ぎしりと、古びたベッドのスプリングが音を鳴らした。ぎしり、ぎしりぎしり。ああうるさい! うるさくて寝れやしない! 夢の中で霧野は怒鳴る。気持ちよく寝ているときに邪魔されるのが嫌いな霧野は酷く腹が立った。用事があるのなら日が昇ってからにしてくれないか。こっちはぐっすりと眠っていたところなんだ。夢の中で、霧野はうるさい音に話しかけた。ぎしり、ぎしり。しかし音は大きくなる。音は霧野の言葉なんて聞いていなかった。それはそのはず。だって音は音なのだ。いくら霧野の貴重な睡眠を妨げようがなんだろうが、それきりで終わりなのである。なにがどうなったかなんて、音にはまるで関係ない。それならそれで仕方がないと、夢の中の霧野はそのまま眠ることにした。躾けた犬じゃあるまいし、霧野の指示に従うはずがないのだ。そうひとり納得して、ふかふかの布団の中にすっかり包まった。
「夢じゃなくて、こっちでもお喋りしようぜ、ランマルくん」
包まったはずなのに、なぜか霧野の布団は綺麗に剥ぎ取られていて、代わりに腹部にずいぶんな重みを感じた。寒い。寒いから布団をくれ。寒くて凍え死ぬ。霧野はその重みに訴えた。
「寒いのは俺も好きじゃないけど、流石に起きてくれよ。こっちは暇で死にそうだ」
ここで霧野は気が付いた。この声は聞き覚えがある。誰だ。霧野の上に乗っかっているのは誰だ。必死にまだ半分夢の中に浸かっている脳みそにエンジンをかけて考えた。そうしてまず思ったのはこの重みが家族ではないこと、神童でもないこと、倉間でも、浜野でも速水でもない。先輩たちでも一年生でもない。いったい誰だ。この貴重な睡眠時間を奪っている非常識なやつは。
「あれ、わかんないか? 俺だよ俺」
吐息が鼻にかかるほど近くに寄ってきた重みはオレオレ詐欺お決まりのフレーズを口にした。暗闇に紛れてわからなかった顔のパーツが徐々に露わになってくる。男にしてはずいぶん長い睫毛。カラーコンタクトのようなエメラルドグリーンの瞳、そして暗闇の中でもよくわかる、桃色の髪。
ああ、わかった。この重みは、目の前の人間は、ずばり霧野である。
「……お前、俺か」
「そう。俺はお前だ」
「俺は死ぬのか」
「言っておくけど、俺はドッペルゲンガーとかじゃないからな。俺に会ったって死なないさ」
「じゃあもう出ていけよ、俺は死ぬほど眠いんだ」
「ははっ、眼つきが鋭すぎて俺が切られそうだ」
意味がわからない。いや本当に。なんだって自分に睡眠時間を削られなければならないのだ。それに、この目の前にある顔が自分のものだって? そんな馬鹿な。いくら次元を越えたり宇宙人と戦ったりしたからって、こんな自分と瓜二つな人間と出会してたまるか。全く意味がわからない。
「俺の睡眠時間を削り取ってでもここに現れた理由を俺が納得するように言ってみろよ。そうじゃなきゃお前のチンコを切断してズタボロにしてやる」
「自分と同じ顔してる奴のチンコを自分で切るのってすごいエグいな、あたらしい扉が……って、わかった、わかったよ。話すからハサミは置けって。いやいや、カッターもダメだから」
確かに、そっくりさんならまだわかるが、目の前の霧野は霧野にそっくりどころか全く一緒なのである。唯一違うのは部屋着姿の霧野と、ユニフォーム姿の霧野ということだけだ。そんな奴の陽物を切断するというのは、さすがのスプラッタ映画が好きな霧野でも遠慮したくなる。
いやそうじゃない。霧野が聞きたいのはそんなエグい話ではなく、ドッペルゲンガーもどきが目の前にいる理由である。
「ーー俺が此処に来たのは、こっちの霧野と向こうの霧野を入れ替えようと思ったからなんだよ」
「はあ?」
「だから、わかるだろ。パラレルワールドってやつだよ」
「パラレル、ワールド」
頭が痛くなってきた。ここはSF小説の物語の中なのか。それともまだ夢の中にいるのか。こっちもどっちもそっちも向こうも、よくわからないがとりあえず霧野はここに存在するのだ。もうそれで良いではないか。
説明しろと言ったのは霧野本人だったが、これ以上説明されても何も頭に入ってこない気がした。
「向こうの、つまり俺の世界の神童がホントにつまんなくてさ。ずっと部屋の中に引きこもってピアノと仲良くしてるんだよ。神童がピアノを弾いてるのを見てるのも聴いてるのも好きだけど、俺的には物足りないんだよな。途中で寝ちゃうと申し訳ないし。でも、この前見ちゃったんだよ。こっちの、お前の世界の神童はすごく楽しそうにサッカーなんてやってるじゃないか! 俺も神童と一緒にサッカーしたい! ふたりでボールを追いかけたい! だから、俺とお前を入れ替えて、お前は向こうでピアノを聴いて、俺はこっちでサッカーをやる、これで解決ってわけ」
「……悪いけどお前が何を言ってるのか全くわからない。そっちもこっちも、神童は神童だけだ。ピアノだって弾くし、サッカーだってやる。ずっと前からそうだ」
「だから、パラレルワールドだってさっきもーーああ、もしかしてこの時間じゃまだ早かったのか。あの後だったらもう少しスムーズに説明できると思ったんだけど」
腹の上の重みはウンウンとひとりで唸って悩みだした。というか、そろそろそこを退いてくれないか。いくら自分と同じ重さといえ、長時間経つとだいぶ息苦しい。とにかく退いて、代わりに布団を持ってきてくれ。どこかの誰かのせいで冷えてしまった布団を、早く。
「まあ、とりあえず行ってみたらわかるから」
「行くって、何処に」
「俺の居た世界。此処と同じようで何処か違う、お前だと違和感を感じる場所。俺にとってはこの世界が違和感だらけだけどな」
「ふざけたこと言ってるなよ。俺は信じないからな。パラレルワールドなんて馬鹿らしい」
「勝手に言ってればいいさ。時期にわかる」
「お、おい、なにす……っう、あ、!」
目の前の霧野が耳元で何かを囁いた。けれどそれを聞いている余裕がないほどに霧野は焦った。先ほどまで暗闇に包まれていた霧野の部屋は一瞬にして白く眩しく輝いているのだ。腹の上の重みはもう何処かへ消えてしまって、霧野の体はふわふわと宙に浮いているようだった。霧野はくらりと目眩がした。それはついに許容量を超えてしまった脳みそが破裂してしまったからなのか、宙に浮いているせいで酔ってしまったのか、霧野にはわからなかった。
気付けば霧野はそこに立っていた。立っていたが、そこは霧野の部屋ではなかった。赤い夕日が差し込んだ、見慣れた教室だった。分厚い本数冊を手に、霧野はひとり教室で立っている。
机の上には霧野のものと思われる鞄と、同じ形のものがもうひとつ。それには鍵盤がモチーフのキーホルダーが付いている。神童の鞄。霧野は反射的にそう思った。
「ーー霧野、くん」
ゾクリとした。教室の入り口には制服姿の神童が立っていて、霧野のことを驚いたように見つめている。突然現れてそんな顔をしないでほしい。驚きたいのは此方の方だ。目を開けたらここは霧野の部屋ではないし、普段だったら視界にすら入らない本を大事そうに持っていたし、神童は霧野のことを霧野くんと呼んだ。霧野くん? 霧野くんとはなんだ。何故そこで急に他人行儀になるのだ。同じ顔をした奴といい、居づらそうな雰囲気を醸し出す神童といい、もう本当に意味がわからない。
「あ、あの、霧野くん。もしかして、最近音楽室の近くに来てたり、するのか」
「え」
「俺が音楽室でピアノを弾いていると、見えるんだ。綺麗な桃色の髪が。この学校には、桃色の髪と言ったら……君しか居ないから」
「あ、いや」
「いつもなら神聖な音楽室に入り浸るなと注意するんだが……その、あの桃色の髪が霧野くんだと思うと、何だか落ち着かなくて……。ああ、いけないな、こんなことでは。コンクールが近いというのに……」
今度こそ倒れるんじゃないかと思った。だって、こっちの霧野が言っていた言葉が理解できてしまったのだ。つまりは奴が言っていた通り、ピアノを弾く神童を見ていた霧野と、神童とサッカーをやってきた霧野が入れ替わったのだ。
「ーーずっと、君のピアノを聴いていたよ。神童くん」
ずき、ずきり。ああ、頭が痛い。
神童は霧野の手を両手で優しく包み込み、嬉しそうに微笑んだ。天使の微笑みとはこういうことを言うんだなと、ひとり感心する。
ずきり、ずきり。痛い。頭が痛い。
「近くで見ると本当に綺麗な髪だ。深い緑の眼もすごくきらきらして……ああ! 何故もっと早く話しかけなかったのか! こんな綺麗な人に俺のピアノを聴いてもらっていたなんて!」
もうだめだ。霧野は諦めた。いくら考えても答えをくれる人は現れないだろうし、恐らく霧野はもうこの世界から出ることが出来ない。またあのドッペルゲンガーもどきが現れない限り、霧野はずっと神童のピアノを聴き続けることになる。そう思った。
とりあえず、ふかふかの布団を持ってきてほしい。神童の家に行けばひとりじゃもったいないほどのベッドがあるのだから、そこでもいいから寝かせてほしい。そうだ、霧野はずっとずっと睡眠を欲していた。思い出したらだんだんとまぶたが重たくなって、神童のくしゃくしゃになった顔がぼやけて二重になった。
ずきり、ぎしり。頭が痛い。霧野はもう、疲れていた。
title by 哀哀
3/3 霧野の日ちこく