目の前を重力に従って流れていく水道水を、鉄虎はぼんやりと見つめていた。燦々と照り続ける日差しに当てられて、水がきらきらと光っている。時折溜まった水に触れて、その冷たさの恩恵を受けた。
 鉄虎の目の前にあったのは、カラフルなビニールプールだった。おまけのように浮かんでいる黄色いアヒルのおもちゃが、なんとも間抜けというかなんというか。どのみち鉄虎が入って遊ぶようなサイズではなかったが、なんだか童心にかえるような心地だった。
 先程までビニールプールに浮かんでいたのは、アヒルではなくスイカであった。それは一面が埋まるくらいにまあるいスイカが浮かんでいて、氷水がひどく羨ましく思えるくらいに夏を感じる情景だった。それを見た時はまさかアヒルを浮かべて、改めて水を入れ直すなんて思わなかったけれど。
「鉄虎く〜ん」
 気怠げな声がした方を振り向くと、お茶の入ったグラスとアイスが乗ったお盆を持った翠がそこに立っていた。麦茶しかなかったんだけど、と言いながら鉄虎の近くまで寄ってきて、隣に同じようにしゃがんだ。こめかみから流れた汗が、足元に一滴落ちる。
「あ〜、麦茶が身に染みるッス……」
「それはよかった」
 もう少しかな、なんて言いながらビニールプールに溜まった水をかき混ぜる翠も、だいぶ暑さにやられているようだった。少し日が落ちてきたとは言っても二人揃って汗で全身がベトベトであるし、永遠と響く蝉の声が嫌になる。
「今日はありがとね、ほんと……俺ひとりじゃ溶けてなくなっちゃってた……」
「全然ッスよ! いい運動にもなったし!」
 どうしてビニールプールを二人して見つめているのかというと、鉄虎が翠の家の仕事を手伝ったので翠の母に水でも浴びてきなさいとスイカが入っていたビニールプールを渡されたことが――水浴びにビニールプールを選ぶ翠の母には笑ってしまったのだが――きっかけであった。もともとひとりでやる気が出なかった宿題を翠と一緒にやろうと思って高峯家を訪ねたのだが、家の手伝いで大変そうだった翠を見て鉄虎自ら名乗りを上げたのだ。こんなビニールプールからアイスまで頂いてしまって申し訳なくもあるのだが、体は常に冷たいものを求めているので抗うことができなかった。
「そういえば、翠くん宿題どこまで終わったッスか?」
「あ〜、読書感想文が残ってる」
「最難関ッスね!」
「こんな暑い中本読む気になんかならないよ」
 確かに、いくら扇風機を占領したって浴びるのは生ぬるい風なのだから、本の内容を理解する前に暑さにやられて放り投げてしまうだろう。
 ちなみに鉄虎が抱えている宿題は数学のプリントで、それはもうさっぱりわからずひとりでうんうん唸っていたのだが、拉致があかないので翠に教えてもらおうとしていたのだ。
「明日にでも一緒にやる?」
「いいッスね! というかめっちゃ助かるッス! もう一人じゃ手も足も出なくて!」
「数学は敵だよね……」
 余所見しているとアイスが溶けて垂れてしまいそうで、鉄虎は思わずぺろりと舐めた。汗ならともかく、アイスが地面に落ちてしまうのはもったいない。見ていた翠にマヌケ、と笑われるけれど、翠のアイスも鉄虎と張るくらい溶けていて、慌てた翠も同じようにぺろりと舐めた。マヌケ、と言い返してやると怒るでもなく拗ねるでもなく、翠はくすくすと笑いだした。つられて、鉄虎も笑う。西日に照らされる翠の横顔は綺麗だった。
「水、もういいんじゃない?」
 ひとしきり笑ったあと、そう言いながら翠は蛇口を捻って水を止めた。ビニールプールいっぱいに入った水が、ぬるい風で小さく波打つ。
「これ、どうするッスか?」
「う〜ん……入る?」
「二人で入ったら水が全部溢れちゃうッスよ」
 いくら庭だからってここで脱ぐ気にもなれないし、全裸で高校生二人がビニールプールに入る図なんてどんな地獄絵図なのだろうか。想像して、げえっと声を出す。翠を見ると似たような絵を思い浮かべたのか、眉間にシワが寄っていた。
 しかしビニールプールを用意してもらって水まで張ったのに入らないのももったいないので、とりあえず二人揃って手を突っ込んだ。ぱしゃぱしゃと音を立てて手を濡らしている二人の姿は、やっぱりどこかおかしかった。
「……鉄虎くんさ、どうせ明日一緒に宿題するなら泊まってかない? 狭いし暑いけど……」
 動かしていた手を止めて、翠が言った。鉄虎が驚いて翠の方を向いても翠は揺れる水面を見つめていて、目が合うことはない。
 ただ珍しいなと思った。いつもはだいたい何かに誘うときは鉄虎からで、翠はそれに頷くだけなのだ。もともと自分から計画を立てるような人ではなかったから、純粋に驚いた。うん、と勢いよく頷いてしまいたくなるくらいに。
「いいんスか? 着替えとか、なんも持ってきてないッスけど」
 突然すっと音もなく翠が立ち上がって、翠の横顔を見つめていた鉄虎はそのまま引き上げられるかのようにつられて見上げた。
 え、と声を出したような気がして、次第に視界がぐらりと揺れる。バシャンと大きな音を立てて、全身が一気に冷えた。滴る冷たい水が頬を伝って、二、三度目を瞬く。そうして鉄虎はようやく状況が飲み込めた。
「みっ、翠くん何するんスか!?」
「いや、泊まるなら着替えあるし濡れてもいいかなって……」
「それならそうと先に言ってほしいッス! 死ぬかと思ったッスよ!?」
「水も滴るいい男って感じだから大丈夫だよ、鉄虎くん」
 ふふ、と笑いを堪えるようにフォローになってないフォローを口にする翠は今日いちばんに楽しそうで、なんだか怒る気力を削がれてしまう。
 けれど仕掛けられっぱなしというのも癪に触るので、うりゃ、と翠の手を引っ張って、道連れにした。翠の上に覆い被さるように倒れた翠は、目を白黒させてしばらく鉄虎を見つめていた。
「……怒った?」
「怒ってたッスけど、これでおあいこッス」
「さすが、いい男は優しいね」
「翠くんまで濡れたら俺なんか霞んじゃうッスよ」
 怒ったかなんて聞いてきたのは翠の方なのに、鉄虎の言葉を聞いた翠はムッとした顔付きで頬を膨らませた。理由はわからないにしても、いくらその顔でふてくされてもかわいいだけで、威圧感も何もないのにと、こっそり胸の奥で思う。
「鉄虎くんはいい男だよ」
 この体勢で、ふたりともずぶ濡れで、距離もなんだか近くて、こんな状況で恥ずかしいセリフを真剣な顔で言ってのけるのだから、たまらない。ステージの上でもこれくらい真剣に取り組んでくれればいいのに、なんて思うけれど、自分以外にこの眼差しが向けられてしまうのはそれはそれでさみしい。
 けれど翠も鉄虎もアイドルであるので、鉄虎がどうこう思ったり感じたりする前に、翠も鉄虎もみんなのもの、ということになってしまうのだ、きっと。
「……恥ずかしいこと言わないでほしいッス」
「だって、本当のことだし……」
「百歩譲って言っていいとして、翠くんまで照れないでほしいんスけど」
「そりゃあ恥ずかしいに決まってるでしょ……」
 さっきのイケメンはどこに行ったのやら、翠は顔を真っ赤に染めて鉄虎の胸に埋もれるようにして俯いてしまった。顔が赤かろうが照れていようがイケメンは何をしてもイケメンなので、非の打ち所がないのが少々苛立つけれど、うぐう、と呻き声を上げながらぐりぐりと頭を押し付けてくるのは、少しかわいい。普段は見上げるくらいに背が高くてとんでもなく綺麗な顔をしているくせに、こういうところはどこか小動物のような何かを感じる。いわゆるギャップ萌え、とかいうやつなのだろうか。
「翠くん、おばさん来ても知らないッスよ?」
 おばさん、という言葉に反応してか、ぴくりと体が跳ねた翠はゆっくりと顔を上げた。赤みはだいぶ引いたけれど、視線が泳いでいてなかなか鉄虎と目が合わなくて、思わず笑った。こんな至近距離でオドオドされても全て見えてしまっているというのに、どうにかしてでも隠れたがっているのがおもしろい。そっちのけでひとりぽつんと浮かんでいるアヒルだって、こちらを見て笑っているような気がした。
「……鉄虎くん、こっち向いて」
 普段とは反対に、翠は見上げるように鉄虎を見つめた。今度は吸い寄せられるように、鉄虎はも翠を見つめる。あ、と声が出そうだったし、翠がなにをしようとしているのかわかるような気がするけれど、何か音を発する前に翠のくちびるが全てを攫っていった。おばさんの言う通り水を浴びて、いくらか涼しくなって、けれどじんわり熱を持ったくちびるが、鉄虎のくちびると重なる。離れて、少し見つめ合って、角度を変えて、また触れた。時折漏れる声が鳴り止まない蝉の声で掻き消されていることを祈りながら、もう一度、もう一度と、どちらからともなくくちびるを啄む。
「翠くんのスイッチの入り方、よくわかんないッス……」
「うん、俺もよくわかんない」
「そんなあ」
 ほんとにおばさん来ちゃうッスよ、と言葉にしようとしたけれど、きちんと言い切らない間にまた翠に奪われてしまう。代わりに目で訴えるけれど、目元を細めて笑ってくれるので、これはもう何を言ってもだめなのだと鉄虎は悟った。
 いつ誰に見られてしまうかわからないような場所で、しかもビニールプールに入りながらずぶ濡れでキスをするなんて、さっきの翠の言葉よりも恥ずかしい。おまけにあつさのせいで頭がぐつぐつと茹っておかしくなりそうだ。
 酸素が足りなくて口を少し開くと、翠の熱を持った舌が鉄虎の口内に侵入してくる。ザラザラとした舌が歯茎を舐めまわして、舌の根元からゆっくりと焦らすようになぞられた。どちらのものかわからない唾液が二人の顎を伝って、あっけなく落ちる。絡み、絡まれ、口内はぐちゃぐちゃで、翠の舌に犯されるたびに身体が震えた。
 翠が身を引いて、鉄虎の口内はぽっかり穴が開いたようなさみしさを覚える。はじめから翠とつながっていたのだと錯覚してしまえるくらいに、空っぽのそこは物足りなかった。
 じっと見つめれば、翠の濡れた薄いくちびるが弧を描く。鉄虎の翠を見つめる目がひどく熱を持っているのを、鉄虎は自覚している。鉄虎が翠をそうさせるのだと、自惚れていた。
「これからゆっくり覚えてよ、鉄虎くん」
 翠のスイッチだ。鉄虎は頭の中で足りない言葉を補った。翠のスイッチがどこにあるのか、どうすればオンになるのかを、鉄虎が見極めなくてはならないという話だ。本人もわからないというのに、なんとも無謀な話である。
「押忍。受けて立つッスよ」
 嬉しそうに頷いた翠は、起き上がって鉄虎に手を差し出した。それを受け取って、自分もまた起き上がる。長い間こうして二人でいた気がするけれど、太陽はまだ空で働いていた。西日に照らされるビニールプールの水は、もう半分ほどしか残っていない。代わりに、周りが水浸しであった。
 翠が鉄虎の手を引いて、庭を抜け出す。途中翠の母に二人揃ってずぶ濡れになっていることを笑われ、なんだかキスをしたことまでバレてしまいそうで、恥ずかしさのあまり俯いた。翠がそれをうまくかわして、鉄虎ごと玄関に飛び込んだ。久しぶりに翠の家の空気を感じて、じわりと汗が滲んだ。せっかく水を浴びたのに、鉄虎の体はじんじんと熱を訴えている。
 まるでペロリと舐めたアイスのように、はたまた絡みあう舌のように、つないだ手から溶けてしまいそうだと、鉄虎は小さく呟いた。
 ああ、そういえばアイスの棒も、麦茶の入ったグラスも、お盆も、全部置いてきてしまった。けれど翠の火照った顔を見てしまえば、艶やかな翠のくちびるにキスをすることしかできなかった。


2017.8.27
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