※渉北無理やりを匂わす描写、気持ち程度の嘔吐
※真白くんが特殊性癖気味


 罪悪感と頭に残る水音で今すぐにでもここから飛び降りてしまいたいと、すっかり葉が落ちて素っ裸になった木を見つめながらそう思った。けれど、飛び降り自殺は死ねなかったときが最悪であるし、なにより飛び散った身体の破片を片付けるのが大変らしいので、やはり飛び降りるのはやめにしよう。ならば首吊りだろうか、薬がいいだろうか。できれば痛いのも苦しいのも暑いのも寒いのも遠慮したい。重くなった瞼を閉じて、そのまま眠るように死ぬことが理想なのだが、これは恐らく寿命を迎えるまで待たなければならないだろう。それじゃあ記憶を消してしまおうか。でもどうやって。頭を誰かにハンマーで殴ってもらう? 交通事故に遭ってみる? ――ああだめだ。きっと、例えばアニメや漫画の主人公のように上手くはいかずに、ただ痛い思いをするだけである。
 だったらどうしろと。いったい、どうすればまたあの日からずっと夢を見て憧れてきたあの人を、今まで通りの目で見ることができるのか。
 聞くたびにうっとりする美しく凛としたあの人の声は、悲鳴に似た酷く苦しそうな音を奏でていた。それに合わせるように一定のリズムを刻み一音一音丁寧に置かれた水分を含んだ音。そして、あの人に話しかけながら楽しそうに歌を歌っているもうひとりの声。まるでひとつの物語のワンシーンであるかのように行われるそれは、ミュージカルのようだった。そう思った途端、その場から動けなくなった。全身が震え、熱くなった。息が上がり、うまく声が出せないまま、聞いてはいけない物語を終わるまで聞き続けた。聞こえてくる音はどれも酷く醜いものなのに、不思議とそうは思わなかった。焦がれ続けてきたあの人のように儚く美しい物語だと、あのときは心から思った。今この瞬間、この先もずっと、あの日あの場所に足を運んで、すぐに立ち去らなかった自分をこれまでにないぐらいに憎み、死ぬまで後悔し続けるだろう。だって、あの人が穢されてしまっていた場面に、『美しい』などという感想を抱いてしまった。逃げるでも助けるでもなく、ただその場に立ちすくんでいただけの、最低な人間になってしまったのだ。
 ぴり、と指先に痛みが走る。紙で切ったのか、じわりと血が滲んでいた。痛い。手や顔を洗うときも、風呂に入るときも、きっとしみて痛くなる。痛い。痛いのはいやだ。だいきらいだ。
 いたい、と、あのときもそう叫んでいた。聞いているこっちまでも痛くなるくらい、ほんとうに痛そうに叫んでいた。泣いていた。
 痛みにきれいな顔を歪ませながら涙をぼろぼろとこぼす姿はさぞかし美しいのだろうと、最低な人間は妄想する。痛いのも、苦しいのも、暑いのも、寒いのも、すべてきらいだけれど、それらに感化されている姿はたぶんすきだ。自分ではなく、あの人がそうなっているのを見ていたい。少しの希望に照らされて輝る雫で顔を濡らしながら、目の前にいる自分に助けを求めてくれたなら。
 そこまで考えて、友也は昼に食べた母の手作り弁当を床に吐き出した。

***

 空き教室の扉を思い切り閉めて、そのままズルズルとその場に座り込んだ。足りない酸素をどうにか取り込もうと、みっともなく口を開く。おさまらない動悸と流れる汗にどうしようもない不快感を抱き、また吐き気がした。
 演劇部の活動があった。あの日から初めての部活だった。校内ですれ違ったときの北斗の様子はいつもと何ら変わりはなく、当然友也に対する態度も優しくて美しいあの憧れの先輩同様だった。
 夢だと思った。あの日耳にしたものすべてが、友也の思い描いた悪い夢だと思った。だって今日までは、友也の頭の中にしかあの日起こったことの証拠がなかったからだ。だから部活にも期待を寄せて参加した。いつもなら何かしら理由を付けて欠席するのに、時間通りに部室へ向かった。けれど。
 だめだった。部室に足を踏み入れた直後、友也は悪寒と目眩に襲われた。北斗と渉が一緒に視界に入った途端、それはもう爆竹を飲んだかのように身体の中で何かが弾け飛んだ。ふらふらと歩む友也に気付いた北斗が駆け寄ってきてくれたが、北斗が触れるたびにあの日の音が脳内で再生され友也にかけてくれている美しい北斗の声がその醜い音で掻き消されてしまった。気付けば友也は北斗を突き飛ばし、近くの空き教室に逃げていた。
 やはり死を考えたあの日に死んでいればよかった。あれは友也だけの夢ではなかったのだ。あの日あの場所で、それは行われていた。それをすべて、漏らすことなく、聞いてしまったのだ。いたいいたいと泣き叫ぶ北斗は誰かに助けてほしかっただろうに、いつも北斗に助けてもらっていた友也はただ黙って立っていただけだった。助けるだなんて、そんなこと自分ができるはずがない。映画に出てくるヒーローのように、格好良く救えるはずなんてなかった。
「友也、どうしたんだ! 体調が悪いのか、それとも奴に何かされたのか? 扉を開けてくれ、友也。すべて聞いてやる。お前の中にある鬱悶をすべて取り除いてやる。だから出てこい、顔を見せろ、友也」
 あの凛々しい声が、友也の名前を呼んでいる。必死に呼びかけている。そんなことをされる資格なんて友也にはないのに、それでいて彼は呼び続けた。扉を叩いて、声をあげた。
 涙が出そうだった。泣くべき人間は友也ではないのに、鼻の奥がジンとする。ガラリとあっけなく開けられた扉から入る光と北斗があまりにも眩しくて、たまらず目を閉じた。
「……友也、泣くほど辛いのか、かわいそうに……。何があったんだ。何でも聞いてやるから、少しずつでいい、話してみろ」
 嗚呼、なんて眩しいのだろう。なんてあたたかいのだろう。声を聞くだけで、心がふわふわと浮ついている。その声が名前をなぞるだけで、自分が存在しているのだと、此処に在るのだと確信できる。
 けれど、真白友也はここに在ってはならないのだ。北斗に名前を呼んでもらう資格もなければ、声を聞くことすらも許されない。だって友也は最低な人間になってしまった。助けられず、手を伸ばすこともできず、ただ立聞きしていた気持ちの悪い、あれ同然の生き物なのだから。
「……どういう意味だ、友也。何故そんなに自分を卑下している?」
 そんなの、決まっているでしょう。ネジが弾け飛んだかのように、友也は訳も分からず声を張り上げた。めちゃくちゃに、ただ頭に浮かぶ言葉を空っぽの教室にぶちまけた。その跳ね返った言葉は北斗を傷付けてしまうかもしれないと、ふとそう思ったときにはもう遅かった。遅かったし、やめられなかった。だってこんなにも綺麗な人間が、よりによってあんな奴に汚されてしまうなんて、そんなことがあっていいとでも思うのか。そんなはずない。あっていいわけがない。この人はいつかこの学園の、いいや、世界のトップアイドルになって、キラキラに輝いて、その眩しい姿を世界中の人たちから称賛されるべき人材なのだ。それなのに、それなのにやつは!
「――友也」
 静かになぞられた名前が、友也の言葉でまみれた教室に静寂を取り戻した。ひどく震えて、いつもよりもか細くて、けれどもやっぱり凛としたその声を発した本人は、ただ座り込んで俯いている。
「……ありがとう、友也」
 薄汚れた床に、綺麗な涙が一滴、二滴と零れ落ちた。もったいないと、無意識に北斗と同じ目線になるようしゃがみ込んだ。縮こまっているせいか、上から北斗を見るとなると新鮮でなお心臓に悪い。長いまつげを濡らして、目尻からまたつうっと筋が伸びる。嗚呼、なんて美しいのだろう。なんて絵になるのだろう。目元にまで手が伸びてしまいそうになるのを堪えながら、ただじっと俯く北斗を見つめていた。手は出るのに気の利いた言葉のひとつやふたつも口から出てこないなんて自分はどこまでも役立たずな後輩だと、今すぐにでも窓から飛び降りたくなった。
 けれど、それは北斗の手によって阻まれた。力なく、しかし必死にしがみつくように、友也に手を伸ばしていた。
「俺が、こんなことを言う資格などないのかもしれない……。でも、それでも、今の友也の言葉を聞いて、思ったんだ。友也に、友也がいい。友也がいいんだ」
 ひとつひとつ紡がれた言葉に、友也はくらりと目眩がした。どうして、どうしてあなたがそんなにも哀願しなくてはならないのだ。だって俺は、最低な、なり損ないの。
「――どうか、俺をたすけてくれないだろうか……?」
 壊れてしまいそうなほどに震えた声は、すぐそこに落ちてしまった。友也はそれを必死に拾い集めるかのように、伸ばされた北斗の手を手繰り寄せた。
 北斗は今、少しの希望に照らされて輝る雫で顔を濡らしながら、目の前にいる友也に手を伸ばしている。他の誰でもない、友也に、手を。
 冷え性だからアイドル活動に支障が出るのではないかと、以前北斗が自分の手が冷たいことを気にしていたのを思い出した。確かに、今友也が触れている手は恐ろしく冷たく、かわいそうなほどに震えている。
 あのときも、この冷たい手を乱暴に掴まれて、どうすることもできずただひたすらに痛みに耐えていたのだろうか。友也が黙って聞いていることも知らずに、涙で綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして。ツンと、喉の奥から酸っぱい気配を感じて友也は必死に耐えた。この綺麗な身体の隅々まで、余すことなく、彼は触れられたのだろうか。まるで飴玉を口の中で転がすように、弄ばれたのだろうか。この氷鷹北斗という人間を目の前にして、いったい何を思い浮かべながら汚していったのだろうか。人形のように色白く透き通った肌と友也のものが並んでいるのを見ると、堪らず目を逸らしてしまいたくなる。自分もまた、同じように汚してしまうのではないか。そんな不安に駆られて、触れるのを躊躇ってしまう。れけど北斗は、友也の腕を掴んでいる。
 ヒーローなんかに、なれるはずがなかった。なれるはずなんてなかったけれど、その冷えた手を振り解くことも、友也にはできなかった。
「……ともや」
 ヒーローにもなれず、手を振り解くこともできない友也は、我慢も考えることもできずにその不安げに開かられた北斗の口を塞いだ。正確には、一瞬だけ北斗の唇に触れただけだ。目を瞑ったせいで、やや位置がずれたような気がする。けれどそんなことを考える余裕もないほどに、友也の心臓は忙しく動いていた。顔がだんだん赤くなるのがわかる。身体中が熱くて、汗が噴き出しそうだ。熱いのに、北斗の手が冷たいのかどうかもわからなかった。
 キスをした。たった一瞬だったけれど、友也の唇と北斗の唇は、確かに触れ合った。もしかしたらあいつにも同じことをされたかもしれないと思ったが、今はもう気にならなかった。北斗にとっては、友也の方が何倍もマシだろうと思った。だって、北斗は望んだのだ。友也がいいと。この他でもない真白友也を求めていたのだ。だから今なら、何をしても許される気がした。未だに北斗の手は友也に縋っているし、もう一度とねだるように擦り寄ってきている。
 何度もなんども頭の中で描いてきたあの日の光景をなぞるように、友也で上書きするように、汗でべたつく手を北斗の肌の上に滑らせる。こうして、あの日も、汚い手で、触られて、あそばれて、啄ばまれて、唄われたのだ。それを友也は、扉越しに聞いていたのだ。すべて、物語の結末まで、友也は。
「北斗、せんぱい……」
 みっともない声で北斗の名前をなぞれば、涙をいっぱいに溜めた目を数回瞬かせた北斗は、優しく友也の名前を呼んだ。
 嗚呼、もっと、もっと呼んでほしい。その声で、その目で見つめて、もっと名前を呼んでほしい。あなたがその名を呼んで初めて、真白友也は存在するのだと、そう確信できるのだ。普通で、なにもなくて、ヒーローになんてなれっこなかった友也でも、その凛とした声に呼ばれれば、北斗のためだけのヒーローになれるのだ。
「……ごめんなさい、北斗先輩」
 もう一度、今度は触れる直前まで目を閉じないようにキスをした。やわらかくて、つめたくて、でもそれでいてどこか熱があって、ふわふわした。いつも凛としてかっこいい北斗にもこんなにやわらかい部分があるのかと、そう考える余裕もあった。
 気持ちが悪いと、最悪だと自分を卑下していた友也はもういなかった。ただ雪原のように白く透き通った肌が目の前に広がっていて、細く冷たい手が友也に縋るように伸ばされていて、いつものあの声でやさしく友也の名前をなぞられれば、友也はもうそれを餌を得た雛鳥のように啄む他なかった。躾のなっていない犬のように、みっともなく貪った。あの日の悲痛な声とは違い、蕩けるような音で友也を呼ぶ声を聞くたびに安堵を繰り返し、名度も北斗の名を呼んで、自分が拒まれていないことを確かめながら、何度も、なんども。
 真白友也は、世界でいちばん最低なヒーローになったのだ。きっと、明日になればまた死ねばよかったと後悔する。結局自分だって同じだったじゃないかと、幻滅する。けれど、今の友也はヒーローだった。ヒーローは、人を救うために存在する。北斗が友也を求める限り、友也はヒーローであり続けるしかないのだ。


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