深夜1時を過ぎたころ、凛月はひとりリビングのソファーでテレビを見ていた。見ていた、と言っても特に凛月の興味を引くような面白いものはなくただ適当にチャンネルを回しているだけだった。それよりも、炭酸飲料では満たされない空腹感が凛月のやる気を根こそぎ削いでゆく。もとからやる気なんてないだろうと言われてしまえばぐうの音も出ないのだけど、ほんの2、3時間前までは軽い夕飯を作ろうと思っていたのだ。本当に。結局あの時点では空腹よりも面倒臭さのほうが勝ってしまったため、常に冷蔵庫にストックされている炭酸飲料だけを抱えてソファーにダイブしてしまったのだが。
 幼なじみ兼同居人である衣更真緒は、彼が所属するユニットTrick Starの全国ツアーが終わったところで、今頃メンバーやスタッフたちと打ち上げをしているところだろう。終わったら早めに帰ってくる、なんてことを家を出る前に言っていたけれど、結局酒に酔うメンバーの世話を焼かずにはいられないだろうから、恐らく凛月が起きている間は帰ってこない。
 真緒が帰ってくるまでひとりで生活するということだったが、凛月も連日仕事に追われているし、ユニットのメンバーも凛月を気にかけて夕食に誘ってくれたりスケジュールを全て午後からにしてくれたりと、ひとりの生活はそこまで苦ではない。このユニットもなんだかんだで人間らしい付き合いが出来るようになったものだと、他人事のように考えたりできるくらいには余裕がある。けれど、やはり面倒なものは面倒なのでソファーから立ち上がることはできない。凛月の胃は今もなお食べ物を欲しがっている。ああ、一瞬でもいいからまーくんが飛んでこないかなぁ、なんてばからしいことを思いながら、もうすっかり温くなった炭酸飲料をひとくち空っぽの胃に流し込んだ。
 それと同時に、人が来たことを告げるインターホンの音が部屋に響いた。宅配なんて頼んだ覚えはないし(はじめから宅配を頼めばよかった)、まさか本当に真緒が飛んできたというのも考え難い(後者であればどんなに喜ばしいことか)。鳴り続ける音にウンザリしながら耳を塞いでいると、次第に音は止んだ。こんな時間にインターホンを連打する方が明らかに非常識なのだから、居留守を使っても文句を言われる筋合いはないはずである。
 何はともあれ再び帰ってきた静寂に安堵の息を吐こうとしたところに、なんとあろうことか扉の開く音がした。鍵は確かに閉めたはずなのに。凛月の体温が一気に下がる。たまにいるのだ。アイドルの家を特定し突然押しかけてくる迷惑極まりないファンを名乗る連中が。舌打ちしたくなる衝動を抑えて、身構えながらただじっと待った。逃げようにも、この家の出口は玄関だけなのでどうすることもできない。
 リビングの扉が開き、その人間の姿が露わになる。そこに現れたのは、まさか。

「出てこないから寝てるのかと思ったけど、そうだよねぇ、くまくんはこれからが活動時間だもんねぇ?」

 夕飯を作りに飛んできてくれた真緒でもなく、はた迷惑なファンでもなく、同じユニットのメンバーである瀬名泉がそこには立っていた。居るならさっさと出てよね、なんて家の鍵を投げ渡された。なぜ泉がこの家の鍵を持っている?

「……なにしにきたの、セッちゃん」
「なにって、くまくんが暇してると思って遊びにきてあげたの」
「ご飯作ってくれんの?」
「はぁ? くまくんがもてなす側でしょ〜?」

 思わず顔をしかめた。こいつはいきなり現れてなにをほざいているのだ。
 昼間ならこんなものは放っておいてさっさと寝てしまえばいいのだが、生憎今は深夜である。残念ながら凛月の目は冴えていた。だからと言って泉のためにキッチンに立とうだなんて思わないけれど。

「ねぇ、くまくん今元気でしょ。お風呂入った?」
「……元気じゃない。具合悪い、すごく」
「ハイハイ元気ね、お風呂入ったなら早くそっち行って」
「ちょっと、セッちゃん……ッ!?」

 乱暴にベッドに放り出された凛月は気持ち悪いほどの笑顔でこちらを見つめる泉に寒気がした。そういえば、今日の泉はいつも以上に面倒臭い。

「どうせソファーで転がってるならここで寝てたって一緒でしょ」
「一緒じゃないし……というか、今日のセッちゃんなんかやだ、気持ち悪いんだけど……」
「うるさいなぁ、俺は今機嫌悪いの。大人しくしててよね」
「う〜ん、あ、こんな時間まで起きてたら肌に悪いんじゃない?」
「ああもぉ、チョ〜うざい。うるさいっていってんの」

 泉が身に付けていたベルトを手際よく凛月の手に巻きつける。あまりにも理不尽な仕打ちに凛月は頭痛を覚えた。泉が自分の感情のままに動くとき、だいたい凛月はろくな目に遭わない。
 鳥肌が立つほどに甘ったるい声で凛月の名前を呼ぶ泉を真緒と重ねることはとてもじゃないができなかった。泉と真緒では違いすぎるのだ。
 試しに、泉の目を見ながらまーくん、と名前を呼んでみた。負けないくらいに甘ったるく、とろけるように。しかし結果は最悪だったらしい。あの気色の悪い笑顔は一瞬にして消え失せ、同じ人間とは思えない冷たく恐ろしい形相で睨まれた。凛月の腕を掴む泉の手に力が入る。泉のものよりいくらか細いそれはわずかに悲鳴をあげた。

「名前。言わない約束だよねぇ、くまくん」
「だって、まーくんはこんなに乱暴にしないから……いたッ、痛い、痛いってば」
「よくそんなこと言えるよねぇ? あんたらそういう関係じゃないでしょ。それともなに、やってるの?」
「むしろ、あのまーくんが俺に乱暴できると思う? 仮にできたとしても、終わった後は死ぬほど土下座するんだろうねぇ」

 少し考えただけで面白いようにその絵が想像できる。きっと真緒は凛月のことをそれこそ割れ物のような扱いをするに違いない。
 泉の目の色が変わった。その瞳は凛月だけを映している。それを見て初めて凛月は後悔した。今、恐らく凛月は彼の地雷を踏んだ。それも、盛大に。
 
「……あ〜もうむり、うざい。ほんとにうざい。なんでそうやって言い切れるわけ? 所詮ただの下品な馴れ合いのくせに」

 あ、と思った瞬間にその口は乱暴に塞がれた。泉の歯か、凛月の歯が当たったのか、ほんのりと血の味がする。酸素を求めようとも覆い被さっている泉のせいで息ができない。みっともなくくぐもった声が凛月の脳内に響く。くらくらと目の前が歪んだ。

「……ねぇ、ゆうくんのブログ、見た?」
「ッ、は……?」
「ついさっき打ち上げが終わって、今家で布団に潜りながらブログを書いてるんだーーだって。ほぉんとゆうくんってマメだよねぇ」
「え……」
「ふふふふ、ねぇくまくん。帰ってきたら『まーくん』も混ぜて一緒にする? それとも俺たちを近くで見ててもらう?」
「セッちゃん、おねがい、帰って」
「やだなぁもう、くまくんをひとりにできるわけないでしょ〜? 俺がずぅっと居てあげるからねぇ」
「やだ、ねぇセッちゃん、セッちゃんってば……ッ」

 いつもは凛月が真緒にするように、泉が凛月の首元に顔をうずめる。痛みが足先まで伝わり、全身がびりびりと痺れるような感覚に襲われた。同じところを何度も何度も吸われる。わざと音を立てているとわかっていても、耳が馬鹿正直にそれを拾ってしまう。凛月の名前を呼ぶ泉の声に吐き気すら覚えた。

「ンン〜、最高だよくまくぅん。そんな顔、幼なじみの大好きな『まーくん』は見たことないんじゃなぁい?」
「ねぇセッちゃん、ほんとにおねがい、おねがいだから帰って……ッ」
「ふふ、いつもは生意気でうざかったけど、こうやって必死にお願いされるのも悪くないかもぉ」
「ちょっと、セッちゃ……ッ!」

 腕が拘束されているせいでうまく動くことができない。しつこいように唇を重ねてくる泉はこの状況を心から楽しんでいるように見えた。
 デスクの上に置いてあるデジタル時計は1時30分を表示している。泉の言うブログが上がったのはいったいいつの話だったか。恐らく、真緒がこの家に帰ってくるのはもう時間の問題だ。


***


 嫌いではなかった。メンバーとの練習も、個人の取材や撮影も、確かに面倒ではあったが、それを嫌悪したことはなかった。だから学園を卒業した今でもこうしてアイドルを続けている。ユニットを結成したときは協調性のない個性のぶつかり合いが多かった、それこそ個人主義者の集まりであったが、年々少しずつ仲を深めている、ように思える。仕事がなければ顔をあわせることもなかったメンバーも、プライベートでお互いの家に行き来したり、何処かへ出かけたりと共に過ごす時間もかなり増えた。朝早くから叩き起こされて遠出するというのは勘弁してもらいたいものだが、それすらも楽しみとして受け入れられている自分自身がいちばん意外だった。それは他人に興味を示さなかった学生時代が懐かしく感じるほどに。
 泉とは仕事上の付き合いでもメンバーの中で最も接することが多かった。なんでも、泉と凛月が同じコマにいると観客は喜ぶらしく、上からもそれらしく接しろと言われている(凛月にはなにがいいのか全く理解できない)。それの延長で、プライベートでも泉と会うことが比較的多くなった。だいたいは真面目に練習をしている泉を横目に、いかにも高級そうな馬鹿でかいベッドで気持ちよく昼寝をしている。特に夏場は節電節電と滅多にクーラーをつけてくれない真緒に比べて、全室クーラー全開な泉の家で寝たほうが心地よい睡眠を得られるのだ。
 そして気付けば、そういう関係になっていた。どういう経緯でこうなったのかは、あまり覚えていない。軽く酒を飲んでいたような気がするし、凛月が寝ぼけていただけなのかもしれない。けれど、気付けば目の前に泉の顔があって、睫毛の影が頬に落ちるのを最後まで見送るよりも先に唇が触れ合った。一瞬だった。何もなかったと言い張ればなかったことにしてしまえるほど、今思えば触れたと確信を持つこともできないほど曖昧だった。しかし、泉と凛月はそれを接吻とした。それが間違いだったとは思わない。ただあのとき、凛月が触れてないと言っていれば。酷い冗談だと笑っていれば。もしかしたら、こうはなっていなかったのかもしれないと、どうしても考えてしまうのだ。
 ーーあんたらが心底うらやましい。
 一度だけ、そう彼が零したことがあった。きっと泉は覚えていない。それを聞いたときは特に気にも留めなかったが、今になって考えるととても不憫に思える。学生時代から抱き続ける重すぎた愛。凛月はなんとなく知っていた。ちょっとした変化で泉は簡単に死んでしまいそうだと、当時からぼんやりとそんなことを考えている。例えば彼に恋人ができたというニュースが日本中を駆け巡ったときだとか、もしくは結婚なんてしてしまえば泉は迷うことなく飛び降りてしまうかもしれない。または大好きなサプリメントを大量に服用するか。普段は傲慢な態度を取る割に、瀬名泉という男は思ったよりもかなり繊細なようだと勝手に解釈した。だからこうして腹いせのように凛月と体を繋げていることで辛うじて生を保っているのかもしれない。自らの叶わぬ想いと凛月を比べて憎しみを感じる泉は、やはり不憫だった。


***


 生温い空気が身体にまとわりつく。心なしか呼吸がしづらい。時間としては5分も経っていないはずのに、だいぶ長い間泉に弄ばれているような気がする。どうにかこの手の拘束を解こうとも、決してそれが外れることはなかった。ベルトで擦れた部分が赤く腫れ、そこに汗が染みてヒリヒリと痛んだ。それすらも快感として拾ってしまう自分に嫌気がさす。
 遠くの方で、足音が聞こえた。その瞬間、凛月の身体は硬直した。同時に泉の口角が自然と上がる。深夜にもなると、足音さえも聞こえてきてしまうのか。
 ーーくるな、くるな、くるな。まーくんはまだ帰ってこない。だからこの足音はまーくんじゃない。大丈夫、これはただの考え過ぎだ。
 何も考えないように、止むことのない刺激を必死に耐える。反応してしまったらそれこそ泉の思うツボだ。

「ねぇくまくん。くまくんにいいこと教えてあげる」
「ッ、なに……」
「俺はねぇ、くまくんのそういう、苦痛で歪んでる顔が結構好きなの。まあ、一番似合うのはもちろんゆうくんだけど?」
「……ん、あっ」
「だから、くまくんが『まーくん』といるとこを見るとほんとにムカつくんだよねぇ。側にいるだけで幸せですぅ〜なんて顔しちゃってさぁ? バッカじゃないの?」

 ギィ、と、控えめな音がした。玄関だ。玄関の扉が開いたのだ。小さく凛月の名前を呼ぶのは、確かに幼なじみの真緒であった。真緒は凛月が起きていることを知っているのだろう。ただいま、と控えめな声がした。
 ーーああ、おかえり。おかえりまーくん。ごめんね、玄関まで迎えにいけなくて……。
 リビングの扉が開いた。今の凛月の体勢では真緒の姿を見ることができない。代わりに、何かが床に落ちる音が聞こえた。真緒が荷物を落としたのだろう。続いて、上からクツクツと泉の笑い声が聞こえる。凛月はただクッションに顔を埋めて視界を闇に染めた。だってもうこんなの、耐えられない。

「俺はあんたらが幸せになるなんて許さないから。俺がこの手でぐちゃぐちゃにしてあげる。ふふふ、ねぇくまくん。大好きな幼なじみの目の前で犯されてる気分はどう? ゾクゾクしちゃう?」

 真緒の、凛月の名前を呼ぶ声が闇に消えた。泣いているだろうか。怒っているだろうか。凛月にはわからない。
 泉が言うように、凛月の中は既にぐちゃぐちゃだった。霞かかったこの頭ではもう何も考えられない。
 床に転がったペットボトルが月影に照らされて色白く光っている。今の凛月は、それすらも眩しく思えて、目を開けるのをやめた。
 凛月の夜は、当分終わりそうにない。
 


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