空は燃えていた。炎に包まれたように赤く、無差別に世界を染めている。地面も、校舎も、浮かんでいる雲も、全てがそうなっていた。遠くの方で烏が鳴いていて、生徒の姿は次第に減っていく。葉と葉のざわめき合う声が静かに響いた。「早く起きろ」とまるであの幼なじみがそう言っているかのように、少し肌寒い秋の風が頬を掠める。
 木陰で眠っていた凛月も、例外なく染まっていた。眠りにつく前は、そこは確かに日陰だったはずなのに、今では眩しすぎる西日に全身晒されている。目もまともに開けられないまま、影のある方へ少しずつ移動して、力尽きるように寝転がった。ついこの間までと比べて気温はいくらか低くなったとはいえ、赤く燃える世界で虫の悲鳴と共に睡眠を得ようとするのは簡単なことではない。けれど、だからと言ってもう少し日が進んでしまうと今度は凍えるような寒さの中小さく丸まっていなければならないので、凛月の思う安眠はなんとも難しい問題なのである。
 少ししてから、凛月の名前を呼ぶ声が聞こえた。何度もその名を呼んで、凛月を探しているようだった。声はきちんと聞こえているけれど、聞こえない振りをして目をそっと閉じる。段々と近づいてくる声をじっと待ちながら、声の主を思い浮かべた。きっと彼は今日もお疲れだ。たくさんの面倒ごとと大きな夕日を背負って、凛月のもとにやってくる。そして、全くしょうがないなあ、なんて、凛月にそっと手を伸ばし呆れたように笑うのだ。


***


 ぐんと背が伸びたのは学園に入学してからだった。それまで同じ目線だった真緒はいつの間にか目下にいて、真緒が酷く驚いていたことを今でもよく覚えている。それに続いて、声も少し低くなった。自分で声を発する分には気にはならなかったが、かっこいいだの大人っぽいだのと、面白いように付いてきたのも真緒だった。
 改めて、歳上なのだと思った。身に纏うものも、学ぶべきものも、真緒と凛月とでは全く違ったのだ。朝から晩まで部活に明け暮れる真緒の姿を見ることはなく、日陰で紅茶と菓子を胃に入れながら、ただぼうっと落ちる太陽を眺めた。気付けば凛月はユニットに所属していて、何もない日常に少しのアイドル的要素を加えた、どうってことない一日が過ぎていく。慣れない行為もいつの間にか身体に馴染んでいて、ステージに立つ凛月はまるで別人だった。女性受けのある話題、動き、表情、歌声。それらは人前で歌うたびに、自然と凛月の中へと蓄積され、アイドルとしての朔間凛月が徐々に出来上がる。あっという間に、凛月のユニットは強豪と呼ばれるほどに成長し、校外からの仕事も多くなった。
 一度だけ、真緒をライブに呼んだことがある。たまたま席に余裕があって、たまたまリーダーに友達でも呼んで来いと、そう言われただけで、特に意味はなかった。ただふと、あの輝く瞳で見つめられたことを思い出して、たまには格好つけてみるのもいいんじゃないかと、柄にもなくそう思った。
 けれども真緒はやってこなかった。パフォーマンス中、対になる泉に注意を受けるほど観客席を見渡しても、あの赤髪は見つけられなかった。最前列の中央に空白を残して、ライブの空気に飲み込まれた凛月はくらりと眩暈を覚えながら歌いきる。酸欠のように酷く苦しかった。ライブを終えて尚泉にしつこく叱られながら圧迫される心臓を握りしめ、反応のない携帯電話を眺める。後日『部活だった』と短く告げられた不在の理由に、訳も分からず苛立ったのは一体何だったのか。考えることすら忘れて、そのままなんでもないような日が過ぎていった。
 4月のはじめ、暖かい陽気に包まれて心地よく眠っている凛月の元に、真緒がやってきた。何処か見覚えのある制服を身に纏って、凛月を起こしにやってきた。懐かしさを感じるその感覚に、ただ身を任せて支度をする。遅刻するぞ、と真緒が手を伸ばしたところで、ようやくその違和感に合点がいった。真緒は、凛月と同じ制服を着ていた。ネクタイの色が違うだけで、あとはもう本当に、同じだった。どうして起こしに来たの。どうして同じ服を着てるの。どうして腕を引っ張るの。凛月の疑問は、きちんと音となったかはわからなかった。ただ、真緒は言った。アイドルになると。凛月と一緒に、アイドルになると。力強く、そう言い切った。
 それからまた、真緒は毎日凛月を起こしに家にやってくるようになった。呆れながら笑うようになったのも、確かこの頃だった。


***


 あの燃えるような赤はもう面影もなく、チラチラと浮かぶ街灯が黒い闇に点々と浮かんでいる。薄っすらと覆い被さる雲に隠れている月は仄かに道を照らした。
 夕方は好きだ。赤く燃える世界はまるで血のように広がって、日が落ちると共に黒く塗り替えられてゆく。夢と現実の境目を彷徨いながら、そんな世界を眺めるのが好きだった。
 けれど凛月にとって、夜はなくてはならないものだった。静まった暗闇に、控えめに煌めく月。夜が深まれば震えるほどに心が逸る。目が冴えて、空腹を覚え、血を欲した。そういえば久しく血を口にしていないと、あの口内に広がる鉄の香りを思い出す。
 夜が好きだ。夕方、真っ赤な世界から連れ出してくれるのは真緒で、そのまま向かうのは真緒の家だった。すっかり見慣れた彼の部屋に凛月はよく馴染むと、随分前に部屋の主が言っていた。凛月が素直に家に帰りたがらない理由を真緒はよく知っていたため、すぐに追い返すようなことはしなかった。
 カーテンで閉ざされた向こう側とはまるで対照的に、真緒の部屋は酷く明るい。何年も前から働いている小さめのCDプレイヤーが、今日もまた名前の知らない曲を歌っていた。

 真緒の部屋を出るとき、僅かに聞こえた彼の言葉が胃の中に残っているような気がして、それがズキズキと痛む。喧嘩をしたのだ。久しぶりに。ヘトヘトに疲れているだろうに、真緒は珍しく声を荒らげた。真緒の感情がポロポロと溢れていて、それを隠そうという素振りはなかった。凛月は一緒になって感情を表に出すことはなく、ただ黙って真緒の怒声を浴びて、ときどき一言、二言で言い返すだけだった。その対応に不満だったのか、真緒は勢いに任せた後、疲れたようにベッドに座り込んだ。凛月との距離はかなりある。凛月はもうだめだと思った。こうなった真緒は、暫くすれば元に戻るが、そこに凛月がいてはきっと戻るものも戻らない。真緒の世界に、凛月はいてはならないのだ。
 ゆっくりと立ち上がって、「バイバイ、ま〜くん」と小さく呟いて部屋を後にする。いつものように聞こえない振りをすればよかったのに、凛月は真緒の言葉を拾ってしまった。それは大きな失敗であったと、近づく波の音をBGMに思い返す。

 凛月は海にやってきた。仕事で何度も訪れたせいか、新鮮味はまるでない。黒一色の背景に青白く輝く水面は静かで、大きく月を映し出していた。水際まで近寄って、ぼんやりとそんな海を眺める。いつの間にか浸かっていた足が夜風にさらされて小さく震えた。当てもなくただゆっくりと、足首までを飲み込む海水と共に海岸沿いを歩く。先ほど真緒の部屋で流れていた曲を、なんとなく口遊みながら。
 いつだって真緒は、例えば映画のヒーローのように凛月の元に駆けつけてくれた。手を伸ばせば、名前を呼べば、それはもうすぐだった。それが当然だと思っていた中学時代の凛月と、真緒がいない空白の時間を過ごした凛月とでは、恐らく真緒に対する想望が違う。
 真緒はよくできた人間だった。勉強も、運動も、人付き合いも、面倒ごとも。真緒に求められる全てをそれなりにこなしてしまう、まるで優等生のような、そんな人間だった。幼い頃からそうだったのだ。大人は真緒のような手のかからない聞き分けのある子供をわかりやすく贔屓した。真緒がよく沢山の大人に褒められていたのを覚えている。
 衣更真緒という人間は、それだけでは構成されない。ただの世話焼きな優等生という簡単なワードだけでは、かなりの説明不足だ。きっと今まで真緒と関わった凛月を除く全ての人間が、未完成のまま真緒を賞賛している。それに気付いたのは、あの空白の時間を過ごした凛月だけだ。当の本人である真緒も、自覚していないかもしれない。何年もたったひとりの幼なじみに我が身を捧げているというのに、とんだ分からず屋はただ綺麗事を並べるつまらない人間のままだと、そう小さく呟いた。波の音が、凛月の声を一緒に攫ってゆく。ベトついた足が堪らなく不快だった。

「つまんない人間で悪かったな」

 真緒の声は波に攫われることなく凛月の耳に届いた。先ほどと同じ、ハーフパンツにTシャツというラフな格好のまま現れた幼なじみの表情は、いつものように柔らかかった。

「わざわざ文句言いに来たの」
「頭冷やそうとブラついてたらお前が居たんだよ」

 額と首筋に見える汗が、これでもかと言わんばかりに矛盾を主張している。ツメが甘い。
 凛月の足元を見て、うわあと声を上げた真緒はそのまま凛月を海から引っ張り出した。風邪を引くだとか、足元を掬われたらどうするんだとか、呆れた様子で小言を呟く真緒を凛月はじっと見つめた。それはいつもの、幼なじみの真緒だった。
 塩気を含んだ真緒と凛月の髪が湿った風に吹かれて踊っている。どれくらいこうしていたかはわからないが、ふたりは並んで海を眺めた。押し寄せては静かに引いていく波に何か似たものを感じながら、ただひたすらに眺めていた。
 隣で、真緒が大きく空気を吸い込むのがわかった。二度それを繰り返し、あのさ、と小さな声が聞こえる。

「……本当に、考えたんだよ。夢でも、冗談でもなくて、本当に。真剣に」
「…………」
「俺にも、凛月にも、それぞれ考えてることがあるっていうのはわかってんのに、さっきは俺の考えを押し付けようとした。……ごめん」
「…………」
「でも、凛月にもちゃんと考えてもらいたいんだ。ゆっくりでいいから、答えをみつけてほしい」

 青緑色の瞳が凛月を映している。本気だから、と付け足す真緒の声は確かに、凛月に届いた。細波の音が鳴る静かな空間に、凛とした声が響いている。凛月は答えなかった。ただ瞳に映った自分を見つめて、真緒の言葉を繰り返した。
 一緒に暮らそうと、真緒は言った。元の話題は別のものだったけれど、どうでもいいことだったので忘れてしまった。学園を卒業して、それからの話。真緒は凛月と一緒に、ふたりで暮らしたいと言った。はじめは狭い部屋かもしれないが、アイドルとして活動して、名前が知られるようになって、仕事をたくさん貰えるようになったら。そうしたら、部屋を大きくして、大きなベッドや本棚など、ふたりが好きなものを家に詰め込もう。楽しそうに、そう語った。
 冗談じゃないと、凛月は思った。学園を卒業したあとのことなんて、明日のことがわからない凛月にはまるで想像できない。なにより、真緒はいつまで凛月と一緒にいるつもりなのか。明日も、明後日も、10年後も20年後も。きっと真緒が描く未来にはその先もずっと凛月がそこにいる。真緒の隣で、しあわせそうに眠っている凛月の姿が。すぐそばに。

「俺がここにいるのはさ、凛月のお陰なんだよ」
「……なんで?」
「お前がここに入学して、アイドルの顔してる凛月を見て、すげえ嫌だった。いつも寝てばっかで、宿題もやらないで、夜は元気過ぎて俺が寝れないし」
「それ、全部聞かなきゃだめかなぁ……」
「あ〜、まあ、あとはその他諸々、沢山。とにかく、あんなの知らないって。俺の知ってる凛月じゃないって。そう思ったら、なんか声掛けにくくてさ。雑誌とかに載ってるの見かけたら母さんたちは大喜びしてたけど、俺は別にって感じで」
「素直じゃないねぇ」
「うるさい。……ただの中坊だった俺からすると、あんときの凛月ってすげえ遠い存在だったんだよな。このまま話もしなくなって、会えなくなるんじゃないかって思ってた。俺のこと、とっくに忘れてるんじゃないかって」

 忘れるだなんて、そんなことあってたまるものか。口には出してやらないけれど、そう胸に呟いた。だって、そうしたらそれまでの真緒との時間が消えてしまう。あの空白のように、綺麗になくなってしまうことになるではないか。

「……だから、ライブこなかったの」
「あー、いや。それは行ったよ」
「え?」
「途中から行って最後まで見ずに帰ったけどな。まあ、部活だったのは嘘じゃないし、なんか言いづらくて」
「……ま〜くんさいあく……」
「えっ、悪い、もしかして気にしてたか?」
「べつに……」

 当時の自分がたちまち馬鹿らしく思えた。真緒の言動や行動でこんなにもぐらつくのも、それに真緒が自覚していないのも、ひどく腹が立つ。

「……確かに凛月はすごかった。眩しかった。でも、あのライブを見て思ったんだよ。俺もあそこに立ちたい。凛月と一緒に、アイドルになりたいって」

 元々アイドルなんて柄じゃないのにな、なんて笑う真緒の声を、凛月は静かに聞いていた。
 真緒は、凛月がいたからアイドルを目指した。真緒が知らない凛月を知るために、この学園を選んだ。彼が言ったのは、つまりそういうことだ。
 綺麗事の羅列だった。真緒がここにきたのも、凛月の隣にいるのも、全てがそれだった。
 本当は怖いのだ。今までずっと世話を焼いてきた凛月が、真緒の手を取らずとも自立してしまえるその事実が。それがそうなったとき、真緒の存在意義がなくなってしまうのではないかということが、怖くてたまらないのだ。だからこうして、理由をつけて凛月を隣に置いて、自らを保っている。それも、無意識に。仮に自覚があるとするなら、真緒はきっと凛月の元にはやってこない。元々自分より周りを優先する人間である真緒に、真緒だけの感情で凛月の隣に居座るというのは考え難い。今隣に座っている真緒は、心の底からの善意だけで成り立っている。真緒自身の、本当の所望に気付くことなく、認めることもなく、ただ凛月と共にいる。それが、衣更真緒という人間なのだ。

「いいよ。暮らしても」
「凛月……」
「ま〜くんいないと起きれないし、ひとりじゃご飯も作らないだろうからねぇ」
「お前なあ、少しは努力する姿勢を見せろよ〜? ってか、それだと俺が家事当番か?」
「よろしくねぇ〜」
「あっ、こら、転がるなって。砂まみれになるぞ」

 凛月は知らない。毎日真緒の声で朝を迎えて、真緒の隣で一日を終える。それが凛月のしあわせであり、真緒のしあわせなのだ。
 月の光に照らされる真緒の髪はきらきらと輝いていて、凛月の目をやさしく刺激した。青緑色の瞳が、凛月の姿を映す。夜もだいぶ深くなって、本当に静かだった。真緒と凛月の声だけが、この広い海岸に響いている。ほら、と差し出された手はあの日見た光景と重なった。ああ、しあわせだ。彼は今、ひしめきあうように湧き起こる幸福に包まれている。真緒に向かって手を伸ばすと、しょうがないなあなんて凛月の腕を引きながら、困ったように笑うのだった。


凛月誕でした。おめでとう!


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