辺りはしんと冷えていて、吐く息は白い。ずいぶん深い時間だからか、人も車もあまり通ってはいなかった。ぼんやりと街頭に照らされた歩道を、豪炎寺はひとり少し早足で歩いている。
 厚手の上着を羽織ってきたけれど、急いでいたせいかそれ以外の防寒具はすっかり忘れてしまっていた。容赦なく刺さる寒さにひたすら耐えながら、かじかむ手をポケットに無理やり突っ込む。あまりの寒さに足が止まってしまいそうだけれど、豪炎寺はただ無心で歩き続けた。きっともうすでにそこで待っているであろう、あの男に会いに行くために。


 一本の電話があった。
 酷く興奮しながら、電話の向こうの声は何度も豪炎寺の名を呼んだ。サッカーに明け暮れているときとは違った感情の高ぶり方で、それはもう、まるでなにか不気味な化け物にでも襲われているんじゃないかと思ってしまうほどに。宥めようにもなかなか話が通じないので、豪炎寺は落ち着くまで声をかけ続ける他なかった。
 明らかに、様子がおかしかった。いつもみんなの中心にいて、変わらず笑顔であり続けた男とは思えないほどの状況に、豪炎寺も困惑した。鬼道や風丸が同じ場にいたら気の利いた言葉をかけてやれるだろうにと、いくら考えても無駄なことばかり頭に浮かんで、己の無力さにうんざりする。なぜ数ある候補の中、豪炎寺選んだのだろうか。
 電話がかかってきてからどれほど時間が経ったのかはわからないが、しばらくすると電池が切れたおもちゃのようにぷつりと音が途絶えた。けれど電話はまだ繋がっていて、息を整えるように呼吸する音がわずかに聞こえている。豪炎寺が確かめるように名前を呼ぶと、それに答えるように、消え入りそうな声で『会いたい』と言った。
 それから豪炎寺は支度もままならない状態で家を出て、ある場所に向かっている。そこに彼はいると、豪炎寺は確信していた。


「……円堂」
 聳え立つ鉄塔の下で、彼は立っていた。いつもならサッカーボールを脇に抱えて元気にこちらに向かって手を振るのに、今日ばかりは声をかけても視線をこちらに寄越すだけだった。暗闇の中にしおれた花のように立ち尽くす彼は、あれだけヒステリックになっていた人物だとは思えないくらい、静かであった。
「寒くないか、円堂」
 急いで家を飛び出した豪炎寺とは正反対に、円堂は温かそうな格好をしていた。暑いコートに、顔半分を隠しているネッグウォーマー、それから耳あて。けれど、これだけ防寒具が揃っているのに手袋だけはなぜかはめていなくて、指先が赤くなった手がコートの袖から覗いていた。だらんとぶら下がっているそれは、かわいそうなほど冷えている。少しでもマシになればと豪炎寺はそっと円堂の手を取って、温めた。拒絶することもなく、円堂はされるがままだ。
「大事な手だろう。手袋はどうした?」
 豪炎寺の手と比べて、円堂の手は大きい。ごつごつと骨ばって、所々に傷があって、ゴールを護るにふさわしい手だ。グローブをはめていない手を見るのは久しかったけれど、それはいつになく弱々しく思えた。
「逃げよう、豪炎寺」
 突然放たれた言葉に、豪炎寺は弾かれたように顔を上げた。まっすぐ円堂と目が合って、どうしてか豪炎寺のほうが逸らしてしまいたくなった。
「……どういうことだ」
「ここにいたらだめだ。……いや、どこかにいても安心なんかできないけど、ここじゃだめなんだ」
「だから、どういうことだ円堂。何から逃げようとしているんだ?」
 円堂から『逃げる』だなんて、後ろ向きな言葉が出てくるとは思わなかった。言葉通り太陽のような男が、背を向けて雲に隠れてしまうようなことを言うなんて。けれど、冗談だろうと笑ってやり過ごすことも許されないくらい、円堂が本気であることがひしひしと伝わってくる。
「わかんないよ……でも、ここにいたら、サッカーできなくなっちまうんだ。俺、たくさん見た。豪炎寺のつらそうな顔、たくさん見たんだよ」
「サッカーが……?」
「なあ豪炎寺、一緒に逃げよう? 俺、お前がいないサッカーなんてもうしたくないよ」
 口数が少ない分話を聞き意味を汲み取ることは人よりも長けているつもりであったが、円堂の言っていることはまるでわからなかった。
 つい先日フットボールフロンティアで優勝して、次は世界だと新たな目標を立てたばかりであるのに、今後サッカーができなくなるなんて想像もつかない。影山が逮捕された今、豪炎寺が気に留めているのは夕香のことくらいだ。試合に出なかったのは怪我をしたあの一試合だけなのに、円堂は今まで何度も豪炎寺のいないサッカーを経験したような口ぶりである。
「落ち着け、円堂。お前が何に怯えているのかわからないが、俺はどこにもいかないし、この先もサッカーを続けるつもりだ。一緒に世界に行くんだろう?」
「だから、無理なんだよ! 豪炎寺はなにも悪くないのに俺に謝って、ひとりでどっかに行っちゃうんだ! 世界に行っても、豪炎寺はそこにいないんだよ! なんでだよ豪炎寺、なあ、豪炎寺……!」
「な、なんでって……」
 肩を強く掴まれ、がくがくと揺さぶられる。何で、と問う円堂は今までのどの試合よりも必死だった。
 全くもって話が噛み合わない。――いや。恐らく、円堂と豪炎寺の間では、根本的に何かが違う。何がどう違うのかもわからないけれど、円堂は明らかに豪炎寺とは違っている。
「行こう、豪炎寺」
 そう言って、円堂は豪炎寺の手を強く引いた。よく見れば円堂は大きめのリュックを背負っていて、それが『逃げる』ための荷物であると理解するのは容易だった。
「ま、待て、円堂。行くってどこに行くんだ。それに俺は何も持ってきてない」
「いいよ、大丈夫。俺が持ってきた。貯金箱ひっくり返したら結構あったんだ」
「そういう話じゃ……」
 行こう、ともう一度念を押すように強く言った円堂は、豪炎寺の話を聞こうともせず強引に連れ出そうとする。かたく繋がれた手は振りほどけそうになくて、豪炎寺は円堂に引きずられるように鉄塔広場を後にした。

 『ここではないどこか』とは、一体どこなのだろう。ここがだめで、ここではないどこかがいい理由はなんなのだろう。元より、円堂は何に怯え、何から逃げようとしているのか。何が立ちはだかるというのか。
 掴まれた手がギリギリと痛み、豪炎寺は抵抗することをやめてしまった。大人しくついてくる豪炎寺に円堂も安心したのか、先ほどより足取りは軽い。比例して、豪炎寺の身体は重石を背負っているかのように重くなる。
「豪炎寺、俺、豪炎寺とするサッカーが好きだ」
「……ああ」
「今までみたいにみんなで日本一目指したり、次は世界だって言えなくなるかもしれないけど……でも、豪炎寺がサッカーできなくなるなら、俺は豪炎寺と一緒にどこにだって行くよ。お前とのサッカーが本当に好きだからさ」
「…………」
 嘘ではないのだと思う。あの日河川敷で円堂に出会ってから今この瞬間まで、きっと円堂はまっすぐに、正直に生きてきた。豪炎寺を思ってくれているその気持ちも、その言葉が全てなのだろう。
 だからこそ、わからなかった。悪い夢を見たにしては反応が過剰すぎるし、今の円堂は夢と現実の区別がつかないほど混乱している様子はない。電話で豪炎寺の名前を叫んでいた時よりもよっぽど冷静だ。
「……円堂」
「ん? 腹減ったか? 確かパンかなんかを入れてきたと思うんだけど」
「円堂、お前は……何を見た?」
 ぴたりと、足が止まった。時間が止まったかのように、円堂も、豪炎寺も、ふたりともしばらくその場に立ち止まった。
 きっと、夢や妄想なんかじゃない『何か』を、円堂は見てきたのだと思う。豪炎寺にはわからない、見ることもできない何かを円堂は見て、知っている。
「……もう、大丈夫だから」
 円堂は振り返って、いつものように笑った。それはゴールを背にサッカーを楽しむ、いつもの円堂だった。
「豪炎寺は、俺が守るよ」
 気付けば朝日が顔を出していて、徐々に車通りも増えていた。シャッターが開いて、人が出てきて、ペットの散歩をしていて、畑に出向く人がいる。
 一日の始まりのように、円堂は再び豪炎寺を連れて歩きはじめた。世界中が朝を迎えて、新たな一日を過ごそうとしている中で、円堂は、豪炎寺は、なにをはじめようというのか。
「一緒に逃げよう、豪炎寺」
 円堂の話も、考えていることも、これからしようとしていることも、なにもわからないのに。もしかしたら円堂が見た悪い夢か、または妄想か、その両方かもしれないのに。今日は朝から練習があって、そのあとは授業があって、放課後にはまた練習があって。家に帰って、夕香の宿題を見て、風呂に入って、明日に備えて寝る。さっき電話が鳴るまではそうやってまた一日を過ごすものだと思っていたのに。
 それでも、こちらを見てにっこり笑う円堂は朝日顔負けの眩しさで、これが豪炎寺の太陽ならば、それはそれでいいのかもしれない。だって、円堂がいればずっと暖かさに包まれて、日なんか暮れずにいつまでもボールを追いかけられる。面倒な勉強も、円堂は嫌いだからきっとおさらばだ。
「……サッカーが、したいな」
 円堂が豪炎寺だけを照らしてくれる太陽になるのなら、ふたりだけの世界が必要である。サッカーを歪んだ目で見ている影山も、医者になれが口癖の父も、邪魔するものはなにもない。誰にも文句を言われず、何かに妨害されることもなく、機嫌を損ねた神様が気晴らしに意地悪してこないくらい遠いところで、平和に楽しくサッカーができれば、それでいい。
 こんな馬鹿みたいな夢のような妄想でも、太陽の円堂がいれば簡単に叶ってしまいそうで、ふたりだけの世界に連れて行ってくれると思ってしまいそうで、豪炎寺はすべてを円堂に委ねてしまいたくなった。




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