鏡の向こうの人間は自分をただじっと見つめている。感情はない。その姿は死人のように色白く、焦点の合わない眼は濁っていた。とても惨めだと、自分のことながらくつくつと腹の底から笑いがこみ上げてくる。なんだこの有り様は。

 ただ正しいと思い込んで突き進んできた今までの道は、本当に正しいものだったのだろうかと今更ながら考えたが、答えはちっともわからなかった。いくら考えても、いったい何が正解で何が不正解なのかがまるでわからない。もし自分の来た道が不正解だったなら、これからどうすればいいのだろうか。考えても考えても、何も浮かばなかった。――体はとても重たいのに中身は空っぽのような気がして、ここから落ちてもふわりふわりと浮かんでしまうのではないだろうか。大して高くもない部屋の窓から見下ろしながら、馬鹿げたことを考えた。けれど、未だ慣れないこの髪が未練たらしく存在を主張した。



「髪を切ってくれないか、円堂」
「どうした、いきなり」
「ああでもその前に、この青を元の色に戻してからだ。それから髪を切ってくれ」
 目障りそうにその髪を弄る豪炎寺の後ろ姿が、かつて雷門中のエースを背負っていた彼と同じ背中だとは思えなかった。彼のことをよく知る円堂でさえも、あの大きな背中、絶対的な存在感に毎回震えていた。しかし今目の前にあるのは小さくて脆そうな背中で、それは今にも消えてしまいそうだった。
 豪炎寺は弱い。円堂は知っていた。強く思えるのは豪炎寺自身が弱いところを一切表に出さないからであって、所詮はただの人間なのだ。弱いところも、脆いところも、普通の人間と同じように豪炎寺にもある。ただその弱点を隠すのがうまい、というよりは、弱点を出して周りに知られることを恐れているのだ。もともと感情を表現するのが苦手なことも相まって、上手いように弱い部分が豪炎寺の中に絶えず蓄積されていく。
 豪炎寺は今、弱点に埋もれてしまっているのだ。
「豪炎寺、もうお前が背負うものは何もない。終わったんだ」
「私は……たくさんの人々を傷付け、たくさんのものを壊してきた。それは決して、許されることではない……」
「お前はもうイシドシュウジじゃない。豪炎寺修也だろ。豪炎寺修也はいつまでもボールを追いかけてたじゃないか。また一緒にサッカーやろうぜ、豪炎寺」
「ちがう、私、わたしは……」
「豪炎寺、もう終わったんだよ」
 そっと抱き寄せた体は目で見るよりも酷く小さくて、とてもじゃないがサッカープレイヤーだったとは思えないほどに痩せ細っていた。ここ最近では食べ物を口にしても戻してしまうことがほとんどで、きっと彼の胃の中には何も入っていない。
「髪色、戻そうか。それから髪切って、風呂に入ろう。スッキリしたら飯食えるかもしれないからな」
 部屋に明かりを点けて、豪炎寺をベッドの上に座らせる。乱れている髪を優しく梳かすと、豪炎寺の顔をよりはっきり見ることができた。その顔は昨日よりもまた随分と窶れていて、可哀想なほど感情を感じられなかった。
 豪炎寺は正しかったのだ。自分の立場を捨て、大切で大好きなサッカーを取り戻そうと、サッカーのために生きてきた人生を惜しむことなく賭けて、結果サッカーを取り戻すことができた。豪炎寺は役目を果たしたのだ。しかし今もなお、彼はこんなにも苦しんでいる。いつか本当に、何処かへ消えてしまいそうなほど脆くなっている。
「なんで神様は、豪炎寺にばっかり辛いことをさせるんだろうなあ……」
 豪炎寺がまたサッカーがしたいと思える日は来るだろうか。豪炎寺のあの、興奮するほど凄まじいシュートを受けられる日は来るだろうか。虚ろな目で何処か遠くを見つめる豪炎寺は今、何を考えているのだろうか。
 円堂は梳かすたびに抜け落ちる細い髪を見つめながら、何処かでふたりを見ているであろう神様を、酷く恨んだ。



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