※遊木くんの話
「セッちゃんさあ」
気怠げな音に乗せて、名前をなぞられる。応えることすら心底面倒臭いと訴えるように、じろりとその眠そうな顔を睨んだ。普段寝るか転がるかサボるかのどれかにしか頭を働かさない彼が、妙に真剣な表情でこちらを見据えている。ああ、これは本当に面倒くさそうだな、なんて他人事のように考えた。
窓から差し込む日の光が白く室内を塗りつぶす。ねぼすけと日光との不釣り合いぐあいに思わず笑ってしまう。目の前の彼は眩しそうに、そして不機嫌そうにさらに目を細めた。あの紅い目に吸い込まれてしまわないうちにそっと目線を伏せて、なあに、と力なく答える。別に、彼相手に棘になる理由はない。これでも同じユニットのメンバーで、元同級生なのだ。
「重たいよねぇ、すっごく」
「突然デブ呼ばわりするわけ?」
「違うよ」
わかってるでしょ、と欠伸混じりに呟かれる。今度は向こうが面倒そうに顔を歪ませた。さっさと終わらせたいのだろう。自分から振ったくせに。
「『ゆうくん』、かわいそう」
ストンと、その室内に声が落ちる。自分の顔がひくりと動いたのがわかった。それでも声は出さない。ただ視線で、じっと歪んだままの顔を訴える。その名を呼ぶなだとか、部外者は引っ込んでいろだとか、色々言ってやりたいことはあったけれど、まとめて胃の奥底へと飲み込んだ。ザア、と外で風が鳴いている。部屋に差し込んでいた光はもうなかった。
「そのうち折れちゃうよ。潰れちゃうよ」
ボキボキ、ぐちゃぐちゃって、と手を遊ばせながら、半ば独り言のように言った。
ふと、自身の顔に傷を付けると言った彼を思い浮かべる。あの言葉を聞いた時は、死ぬ思いで扉を開けた。彼の方がよっぽど死に近い思いをしていただろうに、もし扉を開けて目の前に血の海が広がっていたら、あの綺麗な顔が酷く傷付いていたらーーそう思ったら、生きた心地がしなかった。そうなっていた場合、彼を傷付けたのは他の誰でもない。泉だ。結果的に、泉が彼を、『ゆうくん』を殺したことになるのだ。
嘘でよかったと、今思い返しても安堵する。彼をKnightsに欲しかったのは本当だし、自分の下なら彼の魅力を最大限に引き出すことが可能だとも思っていた。それは今でも変わらない。
「だったら、なあに? くまくんには関係ないでしょ」
「まあね。関係ないし、どうでもいいよ」
ふあ、と小さく欠伸をこぼした。本当に興味がないのだろう。なのになぜ、こうして泉を引き止めてこんな話をしているのか。彼がこうして無関心なものに自ら手を伸ばすことはらしくない。泉としても、放っておいてほしかった。その件で泉たちは謹慎中なのだ。仮のリーダーだって、今は降りている。
「だけど、セッちゃんも、……ううん、セッちゃんの方が、かわいそうだって、思うよ」
「はあ?」
間抜けた声が、ごろりと転がった。凛月はもう顔を他所に向けてしまっていて、表情を見ることはできない。入り込む風に髪が遊ばれて、ゆらゆらと揺れている。
「ふたりも壊しちゃうのは、こわいもんね」
ゴツ、と鈍い音が響いて、そのまま凛月の上に跨るようにして倒れた。勢いよく飛び着きすぎて、頭と頭がぶつかった音だった。下で泉にされるがままになっている凛月は床にも頭を打ったのだろう。痛そうに顔を顰めるが、まだ目を合わせない。何処か気に入らなくて胸ぐらを掴んで、けれどそれ以上のことはできなくて、襟元を掴む手に力を入れた。
許されないと思った。リーダーが今仮の形で在ることも、この紅い目が他人事のようにそれを語るのも、何処かで重ねて、勝手にやり直したいと思っている自分も。許してはならないとこだと、少し前に思ったことを忘れていたことも。
「別にいいよ、殴っても。それでスッキリする?」
「……殴らないよ」
「でも、セッちゃん殺したそう」
「誰のせいだと思ってんの」
「う〜ん、俺かなあ」
けらけらとおどけて笑った。それから少し苦しそうにむせたけれど、手は離さない。髪の間から覗く紅い目が細く弧を描いた。
彼だって、同じユニットのメンバーだ。かつては、同級生だった。だから知らないはずはないのだ。ものが壊れていく様が、どんなに恐ろしいことか。壊していく環境が、あんなにも身近で、けれど酷く遠いことが。手を伸ばしたって、それが無駄になってしまうことだってあるということが。
「壊れないでよ、セッちゃん」
強く握られた手をそっと包むように、彼の手が添えられる。ひんやりと冷えたそれは泉の体温を奪っていくように感じた。
「壊れないで、長生きしてよ。年寄りは、年寄りなりに頑張って若いのについていくからさ」
勝手に人の未来に縋ろうとしているくせに、その表情は今にも泣き出しそうである。いや、だからこそ、なのか。泣きそうなのに笑っているのだから、おかしなものだ。
そもそも、泉についてこなくても凛月にはあの幼なじみがいるじゃないか。こちらに頼むよりよっぽど未来は安泰だろうに、なぜよりにもよって泉なのか。元々Knightsというユニットにはそうやって人と寄り添うような人間なんてひとりもいないだろう。最近入ってきたクソガキはどうなんだか、知ったこっちゃないけれど。
泉にだって、どう生きてどう死のうか考えるくらいは権利がある。考えたところでその通りになるとは思っていないから、そこまでだ。凛月の言う通り壊れずに長生きしているかもしれないし、明日には死んでいるかもしれないのだから。生を見限って静かに首をつっている自分の姿はあまりピンとこないが、そういう未来も可能性はゼロではない。何が言いたいかって、勝手に押し付けて勝手に感傷的になるな、ということだ。泉は人に指図されることが大嫌いだった。
「そう言って、後ろでくたばっても振り向かないよ、俺は」
「ひどいねえ……吸血鬼だって、寿命がないだけで不死身なんかじゃない。死ぬときは人間と同じように死ぬんだよ」
「へえ、知らなかった。くまくんも死ぬんだ」
「このまま体重をかけられたら、ぽっくり逝くだろうねえ」
ぎり、と添えられた手が首を圧迫するように力が込められる。泉は襟を掴んでいるだけで、微塵も力を入れていない。これで凛月が死んだ場合もやはり泉が攻められるのだろうか。本人が自ら喉を潰しました、なんて、どうせ言い訳にしか聞こえないんだろうなと眉間にしわを寄せる凛月を見つめる。人間のそれらしいもがき方は、本当に人間と同じように死ぬようだと遠くの方で考えた。別にこの年寄りが何処でどう死のうと、泉には関係のないことだった。
「言われなくてもそのつもりだけど」
凛月から逃れるように襟元から手を離す。同時に下から苦しそうに咳き込みながら酸素を取り入れる音がする。いつも色味を感じない顔色だけれど、酸欠のせいかさらに白く見えた。自業自得だ。馬鹿なのか、こいつは。
ふうん、と人を嗤うつもりで発せられた声は泉の神経を逆なでしたが、いつものように一喝するようなことはなかった。つい頭に血が上り勢いのまま凛月とともに倒れてしまったが、今はもう頭も冴えていた。冷静に、楽しそうに笑う凛月を見下ろす。
「でもまあ、ご忠告どうも」
床に手をつき腰をあげると、股の下で凛月が拍子抜けしたような顔で目を見開いている。鉄砲を打たれた鳩のようだと、その間抜け面を一瞥して凛月に背を向けた。
何処かで感じていたドロリとした何かが、もう泉の中にはないようだった。何に対して、どういった感情なのか、そもそも感情であるのかわからなかったが、心なしか体が軽い気がする。
それとは別の鬱憤は、そこで伸びている凛月に対してのものだろう。頭を強く打ちすぎたのかとも思ったが、もぞりと体勢を変えてこちらに背を向けてしまったので、あのまま眠るつもりなのだろう。これから寝るなら家に帰ればいいのに。そんな言葉も別にかけてはやらない。泉のやるべきことではないからだ。きっとそのうち、困ったように笑いながら例の幼なじみがやってくるのだろう。
凛月の思う怖いものはあの幼なじみなのだろうか。そういえば彼には兄がいる。毛嫌いされているあの兄はそのうちに入るのだろうか。それとも、壊れてしまったうちのひとつなのだろうか。
そこまで浮かべて、考えるだけ無駄だと早急に思考を止めた。無駄なこと、興味のないことをするのは性に合わない。消し去るように、頭を左右に振った。
急ぎすぎた、のかもしれない。昔かわいがった弟が素人の集まりに呑まれて才能も魅力も気付かないまま埋まっていってしまうことが、恐ろしかったのかもしれない。それとも、単なる嫉妬か。どれにしたって、鼻で笑われてしまえばそれまでのことだった。けれど、そうはいかない。唯一のかわいい弟なのだ。心配にだってなる。兄としては当然の感情だ。そう思った。けれどあの年寄りがいうのだ。壊してはならないと。守ろうと手を伸ばしても、それが凶器になり気付けば崩壊してしまうと。それでもゆっくりはしていられなかった。彼はまだこの学園で学ぶべきことがたくさんある。泉はもう今年で卒業だ。それまでの間だけでも、じっくりと距離を詰めればいい。あれが言いたいのはそういうことなのだろうか。いまいち、泉は理解できなかった。
床に置いたままの鞄を肩に引っ掛け、部屋を出る前にもう一度振り返る。凛月は背中を向けたままだ。寝息は聞こえないけれど、眠ってしまったのだろうか。音を立てないようにそっと扉を開ける。一応、それじゃあねと小さく背中に投げかけた。すると怠そうに左手が上がり、ひらひらと揺れる。起きてるなら、ちゃんと返事してよねえ。心の中で毒付いてから、部屋を出た。
「……お大事にねえ」
扉の閉まる音でその声は掻き消された。足音が徐々に遠ざかる。冷えた風がひとりきりになった室内を掛けてゆく。窓の外は赤々と夕日で燃えていた。雲の切れ間から溢れる光に照らされて床に散る液体は赤く染まっている。それがただの水だったか、それとも元から赤かったものなのか。思い出す前に凛月の意識は夢の中へ消えていった。
2016.8.27
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