※血が出てます


 もうすっかり日が暮れた空を背に、真緒は怠い肩を回しながら自分の家に向かって歩いていた。街灯がチラチラと点き始めて、少ない星たちが真緒を照らしている。
 本当は、もう少し早くに帰るはずだったのだ。けれど気付けば世界を赤く染めていた夕日はどこかへ消えてしまっていて、辺りは暗くなってしまっていた。言って仕舞えばいつもの残業コースである。誰が悪いだとか、何がいけないだとか、そういう話ではないのは真緒が一番分かっているし、それをぐちぐちと零すのも違うわけで、つまりはまたこうして真緒の中に『好きでやってるから』という言い訳が蓄積されていく。そう、好きでやってるのだ。だから強いて言えば悪いのは真緒本人で、要領が悪いのがいけない。だからこの話は、これでおしまい。

「ただいま〜……」

 残業上がりの父親よりも覇気がないと思わせる自分のものに、奥から明るくおかえりなさいと声がした。玄関には見慣れた靴が家族のものと同じように並んでいて、きっと母があとから綺麗に並べたんだろうなあ、なんて思いつつ、それに習って自分の靴も見慣れたそれの隣に並べる。
 少し開いた隙間から溢れる光が真緒の目を刺激した。先日綺麗に片付けたばかりの部屋は読みかけの漫画と脱いだままの制服で足の踏み場がなくなっていて、呆れの溜息すら出なかった。もう一度、今度はベッドの上の山にただいまと声を掛けると、くぐもった音が聞こえる。もうそろそろ活動時間のはずだが、どうやら今日は眠たいらしい。

「りーつー、おはよう。そろそろ晩飯の時間だぞ」
「んん……あれ、ま〜くんだぁ……おはよう……」
「ま〜くんだぁ、じゃね〜よ。お前部屋きたとき綺麗だったろ。なんでこんなに汚いの。昨日片付けたばっかなんだけど」
「う〜……いっぱい話さないで……頭に入らない……」
「あ〜も〜、このねぼすけが!」

 この山を剥がしてしまおうと布団に手をかけたとき、隙間から見えた凛月の表情に思わず手が止まる。額に汗が滲んでいて、顔が少し歪んでいた。そういえば布団に包まるほど今日は寒くもないし、凛月の活動時間だってとっくに始まっている。もしかして、と額に手を当てるが特に熱っぽい様子はない。

「どうした、具合悪いか?」
「ん〜……、というより、お腹が痛いんだよねぇ……」
「腹? 珍しいな。なんか変なもん食ったとかじゃないだろ」
「今日は、ま〜くんのお弁当のおこぼれだけ……」
「お前また食べてないのか!」
「うー……、むり、いたい、死にそう」

 相当痛いのか、凛月は丸まったまま唸り始めてしまった。ここまでの腹痛は真緒も経験したことがないので、どう対処すれば楽になるのかなんてすぐに思いつかない。とりあえず温めれば何とかなるかと、凛月にきちんと布団をかぶせて、下にいる母に温かい飲み物が欲しいと、凛月が腹痛で苦しんでいることと一緒にメールで伝えた。

「あ、凛月。風呂入るか。風呂であったまったらマシになるかも。動けるか?」
「んん……たぶん……」
「肩貸すから……あー、ほら、腕よこせよ。ゆっくりでいいから」

 時間をかけて辿り着いた風呂場にバスタオルを置いて、真緒の服を凛月の着替えとして持ってこようと再び二階に上がる。タンスの中からゆるめのスウェットと生地の厚いトレーナーを取り出して、ついでに散らかった漫画を本棚に戻し、放りっぱなしの凛月の制服を余ったハンガーに掛けた。

「……あれ」

 目に留まったのは先ほど凛月が丸まっていたベッドで、ぐちゃりとした掛け布団の下から控えめに主張する普段見慣れない色が見えたような気がして、思わずその布団をそっと避けた。
 同じタイミングで、真緒のポケットからけたたましく着信音が流れた。慌てて電話に出ると相手は凛月で、水の滴る音がスピーカーを通して聞こえてくる。凛月を風呂に入れる前、何かあれば電話しろよ、と凛月の携帯を風呂の前に置いてきたのを思い出した。

「凛月? もう上がるか? 今着替え持って行くから」
「……どうしよう」
「え?」
「ま〜くん、どうしよう」

 初めて聞いた凛月の消えてしまいそうなか細い声に、真緒は着替えを抱えて急いで風呂場に向かった。思い当たるのはひとつしかなくて、それでもその答えと凛月の現状をイコールで結んでしまうのはあまりにも非常識だった。一瞬だけ見てしまったあの色が、真緒の胸を余計にざわつかせる。まさかそんな。けれど、納得出来ないこともない。どうしようって、いったいなにが。

「ーーッ凛月!」

 勢いよく開かれた扉の前に凛月はぺしゃんと小さく座っていた。出しっぱなしのシャワーが流すのは自らが出したお湯とじわじわと広がる赤い染みで、凛月の手も同様に赤く染まっている。それを見た瞬間、真緒の中でひとつの答えと目の前の赤い染みが、イコールで結ばれてしまった。

「ま〜くん、血が、血が止まんないの……どうしよう、お腹いたい、ま〜くん、ま〜くん……」

 凛月の瞳と同じ色が潔白の風呂場を鮮やかに彩る。ベッドに付いた赤も、床に広がる赤も、それは凛月の血であった。それだけで分かってしまった。
 真緒は結論に触れることなく、凛月を冷やさないようにそのまま湯船に入れて、そこに溜まった血を綺麗に洗い流す。大丈夫、すぐ治るから。へーキだよ、どうってことないって。そう言い聞かせながら、真緒の頭は今日一番働いていた。家にあるもので足りるだろうか。買い出しに行くべきだろうか。病院へ行くべきなのか、とりあえず母に聞いてみるのがいいのか。そもそも、真緒の導き出した答えが間違っているのではないか。
 肩を二、三度回して、凛月の背中を優しく撫でてやる。自分のものより白く綺麗な肌に鮮やかな赤は映えると場違いなことを考えながら、今夜のやるべきことをひたすらに並べた。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -