じっとりと湿気を含む暑さに、鉄虎は目を覚ました。寝ている間にかいた汗のせいで、服が体に張り付いて不快だ。カーテンの隙間から差し込む光が眩しくて、それでいてじりじりと焼かれるように熱い。体を起こして外を覗くと、太陽は随分と高いところに居座っている。どうやら少し、寝すぎてしまったようだ。
すぐ隣に転がる翠は、鉄虎の気配に気付くこともなくぐっすり眠ったままだった。普段と比べたら寝苦しいだろうに、鉄虎も翠もこの時間まで起きなかったということはあまり関係ないのかもしれない。今日がレッスンのある日でなくてよかった。
昨夜はベッドを譲る翠に床でいいと断ったのだけれど、結局二人してベッドで寝ることになった。しばらくベッドだ床だと言い合って、いつまで経ってもまとまらなくて、面倒になった翠がもう二人で寝よう、と投げやりな答えを出して鉄虎をベッドに引き込んだのだ。言い出しっぺのくせに暑苦しいだのなんだのと翠は文句をこぼしていたけれど、並んでしまえばそんなのはもうどうだってよくて、どちらが先に足を絡めたのかも忘れてしまった。
翠のまつげが差し込む光に照らされて、きらきらとまばゆい。きれいだな、と嫌味なく素直な感想が口からこぼれる。時々忘れそうになるけれど、この人は本当にかっこよくてきれいな人だった。昨日だって、この造りのいい顔に翻弄されかけたのだ。それでも気持ちよさそうに眠っている姿は、どことなくかわいさもある。かわいい、なんて本人に言うより、お気に入りのゆるキャラを褒めてやったほうがよっぽど喜ぶのだけれど。
「……てとら、くん」
名前を呼ばれて、飛びかけていた意識が戻る。目の前の翠はまだ半分夢の中のようで、開けきらない目でぼんやりと鉄虎を見つめていた。
「起きたッスか? 翠くん」
「んん……いま何時……」
「もうすぐお昼ッス」
「え〜……寝すぎた……」
「まあ、昨日は……」
遅かったから、と口にするのを躊躇ってしまい、鉄虎は不自然に口籠る。誤魔化そうと視線をよそにやろうとしても、目の前の翠は面白そうに口角を上げるだけで、鉄虎が墓穴を掘ったことには変わりなかった。
「鉄虎くん、かわいいね」
「な、なんスか……かわいくないッス」
「そういうとこだよ」
ふ、と笑われて、当然面白くない鉄虎はこの人をベッドから落としてしまおうか、なんて考えたけれど、鉄虎の心境を知りもしない翠がやさしく手招くので、こちらはそれに従う他ない。
頭を引き寄せられて、そのまま鉄虎の額に柔らかな感触が残る。満足そうに目を細める翠がなんだか気に入らなくて、今度は鉄虎が翠のくちびるを塞いだ。驚いたように目を見開くのも一瞬だけで、そのあとはいつものように目を閉じてしまったので、さらに面白くなかった。
「朝から熱烈だね?」
「……もう朝って時間じゃないッス」
「俺はまだ全然いけるけど」
「いかないッス。今日は宿題やるって言ったじゃないッスか」
「え〜……明日でいいよ、宿題とか……」
「それ最終日までやらないやつッスよ」
いつまでもベッドの上で駄々をこねている翠をベッドから引きずり降ろそうとするけれど、それと同時に下から怒鳴るような声が聞こえて、鉄虎は思わず伸ばした手を引っ込める。対して、翠はこの声に慣れているのか、より一層気怠そうに顔を歪めては溜息をついた。
「おばさん呼んでないッスか?」
「うん、呼んでる……ねえ、鉄虎くん行ってきてよ」
「ええっ、俺ッスか!?」
「だってだるいし……鉄虎くんならやさしく相手してくれるよ、たぶん……」
「え〜……」
そうしている間にもまた翠を呼ぶ声が聞こえて、呼ばれている本人に強く背中を押される。まだ鉄虎はうんともすんとも言ってないはずなのだけれど、あっという間に部屋の外に追いやられた。振り返って睨んでやると、翠はへらりと笑ってのける。顔がいいだけになんとも腹が立つ顔だ。
「あ、鉄虎くん待って」
「へ?」
散々追い出そうとしたくせに今度は待てときた。言われた通り待つけれど、呼び止めたきり翠は何も言わないので鉄虎は首をかしげる。下からは三度目の怒鳴る声が聞こえた。
「あ〜……いや、いいや。なんでもない」
「ええ、なんなんスか……まだ寝ぼけてるんスか?」
いい加減起きてほしいッス、と言い残して、四度目の怒鳴り声が聞こえてくる前に階段を駆け下りる。リビングに顔を出すと、翠の母と目が合った。ついさっきまで怒鳴っていたとは思えないほど、鉄虎を見た瞬間顔を綻ばせた。
「あらなに、鉄虎くんがきてくれたの? ごめんなさいね、あの子また面倒だから〜って鉄虎くんに押し付けたんでしょう」
「あっいえ、大丈夫ッス」
翠の母はなかなか起きてこない二人を心配してくれていたらしく、先ほど起きたのだと正直に話すとそうよねぇとやさしく笑われた。もし呼ばれてきたのが翠だったら生活リズムがどうのと叱られていただろうか。
昼食はどうするの、と聞かれたが、鉄虎もわからなかったので適当にどこか食べに行くと言っておいた。あのぐうたらが今から燃えるように熱い外に出かけようとするかと言われれば、限りなく“NO”に近いだろうけれど。
「なら、遅くならないうちにご飯食べてきちゃいなさい。家出る前に翠に顔出すよう言ってくれる?」
「はいッス」
顔を出すよう伝える前に、まずは外に出たくないとぐずるであろう人を説得しなければならない。翠の母の言葉に頷いてから部屋に戻ろうとすると、ああそうだ、と呼び止められた。翠の次は翠の母か。
「昨日の濡れちゃった服今朝干したんだけど、今日は天気がいいからきっともう乾いてるわ。翠に言って取ってもらってね」
「あ、はいッス! ありがとうございますッス!」
「その服、翠のでしょう? 鉄虎くんが着ると別物みたいねぇ」
「えっ……」
自分が着ている服を見ると、鉄虎は確かにゆるキャラが真ん中に大きくプリントされているTシャツを着ていた。翠の母が言う通り、これは昨夜着替えがない鉄虎に翠が貸してくれた服だったが、言われるまでそのことをすっかり忘れていた。家の中だからいいでしょ、と鉄虎にとっては大きすぎるサイズのTシャツを、今着ているのだ。
部屋を出る前、鉄虎を呼び止めた翠を思い出す。恐らく鉄虎とTシャツとの不釣り合いさに気付いて、その上でなんでもないと誤魔化したのだ。
意識すると途端に恥ずかしくなって、鉄虎はTシャツの裾をくしゃくしゃにして持ってから、翠の母に軽く会釈しリビングを飛び出した。全然好きではないゆるキャラが恥ずかしいわけではなくて、身の丈に合わないサイズの服を着ていることが恥ずかしいわけでもなくて、翠の母にバレてしまいそうだったから恥ずかしかった。昨日の夜どちらが先に足を絡めたのかも、どうして昼まで寝てしまっていたのかも、このTシャツを着ているだけで全てがバレてしまいそうで、恥ずかしかったのだ。
階段を慌ただしく駆け上がって、けれど閉じた部屋の扉に手をかけることができず、廊下でひとり小さくうずくまった。早くこの扉の向こうにいる翠に一言言ってやりたいのに、何もかもを翠のせいにしてやりたいのに、体が熱くてどうしようもない。それでも空腹を感じるので、何か食べ物を胃に入れなければ。
「あ、おかえり……」
ベッドの上で呑気に寝転びながらスマホを弄っていた翠は、鉄虎を見るなり驚いたように目を瞬いた。――ああ、どうせうずくまっているなら、熱が冷めるまで廊下にいればよかった。
「え、なに、なんか言われたの?」
「なんでもないッス。お昼食べに行くッスよ」
「いやいや、そんな顔してなんでもないことないでしょ」
「翠くんのせいッス」
「えっ俺? 俺なにかした? 下行かなかったから?」
「全部ッス! もう、全部!」
より一層首をかしげる翠に、今の今まで着ていたゆるキャラのTシャツを脱いで、手渡す。脱いだものを渡されても困るだろうが、このTシャツのせいだということを翠に訴えたかったが、言葉にできる気がしないので、せめてもの足掻きだ。
「あれ、脱いじゃうの?」
「着替えるッス。俺の服、もう乾いてるみたいなんスけど」
「あ〜、ベランダ……ちょっと待ってて」
渡された服を持ったまま、翠は部屋を出ていった。その間に両手で自分を扇いで、少しでも体に篭った熱を逃がそうとする。体が熱いのは、廊下がひどく蒸していたからだ。階段を駆け上がってきたせいで体温が上がったからだ。それだけ。それだけだ。
行ったと思った翠がすぐに戻ってきて、顔だけ覗かせては鉄虎の名前を呼ぶ。――その顔はまるで、鉄虎をかわいいと言った時の顔のようで。
「俺の服着てる鉄虎くん、かわいかったよ」
冷まそうとしていた熱は、鉄虎の努力も虚しく一気に燃え上がる。熱くて、あつくて、目の前が真っ赤に染まった。顔から火が出るとはまさにこのことなのだと思った。
オーバーヒートしたのか声なんか全然出なくて、足元にあったゆるキャラのクッションを翠に向かって投げる。顔しか出していなかった翠は避けることなど容易く、クッションが廊下に落ちる頃にはそこに翠の姿はなかった。代わりに、堪えきれていない笑い声が聞こえてくる。
やっぱり、体が熱いのは蒸した廊下でも駆け上がってきたからでもない。面白そうに笑うのも、ゆるキャラのTシャツも、そもそもベッドに引き込んだのも、全部、ぜんぶ。
「翠くんのせいッス……」
鉄虎の誓いの全てである男らしさが微塵もなくて、それすらも恥ずかしい。けれど体温は上がっていく一方で、溶けてなくなってしまいそうだった。寝顔はあんなにかわいかったのに、普段は鬱だ死にたいと後ろ向きでいるくせに、二人きりになるといつもこうだ。正しくは、どこにあるのかわからない翠のスイッチがそうさせる。
はやくそのスイッチを探さないと。受けて立ってしまったからには早急に見つけて、オンオフの切り替えを覚えなければ。
そうでないと、鉄虎はあの男に食べられてしまうだろう。
2018.08.27 フォロワーさんへ