぺろりと舐めた。しょっぱい。けれど、どこかあまい。気持ち悪いと罵られ、さらに顔をお構いなしに殴られた。ぐらりと、目眩がするように視界が揺れる。痛みは気にならなかった。
 どうしてこうなったんだっけ。片方の手で勝己の首を押さえながら、反対の手が自然と顎を支える。力が半減しようが、出久の個性がある限り勝己には敵う余地もない。そもそも、勝己も抵抗らしい抵抗はもう見せなくなっていた。
 ああ、そうだ。喧嘩をしていたんだ。何が原因だったかはもう忘れてしまった。けれど勝己が怒鳴って、なんだか出久も言い返してしまって、それからはもう殴って蹴っての繰り返しで、まるで殺し合いのようだと他人事のように思った。例えばヒーローとヴィランの戦いのようではなく、ほんとうにただの殺し合いのようなのだ。そこに正義だとか不義だとか、そんなものは存在しない。
 右の大振りだとわかっても、躱せるほどの時間がなかった。けれどわかっているものに黙って殴られるのは癪なので、どうせ食らうのならと勝己に向かって飛び出した。勝己は予想もしなかったのだろう。眼を大きく見開いて、クソだったか死ねだったか、何かを一言叫んだあと勝己の頭は鈍い音を立てて地面に打ち付けられる。ぐ、と息が詰まる様子を見て、考えもなしに出久の手は勝己の首を捉えた。殺すつもりなんて、毛頭ない。
 ヒュ、と勝己の喉が鳴った。腕を散々に爆破されても、顔面をひたすら殴られても、出久は離さなかった。どんなに暴れていても少し力を加えるだけで大人しくなるものだから、離してしまうのが惜しかったのだ。だって出久の手によって勝己の行動が制限される機会なんて、今を逃したらきっと死ぬまでないだろう。来世になってまた幼なじみになったって、可能性はゼロに近い。

 どくり、どくり。

 顎を支えていた手はいつの間にか元の場所に戻っている。唾液を飲み込むたびに上下する緩やかな喉仏を親指の腹で撫でるように触れた。抵抗はない。ぐり、と親指をねじ込むと、面白いように咳き込む。もうそろそろ、吐いてしまうかもしれない。
「ねえ、かっちゃん」
 返事はなかった。シカトしているのか、聞いていないのか、出久にはわからない。痛々しい咳だけが聞こえている。
「かっちゃんのその目は、なんなんだ」
 ゆらりと、勝己の瞳が揺れた。それとも、涙がこぼれただけか。答える気はなさそうだった。出久も答えると思って聞いてなどいない。ほとんど独り言のつもりだった。
「少し前から思ってたけど、本当に、最近なんだ、気付いたのは。確信が持てるようになったのは。そんなわけないだろう? だってかっちゃんが。あの、爆豪勝己が、だ。信じられるわけがない。きっとかっちゃんも信じられないだろうし、もしかしたら自覚がないのかもしれないね。無理もないよ。かっちゃんにとっての僕は、足元にも及ばない存在だったんだから」
 足元にも及ばない、程度ではないのかもしれない。勝己のことだ。眼中にすらなかったのだろう。けれど出久は感じていた。勝己が川に落ちた日から、ぼんやりではあるけれど、少なからず感じてはいたのだ。幼い出久にはそれがいったいなんなのかわからなかったのだけれど。
 それでもこうして、勝己を目の前にして、今まで出久の中にあった仮説が、定説になった。なって、しまったのだ。
「まさか! そんなはずない! だってかっちゃんだ。かっちゃんなんだ。かっちゃんは強くて、かっこよくて、なんでもできて、ヒーローだったんだ。君の背中を、羨みながら、憧れながら、ずっと追いかけてきたんだ。追いかけて追いかけて、それでやっとここまで来たんじゃないか。やっと、こうして対等に喧嘩ができるようになったんじゃないか。それなのに、そんなのはあんまりだ。あんまりだよ、かっちゃん」
 歳の離れたいじめっ子にも勇敢に立ち向かい、どんなことでも一等賞を勝ち取り、勝己に相応しい個性を容易く使いこなし、更に先へと進んでいく。ヒーローだった。出久のいちばんのヒーローだった。いつか肩を並べて、そして超えたいと思った。お互いに、そう思えるようになればいいと思っていた。今は無理でも、遠い未来、笑って拳を合わせられるような、そんな幼なじみになれればいいと思っていた。
 それなのに。

 どくり、どくり。

 出久の腕を掴む勝己の手にはもう力は入っていなかった。ヒュー、ヒューと細く呼吸をしているのがわかる。
 ぼたぼたと、勝己の頬に赤いしずくが落ちた。出久の鼻血だった。殴られてからしばらく経つのに、なんでいま。勝己の顔が赤く汚れたけれど、気にせず血を啜る。
 勝己の瞳は揺れていた。涙のせいではなかった。
「ねえ、かっちゃん」
 相変わらず返事はない。
 今度は、答えが欲しかった。違うと、ただの思い込みだと、そう言ってほしかった。いつものように、先程までのように、無茶苦茶に怒鳴ってほしかった。また殴って、蹴って、友達のように喧嘩をしたかった。
「かっちゃんは、かっちゃんはさあ」
 ギリギリと、首を締め上げる。うぐ、と呻き声を上げて、言葉にならない音を発した。
「僕のことが、こわいの?」
 実際に声に出すと、よほど出久の方がこわかった。だってひとつこくんと頷かれたら、それは事実にしかなり得ない。鼻血と一緒に、涙も溢れ出す。やっぱり、僕もまだまだ泣き虫だ。鼻水なのか、鼻血なのかわからない液体が口の中に入ってくる。出久の顔はもうめちゃくちゃだった。
「嘘だって、言ってよ」

 どくり。

「あ、」
 手のひらに感じていた血が流れるさまも、勝己の温もりも、うるさかった咳も、滲む汗も、こぼれた涙も、すべて、止まった。



出勝ワンライ お題:嘘
2016.9.4


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